ラブホテルのスーパーヒロイン⑥

 結局、風呂についてはよくわからないまま当日を迎えた。家族には、「映画を見てくる」と告げ、家を出た。今日は、朝から性的熱狂で脳が沸騰していた。なぜなら、この日のために月曜日からオナ禁していたからだ(日曜日には最後の晩餐とばかりに、いつもより時間をかけオナニーした)。特に前日の木曜日なんか、オナニーの禁断症状が一段と激しく出て、何度もペニスに手が伸びかけたが、「ここで抜いたらお前は何のために禁欲してたのか」と強く自分に言い聞かせることで、何とか危機を脱した。本当にこの時ばかりは、抜かないと発狂すると思ったぐらいで、視界に入るもの全てが性欲をじゅくじゅくと刺激してきて困った。中学三年の時に、二週間野尻湖でのキャンプに参加し、その間強制的にオナ禁状態になったことがあったが、その時も溢れかえった性欲によって世界がかなり変わって見えた。その時以来の経験だった。会社でも火曜日からずっと風俗のことしか頭になかったので、机の下で勃起して参った。一番恐れていたのは夢精で、小便してる最中も精子が一緒に出るんじゃないかとびくびくしていたが、何とか無事当日を迎えられた。とにかく、自分がオナニー・ジャンキーであることがよくわかった四日間だった。
 ちょっと早めに家を出たので、ヒロインの檻の最寄りであるC駅に着いたのは、十六時前だった。港区の学校に通っていたから、品川区にあるC駅もたまに寄ることがあった。特に駅前にあるカラオケ屋は、毎年文化祭の時期になると、学校を抜け出したうちの生徒で貸し切りになるぐらいだった。俺は友人と駅近くのブックオフに寄ったりしていたが、オフィス街という印象が強く、風俗街としての側面も持っていることを知ったのは大学に入ってからだ。
 店に確認の電話を入れる前に、風俗街としてのCを知ろうと辺りを亡霊のようにうろついてみた。確かに、案内所やラブホテルが立ち並んでいる。高校の時は東側しか行ったことがなかったので、西に林立するラブホテルの存在には気づかなかったのだ。
 金曜日といっても、昼と夕方の間ぐらいだから、まだ街に活気はなかった。当然、路地裏にあるホテルや案内所にも人気はなく、ビルの取り壊し現場だけに人がいて、作業員がだらだらと仕事していた。人のいないホテル街は、なんとも寒々しく、性の残骸といった風だった。まるで使い終わった後のコンドームのようだ。俺は適当にそこらを歩きながら、「バットウーマン、ついに見つけたぞ。逮捕する」という自分のセリフを脳内で何十回も繰り返した。セックスへの強い期待とセリフをきちんと言えるかという巨大な不安がぶつかりあっていた。
 十六時になって店に電話すると、「予約時間の十分前にまた電話していただけますか」と告げられた。確認の多い風俗店だ。この時は、男ではなく女が出た。俺は時間を潰すため、駅前の喫茶店に入った。他に休める場所がないからか、ここには結構人がいて、席もほとんど埋まっていた。俺が座った席の隣では、大学生らしき二人が、よくわからない爺さんにインタビューをしていた。就職に関することらしく、インターンとかチンポが萎えるような言葉が耳に入りうんざりした。
 俺は持っていた田山花袋の『田舎教師』を開いた。ちょうど、童貞の主人公が一人で遊郭に行く場面。彼が、店の前で臆病風に吹かれるところや、あがった店で「自分の初心なことを女に見破られまいとして、心にもない洒落を言ったり、こうした処には通人だという風を見せたりしたが、二階廻しの中年の女には、初心な人ということがすぐ知られた」という個所に共感した。
 時間になって店を出、ラブホ街から電話をかける。今度は、ホテルに入ったら電話をかけてほしいとのことだった。探偵映画ばりに電話で指示ばかりされている。
「ホテルは既にお決まりですか? お決まりでないようでしたら、こちらから勧めているホテルがあるのですが」
 目星をつけているところはあったが、一応「このあたりは初めてなんで」と聞いてみると、
「ホテル・メープルというのが、駅から近くて、値段も安いので、いつもお客様にお勧めしております」という。
 俺が狙っていたところとまったく同じだったので、そのままメープルへ。自動ドアを抜けると、でかい液晶パネルがあり、それで好きな部屋を選ぶというシステム。一番安い部屋は既に埋まっていたので、二番目に安い四〇二号室をチョイス。
 部屋は真っ暗だった。ショッピングモールで迷子になった子供の如く右往左往すること二分、ようやくスイッチを発見。荷物を下ろし、上着を脱ぐ。玄関から入ってすぐ右が風呂・トイレ、左がベッドという間取り。人生初ラボホなので、目に入る物全てが新鮮。これが、うわさのラジオか、と枕元にあるスイッチをいじる。よくわからないR&Bが流れる。一人で聴いても情緒がないのですぐに切る。小便をしてから、ヒロインの檻へ電話。
「今、ホテルにつきました。メープルの四〇二号室です」
「承知しました。では、ヒロインが到着したら打ち合わせはしますか?」
 本当なら念入りに打ち合わせした方が良いのだろうが、思わず人見知りを発揮してしまい、
「あ、いや、大丈夫です」と答えてしまった。
「では、ヒロインが到着するまでに、先にお風呂に入っていただいてもよろしいでしょうか」
 あ、この段階で風呂に入るのねとようやく答えが出た。
「はい」
「お風呂から出た後は、裸になって、上にバスローブだけ羽織って待っていてください。ヒロインが到着したらアタッシュケースを渡すので、中身を確認してください」
「はい」
「あと、ヒロインが入室した時点で、プレイは始まっていますので、そのつもりでお願いします。それから、お金は到着した時に払う形となっていますのでその準備もお願いします」
 電話が終わると、すぐに風呂へ。俺はタオルを使って入念に身体を清め、バスローブに着替えた。バスローブの下はいつでもミサイルが発射できるほど、完全に臨戦態勢が整っている。それから待つこと五分。
 コンコン。
 ドアをノックする音。俺は気色の悪い笑みを強引に噛み潰し、冷静にドアを開ける。
 ドアの前には緑のコートを着た小柄な女が立っていた。
 ん? あれ? なんか思っていた人と違うな…… 俺としてはもっと女王っぽい感じの人を選んだつもりだったのだが…… しかし、今俺の目の前に立っている女は、主婦的な生活感に溢れていて、年齢も二十七ではなく三十五ぐらいに見える…… 確かに、プロフィール写真では顔を隠していたが、雰囲気はもっとクールだったはずだ…… それが、どこか疲れた空気すら漂わせている…… しかし、今ここにいるんだから、確かに本人なはずだ……
「中に入るわね」
「あ、どうぞ」と俺は動揺を隠しつつ返事した。
 ヒカリは手に持っていたアタッシュケースと大きな手提げをソファーの近くにあったガラスのテーブルの上に下ろし、コートをハンガーにかけた。
 いや、確かに期待とは違ったが、そんなに悪くはないなと思い直す。それに衣装を着ればまた違った風に見えるはず。レッド・ルーフのAVを鑑賞している時も、女優の顔というのはあまり気にしていなかったのだから。
「あなたが依頼人ね」
「ああ」
 俺は役になりきるため、いつもより渋い声を出し、ハンフリー・ボガートのような苦み走った顔を演出した。返答の仕方も「はい」ではなく、ハードボイルド調の「ああ」に変えた。
「依頼されていたものを渡すわね」
「ああ」
 俺は彼女からアタッシュケースを受け取った。
「それじゃあ、この封筒に報酬を入れてもらえる?」
 俺はリュックから財布を取り出し、事前にメールで指定されていた金額「三万千三百二十円」を入れた。彼女はそれを確認すると、
「じゃあ、私はボスに電話をするからちょっと待ってね」
「ああ」
 ヒカリはトイレの前に行き、電話をかけた。
「ボスただいま到着し、報酬を受け取りました」
 そして、電話が終わると、「準備をしてくるから、ここで待機していてちょうだい」
「ああ」
 さっきから、「ああ」しか言ってないな、俺は。一生分の「ああ」を使い切った気がする。
 彼女はベッドルームとバスルームの間にある扉を閉めた。そのうちにシャワーを使う音が聞こえてくる。
 俺はアタッシュケースを開き、いそいそと中身を確認した。中にはピンク色の電マ、延長コード、ローション、コンドーム、手錠、それからヒロインを倒すための光線銃が入っていた。デンマはコンセントに刺して使うタイプらしく、延長コードとデンマを組み合わせ、デンマの使用範囲を伸ばした。試しにスイッチを入れてみると、ヴンンンンンという無味乾燥な音を出して振動し始める。「なるほど」と心の中で呟き、電マはヘッドボードの上に置いて、今度は光線銃を手に取ってみた。リボルバー式で、照準器までついているけど、当然ながら飾りである。むしろ、そういう過度な装飾が安っぽさを醸し出している。引き金を引くと、ちゅるるぎゅうううんちゅるるぎゅうううん、という何を表現しているのかよくわからない音を出した。
 いつ彼女が風呂から出てくるのかわからないので、光線銃を持ったまま、ベッドの脇に立った。全裸にバスローブを羽織り、おもちゃの銃を持って、一人突っ立ている二十八歳。客観的に見れば、完全に狂人である。しかも、勃起までしている。早く出て来てくれないかなと願いつつ、汗の滲む手で光線銃を握りしめるも、中々登場する気配がない。何もすることがないので立っているしかないのだが、そうすると「俺はここで何をしてるんだろう」という疑問が鋭い矢のように降ってくるので、早くプレイに入りたかった。空調機の音だけが、静かに室内に響き渡っている。俺は光線銃をこめかみに当てて、ロシアンルーレットの真似をしてみた。ちゅるるぎゅうううんちゅるるぎゅうううん。

 

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