青春について語ることは、恥ずかしさとサリンジャーについて語ることだ

特別お題「青春の一冊」 with P+D MAGAZINE
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 青春というのは気恥ずかしいものだ、という共通認識が世間にはある。若さゆえの過ち。だからこそ、若い時の恥ずかしい思い出は、大人になってからの恥ずかしい思い出よりも、堂々と発表できる。青春について語れと言われた時、それは「恥ずかしかったこと」を語れと言われているのとほぼ同じである。だから、ここでは自分にとって恥ずかしい一冊を語ろうと思う。

 それはJ・D・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』。中高生の頃にこの本を読んで、「ここに描かれている主人公は俺だ!」と勘違いし、大学を卒業する頃にはその思い出をなかったことにするというのが、世界共通通過儀礼のようなものである。そのため、ジョン・レノンを射殺したマーク・チャップマンが犯行現場でこの本を読んでいたと報道された時、そこには彼の幼児性を強調する意図があった。

 『ライ麦』にはまる中高生というのは基本的に、クラスの非主流派である。少なくとも俺はそうだった。日頃、主流派から迫害を受け日陰で生きざるをえない時、思考はだんだんと純化されていく。これは学生に限らないことだが、余裕がない人間はグレーゾーンの思考を持つことができない。黒か白かで世界を判断するようになる。『ライ麦』を語る際よく使われるのは「イノセント」という単語で、主人公ホールデンの妹フィービーがそれを代表していると言われている。ホールデンはフィービーに薄汚れた世界に染まってほしくないと考えている。

 だが、社会に出ればどうしたって手を汚す状況が出てきてしまう。取引を有利に進めるために、ハッタリをかますことは珍しくない。就職活動の時に、経歴を誇張した人間は少なくないはずだ。先に「大学を卒業する頃にはその思い出をなかったことにする」と書いたのはそういうことだ。

 俺が『ライ麦』を読んだのは中学生の時だった。母親に教えられて読んだというのが、また恥ずかしい。分かりやすぎるくらい簡単にはまった俺は、英語でお気に入りの物を紹介するという授業の時は当然『ライ麦』を選んだし、学校の図書委員で記念写真を撮った時も『ライ麦』を手に持っていた。あー、恥ずかしい。

 『ライ麦』の翻訳には村上春樹訳と野崎孝訳があり、俺は最初村上春樹訳を図書館で借りて読んだのだが、後に本屋で買った時は野崎訳を選んだ。「あえて野崎」というスノビズムがそこには働いていた。古めかしい野崎訳はスノッブ精神をくすぐってくれる(有名なところではFuck Youを「オマンコシヨウ」と訳したところ)。あー、恥ずかしい。

 俺が大学で文学部の英文科に進んだのも、サリンジャーを通しアメリカ文学に興味を持ったからだった。他のアメリカ文学を読んだり、それに対する批評を読んだりしている内に、サリンジャーに対する関心は薄れた。大人になったというよりかは、彼がテーマとしてた領域と自分が離れていったという感じだ。繊細さを表現する芸術よりも、ヘンリー・ミラーノーマン・メイラーのような性的な事象を扱った作家が好きになっていた。

 それでも彼の小説を愛好していた過去は消すことができない。それが自分の恥ずかしさを受け止めることでもある。いづれサリンジャーの伝記を読もうと思っている。彼が恥ずかしいと思っていた過去を知るために。

 

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)