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大沢啓二 『球道無頼』

「喝!」で有名だった大沢親分こと大沢啓二が、1996年に出した自伝。敗戦直後の生活から日本ハムの監督を辞めた94年までのことを語っている。

 元々『週刊プレイボーイ』に連載していたもので、文体もいつものべらんめい調。話が簡潔にまとまっていて非常に読みやすい。

 大沢がいた頃の立教大学野球部というのは軍隊のように厳しくて、下級生が造反を起こしたほどだったらしい。長嶋茂雄も脱走し、中日に入団しかけた。ちなみに、長嶋は大沢の二学年下。長嶋の同級生に杉浦忠がいる。二人ともすぐに大学球界では有名人で、彼らが二年の時には、卒業後南海ホークスに入団してほしいとのオファーが来ていた。長嶋・杉浦と南海(監督は鶴岡一人)の間に入ったのが当時ホークスの選手だった大沢だ。二人ともオファーを口約束だが承諾し、いわゆる「栄養費」を貰うようになった。この頃はまだドラフトがなく自由競争の時代。杉浦は約束通り南海に入団したが、長嶋は巨人へ行ってしまった。大沢は大学生だった長嶋を料亭で問い詰めたが、長嶋は頑としてその理由を語ろうとしなかった。本書には長嶋と大沢の対談が収録されているが、喋っているのは9割が大沢で、長嶋は「……」ばかりである。

 59年に南海がリーグ優勝した時の祝賀会では、カール半田の提案でビールかけが行われた。大沢によればこれが日本で初めてのビールかけらしい。

 大沢は1965年に東京オリオンズへ移籍するが、これは南海が10年選手制度によるボーナスを払うのを渋ったからだった。大沢は引退後ロッテでコーチや二軍監督を務め、71年の途中に解任された濃人の後を受け一軍監督に就任。積極的にトレードを進め、榎本喜八江藤省三、アルト・ロペスを放出。大沢は「5年契約」という提示をロッテから受けていたので、それを踏まえたチーム改革だったが、72年のシーズン終了と共に解雇。背景には政治的思惑が絡んでいたと大沢は回想している*1

 75年のオフに日本ハムの球団社長だった三原脩から、ファイターズの監督にならないかとのオファーを受ける。大沢は了承し、76年から指揮をとることに。といっても日本ハムは貧乏球団であり、大沢はかなり苦労した。勝つためにボールを入れ替えたり、相手のベンチに盗聴器をしかけたりしたが、どれも上手くいかなかったという。

 ファイターズが弱かったのはドラフト戦略が悪かったというのもある。75年のドラフト会議では、丹羽鉦電機から二人の選手を指名したが(1位と3位)、二人とも一軍出場無しのまま消え、76年のドラフトでは6人中4人に入団拒否されるという有様だった。大沢はロッテ時代同様、トレードによって戦力を集めた。間柴と江夏(本書には江夏との対談も収録)がその成功例だ。81年のリーグ優勝は彼らの働きによるところが大きかった。

 83年のオフには植村義信に監督を譲り強化育成部長になるが、植村の不振を受け、シーズン途中に監督に復帰。85年には再度強化育成部長に戻っている(後に常務へ)。

 だが、92年、当時監督だった土橋正幸と選手の間で激しい確執が生まれ、土橋は解雇。後任探しが難航したこともあり(王貞治にもオファーを出していた)、93年から大沢自身が再び指揮をとった。そして、94年にチームは最下位に沈み、責任を取る形で大沢は辞任。ファンの前で土下座をしたことが話題になった。ちなみに、現在日ハムの二軍施設になっている鎌ヶ谷は、大沢の強い要望で建てられたものだ。

 大沢の本は当時のパリーグの雰囲気を知るためにはうってつけの本だろう。日ハムの球団常務時代、企業に予約席を買ってもらうため営業しにいったところ、「巨人の切符なら買うんだけどなあ、日本ハムじゃあ、ちょっとねえ」と言われるところなんか泣ける。あとイチローと古田を獲得しかけた話や、広岡監督の管理野球のもと玄米ばかり食わされていた東尾と田淵が、日ハムベンチに白米をわけてくれと頼みにいくところなんかは笑ってしまった。

 不人気だったパリーグをどうにかして盛り上げようとする、大沢のエンターテイナーぶりを本書で確認してほしい。

 

球道無頼―こんな野球をやってきた

球道無頼―こんな野球をやってきた

 

 

*1:岸信介の秘書を務めていたこともある中村長芳が、当時のロッテのオーナーだった。72年の7月には、福田赳夫との総裁選に勝利した田中角栄が総理に就任。当初ロッテは福田を応援していたが、このことを受け田中派に鞍替え。福田派だった中村は追い出されるような形になり、その余波で大沢も首になったという。中村はライオンズのオーナーに就任し、後に大沢も監督をやらないかと誘われた。大沢はライオンズ買収騒動については触れていない