アンディ・ウォーホルと「臆病さ」について

「ウォーホルはとても臆病な人間だ」。それがフレッド・ローレンス・ガイルズの『伝記 ウォーホル―パーティのあとの孤独』を読んだ時の感想である。彼の人生は虚偽に塗れていた。銀髪のかつら、鼻の整形、出身地の詐称…… これらの嘘は自分を保護するためのものだった。伝記を読むまで、俺は彼の事を道化師のような振る舞いをして場を盛り上げるような人間かと思っていた。作家のカポーティがまさにそういう人間だった。だが、ウォーホルは人と喋るのがかなり苦手だったらしい。自身の講演会に偽物を送り込んで大問題になったことがあるのだが、それはふざけているのではなく本当に喋りたくなかったからのようだ。それでもパーティにだけはきちんと出席し、自分の存在をアピールすることだけは忘れなかった。「有名」であることの重要性を彼は知り尽くしていたのだ。

 喋りが苦手だったから、見た目を奇抜にしたというのもあるのだろう。どんなに混雑しているパーティでも銀髪のカツラを見れば、「ウォーホルがいる!」となるわけだ。また、彼が容姿にコンプレックスを持っていたというのも確かである。子供の時は病弱で肌が白かったのでよくからかわれた。しかし、内気ではあったが、注目されたいと願い続けてきた。そんな幼少期のウォーホルについて、「内気や臆病さは本心を隠す仮面のようなものだった」とガイルズは伝記の中で書いている。彼は子供の頃から映画スターに憧れていたが、後に自分でも映画を撮るようになる。始めは実験的なものが多かったが、後にポール・モリセイの力を借り、ストーリーのあるものも作るようになる。彼の映画にはファクトリーにたむろしていた連中(全員が社会からドロップアウトした人間だ)が大勢出演し、彼らは「スーパースター」と呼ばれた。それは映画界に憧れていたウォーホルが作った、ハリウッドのミニチュアだったのかもしれない。本物のハリウッドで活動するには、ウォーホルは弱すぎた。彼が操作できるのは、自分よりもはるかに弱い人間でなければならなかった。

 ウォーホルは人間関係において受け身であり続けた。自分から近づいて行くというよりかは、誰かが近づいてくるのを待った。ファクトリーと名付けられた彼のスタジオは、彼が有名になるにつれニューヨーク中を移転していったが、基本的には誰でも入れるような場所だった。だが、ウォーホルは気に入らない人間は容赦なく追放した。ファクトリーにいる人間で最も成功に近かったイーディ・セジウィックも追放された。彼女は28歳で死んだ。ファクトリーにいた連中の多くは薬物問題を抱えており、多くが若死にした。彼自身も、ファクトリーに一時出入りしていたヴァレリー・ソラナスに狙撃され、生死の境をさ迷った。

 ウォーホルが何の解釈も加えずに「キャンベルのスープ缶」を芸術作品として提出したのは、デュシャンの影響もあったが、彼が「臆病」な性格であったことも影響しているだろう。他の作品にも言えることだが、彼はとにかく解釈することを嫌った。解釈するということは自分の意見を出すということだ。彼に意見がなかったというわけではない。『ウォーホル日記』を読めば、彼が鋭い知性の持ち主だということはわかる。だが、それを他人に披露することを彼は避けた。彼は本質的には発信者ではなく、観察者だった。それと同時に有名人にも憧れていたことが、『マリリン・モンロー』や『デニス・ホッパー』『毛沢東』といった作品に繋がっていったのだろう。彼の作品は全て彼の顔を覆う仮面のようなものだったのだ。

 

伝記 ウォーホル―パーティのあとの孤独

伝記 ウォーホル―パーティのあとの孤独

 

  

ウォーホル日記

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