ジャンキーの大部分は、隠れロマンティストだ、とアーヴィン・ウェルシュは書いた
アーヴィン・ウェルシュの小説『トレインスポッティング』には、マッティという名のエイズに感染したジャンキーが出てきて、彼は小説の終盤、トキソプラズマ症が原因の脳卒中で死ぬ。二十五歳という若さだ。マッティは下手なギタリストで、恋人のために恋の詩を書くこともあった。恋人との間には娘が出来、結婚したが、ヘロインを止めることはできなかった。マッティの葬儀の場面で、ウェルシュはこう書いている。
昔からマッティには弱いところがあった。果たすべき責任と向き合うことができず、自制心を働かせることもできなかった。シャーリー(注:マッティの妻)の知っているジャンキーの大部分は、隠れロマンティストだった。マッティもだ。シャーリーは、屈託なく、優しく、愛情深く、生き生きとしているときのマッティのなかの夢想家を愛していた。だが、マッティの愛すべき状態はいつも長くは続かなかった。ヘロインを打ち始める前から、マッティが急に冷酷で無情な人間に変貌することはあった。以前はよくシャーリーのために愛の詩を書いてくれた。美しい詩だった。文学的な意味でではなく、その詩に読み取れる純粋な愛情を美しいと思った。いつだったかマッティは、とびきり感動的な詩を読み聞かせたあと、すぐに火をつけて燃やしてしまった。シャーリーは泣きながら、なぜ燃やすのと訊いた。炎が何かを強く象徴しているように思えた。そのときのマッティの答えは、シャーリーの人生にもっとも悲しい記憶として刻み込まれた。*1
『トレインスポッティング』の中で、最も印象に残っている文章が上の引用だ。特に「ジャンキーの大部分は、隠れロマンティストだ」というところ。これは普段から僕も薄っすらそう思っていたので、薬物経験のあるウェルシュがこう書いてくれたことで確信を持つことができた(僕は薬物もアルコールもやらないので)。
そうなのだ。ジャンキーというのは隠れロマンティストなのだ(ここでいうジャンキーの中には、アルコール依存も入る)。彼らは世俗的な物の考え方に嫌悪感を持っていて、そういった現実から逃避するためにアルコールや薬物を摂取する。そして、自分と似たような境遇にいる人間に強い親近感を持つ。それは芸術の好みにも反映されていて、彼らのお気に入りは、中島らも、ブローティガン、ケルアック、フィッツジェラルド、ブコウスキーといった、アル中作家たちだ。これらの作家も、世俗的な物に対し、強烈な嫌悪感を持っていたが、晩年は酒に飲まれ、早死にした。
ジャンキーは、孤独を愛しているが、同時に人との繋がりにも飢えている。共通点を持った友人を作りたいが、素面では恥ずかしいので、薬物やアルコールに頼る。そして、アルコールや薬物を媒介としたコミュニケーションが生まれる。ビート・ジェネレーション、ウッドストック、セカンド・サマー・オブ・ラブといったムーブメントはそうやって出来上がった。どうも隠れロマンティストの多くは、小さな集団を形成するのが好きらしい。そういえば、中島らもは、自宅をジャンキーたちの溜まり場にしていて、その家は、ヘル・ハウスと呼ばれた。
隠れロマンティストは繋がるのが好きだが、一般的な上下関係は嫌っている。親と子、上司と部下、先輩と後輩。だから、ヒッピーたちは、「ラブ&ピース」を唱えた。これは全員が平等に愛し・愛されるということを目指したものだった。それは、アルコールや薬物が入っている間だけ、達成された。いや、実際は、そう上手くもいかないのだろう。ウエルベックはタブー無きセックス・コミューンの中でも孤立してしまうモテない男女を描いたし、ウェルシュもジャンキーたちの薄情さについて『トレインスポッティング』の中で詳細に書いている。共有するものが無ければ、集団は簡単に崩壊する。
結局、隠れロマンティストはエゴイストでしかないのだろう。自分のことしか考えていないし、他人と繋がろうとするのも、自分の孤独を癒すためなのだ。確か、フィッツジェラルドの『楽園のこちら側』の第一部は、「ロマンティックなエゴイスト」というタイトルがつけられていた。フィッツジェラルドには、自覚があったのだろう。ロマンティストは言動は派手でも、自分の内面に対して、ネガティブな評価を下していることが往々にしてある。それがまた飲酒・薬物という現実逃避へと繋がっていく。そもそも彼らは長生きしようとも思っていないのだろう。中島らもなんかは、飲酒を緩慢な自殺ととらえていた。彼の死は事故によるものだが、限りなく自殺に近い事故だ、と考えている人もいる。僕は作家の伝記をよく読むが、アル中の作家は四十代に入る頃になって、がくんと衰えていることが多い。そうなると、ひたすら悪循環だ。書くことすらままならなくなり、気を紛らわせるために、酒を飲む。そして、身体を壊し、死に至る。
人はいつまでもロマンティストでい続けることはできないのだろう。ウェルシュの小説も、最後は薬を絶ったレントンが現実へと向かっていくところで終わっていた。『華麗なるギャツビー』の、ギャツビーは殺され、フィッツジェラルド自身は、アルコールに溺れた。現実と向き合うか、燃え尽きるか、緩やかに身を滅ぼしていくか。ロマンティストの取る行動はこの三つかしかない。炎の中で消滅していく詩を美しく感じている限り、ロマンティストを卒業することはできないだろう。
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セックス・コミューンを現実で実践した人たちを描いたノンフィクション。個人の好き嫌いに任せるとあぶれる男女ができるので(ウエルベックの『素粒子』にあるように)、オナイダ・コミュニティではセックスを管理していた。
*1:アーヴィン・ウェルシュ『トレインスポッティング』(池田真紀子訳、ハヤカワ文庫、二〇一五年)四四九頁