ロッキング・オン 2009年10月号 渋谷陽一×粉川しの

 少し前に増井修の『ロッキング・オン天国』を取り上げたついでに、これも紹介しておこう。『ロッキング・オン』2009年10月号では、「創刊500号 記念特別号!!」と題して、過去の記事やインタビューを再録し、これまでロッキング・オンが歩んできた道を振り返っている。その一環として、当時編集長だった、粉川しの渋谷陽一の対談が掲載されているのだ。タイトルは「創刊編集長に現編集長が訊く、ロッキング・オン37年の歴史と本質」。

 

粉川 (創刊号について)完全に地下ゲリラみたいな。怒りと憤りしかそこにはない、みたいな。なぜこの人はこんなに怒っているのか? 80年代前半ぐらいまで、渋谷陽一は常に怒っているという(笑)。

渋谷 そうだね。今の読者に、これがロッキング・オンの創刊号なんですよって見せて、どういう感想を持つのか興味深いけども、創刊号を作ったときは、とにかく早くこれを市場からなくしたかった。僕にとっては非常に恥ずかしいものだったわけよ。自分が思ったとおりのものができなかったという思いがあってね。だから、自分にとっての本当の創刊号は、2号目になるんだけど。(中略)これはよく言ってることだけど、当時、パンク・バンドが出てきたときに、楽器はバンドを作ってから学べばいいんだというメッセージがすごく流通していたよね。まさに僕の本作りというのは、本を作ってから本の作り方を練習すればいいというものだった。レイアウトってなに? 校正ってなに? 印刷ってなに? 下版ってなに? 字書いて印刷屋に入れりゃ、本ってできるんだよね?みたいな、まさにパンクそのままの本作りだったんだけども

粉川 社長の中での1号目と2号目の差ってなんだったんですか?

渋谷 1号目は、そうは言いながらも半分プロに任せたんだよね、自分の周りにいるちょっと編集をかじった人、本作りをかじった人、そういう人に右も左もわからないから相談して、手伝ってもらったんだよ。だから表紙も非常に謎なんだけど、『rockin'on』というよくわからないグニュグニュした文字が印刷されている、ただそれだけの包装紙みたいな──当時、僕らは包装紙、包装紙ってよく言ってたんだけど、これは創刊の同人の知り合いのグラフィック・デザイナーがデザインしたものだったわけですよ。僕は最低だと思ってたんだけども、ほかにどうやっていいのかよくわからないから、とりあえずもうこれでいくよりしょうがないと。で、1号目でプロに頼んでもしょうがないんだと気づいたんだよね。で、2号目は一切プロに頼まずに、表紙を書いたのは僕の小学校時代の友達で、漫画がうまい奴だったんだよ。ジャニスの似顔絵描け、って頼んでね。1号目には全然うまくいかなかったために、2号目は中途半端なプロのバンドではなくて、本当のパンク・バンドになろうと作り始めたんだけど。で、2号目から突然売れ始めて(p.136)

 

粉川 (前略)業界の人の反応はどうだったんですか? ロッキング・オンという雑誌を作りました、ってレコード会社とかに持っていくわけですよね

渋谷 なんと言うか、鼻でせせら笑われたというか。僕もあの創刊号を見せられたら、鼻でせせら笑うと思うけど(笑)。今、ハタチのロック・ファンがきて、『渋谷さん、僕たち新しい雑誌を創刊したんです』って、目をキラキラさせて、ロッキング・オンの創刊号を持ってきたら、『君、やめたほうがいいんじゃないの? すごい大変なことになるよ』みたいな。でも、2号目を持ってきたら、『あ、がんばったら』って言うかもしれないね。でも、2号目を持ってこようが、3号目を持ってこようが、業界の人たちは『ふ~ん』みたいな。ごく一部の人が、ちょっと興味を持ってくれたぐらいな感じで」(p.137)

 

粉川 70年代、ロッキング・オンはパンクとどう向き合ってたんですか?

渋谷 僕にとってパンクはストラングラーズだったんだよ。で、ストラングラーズはやったら表紙になってた。セックス・ピストルズじゃなかったの。クラッシュの記事は、きっと日本では大貫憲章より僕のほうがいっぱい書いてると思うけども、でも僕にとってのクラッシュは『サンディニスタ!』なんだよ。(後略)(p.137)

 

粉川 当時、ロッキング・オンは日本の洋楽シーンの中で、かなり確立してたんですか?

渋谷 全然。ロッキング・オンがシーン全体の中でどういうポジションをとってるかっていうのは、よくわかってないと思う。自分の中で。ジャパンぐらいになると、立ち位置のいろんな変化もわかるんだけど、ロッキング・オンはわからなかったね。(中略)作ることに必死で、とにかく潰れないようにするのに必死で、ロッキング・オンを作り始めてしばらくの間は、ほんとうにバンドと一緒だったよね。よくバンドが『次のアルバムが作れればいいと思ってずっと活動してました』っていうけど、まさにそれだよね。『次の号作れるといいよなあ』みたいな。4号目から取次を通って革命的にすべてのシステムが変わってくわけだけども、2号目、3号目なんて、作るのに100万かかったとすると、回収できるお金は10万とか15万ぐらいだったよね。9割は赤字なわけで、それを僕の場合は親戚から借金したりとか、みんなからバイト代集めたりとか、自分の持ってるお金でやって。だからほんとにインディーズで自主製作してるみたいなもんだから。で、徐々に売り上げで本が作れるようになっていく。ああ、回るようになったねえ、みたいな。なんとなく広告が出るようになったぞ、すごいなあと。でもしょせん、怪しいインディ・マガジンなわけだよ

粉川 2、3ヶ月タームでしか物事が考えられなかったと

渋谷 そうそうそう。だって、ずっとロッキング・オンの事務所っていうのは存在しなかったしね。で、家賃10万円ぐらいの事務所を借りられるようになったのが、創刊して10年後、82年とかそれぐらいじゃないの? 10年経って事務所を借りられたけど、ここの家賃いつまで払えるのかなあと。そういう状態がずっと続いていくうちに、それなりの部数になって、それでも印刷屋が潰れて、夜逃げみたいなこともされて、本ができなくなるかもしれないみたいなことがあったし。そんな思い出しかないから。で、ものすごく極端なことを言うと、そういうことがあったうちに、知らない間にNo.1洋楽雑誌になってましたみたいな(笑)(p.137-138)

 

 ロッキング・オン創刊当時のきつい状況がよく伺える対談になっている。渋谷がストラングラーズ好きだったのは知らなかった。 

 あと、大学生だった増井修が、渋谷に呼ばれて六本木のオフィスに行ったのは1980年のことだが、それは家賃10万円の事務所とは違うのだろうか。

 

rockin'on (ロッキング・オン) 2009年 10月号 [雑誌]

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