マッチングアプリの時代の愛⑤

 告白してから二度ほどデートに行った。初詣と遊園地(観覧車のみ)と映画。それらの場所で過ごしたのだが、特に恋愛が進展することもなく、告白以前の関係性を維持したままだった。初詣に行った時は、前日になって彼女が風邪をひいたというので、一週間予定をずらしたということもあった。これで二度目のドタキャンだった。俺はこれまでの人生でドタキャンをしたことがなかったので、相手の行動に若干腑に落ちないものを感じてしまった。彼女が未だにマッチングアプリのプロフィールやコミュニティを微修正していることも、疑惑を深める原因となっていた(ちなみに、マッチングして、何度かメッセージのやり取りをすると相手のログイン時間はわからなくなる)。俺は彼女がそういう疑惑を抱かないよう、彼女と会ってからは一度も、コミュニティやプロフィールをいじっていなかった。一言コメント欄もずっと「大阪旅行に行ってきました」のままにしておいた。彼女がそうした配慮に気づいているかどうかは不明だった。一度、当てつけ的に一言コメント欄を「銀杏boyzのライブにいってきました」と更新したことがある。「他にも狙っている女がいるんだぞ」という屈折した意思表示。それに刺激されたのかは不明だが、少しして彼女の方も一言コメント欄を更新し、互いにプライドをかけた軍拡競争をしているかのようになって、パソコンを見ながら「何やってんだ、俺らは」と呟いた。無論、恋愛によって引き起こされる苛立ちがそれで治まったわけではないが。
ボヘミアン・ラプソディー』を観に行った時も、相手の仕事の都合で最初に決めたスケジュールを修正することになり、いざ当日となったら、「体調悪いから、あんまり喋らないかも」というラインが待ち合わせの三十分前に来て、それを観た瞬間、「いったい何なんだ」という怒りに近い感情が湧いたが、「大丈夫? 無理はしないでね」と感情を押し殺して返信した。それで少しイライラしながら映画館の前で待っていたら、彼女がマスクをして現れたので、一気に相手を心配する気持ちが噴き出し、「通路側の席とっておいたから、気分悪くなったら出ようね」と言った。こういったことから実感したのが、ドタキャンなどのネガティブな出来事が起きても、実際に会うことができれば、相手への悪感情が大部分消失するということで、相手の顔を見た瞬間機嫌が直った時などは、自分でも単純だなと自虐的な苦笑が漏れた。逆に、会わないで、宙吊りの状態にされたままだと、考える時間が増えるから、どんどん疑心暗鬼になってしまう。だけど、デートできるのも多くて月一回だから、不安になっている時の方が多い。俺と彼女の場合、俺がテストされている側なので、何が起きてもどうすることもできないという無力感が、苛立ちを強める要因となっているようで、恋愛の進展も牛歩以下という有様だったから、短気な自分は「いつになったら結果がわかるんじゃあ」と内心思っていた。
ボヘミアン・ラプソディー』の時は、ちょうどバレンタインの時期で、モロゾフの花の形をしたチョコレートを貰った(これも中身を食べた後、箱を自室に保管している)。うれしかったが、それを素直に本命チョコと受け止めるほどの関係性はまだ出来上がっていなかった。映画を観た後は、サンシャインの中にあるレストラン街で食事をし、クイーンのベスト盤を貸した。そして、帰ろうとしたら人身事故で電車が止まるという事態が発生した。仕方ないので、駅の中にあるスターバックスで時間を潰した。このまま終電がなくなってしまえばいいのにと思ったが、もちろんそんなことにはなりそうもなかった。
ボヘミアン・ラプソディー』の感想を喋っている時に、「俺も(風俗で女装した)男のペニスくわえたことがあるからフレディの気持ちがわかるなー」 という冗談を言いかけたが、フレディの死因を考えると相手に余計な不安を与えそうなので止めた。
「映画は良かったけど、最後にフレディ・マーキュリーが、タンクトップで歌ったじゃん。あれが嫌だったね」
「どうして?」
「男の腋が嫌いなんだよな。女の腋は好きだけど」
「……」
「だから俺、バスケとか陸上とか体操とか絶対に見ない。ユニフォームがノースリーブだからね。俺が独裁者だったら、男のノースリーブは禁止してるよ」

 

ボヘミアン・ラプソディー』の影響なのか、また女装した男とセックスしたくなり、池袋にあるカプリコンという女装・ニューハーフ風俗を予約した。最後にセックスしたのが、「ラブホテルのスーパーヒロイン」の時なので、およそ一カ月間が空いていた。
 予約したのは、「Sプレイが得意」とプロフィールに書いていた、サリナという男の娘。冷たい感じの目つきと、若干男っぽさを残した女装、それから十八センチというペニスの長さに興味をひかれて指名した。俺はAVを鑑賞する時はいつも女側に感情移入しているのだが、今回、自分でもイラマチオを経験し、苦痛による歓楽を味わってみたかったのだ。
 平日十七時までだと二千円引きになるということで、六十分コースを選択し、当日は会社を休んだ。ついでなので、店に行く前に、西武でホワイトデー用の買い物もした。事前にラインでそれとなく好きなお菓子のメーカーを聞き出していたので、見当外れのものを買わずに済んだ(椎名林檎のライブDVDを買った時もそうだったが、相手の喜びそうなものを考えたり選んだりするというのは非常に楽しい)。そして、ヨックモックのクッキーをリュックサックに入れ、繁華街とは少し離れた位置にある、カプリコンへ向かった。
 驚いたのが風俗店なのにスーパーやコンビニが立ち並ぶ通りに混ざっていたことで、店自体は地下にあるのだが、その階段を下りるのに、周りの目が気になって、店の前を何度か卓球のラリーの如く往復してしまった。しかし、下りなければどうにもならないので、人通りが少なくなった瞬間を見計らい、あたかも転落したかのような勢いでレンガ調の階段に向かって突っ込んだ。穴の底に到着すると、薄暗く無味乾燥な空間が出現した。何の装飾もない鋼鉄製のドアがあり、暗証番号を入れる機械がドアノブの真上に設置されていて、物々しい雰囲気が強く滲みでていた。俺は興奮と不安の間で葦の如く揺れながら、ドアの横のインターホンを優しく押した。もちろん、インターホンにはカメラが装着されている。
「はい」
「十六時で予約した範多ですが」
「今、開けます」
 しばらくすると、ガコッという耳障りな金属音の後に、扉が重々しく開いた。中からツーブロックで、鰐のように目つきの悪い男が出てきた。たくましい上半身には、ワイシャツと灰色のベストを着用している。
「じゃあ、こっちに。靴はそこで脱いでください」
 案内された個室は、五畳ぐらいの広さで、黒いシーツのかかったベッドが部屋の三分の一ぐらいを占めている。俺の股間は少しずつ勃起の準備を始めていた。
「事前に金だけお願いします。一万七千円です」
 あれ、平日十七時までだと二千円引きじゃなかったのか、と思ったが相手の禍々しい迫力に圧倒され、何も言わず二万出した。
「釣りもってくるんで、ここでお待ちください」
 サービスで渡された缶のお茶を飲みながら、部屋を見回した。ベッドの真上の天井には巨大な鏡がはめられていて、性的興奮をもたらす仕掛けなのかもしれなかったが、俺にはピンとこなかった。奥の扉を開けると、横に長い廊下が出現し、すぐ左にはトイレがむき出しのまま設置されていた。右に進むと小さなシャワー室に続く扉があり、廊下は他の部屋にも繋がっているようだった。なので、便器にまたがっている時に他の客と鉢合わせる可能性もあるのではないかと想像したのだが、そこは上手く調整しているのだろうか。
「カシャッ、カシャッ」というシャッター音が、廊下の一番奥から漏れ聞こえてきた。シャッター音が響くと、フラッシュをたいているのか、白い光が扉か壁の隙間から廊下にはみ出してくる。誰かがホームページに載せる宣材写真を撮っているようだ。
 部屋に戻って少し経つと、先ほどの店員が入って来て、「すみません、平日割りを忘れてました」と言い、五千円のお釣りを出したので、ホッとした。
「女の子の準備がまだかかってるので、もう少し待ってください」
 と言い残し、男は部屋から出て行った。天井の隅に取り付けられた小さなスピーカーから有線が流れていたので、聞いてみると、エド・シーランの「シェイプ・オブ・ユー」だった。俺は流行にめちゃくちゃ疎いのだが、この歌は食前にデザートを頼んだ野本がカラオケで熱唱していたから覚えていた。野本は研修先の合宿所で聞いて好きになったと言っていた。
 予定の時刻から十五分ほど過ぎてもまだサリナはやってこなかった。そろそろ店員を呼ぼうかと悩み始めたところで、不意打ちの如くドアが開いた。
「こんにちはー」
「あ、こんにちは」
 彼女の顔を見た刹那、「ちょっと男っぽすぎるな……」と思った。ホームページに掲載されていた宣材写真と比べて、実物は男の成分が表に出すぎている。どうやら、頬骨から下の骨格が女のようになめらかではないのが原因らしく、ホームページの写真は無表情だったからあまり気にならなかったのだが、喋ったりして口元が動くと、男のゴツゴツとした感じが露になってしまうのだ。また、もう少し化粧を頑張っても良いのでは、と思うぐらいに彼女のそれは不十分で、元の顔が容易に想像できてしまうぐらい。そのことが俺を萎えさせた。「男」を抱きにきたわけではないので。
「ごめん、ごめん。ちょっと色々あって十分で用意してきたんだ」
 だから、高校の女装コンテスト・レベルの化粧なのか。あー、うーん、これもしかしたら勃たないかもしれないな。俺は不安と落胆が顔に出ないように努めた。
「普段、こういうところくるの?」
「前に大阪で一回あるよ」
「お兄さん、ゲイなの?」
 唐突に直球の質問をされ泡を食った。
「あー、いや、ゲイではないかな。女装した男が好きなんだよね。女装限定で」
「はー、そういうタイプか。えーと、名前は?」
「範多敦也」
「それって本名?」
「まあ、そうだね」
 俺は咄嗟に嘘をついた。いや、こういう場所で本名を名乗る人間はどれくらいいるのだろうか? 何度か指名して信頼関係が出来ているならまだしも、初対面で身分を明かすのにはある種の勇気がいる。
「えー、変わった名前じゃん」
「先祖が外国人だったから」
「外国って、フィリピン?」
「ん、いや、アイルランド。もう俺ぐらいになると見た目じゃ全然わからないけど」
 口調が完全に男のそれだったので、さらに不安が増大した。以前に指名した男の娘が、容姿から喋り方まで女と見紛うほどだったので、それが基準になっていたのだが、今日指名した彼女はまったく違うタイプだった。
「で、範多さんは、MなのSなの?」
「どちらかと言えば、Mかなあ。サリナちゃんは、Sプレイが得意だっていうから指名したんだよね」
「あんまりMっぽくは見えないけどね。なんかインテリって感じ」
「それ、眼鏡かけてるからじゃないの?」
「あ、そうかも」
 軽い自己紹介も済んだところで、
「じゃあ、そろそろシャワー行く?」
「そうだね」
 彼女が濃紺のワンピースを脱ぎ、襞のついたピンク色の女物の下着に手をかける様を俺は蛇のような眼でじっくりと観察していた。もちろん、その下に収められている巨大なペニスが目的だった。
「ちょっと! すげー見てんじゃん」
と彼女が笑いながら言った。
「あ、ごめん」
「いやあ、みんな見るんだよねー」
「だって、十八センチもあれば見るよ」
 彼女が全裸になる頃には、俺のペニスも完全に勃起し、臨戦態勢に入っていた。最初の不安は完全に杞憂だった。いつの間にか、性のスイッチがオンになっていた。眼鏡を外した俺は、豪雨の中に佇んでいるようなぼんやりとした視力で、彼女のペニスを注視した。確かにモスラのようなものが股間からぶら下がっている。彼女の身長が百六十半ばとやや低いこともあって、余計にペニスのデカさが際立っていた。
 部屋を出て、シャワー室へ。彼女からイソジンの入ったプラスチックのコップを渡され、二人でうがい。狭いので、イソジンを吐き出す時、彼女にかからないよう気をつける。次に、彼女は窓ふき職人のように俺の身体をゆっくり上から下に向かって洗浄していった。そして、しゃがみこんだ際、彼女の顔の前で、俺の屹立したペニスが武者震いをしたので、
「ねえ、このちんちんで俺のこと攻撃しないでよ」
「いやいや、しないよ」
 相手の冗談を上手く捌くことができず、真面目な口調で返答してしまい、慌てて「ウハハハハ」と三島由紀夫のようなわざとらしい病的な哄笑でごまかした。
「じゃあ、先に体拭いて待っててくれる。自分の体洗うから」
「OK」
 俺はバスタオルを体にまいて部屋に戻り、ベッドに腰かけながら彼女を待った。一刻も早く彼女のペニスを咥えたくてうずうずしていた。
「お待たせ」
「ああ」
「範多っちは、どういう女の子がタイプなの?」
「えーと、んー、まあ清楚系かなあ」
 好きな女のタイプ、というのは非常にやっかいな質問だ。もちろん、こだわりはいくつかあるのだが、それを口で説明するのがおっくうで、また、相手もそんな真剣に聞いているわけではないのだから、無難に好きな芸能人の名前でもあげられればいいのだが、俺の好きな芸能人というのが、北山真央というあまり有名でないタレントで、これまでその名前を出して知っている人に遭遇したことがないために、手っ取り早く「清楚系」と答えた。
 北山真央は、俺と同い年で、同じ大学に通っていた。俺は池袋キャンパスだったが、彼女は埼玉キャンパスだった。初めて彼女を知ったのは、深夜にやっていたコント番組にゲスト出演していた時で、それまで芸能人に興味を持ったことはほとんどなかったのだが、彼女に関しては番組が終わった後すぐに手元にあった携帯でネット検索するほど、そのややボーイッシュな容姿と、がっちりした体格、落ち着いた低い声が琴線に触れた。調べてみると、年が同じ上に同じ大学に通っていることがわかり一気に親近感が増し、ファンになった(しかし、同じ大学の人間ばかりに恋してるな、俺は。まあ、大学が好きすぎて五年も通ったからな)。一年後、彼女が写真集を出版した際に、販促のための握手会が神保町で開催され、それに参加したのだが、自分が一番年下なのではと思うぐらい中年のファンが多く、若者特有の優越感にどっぷり浸りながら、「まともなのは俺ぐらいだな」と彼女に同情したが、握手会に参加している時点で向こうからすれば大同小異、得体の知れない人間であることに変わりはないので滑稽だったし、そもそも俺は若々しさとは無縁の男だった。中には認知してもらうために、タイガーマスクのような覆面をつけている男もいた。恐らく、この場にいた全員が「俺が一番彼女のことをわかっている」と自惚れていたことだろう。もちろん自分も、彼女が書いたものは、ブログから雑誌まで丹念に目を通し、某無頼派作家の文庫本に解説を寄せていたことから、「君は本当は『清楚系』という立場に満足していないんだね」と相手の深層心理を推し量っては、庇護者のような気分を密かに味わっていた。彼女の内気で未完成な感じが、俺のような気弱な変態を引き寄せる要因となっていた。
 数十分待ち、自分の番が回ってきた時、恐る恐る右手を差し出すと、彼女はすかさずそれを両手で包み込んだので、「なるほど。こうすれば相手にぎゅっと掴まれることもないのか」と感心した。
「こんにちは」
「こんにちは」
「あの、僕同じ大学に通ってるんです。あ、文学部なんでキャンパスは違いますけどね」

 とストーカーの心配はないことを強調しつつ、共通点をアピール。すると、
「同じ大学に通ってるんだって」
 なぜか彼女の後ろにいたマネージャーらしきスーツを着た女が俺の言葉に反応した。彼女の緊張を和らげようしているのだろうか? 船場吉兆の女将を思い出した。
「あ、そうなんですか。池袋キャンパスですよね?」
 と数秒遅れて北山真央が返事をする。
 俺は段々手を握ってもらっているのが恥ずかしくなり、今すぐにでもそれを振りほどいて逃げ出したくなった。沈黙を伴った曖昧な時間が続き、「それじゃあ」と自分から言って……
「清楚系って……。童貞じゃないよね?」
「ど、ど、ど、ど、童貞ちゃうわ」
 男一匹命をかけて否定したが、否定の態度がいかにも童貞臭かった。
「へえ。ま、そろそろやろっか」
「うん」
「電気暗くする?」
「そうして」
 彼女はドアの近くにあった黄色いツマミを回し、光量を調節した。姿が認識できる程度に暗くなったところで、一緒にベッドに入った。そして、俺が性欲に導かれるままに強く抱きしめキスをしようとすると、
「ねえ、これじゃあ風俗みたいじゃん。がっつきすぎ。もっと、恋人っぽい感じで」
 と叱られた。
 それから、彼女主導でキスをした。最初は唇を重ねるだけで、相手と目で会話しつつ、徐々に舌を絡ませるような激しいものへと移行。それが済むと、俺はフェラチオをするために、エレベーターよろしく彼女の上半身から下半身へと下がっていった。途中乳首で止まり、それを舐めたり吸ったりした。すると、彼女は手を伸ばし、俺の尻を強く叩いた。俺の尻に張りがないせいか、あまり景気の良い音は出なかった。そして、念願のペニスへ。勃起していないのにも関わらず、フランスパンのようなサイズ感があり、持ち重りする。俺は歯を当てないよう慎重にそれを咥えた。すると、彼女が俺の頭をグッと押さえ、もっと奥へと押し込んだ。柔らかく冷たい重量のあるペニスの先端が俺の喉の粘膜を直撃する。苦しかった。まったく息ができなかった。必死に鼻で呼吸を試みるも、焼け石に水(というか、花粉症で鼻があまりきかなかった)。意識を失うのではという恐怖。窒息死という不吉な言葉が頭をかすめた。久保田万太郎は寿司が喉に詰まって死んだはずだが、こんな感じの苦しみを味わったのだろうか。もし、この状態で死んだら、これは自殺になるのか他殺になるのか。こんなところで死んだら洒落にならんぞ。ヤフーニュースに載ってしまう。葬式で絶対に死因を言えない。しかし、十秒にも満たないうちにペニスを離したら、変態として負けたような気がする。それで、俺は「二十秒」頭の中で──気持ち早めに──カウントした。二十秒経過したところで、相手の腿を叩き、頭を振って、ギブアップを宣言。ペニスを口から吐き出し、涎を垂らしながら空気を吸い込もうとすると、また頭を押さえつけられ、フェラチオさせられた。バタイユは『エロティシズム』の中で、「性の快楽は、死の不安のなかにあると、いっそう深くなる」(酒井健訳)と書いていたが、それは嘘だとわかった。少なくとも俺には当てはまらなかった。ただ苦しいだけで、性的なことなど一切考えられなかった。そんなことを二、三回繰り返し、やっとペニスから離脱することができた。
 その後、彼女にフェラチオをしてもらっている時、ふと上を見上げたら、天井に設置された鏡に、二つの肌色の肉塊が写っていた。視力が悪く視界が著しく抽象的になっているせいか、ミケランジェロの『最後の晩餐』の一部みたいに見えた。
 結局は、乳首を舐めてもらいながらの手コキで射精した。腹にこぼれた精液は非常に熱くバターのように溶けていった。時間はまだ余っていた。
「まだ時間あるけど、寝る?」
「ああ」
 そうして、時間までベッドで添い寝することになったのだが、彼女は俺の反対側に顔を向けてしまい、俺は彼女の固く尖った背中に手をそっと置くだけで満足しなければならなかった。彼女のそっけない態度に少し傷ついた。そのうちに彼女の寝息が聞こえてきた。
 タイマーが鳴り、再びシャワー室へ。
「あー、おなか減った」
「でも、結構痩せてるよね」
「まあね。でも、スカウトされた時、筋肉つけるなって言われたから、運動とかはあんまできないんだよなー」
「へー、そうなんだ。普段は、男の格好してんの?」
「うん。女装するのはここだけ」
 どういう場所にいたら、女装風俗にスカウトされるのか、ということが気になったが、詳しくは聞かないまま店を出た。外の空気が──排気ガスまみれにも関わらず──いつもより新鮮に感じられた。俺はセックスよりもAVによるオナニーの方が刺激を得られるんだなあと夕陽に染まった池袋を歩きながらしみじみ思った。何せ誕生日が七月二十一日だからな。三島由紀夫も、腹に刀を刺した瞬間、「想像していたのと違う」と思ったんじゃないか。俺はもっと爽快な気分に浸ろうと考え、サンシャイン60の近くにあるバッティングセンターに向かったが、知らない間に潰れていた。

 

 次に彼女と会ったのは三月だった。また映画を観に行こうという話をしていたのだが、肝心の映画選びに難航し、最終的には俺の提案でイーストウッドの『運び屋』を観に行くことになった。彼女の好みではないと思ったが、タイミング的に他に良い映画がやっていなかったので、イーストウッドの実績にかけたのだった。あと、今回は池袋ではなく、彼女の最寄り駅から二駅ほど離れた場所にある映画館に足を運んだ。彼女のオススメだというバーと洋食屋がその近くにあって、映画を観た後に寄ろうということになっていた。
 映画が始まる前に彼女が飲み物を買いに行くというので、館内のソファーに座って待っていたのだが、上映時間が迫ってきているのにも関わらずなかなか戻ってこないのでやきもきしていたら、二人分の飲み物とドーナツを持って帰ってきたので自然と笑顔になった。それで、予告が流れている間、ドーナツを食べたのだが、俺の食べ方が下手なのか、ドーナツが土砂崩れを起こし、ぼろぼろと床にこぼれて恥ずかしかった。
『運び屋』は展開的にイーストウッドが最後に死ぬんだろうなと思って観ていたら、死ななかったので驚いた。刑務所に入ったイーストウッドが庭いじりをしているところで、隣に座っていた彼女が突然ゴソゴソと体を動かし始め、顔の辺りに手をやっていたから、「寝てたのかな」と思い、エンドクレジットが流れ終わった後、シアタールームを出て、明るい場所で彼女の顔を見たら泣いていたのでびっくりした。
「え? 泣いてたんだ」
「うん」
「どこで泣いたの? 殺されたチンピラがトランクに詰め込まれてたところ?」
「違うよ! なんか主人公がかわいそうで、泣いちゃったんだよね」
「ああ」
「ああいう時にはさ、隣でさっとハンカチとか渡してくれるもんだよ」
「ごめん、ごめん。気づかなかったからさ。というか、ハンカチ持ってないわ、俺。まず、そこからかもしんない」
 予約していた洋食屋で早めの夕食を済ませ、そこから五分ぐらい歩いた場所にある、小さなバーに入った。酒を飲まない俺は、本格的なバーに入るのは初めてだった。本格的といっても、銀座とかにあるような敷居の高いものではなく、誰でも入れるような極めて庶民的なバーだったが、初めての場所が苦手な俺は、カウンターとバーテンダーを見ただけで神経が委縮してしまった。
 店には既に常連らしき年配の客が五人ほどいて、全員カウンター席に座って談笑していた。奥にはテーブル席があったが、誰もいないので、電気が消してあった。カウンターの中には、ちょび髭を生やした細身のマスターとその妻らしき女、あとバイトの若い女の子がいた。引っ込み思案の俺は、カウンター席よりも出入口近くの丸テーブルの席に座ろうとしたのだが、「せっかくだから」と彼女に促され、カウンター席に陣取ることとなった。
 俺は片頭痛持ちで、映画館で映画を観ると、三回に一回ぐらいの割合でそれが出るのだが、今回見事当りを引いてしまい、バーに入店した時も、後頭部の血管が波打っているような激しい痛みが依然として続いていた。近所の脳神経外科マクサルトという薬は貰っているのだが、これは「頭痛の予感」がした時に飲まないと効かず、本格的な頭痛が始まってから飲んでも効果がない。しかし、今まで食事だけで解散していたのが、今回はバーという特殊なイベントが挟まっているわけで、そんな時に具合の悪い顔などできるはずがない。
「何飲む?」
 頭痛が渦巻いている中で飲酒したら、悪化するのか良くなるのか、医学的な知識のない俺は気になった。しかし、『時計じかけのオレンジ』みたいにバーでミルクを注文するわけにもいかないので、アルコールが血管に良い影響を及ぼすことを願い、
「うーん、できれば甘いやつがいいかなあ」
「マスター、甘いお酒で何か作ってもらえる?」
「OK」
「私はサングリアで」
「はいよ」
 注文を受けたマスターがシェイカーを振り始めた。彼の横ではバイトの子が食器を磨いている。
「ここ、自家製のアイスが結構おいしいんだよ」
「へえ。後で食べてみようかな」
「どうぞ。メロン・ボールです。メロンリキュールとウオツカ、それからオレンジジュースを混ぜているんで、甘くて飲みやすいですよ」
「ありがとうございます」
 二人の手許に酒が届いたので、乾杯した。メロン・ボールという酒は、確かに甘いことは甘く飲めないことはなかったが、酒であることに変わりはないので、アルコールに弱い俺は、鍛造するために高温で加熱された鉄の如く真っ赤に染まった。
「俺の顔、赤くない?」

 心配される前に、自分から申告。

「うん、赤い。大丈夫?」
「すぐ真っ赤になるから心配されるんだけど、気分的にはそんなに変わらないんだよね。というか、酔っ払ったことがないな。酔っ払うほど飲めないし」
 頭痛は特に良くも悪くもならなかった。プラセボ効果を狙って、メロン・ボールを薬だと思い込みながら飲んだ。普段なら睡魔に襲われるところだが、頭痛が眠気を掻き消した。
「私、仕事辞めようかなと思ってるんだよね」
「ん?」
「向いてないような気がして。周りは定年まで勤める人が多くて、それが当たり前みたいな感じなんだけど、自分の居場所じゃないような気がするんだよねー。なんか定年まで働いてるヴィジョンが見えなくて」
 俺の中の小市民が、「もったいない、もったいない」とささやいていたので、
「まあ、つらいならしょうがないよね。アリサちゃんなら辞めてもどうにかなると思うよ。生きていくだけならどうにでもなるしね。まあ、でも、そんなに思いつめなくていいんじゃないかな。また時間が経てば考え方も変わるかもしれないし」
 と相手の言い分を認めつつ、なだめるような言い方になった。そもそも、本気で辞めようというよりかは愚痴に近い印象を彼女の口調から受けたし、辞めた後どうするのかという具体的な話がなかったので、容易に肯定するわけにもいかなかったのだ。
「俺が支えられたらいいんだけど……。早く本を出したいね」
「そういえば、小説とか書いてるの?」
「あー、小説は書いてないな。ブログはやってるけど」
「へー。どんなこと書いてるの?」
 まさか風俗について書いているとは言えず、
「文学のこととか。正直見てる人は少ないけど、T・S・エリオットの研究者とかがフォローしてくれてるんだよ」
 素人のブログを研究者が読んでいるということだけでも嬉しいのに、エリオットみたいな難解な作風で知られている詩人のそれであることが、余計に俺の卑小な自尊心をくすぐっていた。普段あまりにも記事に対し反応がないので、そういうことにでもすがりつかないと、自我が保てないのだ。しかし、俺の話は、虎の威を借りる狐みたいなことばかりで、自分でも段々情けなくなってきた。俺自身には何の実績もないから。
「ブログ一度見てみたいね」
「いや、恥ずかしいからいいよ。アリサちゃんは最近どうなの?」
「この前初めて相席屋ってところに行った。友達が行ってみたいって言うから」
「マジで? どうなの、あそこ」
「全然良くないよ。ご飯はおいしくないし、一緒になったのが変な二人組で。最初は医者とか言ってたのに、話聞いてみるとメチャクチャで、結局ウソだったんだけど。しかも逆ギレされたし」
「アリサちゃんは、仕事で付き合いがあるからね。まあ、そんな奴ばっかりなんだろうなあ、ああいうとこってさあ。俺の友達は相席した女に話しかけたけど、女の方はひたすら飯食ってるだけで、一言も返って来なかったって。すごいよね。ダブルスはどうなの?」
「あー、結構グッド送られてくるね。一度だけ会った人からもこの前ラインが来たし」
「モテモテやな。俺はアリサちゃんとマッチングしてから誰にもグッド送ってないよ」
「純粋だね」
「まあね。モテないだけかもしれないけど」
「陸人くんのプロフィール読んでも、グッド送りたくならないからなあ」
「え、そうなの?」
「うん」
 アリサと出会ってから誰にもグッドを送っていないということについてだが、正確に言えば、これはウソだった。一月に一度ドタキャンされ、その一週間後に会った時もまるでこんにゃくを触っているかのように手ごたえがなかったので(何しろ十六時で解散したのだから)、「これはもう駄目だ」とやけくそになり、だいぶ前にダブルスのお気に入りに入れていた女の一人にグッドを送っていた。同世代や年下だと男の俺が率先してリードしなければならないし、ミスをしたり格好悪いところを見せたりしたら振られるという緊張感に疲労していたので、今度は年上の寛大さに甘えたいと思い、「海外文学好き」のコミュニティに入っていた六歳上の人を選んだ。地味な人だったが、顔の骨格が北山真央にちょっと似ていたり、影の差し込んだ表情などが魅力的だったりした。それが、グッドを送った翌日、見透かしたかのようにアリサからラインが来て驚いた(内容自体は他愛のないものだったが)。「しまった!」と罪悪感にかられていたら、同じ日にアプリの女からもグッドが返ってきて、あにはからんやマッチングしてしまうとは……。普段は女からグッドが来ることもないのに、こういう時に限って……。もちろん、アリサ一筋を誓った俺はそれを平然と無視しようとしたのだが、無意識のうちに、
「マユミさん。はじめまして。氷川と言います。文学関係のコミュニティで見てグッドしました! よろしくお願いします」

 と送っていた。多分、悪霊に憑りつかれていたんだと思う。結果的にマユミから返事はなく、誤送信によるマッチングだったようで、以前なら、「ふざけんな!」と激昂しているところだが、今度ばかりは、「助かった」と胸をなでおろす俺がいた。それ以降は、本当に誰にもグッドを送っていなかった。
「これバレンタインのお返し」
 とリュックサックに入れておいたヨックモックのクッキーを取り出した。
「ありがとう!」
 そして、彼女から勧められたアイスを食べた後、店を出た。春の渇いた風が路地を通り抜けていった。駅から少し離れているので、バーの周辺は人が少なく、寂しさが漂っている。飲み屋はちらほらあるが、酔っ払いはいない。街灯に群がる蛾の方が人間より多い。
「ねえ、手繋ごう」
 と彼女が唐突に提案した。驚いて彼女の顔を三度見した。酔いが消え、顔面が蒼白となった。
「え、いいの?」
「うん」
 彼女が差し出した手を握った。暖かかった。勃起した。ジャンパーで股間が隠れていなかったら、大変なことになっていたかもしれない。今が春で助かった。しかし、女の手を握るのは、北山真央の握手会以来だから、八年振りか? 風俗では、そういうことをしないから。
 最初は普通に手を繋いでいたのだが、身長や腕の長さの違いから上手くフィットしなかったので、俺の腕に彼女が自分のそれを絡ませるという形に落ち着いた。普段こんな大胆なことをしない彼女がそうするのだから、アルコールのパワーを強く実感した。そりゃあみんな女を酔わせたがるわけだ。ここまで来たら、その勢いでセックスにまで突入したかったが、近くにラブホテルがないので、やるとしたら彼女の家に行くしかない。しかし、どうやってそのことを切り出せばいいのか。ひなびた場所を抜け出し、パチンコ屋やカラオケ屋が立ち並ぶ通りに出る。明かりは増えたが、やはり人はほとんどいない。駅はすぐそこだ。二人ともずっと押し黙っていた。今口を開いたら、「ああ、セックス!」と絶叫しそうだった。
 ついに、駅のホームにまで到達してしまった。すると、知り合いに見られることを警戒したのか、すっと彼女が腕を抜いた。そして、何事もなかったかのように、俺と距離をとった。愛が煙のように消えた。一連の動きがあまりにもスムーズだったので、夢か幻の中にいたような気がし始める。先ほどまで俺と手を繋いでいた彼女と、今横に立っている彼女は、別人なのか? こうして、また何もしないまま電車に乗って自分の家に帰るのか。期待してしまっただけに、圧倒的な虚無観が内蔵の中で発酵した。
 俺にとって彼女は巨大な壁だった。壁の向こうから時折餌が投げ込まれてくるが、肝心の壁は絶対に崩れない。俺は向こう側に行く術を持たないし、彼女は壁を壊そうとはしない。冷たい現状維持が延々と続く。手を繋ぐという、本当だったら親密さが増すはずの行為も、二人の間にある壁を自覚させるだけのものでしかなく、絶望的な気分で俺は吊革につかまった。

 

マッチングアプリの時代の愛⑥