季刊アート・エクスプレス 1994年No.3 小沢健二×柴田元幸

『アート・エクスプレス』1994年夏号(No.3)では、「ロックには何もやるな」という特集を組み、様々な評論や対談を載せている。主な寄稿者は、村上春樹日比野克彦鷲田清一沼野充義管啓次郎小沼純一大澤真幸北中正和など。そして、対談は、小沢健二×柴田元幸村上龍×松村洋、日野啓三×辻仁成という組み合わせになっている。三浦雅士が編集人だったからか、文学関係者が多く起用され、全体的に「文学×ロック」というような雰囲気になっている(そもそもタイトルがヘミングウェイからの借用なのだが)。辻は芥川賞受賞前だが、日野と対談しているのは、すばる文学賞繋がりか。

 小沢と柴田が対談するのは、「LES SPECS 1992年11月号 小沢健二×柴田元幸」以来だ。雑誌の発売がツアーの時期(Disco To Go)と重なっていたようで、ページの隅にはコンサート情報が載せてある。まあ、今回も適当に発言を引用していこう。ちなみに二人の対談には「ボルヘスがロックを歌ったとしたら」という題がつけられている。

 

柴田 はじめてコピーしたのは、クイーンだった、と前に言っていましたね。

小沢 ええ、情けないですね。(笑)

柴田 いやいや、そんなことはない。ぼくらだったらベンチャーズとかそういうのだった。それでクイーンが出てきたときに、もうロックのことを進化論的に考えても仕様がないのかな、と思ったんですよ。あの頃からシンセサイザーを使うのがまったく当たり前になった。シンセサイズというのは、統合するとか、合成するとか、総合するということじゃない。いままでのものを壊して新しいものを作るというよりは、いままでにあるものをどう使うかというように音楽がなってきたのかと思ったんですけどね。

小沢 それは音楽だけのことなんですか。

柴田 そんなことはない。たとえば、文学だと、ボルヘスがほかの人の文章を引用するだけで一冊、本を作ったりしている。しかもそれが、誰が見てもまぎれなくボルヘスの本であるというふうになるんだよね。

小沢 そのことがロックについてなぜかいま頃、声高に語られているんだけど、ほかの芸術でもそういうことはがんがん進んでいて、それこそボルヘスなんてどれだけすごかったかということになる。

柴田 だからロックで「引用」が大きな問題になっても、別にそれで、じゃロックは死んだのか、ロックは何だったのか、というふうに過去形で問う必要はまったくない。大抵の芸術はそうなるということでしょう。

小沢 なっていくでしょうね。ぼくは一九六八年生まれで、それで何というか、わりとリベラルな家庭に育つと(笑)、家にクラシックのレコードと並んでビートルズのボックスがあるんです。でも、中学生ぐらいのときって、ビートルズって聞かないんですよね。やっぱり、クイーンとかローリング・ストーンズとか何とか、そういう家のクラシックの棚に並ばないようなものを聞いていて、それでしばらくたって聞き始める。二十歳すぎくらいまでは、ビートルズがいいと言うのは、口はばかられた。なんか、マザコンの香りというか、権威の香りというか、そういうのがした。

柴田 ぼくは、高校生ぐらいのとき、そういうようなことを思ったかなあ。桑田佳佑とぼくは大体、同世代ですけど、彼にとってはビートルズでもストーンズでも、ロックのいちばんパワフルな流れというのは、自分が見つけたものじゃなくて、お兄さん、お姉さんが聞いていたものという意識があると言っていた。ぼくも、そういうことはすごく思っていた。だからそこで見栄と怨念を発揮して、自分はビートルズとかストーンズじゃなくてキンクスとかバーズを聞くんだとか。そういうふうになるわけですよ。(p.30)

 

小沢 あっ、先生。『レザボア・ドッグズ』という映画を見てください。「スティーラーズ・ホイール」の「スタック・イン・ザ・ミドル・ウィズ・ユー」という曲がほぼテーマ曲なんですけど、ようするにへんな時期のバブルガム・ロックみたいなものが、全編かかっているギャング映画なんです。エンディングにニルソンの「ココナッツ」という曲がかかる。なんともいえないんですよ。「スティーラーズ・ホイール」って、売れたんですか

柴田 わからない。ぼくは、「スティーライ・スパン」の方が好きでしたね。

小沢 (白々しく)と、こういう調子で話ができるから、ロックは楽しいなあ(笑)。上の世代の人と話せるのが楽しい。

柴田 昔は世代を断絶する音楽だった。ドント・トラスト・オーヴァー・サーティーズ、三十歳以上は信用するな、というモットーでしたからね。それがいまでは、ぼくが「若者」に近づくための有難い共通項です。

小沢 ロックなんて、好きじゃなかったら、どうでもいいことでしょう。

柴田 でもジャズくわしくても、若者は敬意を持ってくれないわけですよ。

小沢 そうですよね。

柴田 大学で以前は「先生、村上春樹さんとお知り合いなんですって」と学生にうらやましがられていたのがいま、「先生、小沢健二さんとお知り合いなんですって」とうらやましがられている。(笑)(pp.30-32)

 

柴田 小沢くんは同じことを二度やらないという気持ちは、かなり強いですか。

小沢 そうですね。

柴田 ロックはジャズみたいにどんどん高度な洗練に向かっていく音楽じゃないから、長くやるのは結構、つらいですよね。それで言うとビートルズの変わり方というのはすごいですね。

小沢 たまたま二十年くらい前の雑誌を買ったら、すごいビートルズ論が載っていて、「ジョン・ケージの影響は二〇世紀で終わるが、ビートルズの影響は二十一世紀まで残るのだ」という話で、これも時代がかった話だなと思って、印象に残っているんですよ。ジョン・ケージの影響とビートルズの影響について考えているところが、七四年という感じだなと思った。いま、そんな構えた話はどこでもみない。

(中略)

柴田 ティーン・エイジャーというのが、文化的にもひとつのまとまりになって、購買層にもなり、それが独自の音楽を持つようになり、それがポップやロックだったんだろうね。その前は、若者の歌というのはないわけですよ。恋愛といっても、「二人でお茶」みたいなさ、大人の恋愛の歌を仕様がないから、若者が摘み食いしていたわけです。それが五〇年代ぐらいから、若者は若者で自分たちのレコードを買うようになって、自分たちのアイドルが出てくるようになった。というのが、駒場の英語の教科書に載っている話なんだけど。(笑)

小沢 おもしろいですね。

柴田 『ロック・オブ・エイジズ』というロックの教科書から、とったんですけどね。思春期の恋愛がどうこう言っているうちは、ロックのようなものはずっとあるんじゃない。それで聞きたいんですけど、やっぱり基本的には恋愛の話ですか。

小沢 うーん、恋愛の話はまたいますごい興味があるんですが、何だろう、ロックで特殊なことっていうと。なんか「感じ」みたいなものがOKなジャンルって気がします。うちの親父なんかそうなんですけど、「感じ」というのを嫌がるんですよ。「感じ」なんて言ってたらダメだって言って。うちの親父、大学の先生だから。

柴田 「~みたいな感じ」というやつね。おれも大学の先生だけど、しょっちゅう使ってる。学生よりも使う。(笑)

小沢 それを唯一、声高に叫んで何とかなってしまうジャンルなのかもしれない。「感じ」を威勢よく言えているものがロックっぽいなあ、という気がしますね。お約束のドラム・パターンにお決まりのフレーズとか。一見すごい様式化されているように見えるんだけど、でも中にときどき、そういうのを平気でやりつつも、でたらめな「感じ」を言葉にしても音にしても何にしてもつきつけてくる人とかいて、そういうのを見ると、ああやっぱりそういう様式化されないまま、適当に音楽をやって、適当に言葉をやっていけるものが、まだあるんだなと思う。型通りのロックも好きですけどね。(p.32)

 

柴田 ところで、ロックの音楽評論家の人たちの権威の大きさ、あれは一体、何なんだろう(笑)。すごく不思議なんだよ。ジャズ評論だってあそこまで権力の匂いはしない。

小沢 なんででしょうね。

(中略)

柴田 ロックなんか聞いたって、キャリアにつながるわけじゃないでしょう。なんでそこに倫理が入るのかなあ。ジャズとまったく同じ道を辿っているような気がするのね。ジャズも六〇、七〇年代ぐらいかな、ジャズ喫茶に通いつめて聞く「道」みたいなのがあった。いま、ロックもそうなっている。

小沢 いやあ完全に道です。

柴田 ようするに、前はロックを聞いてときめいている人だけが、内輪で言い合っていたわけじゃないですか。それがこういうふうに「アートエクスプレス」みたいな立派な雑誌で特集されて、ときめかない人にも読まれるかもしれないというのは結構、気持ち悪い。でも小沢健二は勉強の対象ではなくて、まだ快楽の対象でしょう。

小沢 ええ、快楽でなんとか。でもなんかね、勉強の対象になってきがちなんです。(pp.32-33)

 

柴田 これは全体からすれば、小さなことかもしれないけど、大物ミュージシャンがエコロジカルな思想と結びついて、社会の良心を代表しているじゃない。あれは六〇年代にあったプロレスト・ソングなんかをより体のいい形でやっているみたいで、すごく気味が悪いな。

小沢 ぼく、気味が悪いと思えいないくらいに、ただそういう人がいるんだなと思ってみてますけど。

柴田 ロック・ミュージシャンって、ちょっと前は不良だったわけですよ。それが良識ある市民になって……それはめでたいかな、やっぱり(笑)。キッスが出てきたときに、なんて醜い恰好と、ある程度の歳以上の人は言った。でもあの恰好、歌舞伎と大して変わらないですよね。それが歌舞伎だと芸術で、キッスは阿呆だ、というヘンな話になる。でもそのうちに、あれも一種の様式美じゃないか、とか言われるようになるんじゃないかな。

小沢 様式美みたいなところは、キッスに限らずあります。

柴田 六〇年代末ぐらいから、ロックがメッセージを持っていいんだ、みたいなことをみんなが思い始めた。七〇年代というのは、ロックでみんなが私小説を書き始めた。それで、自分の感情の微妙な揺れみたいなものをやった。ぼくはそれをあの頃、ロックの成長みたいに考えたわけですけど。

小沢 考えたんですか。

柴田 うん、考えた。いまから思うと、そう言いながらも、嘘くさいなと思っていたんだろうけど。結局、やっぱり色恋の話に戻るんじゃないか、という気がするんだけど。そうでもないかな。

小沢 色恋の話はプロのほうがうまい。

柴田 というと。

小沢 いわゆるメインストリームの音楽というか。

柴田 でも、小沢くんはそれを引用句つきでやるわけじゃない。

小沢 そうなんですけど。本当にプロでやっている人はうまいんですよ。いまの成長という話はものすごくおもしろかった。ぼくの場合は、一直線上の横並びで、色恋もの、馬鹿もの、私小説もの、そろぞろと並んでいて、成長というのではない。

柴田 それはつまり進化論で考えても仕様がないかなという、あとから聞き始めているんだね。

小沢 だから、むしろ手薄になっているところがおもしろそうという気持ちは相当ある。たとえば、マイケル・フランクスみたいなものは聞かないだろう、とか。手薄だから攻めちゃおうかな、とか。ジェイムス・テイラーは簡素でいいね、とか。どれも横並び一線で、成長というのは、まったく思っていませんでした。(p.33)

  

柴田 六〇年代末というのは、ロックが「われわれが」という言い方を覚えたというか、やたら「ゲット・トゥギャザー」とか「ウィ・キャン・ビー・トゥギャザー」とか、「トゥギャザー」というのがあの頃のキーワードですね。その頃は音楽だけの話ではなくて、「われわれ」若者が世の中を変えるんだという、そういう希望、妄想を持てた。それが七〇年代に入って、急速にシラーッとして、逆に小さいぼく、わたしというのを緻密に歌うようなシンガー・ソング・ライターが多くなってきた。世の中の流れにくっついている、というか。というように社会史に説明できるのは、七〇年代の半ばぐらいまで。あとは正直言って、よくわからん(笑)。。だんだん歌詞が括弧つきになっているということぐらいしか分からない。サザンオールスターズは「~したら」という言い方が多い。フリッパーズ・ギターは「~だろう」という言い方が多い。「だ」じゃないですよね。

小沢 すみません、もう最近「~だろう」はやめました。

柴田 いや、謝ることはない。時代精神の体現なんだから。(笑)

小沢 ぼくが「~だろう」という言い方をしなくなったのも、そうなんだけど、それもやっていければ、サザンと同じで「~だろう」派みたいになってくる。それにぼくが「~だろう」を開発して使いまくってた頃は確かに時代精神だったように思うけど、下手にぼくの真似して「~だろう」とか言う奴とか出てくるってのは違うでしょ。それじゃ時代精神ごっこというか……。でも、いきなり括弧が取れて「だ」ということはないですね、きっと。(pp.34-36)

 

小沢 ロックって、とりあえずギターじゃない。柴田先生がギターをやっていたように、ぼくだって、ギターが好きだった。十代の頃にまずギターを弾くというのが基礎にあるんだけど、いま、なんか、十代の子ってギター、弾かなさそうでさ。

柴田 最初に何をするの?

小沢 コンピューターだの、ターン・テーブルを買ってくるということかな。

柴田 テーン・テーブルって、レコードの?

小沢 うん、アナログの。

柴田 消費する側だということ?

小沢 消費する側で、あと、サンプリングで作ることもある。それに、なぜか不思議なことに、たぶん、ギターを弾くことの平均レベルって、落ちてきているんですよ。

柴田 そりゃ、やばいよ。

小沢 アメリカでもそうみたい。昔みたいなスーパー・ギタリストなんて、ヘビ・メタという特殊なジャンルを除くと、全然思いつかないですね。バンドとしてもものすごいパワーがある、たとえば、レッド・ホット・チリ・ペッパーズなんかをみても、七〇年代ぐらいのふつうのギタリストぐらいのレベルという気がする。まあ、ヘビ・メタだけ猛烈に進化していることは確かだと思いますが。

柴田 それは自家中毒的な進化じゃないですか。

小沢 そんな感じがぼくはしますけど。一応、コードのことぐらいは知らないと曲できないぞと思うんですけど、サンプリングとかするとラクですからね。基本的にラクを美徳とするジャンルじゃないですか。

柴田 それは言えるな。(笑)

小沢 あんまり、ギターを熱心に練習する奴じゃ、たいしたものを作れないわけで、というような気持ちになってくると、じゃ、ずるして作る方法はないか、ということからいいものが生まれたりするから、基本的に技術のレベルは落ちてくると思う。それはそれでぼくは好きなんだけど、でもギターぐらいやってみない? という気持ちはあったりする。でも、それは逆にラクをしようというほうに向いているというのはいいことなのかな。

柴田 それはね。ということは、ぼくにとっては、ロックとはギターなんだけど、それも動いたほうがいいかもしれないね。

小沢 それも動いた先もどうなることやら。そうなると、ロックは教養だみたいなことになってきかねないんで。

柴田 やっぱり、やばいんじゃないか(笑)。まず遠いところにあるものへのあこがれからロックって、入っていったじゃないですか。六〇年代のビートルズとか、ストーンズだって、みんな五〇年代のアメリカ黒人にあこがれて、そのコピーからはじめて、ああいうものを作った。それがどんどん、遠くなくて、近くて、簡単に手に入って、安くて、というものになっていく。でも、それを悪いというのは……よくないね。(笑)

小沢 ギターはものすごいスポーツみたいなものとして、ヘビ・メタだけに受け継がれているのかな。

柴田 ヘビ・メタって、自分をパロディにできるのですか。

小沢 どうでしょう。外からはパロディに見えているんですよね。(笑)

柴田 ハード・ロックってユーモアがない。

小沢 あれは別物ですから。でも、単純にアメリカのヒットチャートで、去年九三年で、ギターが格好いい曲なんて、あっただろうか。二曲ぐらいだったろうと思いますよ。オーチャクモン根性が残っていて、ギターを練習しなくなるというのは、悪いことじゃないと思う。(p.37)

 

小沢 『ウッドストック』にカントリー・ジョー&フィッシュというのが出ている。一分半ぐらいだけ。あの人たちって、なんであんなフェスティバルに出ることになっちゃったんですか。格とか、あまりにもみみっちいように見えるんですけど。

柴田 カントリー・ジョーは、初期には結構ラディカルだったんです。メッセージがあれば、わりと音楽はどうでもよかった。

小沢 ジャ・ジャ・ジャ・ジャ・ジャッ、マリファナ、というだけの曲ですね(笑)。カントリー・ジョー&フィッシュみたいなものが、強いのかなあという気がしますね。

柴田 どういうこと?

小沢 目茶苦茶さがロックだというか、単純バカというか、単純に滅茶をやるというか。

柴田 それはジャズにもないし、ほかのリズム&ブルースにもないロックの強みじゃないかな。

小沢 だといいなあ、と思って。

柴田 それはそうだと思うよ、スティーブ・エリクソンも愛読しているレスター・バングズというもう死んでしまったロックの評論家がいるんだけど、阿呆をやることがロックの本質である(笑)、みたいなことを言っている。

小沢 そういう阿呆をやる方向に向いている奴は、聞く気になりますね。

柴田 阿呆をやっていいジャズ、というのは考えにくい。フリー・ジャズとかたしかに目茶苦茶だけど阿呆じゃないですよね。やっぱり「思想」であって「深み」がある。でも、ロックはさっき言ったように、メッセージが出てきたり、私小説的になったり、深みが出てきたりするのが価値だと一時、思っていたけど、実は深みなんてどうでもいいんじゃないかな。それがロックの強みじゃないかと思いますけどね。

小沢 だからロックはカントリー・ジョー&フィッシュに向かうとおもしろいなと思って。

柴田 やっぱり阿呆をやることの輝きというのは、ロック独自のものかな。

小沢 ぼくもそれは素直に思う。

柴田 でも小沢くんのような頭のよい人間が阿呆をやるのは、下手するといちばん悲しいことだから、やらないほうがいいい。(笑)

小沢 でも、ぼくは力強い、頭が筋肉で出来ているような阿呆というのは、やっぱり好きですね。(笑)(p.37)

 

 柴田がヒップホップの思想に必死に対応している感じが面白い。ヘビ・メタなんかは、ださいことに開き直っているというか、「ださいけど好きなんだ」みたいなところに着地しているような気がする。ファンが一番、ヘビ・メタというジャンルのだささを知っているみたいな。

 それで、対談の中身についても少し書くと、「阿呆」とか「快楽」というのが、ここでの重要なキーワードになっている。勉強としてロックを受容するのはだめだ、と。この対談から約3か月後にリリースされた『LIFE』なんか、表面的には「快楽」の全面肯定という感じだったけど、その背後には「勉強」があったんじゃないだろうか。つまり、小沢は「快楽」について「勉強」し、それを上手く隠したという。この頃の小沢って、大学受験のエピソードに関してもそうだったけど、「勉強してないけどできちゃった」みたいなパブリック・イメージを確立させようとしていて、実際ある程度それは成功した。頭を筋肉にするかわりに、小沢がとった戦略っていうのが、「努力しているようには見せない」ってことだったんだと思う。「手薄だから攻めちゃおうかな」なんて発言は、勉強している人間にしかできないものだろう。

 

おまけ 柴田元幸が選ぶ文庫化されたアメリカ文学ベスト50(『文庫本の快楽』メタローグ、1992年より引用)

ベンジャミン・フランクリン『フランクリン自伝』岩波文庫

エドガー・アラン・ポオ『ポオ小説全集』全四巻、『ポオ 詩と詩論』創元推理文庫

ナサニエル・ホーソーン『緋文字』岩波文庫新潮文庫

ハーマン・メルヴィル『白鯨』岩波文庫新潮文庫

ヘンリー・デイヴィッド・ソロー『森の生活』岩波文庫

ウォルト・ホイットマン『草の葉』岩波文庫

マーク・トウェインハックルベリー・フィンの冒険』岩波文庫

マーク・トウェイン不思議な少年岩波文庫

古沢安二郎訳『マーク・トウェイン短編集』新潮文庫

アンブローズ・ビアス『いのち半ばに』岩波文庫

ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』新潮文庫

大久保康雄訳『O・ヘンリ短編集』新潮文庫

ジャック・ロンドン『荒野の呼び声』岩波文庫

シャーウッド・アンダスン『ワインズバーグ・オハイオ新潮文庫

F・スコット・フィッツジェラルドグレート・ギャツビー新潮文庫

F・スコット・フィッツジェラルド『夜はやさし』角川文庫

アーネスト・ヘミングウェイ日はまた昇る集英社文庫

アーネスト・ヘミングウェイ『われらの時代に』福武文庫

リング・ラードナー『ラードナー傑作短編集』福武文庫

ウィリアム・フォークナー『八月の光』新潮文庫

ウィリアム・フォークナー『フォークナー短編集』新潮文庫

ジョン・スタインベック『怒りのぶどう』岩波文庫

ジョン・スタインベック二十日鼠と人間新潮文庫

ヘンリー・ミラー『北回帰線』新潮文庫

ヘンリー・ミラー『愛と笑いの夜』福武文庫

ウィリアム・サローヤン『我が名はアラム』福武文庫

リチャード・ライト『アメリカの息子』ハヤカワ文庫

ジェームズ・サーバー『空中ブランコに乗る中年男』講談社文庫

テネシー・ウィリアムズ欲望という名の電車新潮文庫

トルーマン・カポーティ『遠い声 遠い部屋』新潮文庫

J・D・サリンジャーナイン・ストーリーズ新潮文庫

フラナリー・オコナー『オコナー短編集』新潮文庫

ウラジミール・ナボコフナボコフの一ダース』ちくま文庫

バーナード・マラマッド『マラマッド短編集』新潮文庫

フィリップ・ロス『さようならコロンバス』集英社文庫

Philip Roth - Patrimony→『父の遺産』集英社文庫

カート・ヴォネガットタイタンの妖女』ハヤカワ文庫

ジョーゼフ・ヘラー『キャッチ=22』ハヤカワ文庫

ロバート・クーヴァー『ユニヴァーサル野球協会』新潮文庫

ジョン・アーヴィング『熊を放つ』中公文庫

フィリップ・K・ディック『ユービック』ハヤカワ文庫

リチャード・ブローティガン『愛のゆくえ』新潮文庫

レイモンド・カーヴァー『ぼくが電話をかけている場所』中公文庫

Paul Auster - The New York Trilogy→後に全て文庫化

Art Spiegelman - Maus

Nicholson Baker - Vox→『もしもし』白水社

ラブクラフト他『怪奇小説傑作集3』創元推理文庫

荒俣宏編『アメリカ怪談集』河出文庫

志村正雄編『アメリカ幻想小説傑作集』白水社Uブックス

Robert Shapard & James Thomas編 - Sudden Fiction International

 

 

 

季刊アート・エクスプレス (No.3)

季刊アート・エクスプレス (No.3)

 

  

汚辱の世界史 (岩波文庫)

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Reservoir Dogs: Original Motion Picture Soundtrack

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ディレクターズカット ウッドストック 愛と平和と音楽の3日間 [DVD]

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Life & Times of - From Haight-Ashbury to Woodstock

Life & Times of - From Haight-Ashbury to Woodstock

 

 「マリファナ」を収録 

文庫本の快楽―ジャンル別ベスト1000 (リテレール別冊)

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