R・W・ファスビンダー 『ホワイティ』

 西部劇は、その社会から逸脱した人間、すなわちアウトサイダーの侵入によって、物語が始まる。そして厳重に秘匿されていた共同体の闇が、その口数少ない人物の「行動」によって徐々に暴かれる。だが、この基本条項を、冷たく裏切ることで生まれた、悪意に満ちた西部劇がある。それが、R・W・ファスビンダーの『ホワイティ』だ。  ギュンター・カウフマン演じる主人公のホワイティは、私生児であり、「混血」である。しかし、この映画では、一般的な人種映画のように、ホワイティが出自に起因する分裂したアイデンティティに悩んだり、強烈な帰属意識を持ったりすることがない。ホワイティは徹底的に空虚な人間であり、機械仕掛けであり、受動的である。彼が仕える屋敷の主人とその家族は、全員が徹底したエゴイストであり、その行動や容姿はグロテスクに誇張されている上、事件のほとんどが意図的に密閉された空間内で起こるため、観客は感情移入を拒まれ続け、緩慢なテンポがもたらす息苦しさの中で、「闇」が明白すぎる歪な虚構に緊張し続けることになる。  

 結局、ホワイティは、屋敷の人間を皆殺しにするが、そこに爽快感は微塵もない。そして、元々帰る場所を持たないホワイティは唯一の住処を失い、彼に覆いかぶさっていた鉄籠の如き社会は、その堅固さを陰湿なまでに証明するのだ。彼は、西部劇の英雄やアウトローのように、誰かから記憶されることもなく、放り出されるようにして砂漠へ逃げる。この場面は、九十五分の上映時間の中で、最も感情的なシーンだ。ファスビンダーは、あるインタビューの中で、このラストにいて、こう答えている。「たしかに彼(筆者注:ホワイティ)はいろいろと理解したんだが、行動がとれないんだ(略)砂漠に逃げるのも、そこからちゃんと結論を引き出そうとしないからなんだ」(『ファスビンダーファスビンダーを語る 第一巻』p306)。アンチクライマクスを意識したアンチクライマクスは、難航した撮影へのファスビンダー自身の無言の叫び声だ。自身に跳ね返った悪意を抱え、ファスビンダーは、『聖なるパン助に注意』を撮ることになる。