小説家で打線を組んでみた
「〇〇で打線を組んでみた」という、5ch(特になんj)でよく使われているネタがある。野球を知らない人には、細かく説明しても無駄だろうから、本質的なことだけをかいつまんで言うと、野球のルールとセオリーを異分野に適用し、その中でどれだけ突っ込まれない程度に独自の発想を織り交ぜることができるか、というセンスが試される遊びなのだ。
ニコニコ大百科(仮)の記事を見ると、この遊びの起源が、『中井正広のブラックバラエティ』というテレビ番組になっていて、5chで流行ったきっかけはそれなのかもしれないが、野球の歴史から考えて、同じようなことを考えた人間がそれ以前にもいたであろうことは容易に推測できる。そして、実際、文学の分野で同じことをしているケースを2件見つけたので、紹介しよう。
十返肇「文壇最強チーム」
別册文藝春秋1963年第84号では、「文壇オールスター戦」という企画を組み、石原慎太郎、司馬遼太郎、 源氏鷄太、松本清張、柴田錬三郎ら流行作家の小説を、各100枚ずつ掲載しているのだが、その企画の一環として、寄稿した作家たちを、野球のチームになぞらえ、打順を組んでいるのだ。タイトルは「文壇最強チーム」。解説は軽評論家として知られた十返肇。十返はこの年に死んだ。
また、解説だけでなく、作家本人に「BUNSHUN」というロゴの入ったユニフォームまで着せ、屋外でグラビアまで撮るという力の入れよう。しかし、このユニフォームだと、文藝春秋新社のチームに見えてしまうが、第84号に書いた作家だけがこのゲームの対象だから仕方ない。
変幻自在、身も軽く、ココと思エバ、マタアチラというのが石原ショートの身上である。守備範囲の広さは文壇チーム随一といえよう。今に大きいトンネルでもやりそうに見えて、案外抜からず、得意の左打ちには棒ダマを強引に外野へ叩き出すリキがあって、油断のならぬ一発屋である。ただしホームランかと思えば大飛球に終る場合も多い。学生チームからスカウトされて今年でプロ入りすでに八年目。いつの間にやらシンタローも、すっかり貫禄がついちゃったねえ。
いま流行の忍者型打法を最初に身につけたのが、この司馬選手である。一見動きが少いようにみえながら、データを調べてみると意外に出塁率が高く、三振の少いことでも注目される。強打はしないと見せかけておいてピッチャーの裏をかく上方作戦は、近ごろ東京のファンにも歓ばれているようだ。鈍足ながら常に全力疾走をする真面目さが、ネット裏での評判をよくしていて、このところ成長株として買われている。燃えよ、バット!
以前はサラリーマン兼作家という二本足打法だったが、作家ひとすじの一本足打法に切りかえてから打撃に円熟味が加わってきた。デビュー当時のような、場外ホームランは見られなくなったが、依然として長打力をもち、必ず二塁には進むから、そのアベレージは驚異的なものがある。ファンの層は中年サラリーマンからBGに及び、東京丸ノ内での人気は圧倒的であり、球団では次期監督候補の有力者とみなしているそうである。
川口則弘『直木賞物語』には、源氏の作風が大衆文芸の王道を行くがゆえに、 直木賞を二度も落選した、ということが書いてあって興味深かった。
誰です? 文壇チームにも黒人選手がいるのかなんて失礼なことをいうのは! これぞここ数年来、打点王の座にある不動の四番打者、いうなれば文壇チームの長島君(ママ)である。松本選手ひとたびバッター・ボックスに立つや球場は強烈な黒のムードにつつまれ、大観衆はわけもなく熱狂する。平野謙解説者によれば、「マツモトの出現で野球は変質した」とさえいわれる。推理リーグでは三冠王を獲得したが、文壇リーグでは果たしていかに?
「マツモトの出現で野球は変質した」というのは、平野謙が「朝日新聞」(1961年9月13日)に寄せた「「群像」十五周年によせて」という文章に端を発した、「純文学論争」を意識したものだが、「マツモトの出現で野球は変質した」に近い言葉は、平野の文芸時評や論争になった文章の中には見つけることができなかった(俺の探し方が甘いだけかもしれいないが)。
一体ヤル気があるんだか、ないんだか判らぬような顔をしながら、いつの間にやら円月殺法で打率をかせぐ居眠り型選手である。得意はライト流し打ちで、盗塁もうまく、痩顔よく走り、実は、なかなか眠っても狂ってもいないのである。ながらく二軍できたえられただけあって、ド根性は逞しく、プロ意識に徹している。「いや、もう限界です。アキマヘン」などといって、時々報道関係者をだますクセがあるから用心をしなければならない。
大村彦次郎の『文壇栄華物語』には、「戦争末期、二度目の応召で南方ハルマヘラ島へ赴く途中、バシー海峡で敵潜水艦の魚雷に遭い、乗っていた輸送船が沈没、乗組員の九割以上が行方不明になるという悲劇に見舞われた。七時間余漂流したあと、柴田は奇跡的に駆逐艦に救助され、危篤のまま広島の宇品港へ送還された。このときの生死体験はその後の柴田の生き方に大きな影響与えた。柴田にはどこか虚無的で、シニカルな表情がこの頃から目立った」と書かれている。
終戦直後はセミ・プロ私小説球団にいたが、その後しばらくバットを持つ機会から遠ざかっていたのが、三年前にスカウトされるや、第一打席でお寺の屋根へ場外ホーマーをかっ飛ばし、いきなりスター選手になった。吉田健一解説者に「このホームランで水上クンは国際級の世界選手の仲間入りをした」と激賞された。最近、「五番町夕霧楼」で逆転満塁ホーマーを放ち、その健在を証明した。小軀ながら闘志満々、大洋の森徹といったところか。
「終戦直後はセミ・プロ私小説球団にいた」というのは、1948年に文潮社(一時期、水上はここで嘱託として働いていた)から出た私小説『フライパンの歌』のことを指している。この小説、宇野浩二の序文があり、売れ行きも良く、映画化の話まであったのに、なぜか水上はそれから少しして文壇を離れ、1959年に『霧と影』で推理作家として再デビューするまで、長い下積み生活を送ることとなった。
つねに全力投球をつづけながら、ねばり強く、延長戦に入れば、かならず勝つという静かなファイトの持ち主。カーブはめったに投げず、直球で勝負する。もっとも時々ナックルも投げてみせたりもする。審判員諸氏によれば、「有馬投手の球は、ボールとストライクの判定がむずかしく、それがトクになっている時と損になっている時がある」ということだ。データー魔といわれるほどデーターを詳細に調べて、つねに投球の参考としている。グランド・マナーのよさには定説ある紳士投手である。
有馬は野球好きとしても知られ、大村彦次郎の『文壇栄華物語』には、野球に熱中しすぎて成蹊高校を退学と書かれているほどで、『四万人の目撃者』という野球場を舞台にした推理小説もある。 何しろ、父親が(戦前の)東京セネタースのオーナーだったのだから、環境には恵まれていた。
しかし、戦後は、財産没収、父親が戦犯に指定されるなど、苦労の連続で、流行作家になってからも睡眠薬中毒に苦しみ、1972年に自殺未遂。以後、本格的な復帰を果たせないまま、1980年に死亡。
どちらかといえば南海の野村型でなく、巨人の森タイプに近い頭脳的なキャッチャーである。コイツは上ダマだと思うと、すかさずマスクをはねのける有様は、これ御覧の通りで、イヤその素早いこと。したがって、捕逸することはほとんどなく、牽制球にも威力がある。ひところ牽制しすぎて肩を痛めていたようだが、最近は好調をとり戻している。スイングの割には短打が多いが、出塁率は堅実なので一応安心して見ていられる。
校條剛の『作家という病』によれば、流行作家だった頃の黒岩は、年に6冊から10冊の単行本を出し、毎月の生産量は原稿用紙で四、五百枚だったとか。
昼頃に起きて、夕方までに一誌分を書き上げる。そのあと大阪・北新地の酒場に飲みに出て、何軒もハシゴし、酔いを深くして喋りまくる。(略)午前一時くらいに帰着するが、眠るわけにはいかない。週刊誌の原稿をもう一回分書かないとこの日を終えることができないのだ。黒岩は飲みながらも、そのことは決して忘れてはいない。そこで、たとえ真冬だろうが、冷水のシャワーを浴びて酔いを醒まそうとするのである。
しかし、今でも読まれているのは、この時期のものではなく、80年代以降に書かれた古代史ものか。
当今、二塁手が欠乏し、各球団ともこれには泣いているが、文壇チームは、あえてルーキー山口選手を起用、しかも打順は九番でのびのびと打たせようという狙いである。ロング・ヒッターではないが、調子づくとヘンなところへテキサスを打つから油断はならぬ。ただし当人もいうように“軽率”なところがあるので、アワテテ塁を飛び出し、三本間に仁王立ちなんてことにもなりかねない。このチームは代打者の層が厚い。童顔の好漢、酒食に溺れず、レギュラーの座を確保せよ。
ちなみに、この打順、雑誌の目次の並びと完全に同じで、作為を無くすことで格付けへの不満を少しでも減らそうとしているのだろうが、結局、目次以上に誰が編集部から重要視されているのか分かるようになってしまっている。特に、6番~8番に置かれた作家は、嫌な気分になっただろう(9番にもなると、逆の意味で華がある)。
有馬は一応投手という花形ポジションを与えられているが、黒岩なんかは、はっきり「地味」と言われている。直木賞をとってまだ三年ぐらいしか経っていないから、そういうことを言ってもいい雰囲気があったのか。
安岡章太郎の「三番センター庄野潤三君」(『良友・悪友』所収)によれば、「ずっと以前、まだ小説を書き出して間もないころ、その文学的評価を野球選手になぞらえて話し合った」ことがあるらしい。その相手とは、吉行淳之介と庄野潤三。そして、出来たリストを会合で発表したとか。
まことにワタケた遊びであるが、こういうことをやっていると、あとで頭がグラグラするほど疲弊した。それに、こんなかたちで仲間の者の力量を批評したとすれば、これは遊びとしても悪趣味なものだったにちがいない。しかし当時の私たちは、おたがいに自信家であり、また小説を書くことにまだそれほどの職業意識はなく、いくらか下町のシンキ臭い若い衆が寄り合って句会のマネ事でもやっているような気味であったから、こういうことも出来たのであろう。
上でも書いたけれど、上位の打順に組み込まれた作家はよいが、6番とか8番みたいな、中途半端なところに位置付けられた作家は、間違いなく気分はよくないだろう。だから、安岡本人も「悪趣味」と言っている。しかし、そこが面白い。
1番 遊撃 吉行淳之介
「オレはさしずめ南海の木塚みたいに、ショートで9番バッターといったところだ」
こういうことを言ったのは吉行淳之介で、自分の才能をマイナー・ポエットと規定し、馬力はそれほどないけれど、俊足、強肩、華麗な守備力をほこる作家でありたいと思ったわけであろう。
しかし、庄野が「キミがラスト・バッターというのは良くないな。ラストは三浦朱門で、キミはトップを打たにゃイカん」と言ったため、一番に抜擢された。
2番 二塁 安岡章太郎
私は別に誰という名宛の選手はいなかったが、やはり吉行と同じような動機から、自分の文学的資質を二番バッターの二塁手ぐらのところだろうと思っていた。
3番 中堅 庄野潤三
吉行と安岡が自身に控えめな評価を下していたのに対し庄野は、「オレは三番バッターだよ。『三番、センター庄野クン』、どうだぴったりくるだろう」と自ら三番を買って出た。安岡によると庄野は、「大家たらんと欲してやまぬ気概を持っていた」ようで、庄野の小説は「玄人好み」の渋いものが多いが、それらも「大家たらん」とする意識によって書かれたのだろうか。
4番 三塁 島尾敏雄
「四番は?」
「四番は、サード島尾だ」
吉行が即座に言った。島尾敏雄を仲間のなかの中心バッターにきめることについては、われわれ三人とも異存はなかった。
この中だと、島尾が一番早く文壇に認められ、単行本も出している。そのせいか、芥川賞の候補になった時期が、第22回(1949年下半期)と第35回(1956年上半期)という運営側の都合を感じさせるような妙なものとなっている。おかげで、島尾は、「第三の新人」の誰よりも早く芥川賞にノミネートされ、「第三の新人」が芥川賞を取り終える頃に再び落選するという形になった。
5番 捕手 小島信夫
「五番は?」
「五番キャッチャー小島」
と、また吉行がすかさず言った。たしかに、小島信夫は、その肩のもり上がった体格からして捕手型であるうえ、何を言っても「なるほど、なるほど。そうですか、そうですか」と、こちらの言うことを、心の底ではともかく、表面はひどく素直に受けとってくれるところが、いかにもキャッチャー的人物におもわれた。
6番 一塁 五味康祐
7番 右翼 近藤啓太郎
(前略)近藤は大いに不服で、「オレが七番、ライトとは、どういうことだ」と詰め寄った。
「それはだなア、おまえの将来性を買ったのだよ。実力があっても試合になると打てない、そういう選手を七番あたりにおくと、急にポンポン打ち出すものだ」
と、これも吉行がウマイこと言って説得した。
8番 投手 奥野健男
9番 左翼 三浦朱門
こうやって並べられると、結構妥当なようにも見える。ただ、五味の立ち位置に関してはよくわからない。この中で一番早く芥川賞を取ったのは五味だが(次回で安岡が受賞)、その後、剣豪小説の書き手となったので、「第三の新人」と言われると違和感があるし、どの程度の付き合いだったのかも俺は知らない。奥野健男も。あと、この頃まだ遠藤周作や阿川弘之がグループにいなかったのか、彼らの名前がない。
第三の新人は、戦後派らに比べると小粒だと言われるが、安岡や吉行のような、2番バッター、9番バッターを自称する韜晦癖がなおさらそう見せるのだろう。自ら3番バッターを名乗った庄野にしても、ホームランを積極的に狙いに行く感じがしない。結局、戦後派に入れられることもある島尾だけが、はっきりとホームラン狙いのスイングをしていたんじゃないか。
左から、吉行淳之介、遠藤周作、近藤啓太郎、庄野潤三、安岡章太郎、小島信夫