ウディ・アレンの変身願望とマゾヒズム

1 序論──僕をメンバーにするようなクラブには入りたくない

 

 一九七七年に公開された映画『アニー・ホール』の中で、ウディ・アレン演じるコメディアン、アルヴィ・シンガーが発した「僕をメンバーにするようなクラブには入りたくない」という自虐的ジョーク(元ネタはグルーチョ・マルクス)は、映画を飛び越え、アレン自身の性格を描写するものとして定着した。
 もちろん、「クラブ」というのは比喩であり、ここには様々な言葉が代入可能だ。アレンの映画では、ダイアン・キートン演じるアニー・ホールとの「恋愛」を指し示すものとして使われている。つまり、まともな女であれば、自分のような人間を恋人にはしないという意味だ。彼の予想通り、この恋は失敗に終わる。
 ここで注目したいのは、シンガーが、「クラブ」そのものを否定しているわけではないということである。彼が否定しているのは、クラブではなく、自分自身だ。だが、彼の否定はそこで終わらず、自分を受けいれてくれるものまで丸ごと否定してしまう。彼の思考は、極めて帰納的だ。シンガーにとって理想的な「クラブ」とは、自分のことを拒絶する「クラブ」である。彼は「クラブ」の一員になることを望みながら、絶対にそれは達成されない。シンガーの思考と行動は循環し続ける。
 このジョークの背後にあるのは、謙虚さではなく、卑屈な態度だ。場合によっては相手を不快にさせることだってあるだろう。例えば、芥川龍之介は、「自分のようなものから手紙を貰ふのは御迷惑かも知らないが」という内容の手紙を夏目漱石に出し、漱石久米正雄を通じて注意したことがある*1
 シンガー=アレンは、常に自分を卑下することで、壁を築き、他人からの攻撃や評価を避けようと努めている。リチャード・シッケルとのインタビューでアレン自身はこう述べている。

 

(……)ぼく自身は自分の映画に対して批判的だとだけ言っておきたい。ほとんど、毎回、作品が完成する度にすぐ自分では失敗作だったと思う。成功したと思える作品はとても少ないし、どの作品に対しても胸を張って語ったりはしない。(……)このインタビューを目にして、僕の作品を見たことがない人が「へえ、この映画は面白そうだし、深いテーマがありそうだ。見る価値があるんじゃないか」と思うかもしれない。そして映画を見て、「何のことだか、さっぱりわからない」と思うかもしれない。だから予防線を張っておきたいのさ。*2

 

 これがアレン流の防衛術だ。自ら先回りし作品を否定することで、他人からの批判を無効化する。そうすることで、アレンは「言われなくても知っている」と開き直ることができる。彼がここで獲得したのは、「被害者」というポジションだ。彼のこうした気質は、作品の中でもよく表現されている。
 アレンは、ヨーロッパ映画を観る前は、劇作家になりたかったと公言している*3。それだけに、これまで発表してきた戯曲の数も少なくない。だが、これまで彼の戯曲について詳細に検討した評論はあまり多くない。それだけに、彼の内面性を、映画だけでなく、戯曲の方向から見ていくのも重要な作業だ。次の章から、より具体的に、アレンの作品に隠されている、彼の特殊な性質を探求していく。

 

2 変身願望

 

 アレンの作品を解釈する上で重要な概念となるのが、「変身願望」である。前章で引用した彼の言葉から、彼の低い自己評価を読み取ることができるが、そうした性格こそ、「変身願望」へと繋がっていく。自己評価が低いからこそ、他人になりたいと望むのだ。彼のインタビューを読むと、尊敬する芸術家の名前が頻出するが、それもまた「変身願望」の変形である。
 この「変身願望」を最もよく表現した戯曲が、一九六九年にブロードウェイで上演された『ボギー! 俺も男だ』(以下『ボギー!』)である。アレン、ダイアン・キートン、トニー・ロバーツが出演したこの舞台は評判を呼び、一九七二年には同じ面子で映画化された(監督はハーバート・ロス)。
『ボギー!』のストーリーを確認しよう。主人公のアラン・フィリックスは、映画に造詣の深いオタク的なライターで、二週間前に妻と離婚し、今はアパートで独り暮らしをしている。アレンはこの男を「繊細で恥ずかしがり屋で、どこか不安定な男で、もう長い間、精神療法を受けていた」と描写している*4。アレンの映画によく出てくるようなタイプだ。また、アランには妄想癖があり、彼の敬愛する俳優ハンフリー・ボガートが、「幻想」として何度も出現する。妄想に出てくるボガートは、『カサブランカ』に出演した時のイメージで、舞台上では、アランに背後からアドバイスを送る役目を務める。また、彼の元妻ナンシーも、同じように幻想として出現し、彼を苦しめることになる。
 アランにはディックとその妻リンダという友人がいる。ディックは「美男子で行動派タイプ」であり、アランとは真逆の存在だ。二人は、気落ちしているアランに、次なる相手を探すことを勧める。アランはあまり乗り気ではないが、二人に押し切られるように、恋人を探し始める。そして、その過程で、アランとリンダの仲が急速に深まっていく。リンダは仕事人間のディックに不満を持っていたのだ。
 ある日、リンダがアランのアパートに遊びにやってくる。アランは葛藤し、幻想のボガートがアランをけしかける。リンダは「ひどく劣等感を持って」いて、ボガートはそこに付け込むよう巧みに指導する。アランはボガートに従い、「ぼくは、いろんな子と恋をしたけど、君は特別だ」とリンダに思いを告げる。そして、アランの罪悪感を象徴する、ナンシーが幻想として出現し、あわや失敗かと思いきや、最終的にリンダはアランを受け入れる。
 翌日、二人はベッドで寝ている。アランは元妻ナンシーの幻想を打ち破る。だが、親友の妻を寝取ったことで、アランは罪の意識を覚える。また、ディックは妻をないがしろにしていたことを後悔し、よりを戻そうとする。アランはリンダとディックの間で、苦しむが、リンダがディックのもとへ戻ることを決意したため、この問題は簡単に解決する。全てが元鞘に収まったところで、この戯曲は終わる。
『ボギー!』は、ハードボイルド映画のパロディでありながら、主人公が「ハードボイルド」的生き方に憧れているという二重の構造を持っている。アランは映画評論家という立場なのだが、『マルタの鷹』を「二週間に十二回」観たと言われるほどに、偏った好みをしている。引用される映画も全てボガートが出演しているものだ。こうなると、批評家というよりかは、狂信者といった方が正しいかもしれない。アランはハンフリー・ボガートになりたいのだ。アランがなぜここまで自己評価が低いのかといえば、それは自己イメージが高すぎるからだ。彼にとっての理想の生き方とは、ハンフリー・ボガートが映画で見せる生き方そのものである。戯曲の中で、ボガートがアランに、女性の扱い方を指導する時、アランは必ず「君だからできるんだよ。だけどぼくは君じゃない。ボガートじゃないんだ」と反論する。そして、その度にボガートは「誰でもできるんだよ。確かだ。君ができないとは思わない」と発破をかける。アランはボガートに依存しきっており、ボガートの言葉がなければ何もできない(現実のウディ・アレンも、セラピー中毒だった)。しかし、ボガートの言葉通り動いたからといって、ボガートになれるわけではない。そこがこの戯曲における、隠されたテーマだ。
 アレンの作る物語には一つのパターンがあって、それは幻想の中で生きている人間が、最後に「現実」とぶつかり、元の冴えない生活に引き戻されるという風になっている。『ボギー!』もまた、それと同じパターンだ。アレンが映画脚本を量産できるのも、一つは、このパターンに従って書いているからというのもあるだろう。なので、それを意識してアレンの作品を見ると、結末の付け方に安易なものを感じることがある。『ボギー!』においては、展開によっては泥沼に入り込みそうな不倫問題が、リンダの急な転向により、一瞬にして解決してしまう。アランもまた、彼女に対し執着するところは一つもない。執着心を見せるのはリンダの夫ディックと、アランの元妻ナンシーだけである。つまり、物語の中心から外れた人物だけが、こうした格好の悪い役割を担わされているわけだ。アランがリンダと別れるシーンは、『カサブランカ』のラストをイメージしたもので、「背景に、ピアノ音楽が流れる」という指定まである。最終的にこの戯曲は、パロディを主としていながら、非常にロマンティックな形で終わるのだ。そもそも「パロディ」という表現形式が、「ロマンティック」の裏返しであるとも言えるかもしれない。なぜ、そんな風に見えるのかといえば、「パロディ」対象への憧れが、随所に散りばめられているからだ。自分は「ボガート」になりたいが(変身願望)、彼のように生きることは決してできない、という諦念が、「パロディ」への原動力となっている。パロディと、諦念、羞恥心といった感情は、密接に関係している。
 パロディをパロディたらしめるのは、カタルシスを回避するようなストーリー展開である。『ボギー!』では、「世界で一番美しいこと」と表現されるリンダとアランの不倫が、一瞬にして終わってしまう部分がそれに該当する。ここにカタルシス的要素を付け加えるとしたら、「駆け落ち」ということになるが、それだと『卒業』になってしまう。パロディ、ひいてはアレンの作品において重要なのは、目的が「成就しない」ということであり、それは彼のペシミスティックな性格に由来しているのだろう。パロディやユーモアの名手に、悲観的な性格の人間が多いということはよく言われていて、例えば夏目漱石やマーク=トウェインがそうだ。彼らは病的なほど、外部の刺激に対して反応してしまう。そして、それを隠すために、ユーモアを用いる。「僕をメンバーにするようなクラブには入りたくない」というジョークも、そうした過敏さから生まれたものだ。だからこそ、「鈍感さ」を持った人間に、アレンは反発もし、憧れもする。

 

3 マゾヒズム

 

 変身願望とセットになるのは「マゾヒズム」である。実は、この二つ、切っても切れない関係性にある。変身願望とは、何かに「変身」することができない人間が抱く欲望だが、そうした願望を抱く人間の多くが、「自分は決して何物にもなれない」ということ意識している。それでも、変身願望を捨てることはできない。彼らは常に、英雄的な人物に憧れ、打ちのめされ続けるだけだ。
 ここで言う「マゾヒズム」とは、マゾッホ谷崎潤一郎村上龍が描くものとは異なっている。彼らのマゾヒズムはもっと即物的で、肉体的だ。だが、変身願望と対になるマゾヒズムは、非常に抽象的で、彼らが傷をつけるのは身体ではなく心である(最も、それが実際の病と結びつき、自傷行動に走ることもあるだろうが)。
 精神的マゾヒズムは、状況によって様々な出現の仕方があるが、一つには「期待を裏切る」というのがある。例えば、相手から高い期待をかけられた時、それをぶち壊すような行動を起こし、「私はあなたが思っているほどの人間ではありません」ということを示す。精神的マゾヒストは、自己評価がかなり低いので、相手が自分のことを評価してくれることが、ストレスになるのだ。
 一九八一年に発表された自伝的な戯曲『漂う電球』では、そうした精神的マゾヒズムが大いに発揮されている。ちなみに、ケラリーノ・サンドロヴィッチは、二〇〇六年にこの戯曲を演出した際、「アレン版ガラスの動物園」と評した*5。『漂う電球』と『ガラスの動物園』の共通性は、「内気な主人公が家族の期待に応えられない」というところにある。簡単に『漂う電球』の内容を確認しよう。
『漂う電球』の主人公ポールは十六歳ぐらいで、「痛々しいほど内気で、常にうちむき加減で、常にどもり、常に自分の部屋にとじこもってマジックの練習をして」いる*6。『ボギー!』のアランと非常に似通った設定だ。さらにもう一つ、『ボギー!』との共通点をあげれば、それは「女」から抑圧されているということだ。『ボギー!』では元妻のナンシーがそれにあたり、『漂う電球』ではポールの母親イーニッドである(『ガラスの動物園』も、母親が子供を抑圧しているという設定だった)。
 ポールの家庭は非常に貧しく、両親は喧嘩ばかりしている。父親のマックスは仕事にあまり打ち込まず、ナンバー賭博にのめり込み、おまけに愛人まで作っている。そのため、イーニッドはかつてIQテストで好結果を残したポールに大きな期待をかけている。そして、ポールの手品の腕を活かすべく、彼女は芸能マネージャーのジェリーを家に招き、テストをしてもらおうとする。実は、イーニッド自身も元々芸能人志望だったのだが、それを諦めた過去を持っている。つまり、自分の叶わなかった夢を、息子に投影しているというわけだ。「自分の理想を押し付ける母親」といのも、『漂う電球』と『ガラス動物園』の共通点である。しかし、ポールはジェリーに会う前から完全に怯えてしまう。そんなポールを見て、イーニッドは叱りつける。

 

イーニッド いい、ポール、あなたが一番得意のマジックを四つか五つ選んで、名前は「グレート・ポール・ポーラック」にすれば、もうそれが演し物ってわけよ。
ポール いや、だ、駄目だ……で、できないよ。
イーニッド できないって、どういうこと?
ポール ぼ、ぼ、ぼ、僕は準備ができて……
イーニッド 準備は、ばっちりできてるわ。
ポール いや。
イーニッド できる。もう、いつも言いわけばかりでうんざりだわ。チャンスが巡ってきて、それを断るほどの理由なんて、うちにはないのよ。
(中略)
イーニッド マジシャンになるって話はいったい、何だったのよ?
ポール 先の話だ! いつか! じゅ、準備ができたらだ!

 

 母と息子の会話はどこまでいってもかみ合わない。イーニッドはポールを置き去りにしてどこまでも突っ走り、ポールはポールで煮え切らない。『ボギー!』では、ボガートのアドバイスがある程度アランに成功をもたらしたが、ここではそういうことは一切起こらない。ジェニーがポーラック家を訪れた日、ポールは彼の前で手品を披露しようとするが、極度の緊張のため普段のように上手くいかない。そして、結局は大失敗する。自棄になったポールは母親の静止を振り切り、「ぼ、僕をほっといて! じ、地獄に落ちろ!」という激しい捨て台詞を吐いて、自室に閉じこもってしまう。この失敗を描くために、アレンはこの戯曲を書いたような感じすら受ける。そして、その裏には母親に対する恨みが垣間見える。「あんたの言う通りやったけれど、やっぱり失敗したじゃないか」という態度だ。
 戯曲の鍵となる部分を「変身願望」と「マゾヒズム」理論で一度整理しよう。さて、ポールはマジシャンに「変身」したい欲望を持っている。しかし、彼の低すぎる自己評価はそれを許さない。一方、母親であるイーニッドは彼を既に(デビュー前の)マジシャンという風に捉えている。ポールからすればそれは許しがたい思い込みだ。だから、彼は「失敗」することで母親に対抗する。目の前で母親が恥をかく姿を見て、内心嬉しく思う。アレンは、「マゾヒスト」の攻撃性について、ここで描いているのだ。ただ、この戯曲が自伝的な要素を含んでいることから鑑みると、いくぶん露悪的ではあるが。ファローはアレンについて、「ウディの心の奥深くには、人生におけるよいもの、明るいものすべてを破壊しようとする何か」

 

4 アレンとユダヤ

 

『漂う電球』が自伝的といわれるのは、家庭環境がアレンのそれと似通っているからだ。アレンは子供時代をブルックリンの貧しい地域で過ごしたが、戯曲もまたブルックリンの貧困地帯を舞台に設定している。アレンの父親も、『漂う電球』のマックスと同じように、定職につけず苦労した経験を持っている。イーニッドの性格は、アレンの母ネッティを誇張したような感じ。そして、ポールが手品にのめり込んでいるというのも、アレン本人のエピソードとぴったり重なっている。ポールの性格も、当然アレンのそれを、反映させたものだ。
 また、ポーラックという苗字はポーランドユダヤ人の子孫であることを想起させるが、アレンの祖父らも、東欧やロシアからの移民で、迫害から逃れてきた人々だ。ちなみに、東欧から移民してきたユダヤ人たちが主に使用していた言語は、イディッシュ語ヘブライ語にドイツ語、フランス語などを取り入れてできた言語)で、いわゆるユダヤジョーク的なものはこの言語に多くを負っているが、アレンもまた創作にその要素を活用している。
 自伝的ということに話を戻すと、『漂う電球』で問題となるのは両親の扱い方だろう。とりわけ、母親に対しては手厳しい。実際、アレンと母親の間には確執があったと言われている。アレンの音楽活動に焦点をあてたドキュメンタリー映画『ワイルドマン・ブルース』で、彼は両親と不仲であったことを隠そうとせず、それどころか、彼らを非難さえしている。長年のパートナーであったミア・ファローも、「ウディの自分の両親にたいする態度は信じられないほどひどいものだった」と自伝の中で証言している*7。アレン本人は、「子供の頃、毎日おふくろに殴られたんだ」と言う。ファローの自伝の中で、アレンの母は次のように述べている。

 

あの子はきかん坊だったのよ。そこらじゅうを駆けまわって、いつも服をどこかに脱いできてしまう。じっとしてたことなんか一秒もなかったわ。どうやって扱ったらいいのか見当もつかなかった。あんまりワンパクなんだもの、きちんとしつけなきゃと思ったの。でもあんなに厳しくしていなかったら、今頃もう少し違った人間になっていたかもしれない。もっと優しくて温かい人間に*8

 

 こうした二人の関係は『漂う電球』だけでなく、三話構成のオムニバス映画『ニューヨーク・ストーリーズ』の中の一編、「オイディプス・レックス」においても表現されている。主人公は中年の弁護士だが(映画ではアレン本人が演じている)、今でも抑圧的な母親に苦しめられている。そして、ある手品師のショーに母親が参加したところ、彼女は行方不明になる。母親を探す主人公だが、彼女が消えたことで楽になっている自分に気付く。しかし、消えたはずの母親が、突然空に現れ、再び彼を苦しめ始める。タイトルからも示唆されている通り、これは極めてフロイト的な話だ。「精神分析」はアレンの作品の主要なモチーフであり、『アニー・ホール』や『私の中のもうひとりの私』にも使われている。
 口うるさく、抑圧的なユダヤ人の母親、というのは、「ジューイッシュ・マザー」と呼ばれるぐらい、ステレオタイプなイメージである。一九六九年に発表されたフィリップ・ロスのベストセラー小説『ポートノイの不満』(以下『ポートノイ』)は、このイメージを使って創作されている。『ポートノイ』は次のような出だしで始まる。

 

母という女性は、ぼくの意識の中にとても深く根をおろしていた。それで学校へあがった最初の一年間というもの、学校の先生はどの先生も、ぼくの母が変装しているのだと思いこんでしまったらしい*9

 

 この小説の主人公ポートノイも、母親という存在に苦悩し、彼女の呪縛から逃れられず、延々と悩み続ける。彼は精神科医に向かって、「両親健在のユダヤ人の男は、半分は何もできない赤ン坊なんです。ぼくを助けてください──いますぐに!」と訴えるが、どうにもならない。彼は「ユダヤ性」から逃走しようと、非ユダヤ教徒の女と付き合ってみるが上手くいかず、最後には救いを求めるかのようにイスラエルへと旅立つが、発狂してしまう。彼の行動は全て裏目に出るが、これはいわば、精神的な自傷だ。「ユダヤ性」からの逃走は、「変身願望」を意味し、「発狂」は「マゾヒズム」の最終形態である。そのため、小説は、犠牲者による告発の書、というイメージを帯びてくる。ちなみに、アレンは「ボヴァリー夫人の恋人」(『ぼくの副作用』所収)という、『ポートノイ』をパロディにした短編小説を書いたことがある。アレンもロスもユダヤ系移民三世で、「アメリカ人」にも「ユダヤ人」にもなれない自分を描いているという点で一致している。
 ディアスポラによりイスラエル建設以前には祖国を持つことができなかったユダヤ人たちは、異国の地で生き延びるために「郷に入っては郷に従え」式の生活を営んできた。彼らにとって、「耐え忍ぶ」ということは美徳であり、ある種の強迫観念ともなった。一九六〇年に公開された映画『栄光への脱出』は、そうした「耐え忍ぶ」型のユダヤ人像を破壊し、ユダヤ人を英雄として描いたことから、話題になった。原作者のレオン・ユリスは、ロスのことを仄めかすような形で批判したことがあり、ロスもそれに対し「ユダヤ人の新しいステレオタイプ」(『素晴らしいアメリカ作家』に所収)というエッセイで反論している。
 アレンの創作に出てくるユダヤ人に英雄は一人もいない。ある環境に対し、不適合を示すような人間ばかりである。彼らは、社会に馴染もうと努力するのだが、その試みはいつも破綻する。一九八三年に公開された映画『カメレオンマン』で、アレンはモキュメンタリーという形式を使い、「何にでもなれるが、何者でもない」という男を描いた。主人公のゼリグは、傍に黒人がいれば黒人、白人がいれば白人に、東洋人がいれば東洋人に変身する。こうしたユダヤ人と変身というテーマは、それなりに伝統がある。例えば、小説ではカフカの『変身』があり、映画ではトーキーの先駆けとなった『ジャズ・シンガー』がある。『ジャズ・シンガー』ではユダヤ系の青年が、黒人に扮装して歌うのだが、このような「民族的アイデンティティのかく乱」は、ユダヤ系アーティストがよく扱うジャンルとなった。ルー・リードが一九七八年に発表したアルバム『ストリート・ハッスル』には、「アイ・ワナ・ビー・ブラック」(黒人になりたい)という曲が収録されている。黒人とユダヤ人は、アメリカにおいて共にマイノリティであり、特に音楽業界において、彼らの文化は融合・発展している。ただ、アレンの作品には、ブラック・カルチャーの影響はほとんど見られない。

 

5 ウディ・アレンという男

 

 映画や戯曲に出てくるアレンの分身は、果たしてアレンそのものなのだろうか? アレンの作品は自伝的と指摘されることがあるものの、どこか防衛的なところがある。恐らく、随所に差し込まれるユーモアや、露悪的な台詞などが、そうした感想を抱かせるのだろう。アレンの作品は全てが数珠つなぎになっており、それだけを鑑賞していては内部に入り込むことができない。現在に至るまで、ウディ・アレンウディ・アレンを演じ続けている。最後に、ミア・ファローが、俳優としてのウディ・アレンと、現実のウディ・アレンについて述べた部分を並べてみよう。

 

俳優としてウディが、映画の中の自分のキャラクターを創りあげたのはかなり早い時期からだったらしい。偉大な哲学的命題から倫理的諸問題など、ああだこうだと案じながら、絶え間なくぶつくさこぼしている中年男。ときには知ったかぶりをしながらも、口を開けばキルケゴールだのカントだのの引用がポンポン出てくる。情にもろい正直者で、なんとも憎めない意気地なし。洞察力は鋭いけれど、相手を怖じ気づかせるようなところはまったくない、愛すべきインテリ*10

 

精神分析心理療法は、ウディ・アレンの生活において、むしろ他の人々から彼を心理的に隔離し、いわば異なる現実、彼だけの現実に置いてしまったように思える。それは、ウディ自身が生身の人間として見聞きし感じる現実ではなく、セラピストに意見を求め、太鼓判を押されてはじめて存在しうる現実なのだ。ウディは、彼自身が創生主であり支配者である世界に浮遊して暮らしていた。セラピストという存在は、社会的文脈からまったく隔離された彼だけのその世界の正当性を保証する手段だった。他の人々は彼にとって、彼の世界の周辺を彩る添えものにすぎない。他人の価値は、彼らがウディにとってどれだけ役に立つかでのみ決まる。ゆえに彼は、他人の身になって感じることも出来ないし、誰にたいしても何にたいしても道徳的責任を感じることもない*11

 

 我々はウディ・アレンの作品から何を読み取るべきなのか。ファローの文章はヒントを与えてくれている。アレンの映画や戯曲について、見直すべき時が来ているはずだ。

 

ウディ・アレン映画の中の人生

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ボギー!俺も男だ

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ウディ・アレンの漂う電球

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ミア・ファロー自伝―去りゆくものたち

ミア・ファロー自伝―去りゆくものたち

 

 

*1:小谷野敦久米正雄伝』一六二頁(中央公論新社 二〇一一)

*2:リチャード・シッケル(都築はじめ訳)『ウディ・アレン 映画の中の人生』一九六頁(原書二〇〇四 エスクァイア マガジン ジャパン 二〇〇七)

*3:同上、一一二頁

*4:文中の引用は、ウディ・アレン(岸田理生訳)『ボギー! 俺も男だ』(新書館 一九八二)より

*5:引用はe+ Theatrix!のホームページ(http://etheatrix01.eplus2.jp/article/42561896.html)より

*6:文中の引用は、ウディ・アレン(鈴木小百合訳)『ウディ・アレンの漂う電球』(白水社 二〇〇六)より

*7:ミア・ファロー(渡辺葉訳)『ミア・ファロー自伝 去りゆくものたち』二五三頁(集英社 一九九八)

*8:同上、二七〇頁

*9:フィリップ・ロス(宮本陽吉訳)『ポートノイの不満』七頁(集英社文庫 一九七八年)

*10:(7)二四九頁

*11:(7)三一九頁