シドニー・ルメット 『蛇皮の服を着た男』

 南部、没落、抑圧、退廃、不能、暴力、アルコール…… これらは、テネシー・ウィリアムズの戯曲の特徴である。ウィリアムズは、そこに、詩情に満ちたセリフを被せ、象徴的な小道具を配置することで、彼独自の世界を構築する。だが、逆に言えば、ウィリアムズの世界観はあまりにウィリアムズ的すぎて俗悪にすらなりうる。そして、彼の戯曲を、演劇とは異なるテンポを持つ、映画というメディアによって、再構成すると、その俗悪さは、より前面に押し出されることになる。なぜなら、カメラを挟むと、感情や詩情を込めたウィリアムズ流の長台詞は時に白けるほど大仰なものとなり、そのため、先に挙げた特徴が、グロテスクなまでに剥き出しになってしまうからだ。ウィリアムズ原作の映画では、俳優がいかにして、この俗悪さを引き受けるかが、鍵になる。

『蛇皮の服を着た男』(原作『地獄のオルフェウス』)で主演を演じるのは、マーロン・ブランドアンナ・マニャーニ。ブランドは、『欲望という名の電車』以来、二度目のウィリアムズ原作映画出演である。物語は、南部が舞台で、ブランドは、蛇皮製の服がトレードマークの、寡黙な色男を演じている。一方、マニャーニは、洋品店を営む女主人で、猜疑心の強い病気の夫を抱えている。放浪者だったブランドは、マニャーニの店で働くことになり、やがて、夫からの抑圧に耐えられなくなったマニャーニから性交の誘いを受ける。ブランドは最初ためらうが、結局、誘いに乗る。『欲望』でも、『蛇皮』でも、ブランドの役回りは、「男らしさ」=「野生」の発揮にあるが、『欲望』の方ではヒロインを罰する役目を担っていて、その点、『蛇皮』は、『欲望』と違い、ヒロインだけが一方的に攻撃されるということはないが、相思相愛に至るまで二人の駆け引きや、周囲の目をいかにしてかいくぐるかというスリルの描き方が甚だ弱く、ブランド、マニャーニ共に、表面的な俗悪さに足元をすくわれてしまっている。エリザベス・テイラーは、ウィリアムズ原作特有の俗悪さを、天性の下品さで、深く掘り下げることに成功した。ブランドとマニャーニは上品すぎたのである。