Amazonに登録されていない角川文庫の海外文学

 角川文庫のイメージと言えば、やはり「読んでから見るか 見てから読むか」というキャッチコピーに代表されるように、『人間の証明』、『戦国自衛隊』などの、映画と連動した作品が最初に思い浮かぶ。今でもこの路線は続いていて、東野圭吾とかが森村誠一的な役割を果たしているようだ。

 俺は80年代以前の文学を読むことが多いから、古典の少ない角川文庫を手に取ることはほぼなかったのだが、何年か前にたまたま古い角川文庫の海外小説を借りた時、巻末に掲載されている「文庫目録」を見て、「角川文庫も昔は古典的な作品やややマイナーな海外文学を出版していたんだな」ということに今更気付いたのだった。

 角川文庫の第一回配本はドストエフスキーの『罪と罰』なのだし、そもそも歴史のある出版社なのだから、よくよく考えれば、古典や海外文学に力を入れていた時代があったとしても不思議ではないのだが、メディアミックス商法以降のエンタメや現代ミステリー重視の方向性が、俺の中における角川の全てで、古典と角川を結び付ける回路が一切なかったことから、前述したような思い込みが生じたのだった。

 今、手元にあるゴーリキイ『どん底』に付いている「角川文庫目録 海外文学(赤帯)1976年10月」を見ると、ドストエフスキーシェイクスピア、ジッド、ヘッセ、カフカ、サドといった古典がラインナップに入っていて、シェイクスピア河合祥一郎の新訳で今でも刊行されているが、ジッドとかヘッセ、ドストエフスキー新潮文庫が独占しているような状態である。

 目録をさらに見ていくと、モラヴィア、ハインリヒ・ベル、マラマッドといった、戦後の海外純文学も結構出ている。また、坪内祐三の『雑読系』によれば、「一九七〇年代前半の角川文庫のアメリカ文学のラインナップは凄かった」という(常盤新平がブレーンだったようだ)。しかし、これらの作品をAmazonで検索すると出てこないことが多い。無論、それは情報が登録されていないからで、登録されていないということは販売されたこともないのだろう(削除は考えにくい)。マーケットプレイスを利用する古書店はたくさんあるのに、なぜか一昔前の角川文庫の海外文学は、他のメジャーな文庫のそれに比べて、登録・販売されていないことが多い気がする(古書がほとんど残っていないのだろうか?)。

 Amazonというのは、今ではデータベース的に使われているところもあるので、「検索に出てこない」=「存在しない」という風になってしまうという危惧がある。取り敢えず、俺が気になったもので、登録されていない作品を挙げていこう。

 

ジョン・アップダイク 『同じ一つのドア』

ウラジーミル・アルセーニエフ 『デルス・ウザーラ

ナサニエル・ウェスト 『クール・ミリオン』

レオナード・ガードナー 『ふとった町』

サム・グリンリー 『反逆のブルース』

J・D・サリンジャー 『若者たち』『大工らよ、屋根の梁を高く上げよ』

ジョーン・ディディオン 『マライア』

レスリー・トーマス 『童貞部隊』

ロバート・ヘメンウェイ 『ビートルズと歌った女』

ラリイ・ウォイウッディ 『愛の化石』

ダン・ウェイクフィールド 『夏の夜明けを抱け』

ポール・ニザン 『陰謀』

ジュリアス・ファースト 『ビートルズ

ハインリヒ・ベル 『保護者なき家』

ソール・ベロー 『この日をつかめ』『宙ぶらりんの男』

メアリー・マッカーシー 『漂泊の魂』

バーナード・マラマッド 『魔法のたる』『アシスタント』

ヘンリー・ミラー 『完訳 南回帰線』

アルベルト・モラヴィア 『孤独な青年』『軽蔑』など

D・H・ロレンス 『恋愛について』

 

 

 他にも一杯あるんだろうけど、気が付いたのはこれだけ。余談だが、角川がモラヴィアを出さなくなったのは、共産党嫌いの角川春樹の意向らしい(大久保昭男 『故郷の空 イタリアの風』)。 

 

 

雑読系

雑読系

 

 

故郷の空 イタリアの風

故郷の空 イタリアの風

 

 

高崎俊夫 『祝祭の日々』

 インターネットで蓮實重彦とかやや古めの映画・小説について調べている時に、よく出てくるページがあって、それが高崎俊夫「映画アットランダム」だった。多分、最初に目にしたのは、「スーザン・ソンタグ蓮實重彦の微妙な対話」で、恐らく「映画アットランダム」に掲載された文章の中でも、最も読まれた物の一つではないか。ここでは、文芸誌『海』上で行われた、ソンタグと蓮實の緊張感に溢れた対談について語られており、もし高崎が取り上げていなかったら、この単行本未収録の対談を俺が知ることはなかっただろう(金井美恵子の『小春日和』が映像化されているのを知ったのも、「映画アットランダム」においてだった)。

 それから、サイトに載っている他の文章をいくつか読んだが、その博覧強記ぶりには舌を巻いた。連載自体は、2014年に終わっていて、パソコン上で文字を読むのが苦手な俺は、本にならないかなと思っていたのだが、連載終了から4年経った2018年、遂に国書刊行会から連載の大部分をまとめたものが、『祝祭の日々』というタイトルで出版された。「スーザン・ソンタグ」もきちんと収録されていた。

 今回、まとめて高崎の文章を読んだわけだが、圧倒的な知識量から広がっていく連想や、下手すれば感傷的になりがちな個人的な思い出が、禁欲的な文体によって、上手く統合されており、「知る」ことの快感というものを存分に味わわせられた。

 B級映画や探偵小説というサブカルチャーよりの分野にはマニアックな人間が多いのだが、純文学と映画を自由に横断できる人間というのは意外に少なくて、高崎はそれができる貴重な人材だと思う。例えば、「ルー・リードの師デルモア・シュワルツをめぐる断章」では、映画『イントゥ・ザ・ワイルド』にシュワルツの「夢の中で責任が始まる」が引用されていることを指摘していたり、パヴェーゼエリア・カザンに共通の愛人がいたことを紹介したりするなど、一つの話題から別の分野に無理なく飛んでいく手つきが非常に鮮やかだ。

 俺は一気に読んでしまったが、この中で紹介されている映画や本が気になって、読み終わるのがもったいなく感じた。いつでもメモできる環境下で読むことを勧める。

 

祝祭の日々: 私の映画アトランダム

祝祭の日々: 私の映画アトランダム

 

 

作家の写真を読む

 俺はミーハーな文学好きなので、小説だけでなく、それを書いた作家の風貌にも興味がある。しかし、出回っている写真の多くは、晩年に撮られたものだったり、パブリック・イメージを意識したものだったりで、飽き足りないものがある。例えば、岩波書店から出ている、濱谷浩の『学芸諸家』なんかは、「上品」すぎて退屈だ。

 そこで、もっと自然体な感じのもの、もしくは出回ることの少ない若い頃の写真が載った写真集を、中の写真を引用しながら、ここで紹介してみようと思う。

 

樋口進『輝ける文士たち』

 

 樋口は1953年に文芸春秋新社に入社、写真部を設立しすると、1982年に退社するまで、会社員の立場で作家たちを撮り続けてきた。また、裏方として、文士劇や出版会のパーティ、冠婚葬祭を手伝ったりもしている、縁の下の力持ち的存在でもあった。

 掲載されている写真は、雑誌の企画や、忘年会、講演旅行、取材、草野球、将棋大会と、様々なシチュエーションのものが集まっており、バラエティーに富んでいる。気取っていない、オフの表情が見られるのが魅力的。

 

安部公房伊藤整(『文学界』の企画にて)

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今東光瀬戸内晴美

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獅子文六

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三島由紀夫

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三島由紀夫と猫

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毎日新聞社編『別冊一億人の昭和史 昭和文学作家史』

 

「別冊一億人の昭和史」というシリーズの一つで、「二葉亭四迷から五木寛之まで」というサブタイトルがついている。資料としてかなり充実しており、写真につけられたキャプションも優れている。作家の若い頃の写真も豊富に掲載されており、どんな風に成長していったのか確認できるのは嬉しい。巻頭には、川端康成の小説の全表紙、巻末には「芥川賞直木賞 受賞作家全名鑑」が載っている。

 

森鴎外(留学生として渡欧した頃・右端)

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谷崎潤一郎(昭和2年頃)

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芥川龍之介(府立第3中学校在籍時)

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江戸川乱歩(明治45年)

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金井美恵子

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林芙美子宇野千代吉屋信子佐多稲子

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深沢七郎フランス座のストリッパー

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石原慎太郎

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野坂昭如新潟高校入学時)

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野坂昭如

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林忠彦『文士の時代』

 

「作家と写真」と言えば、まずこの人だろう。ゴミに囲まれながら執筆する坂口安吾、バー・ルパンの椅子でポーズをとる太宰治ロダンの作品を見つめる川端康成といった、作家のイメージを決定づけるような、印象的な写真を数々撮影してきた。まさに、文学史を写真で表現したと言える。古典として読むべき一冊。

 

大江健三郎

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内田百閒(名誉駅長を務めた時)

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東販「新刊ニュース」編『写真集 作家の肖像』

 東販が発行している月刊誌「新刊ニュース」に登場した作家92人とその自筆原稿を写した写真集(撮影は佐川二亮)。上で紹介した物に比べると幾分落ちるが、大江健三郎以降に現れた作家たちの、82年~87年頃の姿を見られるのは貴重か。

 

古井由吉

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島田雅彦

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北方謙三

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佐伯剛正『1972年 作家の肖像』

 

 日本において詩人というのは、谷川俊太郎を除きほとんどがマイナーな存在のため、ネットでも写真があまり出回らない。特に昔の物は。

『日本で最も美しい村』などの著作で知られる佐伯剛正のこの写真集は、72年に焦点を絞り、当時の様々な作家・評論家・詩人の写真が載っていて、特に「作家」を中心とした写真集ではこぼれがちな、評論家や詩人にページを割いているのが特筆すべき点か。例えば、秋山駿、磯田光一、岡庭昇、天沢退二郎吉増剛造といったあたりが掲載されている。

 

天沢退二郎

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チュリ・クプフェルバーグ シルビア・トップ『小さな巨人の肖像』

 

 なぜか本には著者の情報が載っていないのだが、チュリ・クプフェルバーグというのは、詩人でファッグスのメンバーだったトゥリ・カッファーバーグで、シルビア・トップはその妻。

 この本は、作家だけではなく、あらゆる分野の偉人・有名人の幼少期の写真を集めたもので、「これが後にああなるのか」と考えながら読むと面白い。続編として、『 小さな巨人の肖像 続』も出版されている。

 

アントン・チェーホフ(14歳)

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T・S・エリオット(3歳)

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シグムンド・フロイト(父親と・8歳)

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アドルフ・ヒトラー

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フランツ・カフカ(5歳)

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ヘンリー・ミラー(3歳半)

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フリードリヒ・ニーチェ(16歳)

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オノ・ヨーコ

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マルセル・プルースト(12歳)

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マーク=トウェイン(15歳)

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オスカー・ワイルド

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 写真集以外で、作家のレアな写真が見たければ、伝記やノンフィクションから探すのが一番手っ取り早い。例えば、八橋一郎の『評伝 筒井康隆』には筒井家がテレビに出演した時や結婚式の時の写真が載っている。水声社から出ているトロワイヤの手による文学者の伝記も写真が豊富。ハンフリー・カーペンターの『失われた世代、パリの日々』は、ヘミングウェイエズラ・パウンドなどの、当時の写真が色々掲載されていて、雰囲気がこちらに伝わってくる出来となっていた。

 

輝ける文士たち―文藝春秋写真館

輝ける文士たち―文藝春秋写真館

 

  

  

文士の時代 (中公文庫)

文士の時代 (中公文庫)

 

  

作家の肖像―写真集

作家の肖像―写真集

 

  

一九七二年 作家の肖像

一九七二年 作家の肖像

 

 

小さな巨人の肖像 (1978年)

小さな巨人の肖像 (1978年)

 

  

評伝 筒井康隆

評伝 筒井康隆

 

  

ボードレール伝

ボードレール伝

 

  

失われた世代、パリの日々―一九二〇年代の芸術家たち (20世紀メモリアル)

失われた世代、パリの日々―一九二〇年代の芸術家たち (20世紀メモリアル)

 

 

『直木賞のすべて』と選ぶ「文学賞受賞作あれこれ」選手権

 サイト「直木賞のすべて」や『直木賞物語』で知られるP.L.B.こと川口則弘さんが審査員を務めた、「文学賞の受賞作をレビューする」というテーマのエッセイコンテストで落選しましたが、「選外になったものの記憶に残ったもの」という欄で川口さんからコメントをもらいました。エッセイも読めます。タイトルは「文学賞とは政治である──ビョルンスチェルネ・ビョルンソンの場合──」。かつてノーベル文学賞は「愛国者」に与えられていたという話です。

 

shimirubon.jp

 

直木賞物語 (文春文庫)

直木賞物語 (文春文庫)

 

 

芥川賞物語 (文春文庫)

芥川賞物語 (文春文庫)

 

  

芸能人と文学賞 〈文豪アイドル〉芥川から〈文藝芸人〉又吉へ
 

 

 

図書館通い

 図書館をよく使う。金がないからだ。大学時代は中身を見ずに本を買うこともあったが、最近は図書館で一度借りて、内容を確認してから買うことにしている。それでも中々買えないから、多分本好きの大学生よりも、本を持っていない。余談だが、このブログは全然人がこないのだけれど、それでも俺の紹介した本(俺が所持しているとは限らない)をアフィリエイト経由で買ってくれる人がいて、それは構わないのだが(むしろ、ありがたい)、俺がいつか買おうと思っていた絶版本を買われると、Amazonの中古価格が跳ね上がってしまうということがたまにあって、紹介した俺自身が買えなくなるという現象が起き、それを回避するために知識の出し惜しみするということもあり、最近では自分が現物を確保してから紹介することもあるという……まあ、それはいいや。

 図書館のカードは合計5枚持っている。文京区、豊島区、板橋区練馬区和光市だ。俺は文学・映画・音楽関係の本しか基本借りないのだが、それを基準にして、使える図書館を並べ直すとこうなる。

 

文京区>>>>>>>>>>>>(越えられない壁)>>>>>>>>>>>>>練馬区>>>板橋区>>>>>>>>豊島区>>>>>>>>(東京の壁)>>>>>>>>>>>>>和光市

 

 文京区が圧倒的に使える。文京区の図書館、特に小石川図書館はマイナーなCDが揃っているということで、音楽好きには有名だ。文京区の図書館さえ常時使えれば、他の図書館に行くこともないのだが、住んでいる場所的にそれができないのでもどかしい。しかも、文京区外の人間は、区内の人間に比べ、利用が大幅に制限される。特に貸し出し件数と予約件数は、区内の人間の半分ほどになってしまう。昔はそんなことなかったのだが、最近はあちこちの図書館でこのルールを導入するようになったらしく、豊島区や北区でも、区外の人間に制限を課している。練馬と板橋はない。

 文京区以外では、練馬がやや板橋より便利か。俺は両方使うことで補いあっている。豊島区は池袋という都会を有しているくせに、大したことない。和光市は論外。ただ、映画のDVDがそこそこあるので、ツタヤ代わりに使うことはある。あと、都内の図書館だと予約が一杯入っている本も、和光市だと意外に早く回ってくることも。まあ、俺は人気のある本を借りないからほとんど関係ないのだが。

 ここで単純な蔵書数を調べると、蔵書数が一番多いのは杉並区で、次に世田谷区、大田区練馬区、八王子らしい(平成29年度)。杉並に文筆家がたくさん住んでいるのもそれが理由なんだろうか。意外だったのは、文京区が板橋区よりも蔵書数が少ないこと。俺が重要だと思っている本は、文京区の方が多いのだが……。豊島区が29位なのは納得だけど、新宿区、渋谷区も低い。まあ、引っ越すとしたら、文京区か杉並区と世田谷区の間だなぁ。

 ついでに書くと、図書館の廃棄本は、たまにいいのが出てたりする。俺は『批評の解剖』やイーグルトンの著作をそこで拾った。

 

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スチュアート・ケリー 『ロストブックス』

 1922年、ヘミングウェイの妻ハドリーは、スイスにいるヘミングウェイに会いに行く途中、スーツケースを盗まれた。このエピソードが有名なのは、その中に、大量の未発表原稿とそのコピーが入っていたからだ。ヘミングウェイの習作は永遠に失われることになったのだ。

 一方、この出来事は、文学ファンの想像力を掻き立てた。スーツケースはどこに行ったのか? 中の原稿はどんな出来だったのか? 今それが発見されたらどうなるだろう? ジョー・ホールドマンマクドナルド・ハリスといった作家は、ヘミングウェイの失われた原稿をネタにして、それぞれ『ヘミングウェイごっこ』、『ヘミングウェイのスーツケース』という小説を書いた。

 スチュアート・ケリーの『ロストブックス』は、そんな「失われた本」または「未完で終わった本」をめぐるノンフィクションである。扱われているのは、上記ヘミングウェイに加え、ホメロスアイスキュロスといった古典から、シルヴィア・プラスといった現代作家まで(ただし、日本語版は抄訳で、一部の作家が削除されている)。

 非常にユニークな試みで、どれもだいたい面白く読んだが、やはり「失われた本」に関しては、古代の方がエピソード的に豊富である。何しろ昔は複写技術が未熟だったから、本一冊がとても貴重で、プトレマイオス三世は『アイスキュロス全作品』をアテネから借りだす際、莫大なお金を払ったという。そして、プトレマイオスはそれをアレクサンドリア図書館の所蔵にし、二度と返さず、コピーをとることも禁止した。アレクサンドリア図書館は5世紀にキリスト教徒によって襲撃され(『アレクサンドリア』という映画がこれを実写化している)、その際、アイスキュロスの作品も紛失した(ケアリーはアレクサンドリア図書館の破壊をアムル・イブン・アル=アースの手によるものだと書いているが、訳注の言う通り、キリスト教徒による破壊の方が先である)。

 この本の中で、もっとも傑作なのは、メナンドロスの場合だ。メナンドロスは紀元前4世紀~3世紀頃の人物で、古代ギリシアの喜劇作家である。非常に多作で、ユリウス・カエサルプルタルコスが彼のことを評価し、新約聖書にも引用されているのだが、その作品はほとんど失われていた。

 しかし、1905年に彼の戯曲の一部が見つかると、その50年後には、より完全な形のそれが発見された。そして、学者たちの手で復元・翻訳され、1959年、ついにBBCでメナンドロスの戯曲が放映された。当然、誰もがその出来に期待した。だが、結果は……惨敗。『ギリシア神話の本質』などで知られるG・S・カークは、「メナンドロスが凡才じゃないというなら、その理由を教えてくれ」と言ったとか。

 こうして、メナンドロスは実は大したことのない作家だったことが、2000年以上の時を経て判明したのだった(デュオニュソス祭では負けてばかりだったようなので、当時の人間の審美眼は正しかったことになる)。ケアリーはこのことについて「メナンドロスは、作品が行方不明だったあいだは天才だったのに、発見されたとたん、やっかい者になってしまった」と書いている。メナンドロスが多作できたのは、同じような筋を使い回したからで、それが作品をクオリティを下げる一因となった。彼の作品は、テレビのコントみたいなもので、その場で消費され、すぐに忘れられるようなものだったのだ。ベストセラー作家でも、同じような話を量産し、いつしか消えていく人間がいるが、メナンドロスはそれを歴史的な規模でやったのだった。

 

ロストブックス

ロストブックス

 

  

ヘミングウェイのスーツケース (新潮文庫)

ヘミングウェイのスーツケース (新潮文庫)

 

  

アレクサンドリア [DVD]

アレクサンドリア [DVD]

 

   

ギリシア喜劇全集〈5〉メナンドロス〈1〉

ギリシア喜劇全集〈5〉メナンドロス〈1〉

 

 

独断と絶対的な自信を持って選ぶ珍伝記ベスト3

 俺は伝記を読むのが好きだ。特に文学者の伝記をよく読む。

 伝記というのは、そんなにはずれを引くことのないジャンルだと思う。十分な知識を持っていないと書けない分野だし、抽象的な事柄をほとんど取り扱わないから、スラスラと読んでいける。

 逆に、つまならい伝記になる条件をいくつかあげてみよう。

 

①調査不足

これは、もう話にならない。そういう伝記はだいたい作品のあらすじを長々と説明することで、ページを水増ししている。やっつけ仕事だったり、資料不足だったりすると、こういう本が出来上がるのだろう。

 

②長すぎる

著者が調べたことを全て書き込んでしまっているパターン。どうでもいい細々としたことまで書かれていて、読んでいてだれる。西洋人の書く伝記に多い。800ページとか1000ページぐらいある。研究者が読むぶんにはいいのかもしれないが、一般読者が通読するのはつらい。

 

③都合の良いことしか書かれていない

身内の手によるものだったり、対象に心酔してたり、周辺の人間に配慮したりした結果、生まれる伝記。芸術家といえど、聖人君子ではないのだから、どうしたって汚い部分は出てくる。そこを描かないのは伝記として片落ちだろう*1。しかし、小学生が読む「偉人伝」のようなものを伝記のあるべき形だと考えている読者もいるから困る。

 

 さて、ダメな伝記の例をあげてみたが、これから紹介するのは、ダメを通り越して、「珍」となってしまった伝記である。最初に言っておくと、俺はこれらの伝記を最後まで読んでいない。というか読めなかった。その理由は引用する文章を読んでくれればわかるだろう。

 

3位 カトリーヌ・クレマン 『フロイト伝』

 

 5年ほど前、藤野可織の『爪と目』が芥川賞をとった時、地の文で使われている人称が、一人称でも三人称でもなく、「二人称」だったことが話題になった。ある登場人物のことを「あなた」と呼びかけているのである。これはミシェル・ビュトールが『心変わり』という小説で使い有名になった手法で、その後倉橋由美子が『暗い旅』で同じことをしたら、江藤淳と論争になった、なんてこともあった(栗原裕一郎『盗作の文学史』参照)。

 クレマンのフロイト伝は、この二人称で書かれた伝記なのだ。

 

 あなたはウィーンの街で大衆の反ユダヤ主義が高まるのを見、大学の選択に頭を悩ませる。あなたは警戒していた! あなたは何もかも知っていた。あなたは思春期に、若い時のヒーローとして、カルタゴの将軍ハンニバルを選びはしなかっただろうか。彼が〈セム人〉であり、〈ユダヤ的な粘り強さ〉の象徴であるゆえに。どこに行ったのか、あなたの粘り強さは。(吉田加南子訳)

 

 まるで機械翻訳のようだが、全編こんな調子である。内容がまったく頭に入らない。パラパラとめくってみた限りでは、どうやら著者はフロイトに批判的らしい。「伝記」となっているが、時系列順には書かれていないので、さらに読みにくくなっている。クレマンは、著者紹介を見ると、哲学者・小説家・伝記作家となっているが、他の本は一体どうなっているんだろう。いや、あまり調べたくないが……。

 

2位 楠本哲夫 『永遠の巡礼詩人バイロン

 

 伝記を書くにあたって必要なのは、知識を除けば、「客観性」だろう。いくら自分の好きな作家について書くにしても、客観的に対象を見ることができなければ、いびつな伝記となってしまう。

 楠本によるこのバイロン伝を読み始めた時、俺はすぐに、筆者の客観性を疑わなければならない文章にぶつかった。

 

 三十六歳の短かった生涯を、幾何学的直線をひた走り、行動し、詩いつづけたそのエネルギーの燃焼の瞬発力に、ただ感動し瞠目するのみである。

 

 この伝記が出版された時、著者は71歳である。「文学青年」というのは、71歳になっても治らない不治の病なのだろうか。とにかく、著者はこんな調子でバイロンを賛美し続けていく。「バイロンは気取り屋であるとの評価が一部になされたこともある。愚かしい盲人的対巨像観である」なんて文章もある。いったいどっちが盲人なのか。さらに極め付けなのが、ケンブリッジ時代のバイロンの放蕩について書いたこの文章。

 

 しかし、ケンブリッジを暴走しはじめた大車輪は、もうその歯止めがきかなくなってしまっていた! 軌道修正はできない。その暴走の轍の虚しさも、走るべきそのスピードも、その描く直線も、すでに用意されていたものだった。バイロンは星の子、運命の子!

 若者が暴走する! その暴走に不自然な物理的力が他から加えられるとき、その若者は呆気なく、いとも簡単に死をもって自らの生命を断つよりほか仕方がない。暴走か! 死か! 自由か! 発狂か!

「ゴードン・バイロンよ! 暴走せよ!」バイロンは自らそう命じ、そう言い放った!

 

 暴走しているのはバイロンじゃなくあんたでしょ、と言いたくなる書きっぷりだ。この本、三省堂から出ているのだが、自費出版なのだろうか。ちなみに、著者は第一経済大学(現日本経済大学)の教授だそうです。アンドレ・モロワの『バイロン伝』を復刊するか、誰か別の人がきちんとしたバイロン伝を書いてほしい。

 

1位 工藤正廣 『永遠と軛 ボリス・パステルナーク評伝詩集』

 

 評伝はわかる。しかし、その後ろについている「詩集」とはいったいどういうことなのか? ただの伝記ではないのか? われわれはその謎を解き明かすべく、図書館という名のジャングルに向かった。謎はすぐに解けた。詩で伝記を書いているのである。まず、著者の言葉を引用しよう。

 

いま 以下の『永遠と軛』でぼくは

詩人の人生のデータを引用パスティーシュし変成させ

彼のとくに困難をきわめた一九三二~四六年

四十二歳から五十六歳までの人生の声をあつめた

ドクトル・ジヴァゴ》が生まれるまでの

ぼくはこの評伝詩集で 一人称の「僕」を採用し

詩人のように振る舞うことにした

 

 つまり、著者がパステルナークになりきって、パステルナークとしてパステルナークの人生を詩で語るということらしい。工藤正廣という人は、パステルナークの翻訳を手掛けているのだが、まさかパステルナーク本人になってしまうとは驚きである。どうにかして墓の下に眠るパステルナーク本人に伝えたいところだ。

 

さあ一緒に谷間の三本松まで散歩でもしよう

僕は彼を誘った

詩人になりたいだって?

僕は彼をのぞきこみ大きな声で笑った

それはいい それはすてきだ

青春の夢はいつもすてきなのだから

 

 これが評伝詩集の一部である。もちろんここでの「僕」はパステルナークだ。こんな感じで、パステルナークはパステルナークの人生を語っていく。なんだか幸福の科学の霊言みたいだ……。

 それにしても、本当のパステルナークが書いている詩は、こんな感じなのだろうか。

 

 

フロイト伝

フロイト伝

 

  

永遠の巡礼詩人バイロン

永遠の巡礼詩人バイロン

 

  

永遠と軛―ボリース・パステルナーク評伝詩集

永遠と軛―ボリース・パステルナーク評伝詩集

 

 

*1:余談だが、ドストエフスキーの伝記を書いたストラーホフはトルストイに「小生はあの伝記を書いていました間じゅう、胸にこみ上げて来る嫌悪の情と闘わなければなりませんでした」(大塚幸男訳)と手紙に書いた