ダメ人間が集まるサークルにも入れないダメ人間

 ザ・ノンフィクション「会社と家族にサヨナラ・・・ニートの先の幸せ」を見た。

 僕のツイッターのタイムラインでは、「あそこに出ている人たちは世間が想像するようなニートではなく、一般的な社会性はないが、何らかの異能を持った人たちの集まりだ」というような意見が多かった。僕もそう思う。

 テレビで放映されたことで、これからギークハウスに入ろうと考える人が増えるかもしれない。ギークハウスに入ろうと考えるということは、既に社会からはみ出しているということだが、「ギークハウスに入れば人生が変わるかもしれない」と願って入居すると、多分絶望することになるだろう。ギークハウスの主要な面子は、ギークハウスに入る前から何かしらの能力を持っていて、足りないところを互いに補っているだけだから、何も才能がない人があそこに入っても余計に惨めになるだけだ。あそこにいると、常に「自分には何ができるのか」ということを自問するはめになる。

 コミュニケーションの問題もある。放送ではワイワイ楽しくやっているところだけを映していたが、実際はもっと平凡な毎日の連続だと思う。「人生を変えよう」と思ってあそこに入ろうとする人は、非日常的な「物語」を強く求めているので、既に独自の日常生活を築いている住人たちと齟齬をきたすだろう。むき出しの「情念」は、間違いなく嫌われる。あそこのシェアハウスは、「情念」を排していることによって、成り立っているからだ。その温度がわからない人は、住人と簡単なコミュニケーションをとることすら難しい。

 僕も大学時代は、ダメ人間が集まるとされているサークルに属していた。確かに、部長は何度も留年してたし、部員は昼間から酒を飲んでだらだらしていた。だけど、僕はまったく馴染めなかった。自分の能力も低かったし、共通する話題も見出せなかった。そこで僕は、「自分はダメ人間が集まるサークルにも入れないダメ人間」と感じた。それ以来、サークル的な物には一度も属していない。ブログもツイッターもそこそこ長くやっているが、「集まり」みたいな物に顔を出したことはほとんどないし、参加したとしても誰とも顔を合わせずにさっさと帰っている。自分が「ダメ人間が集まるサークルにも入れないダメ人間」があるから。何をしゃべってよいのかもわからないし、どう振舞えばよいのかもわからない。あと、誰かと社交することで、「人生を変えたい」という一発逆転的願望が芽生えて、それに蝕まれるのが怖いということもある。

 橋本治が『宗教なんてこわくない!』の中でこんなことを書いていた。

 

自分の頭でものを考えると、当然のことながら、”孤独”というものがやって来る。そうなると、日本人の多くはすぐに心細くなって、「この心細い自分をなんとかしてもらいたい」ということになって、”救済”の方へ行ってしまう。

 

 救済を求めて人間関係を作り上げると、だいたい碌なことにならない。宗教は「教祖」という揺るぎない存在がいるからなりたっているが、それ以外の緩い文化的な集まりであればすぐに瓦解する。

 ギークハウスのような「才能ある弱者の集まり」というと、僕はビート・ジェネレーションを想起する。彼らは、互いに影響を与え合うだけでなく、生活レベルでも助け合うことがあったし、原稿の持ち込みさえ代行することもあった。まあ、結局はバラバラになるのだが、その中で最も「孤独」に耐えたのがウィリアム・バロウズだったと思う。ケルアックが酒浸りになって死に、ギンズバーグが教祖みたいになっていく中で、彼だけはぶれずに独立心を保っているように見えた。だから、最後までカリスマでいられたのだろう。孤独に耐える力を持っていないと、いざという時に破綻する。僕は現状「孤独」だが、それは能力がないから孤独になっているだけである。このサークルにも入れなければ、一匹狼にもなることのできない中途半端さが、すべてをダメにしているのかもしれない。

 

宗教なんかこわくない! (ちくま文庫)

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ケルアック

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由煕 ナビ・タリョン (講談社文芸文庫)

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 「由煕」は、在日韓国人の主人公(女)が、韓国に留学して挫折する話。「理想」と「現実」の狭間を徹底的に描いている。ギークハウスに共感した人は、これも読んでほしい。