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町山智浩 『トラウマ恋愛映画入門』

評論

 

 2013年に刊行された『トラウマ恋愛映画入門』(以下『トラウマ』)について、著者の町山智浩は、「恋愛映画について、いちから学ぶつもりで書いた」とインタビューで答えている(『 トラウマ恋愛映画入門』発売記念! 町山智浩インタビュー cakes 2013年、10月2日*1)。インタビューでは、町山が恋愛から遠ざかるようになったきっかけも語られており、『トラウマ恋愛映画入門』が、氏自身の個人的な感情に基づいて書かれていることが推察される。インタビュアーの伊藤聡は、『トラウマ』で扱われている映画の中に、「耐え切れなくなって相手を殺す、もしくはお互い死ぬという映画が、未遂も含めると二十二本中十二本もあった」と指摘しているが、これは『トラウマ』と町山の関係を読み解く鍵の一つだ。なぜ、町山は「恋愛」と「死」を結びつけるに至ったのか。

 2012年3月31日にTBSラジオで放送された『ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル』の「推薦図書特集」*2に出演した町山は、三島由紀夫の『葉隠入門』を自身の評論に影響を与えた一冊として紹介したのだが、この本こそ、『トラウマ』の論旨に最も大きく関わっているのだ。番組内で、町山は、『葉隠入門』について、「当時はサラリーマンの処世術」として売れたのだと言い、そこに描かれている「死」とは、実際に死ぬという意味ではなく、自分の身を捨てて他人のためにつくすことだ、と説明する。ここで、町山の頭にあるのは──サラリーマンを持ち出してきたことからもわかるように──「個人」が「組織」(社会)にどう貢献するかということだろう。彼が、「通過儀礼」に拘るのも、同様の理由によると思われる。とすると、「個人」と「個人」のぶつかり合いである恋愛は、非常にエゴイスティックなものとなり、町山の思考からは、限りなく遠いものとなるはずだ。『トラウマ』でも扱われた『日の名残り』には、組織を乱すという理由で使用人同士の恋愛を嫌う執事が出てくるが、町山はそこに自分との共通点を見出したのではないか。

 さて、「組織」(社会)と「個人」の関わりというところから思考を発展させてきた町山が、「恋愛」という自身の思考とは対立せざるを得ない概念について考えたとき、無意識の内に導入したのが、「死」なのである。三島は『葉隠入門』で、「恋のためには死ななければならず、死が恋の緊張と純粋度を高めるという考えが「葉隠」の説いてゐる理想的な恋愛である」(引用は『三島由紀夫全集三十四巻』より)と書いた。町山が『トラウマ』を書いたとき、この文が、脳裏の片隅にあったのではないか。

 社会を救うために自分自身を犠牲にするのが英雄の条件だが、『トラウマ』では恋人のために自分自身を犠牲にすることが最も望ましいとされている。そこでは、実際に死ぬことも否定的には捉えていない。だからこそ、人によっては猟奇的としか思えない阿部定事件を扱った『愛のコリーダ』が、『トラウマ』では最高の恋愛映画として評価されるのだ。

 だが、普通の人間が、藤達也演じる吉蔵のように、身を滅ぼしてまで相手に尽くせるのだろうか。吉蔵のように生きるとしたら、現実においては、相手の内面に立ち入らないようにするか、相手の欲求を全て叶えるしかない。しかし、どんなに情熱を帯びて始まった恋愛でも、時間が経てば、相手の凡庸さが、いやがうえにも目に付いてくる。しかも、相手に対する期待が最高潮に高まった時期もあるわけだから、その分落差も大きい。また、相手の欲求に答えるにしても、それ相応の能力が必要とされる。町山は、年収を倍以上にすることで、妻との冷え込んだ関係を修復できたが、大半の男には難しいだろう。

 そもそも恋愛が学べるものだと考えることに無理があるのではないのだろうか? 恋愛の失敗を新たな恋愛で乗り越えたり、「真実の愛」を探したりするのは、常人にはできないと思う。『トラウマ』でも取り上げられている『逢びき』が傑作たりえたのは、不倫関係となった主人公の男女二人が肉体関係を持たないまま別れ、家庭に戻ったからだ。恋愛と家庭は両立しない。町山が『入門』の続きを書くとしたら、『恋愛結婚の困難』といったものになるだろう。

  

トラウマ恋愛映画入門

トラウマ恋愛映画入門