『自由の代償』と『すべての男は消耗品である』

 村上龍のエッセイ『すべての男は消耗品である』を読んでいたら、市原悦子主演の単発ドラマ『現代人妻戯画』を扱ったところがあって、そのドラマというのが、市原演じる主婦が金田賢一演じる売春夫を買うというもので、彼女は金田の関心を繋ぎとめ続けるために、夫が経営するスーパーのレジから多額の金をくすねたあげく、最後には冷淡にあしらう金田を刺してしまうという話なのだが、村上は彼女の男買いに対し「才能がないくせに、愛を求めているわけだ」と書き、「彼女は才能がないから、男に何もしてやれない。ただ金品を与えるだけだ」と指摘する。

 ここで、思いだしたのが、ファスビンダーの『自由の代償』だった。『自由の代償』では宝くじに当たった労働者階級の主人公(ファスビンダー自身が演じている)が、自分より階級の高いゲイ・ピープルと交際するため、莫大な金額を彼らに貢ぎ、最終的には全てを奪い取られ、野垂れ死ぬという話で、金でしか相手の関心を買うことができない主人公を描く、という点において両作品は共通している。

 ただ、『自由の代償』はなんといっても、自分に才能がないなどとは微塵も思ったことがないであろうファスビンダー自身が、才能のない人間を演じている、というところにミソがあるのだと思う。自分に才能があるということを確信していなかったら、アクション・テアーターを乗っ取るなんてこともしなかっただろうし、その後の独裁者っぷりにしてからもそうだ。『自由の代償』を撮ったころには、少なくとも彼の周囲にいた人間は、ファスビンダーにはその自信に裏打ちされるだけの才能があることを認めていただろうし、そんな人間が『自由の代償』の主人公のような人間をわざわざ演じるのには、ひじょうに嫌味のようなものを感じただろう。つまり、「才能があるから、才能がない人間もやれる」ということなのである。その逆はない。ファスビンダーがマゾヒスト的に振る舞う時、それは才能がない人間に対するサディズムなのである。

 

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すべての男は消耗品である (角川文庫)

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