童貞と男の娘①

まったく奇妙な夜だった。一日かそこらすれば、疼き出すのではないか。さまざまな心配。急いで馳けつけるアメリカン・ホスピタル。黒い葉巻をくわえたエールリッヒ博士の幻が、幾重にもダブって見えてくる。異常はないのだろうか。取り越し苦労なのだろうか。

 

         ヘンリー・ミラー「マドモアゼル・クロード」吉行淳之介

 

 

 八月十一日から十五日まで、会社がお盆休みに入るということで、高校時代の友人のいる大阪へ、一泊二日の旅行をすることに決めた。友人との久しぶりの再会以外に、マッチング・アプリ、ペアーズで使う写真を撮ってもらうのも大坂へ行く理由の一つだった。普段、写真を撮ることも撮られることも皆無なので、掲載できるまともな写真が一枚もなかったからだ。

 最初は12日の土曜日に日帰りで行こうと計画していたのだが、10日ぐらい前に新幹線の空き状況を確認したら、既に朝から夕方にかけてグリーン車まで埋まっていたので、金曜昼大坂着の切符を取り、土曜の最終電車で帰ることにした。

 土曜は友人らと遊ぶことにして、金曜は自分一人で行動しようと考えた。ネットで観光名所を色々調べてみたが、元々旅行や食に興味のない無味乾燥な散文的人間なので、どこにも食指が伸びない。しかし、二三週間前にTwitter川端康成文学館が難しいクロスワードパズルを作ったというツイートを見かけたのを思い出し、まずはそこに行くことに決め、ついでに古本屋にも寄ることにした。

 さて夜はどうしようかとマリアナ海溝ばりに深く思案していたところ、「旅の恥は搔き捨て」ということわざを思い出し、そこから「風俗に行ってみるか」という考えが天啓のごとく降ってきた。そもそも俺は風俗に対しかなりの忌避感があって、大学に入り恋愛を夢見るようになって以降、初めての相手が風俗というのはちょっとな、とか、そんなとこ行ってたら女に嫌がられるだろう、とか、はまったらやばいな、とか行かない理由を色々作っているうちに、肝心の恋愛がまったくできないまま「28歳童貞」という腐乱死体と化してしまったので、さすがにもう解禁だ、俺は悪くない社会が悪い、という半ばやけくそな気持ちで風俗関係のサイトを熱心に渉猟した。

 しかし、どうせ行くにしても普通の風俗じゃありきたりでつまらないというか、新たな刺激を求めて、去年ぐらいから気になっていた、「男の娘」のいる風俗に挑戦することにした(女との初めてのセックスは、風俗嬢ではなくまだ見ぬ恋人にとっておきたいというのもあった)。元々、「男」のような雰囲気が微妙に漂う「女」、というのが好きで、偶然、ネットで「男の娘」のAVを見かけた時に、そこに出ている女優(男優?)が、俺の理想とする容姿に近く、それ以来そっち方面も時折オナニーの対象にしていたのだ。ただし、「男の娘」といっても、「女よりも女らしい」というタイプと、「男の要素がほのかに残っている」というタイプの二種類に分類できるのだが、俺の好みは後者に限られていた。

 一時間以上にわたる熟慮の結果、梅田にあるニューハーフ・女装専門店エメラルドに在籍する、花月という二十歳の「男の娘」を指名した。サイトに掲載されている写真を見てピンときたのだが、大幅に修正されているのではないかという疑念があったのと、指名料のランクが三段階で一番低いランクに設定されていたことから、一応指名前に5chとバクサイで彼女の情報を収取してみたところ、タレントのIVANに似ているという書き込みがあって、グーグルでその人を検索してみると、全然いけるじゃないか、と思いすぐにメールで予約を入れた。夜八時からの一時間コースだ。

 メールでは、あらかじめプレイの内容を指定できた。病気が怖かったので、挿入するのもされるのも初めから想定せず、「キスを多めに」、「フェラでいきたい」、「会話よりプレイ中心」というのを選んだ(選択肢は30個ぐらいあって、そこから最大5個まで選べる仕組みだった)。俺はAVを見ていても、挿入よりキスに興奮する性質だったので、性行為ができるならキスをたっぷりしたいなあ、と常日頃思っていたのだ。

 予約が決まってから、友人から「金曜の夜飲まない?」というラインが入った。俺は風俗で金曜の予定を終えるつもりでいたので、困ったな、と思ったが、断るのもあれだったので、「用事があるから、九時以降でいいなら」と返した。すると、「それでいい」とのことだったので、風俗の後、飲むことが決まった。

 

 旅行当日、興奮でそれどころじゃなくなるのではないかと懸念していたが、意外と冷静だった。昼の1時半ぐらいに新大阪に着き、そこからJR京都線で茨木に向かう。今はスマホで地図アプリと乗り換えアプリが常時確認できるから、土地勘がなく旅行慣れしていなくても、だいたいどうにかなる。茨木駅に着いてから、スマホの地図を見ながら歩いたのだが、案外遠かった。確かに公式サイトには駅から徒歩20分と書いてあって、歩くのが早い俺ならもっと短い時間で行けるだろうと軽く見越していたのだが、やっぱり初めての土地だとそうもいかず、しかも滅茶苦茶暑いから体力をわりと消耗した。ただ、「川端通り」という標識を見つけた時は、テンションが上がった。

 川端康成文学館は想像よりはるかに小さく、隣接する市立青少年センターの建物の一部という感じで、10分もかければ全ての展示を回れる規模だった。かつて「文壇の総理大臣」と呼ばれ、ノーベル賞までとった人間を記念する施設としては寂しい気がしたが、まあ、そんなものなのだろう。

 とりあえず、入口付近に置いてあった例のクロスワードパズルをとり、問題を確認すると、確かに難しい。が、展示を観ればある程度答えがそこに書いてあるし、全てのマスを埋めなくても、指定された部分をいくつか埋めることができれば、最後の答えを予想することは可能なので、実際解けたのは4分の3ぐらいだったが、指定された7文字のうち4文字を埋めた時点で解答できた。それで、パズルを学芸員に渡すと、「これ結構難しいのによくできましたね」と言われ、報酬のクリアファイルを貰った。クリアファイルはいくつか種類があったが、俺は、西澤静男による『雪国』の駒子を描いた銅版画がプリントされたものを選んだ。展示物で最も印象に残ったのは、中学時代の川端が「おれは今でもノベル賞を思はぬでもない」と書いた野心的な日記とノーベル賞のメダルだった。

 川端康成文学館を出た後は、飛田新地を観察しに行った。もちろん、夜にそっちの予定が入っているので、上がる気はないのだが、一度見ておきたかったのだ。新大阪周辺では、吉本芸人が喋るようなこてこての関西弁というのはまったく耳に入ってこなかったのだが、ここで初めて「今、西成の〇〇にいる、ゆうとんじゃろが、われ!」という強烈な恫喝的関西弁が鼓膜に刺さった。見ると小汚いおばさんが携帯で怒鳴っていたのだが、ものすごく声が高くて、山田花子みたいだった。それでも、関西弁だと異様な迫力が出るものだ。

 駅と新地の間にある商店街は、異常にカラオケ付きの飲み屋が多く、ところどころ小便臭かった。そこにある全てが、生まれた時から既に、時代から取り残されているような雰囲気だった。いや、時代にそぐわないものをそこに押しやったというか。恐らく、これから先もただ人間だけが入れ替わっていき、街は何も変わることなく、永遠に時代から取り残され続けていくのだろう。

 新地に一歩足を踏み入れると、店の前を通るたびに、「兄ちゃん、ちょっと女の子見てってやぁ」とやり手ババァたちから盛んに粘っこい勧誘を受け、単なる冷やかしであることがだんだん心苦しくなり、「私はただの通行人です」という体を装いつつ、横に視線を向けないようにして、すぐにその場を離れた。意外だったのは、やり手ババァらが、水商売関係者に見えない、スーパーでレジ打ちでもしてそうな、普通のおばさんばかりだったということだ。飛田で長く遊郭を経営するためには、まず質の高いやり手ババァを確保しなければならない、ということを前に元遊郭経営者の本で読んだことがあった。だから、今声を張り上げて客を呼んでいるおばさんらは、見た目によらず、人間の動かし方をよく心得ているのだろう。

 夕方だからか客は全然いなかったが、一軒、水着を着た女の子が座っている店で男が直接交渉していた。普通は隠されているものがこうやって日常として成立しているのは奇妙だった。キム・ギドクの映画で観た韓国の風俗街も、風俗嬢が店頭で顔出しするスタイルだったな、ということを急に思い出したりもした。

 

童貞と男の娘②