石原慎太郎 坂本忠雄 『昔は面白かったな 回想の文壇交友録』
石原慎太郎が文壇について書いたもので、俺がまず思い出すのは、『わが人生の時の人々』に収められた「水上勉を泣かした小林秀雄」で、これは酒席で酒乱の小林秀雄に絡まれていた水上勉を、小林を論破するという形で助け出したら、逆に小林から気に入られたというエピソードを書いたものだが、酒を飲まない俺としては余計に小林の人間性が嫌いになった。
他には、『三島由紀夫の日蝕』という、三島由紀夫との思い出を軸にした三島論があり、これも面白かった。
そういうことがあったので、『昔は面白かったな』もそれなりに期待して読んでみたのだが、部分部分で興味深いところはあるものの、全体としては物足りなかった。というのも、石原ほどのキャリアを持っている作家なら、自分の人生についてあらゆるところで書き喋っているから、それらをある程度追っていたゴシップ好きの自分(もちろん石原の膨大な著作からすると何十分の一でしかないが)としては、既に知っているような話が多かったからだ(無論、上にあげた小林秀雄の話も載っている)。
また、石原が「僕の話、もうしなくていいよ(笑)」ということを三回ぐらい言うほどに、対談相手である『新潮』の元編集長坂本忠雄がインタビュアーに徹して石原にばかり喋らせていて、文壇の裏側を知悉しているはずの坂本自身がもっと積極的に話せば、それこそ「文壇交友録」になったのではないだろうか。
とりあえず、『昔は面白かったな』から、自分が気になったところを取り上げ、解説を加えてみようと思う。
坂本 僕は石原さんから聞いたんだけど、川端さんは三島さんのこと嫌いだったんじゃないかって。
石原 嫌いだったと思うね。敬遠してたんだよね。付きまとわれて。
坂本 三島さんのほうが付きまとっていた?
石原 そうだね。
坂本 仲人だしね。
石原 盾の会の閲兵式を国立劇場の上でやる時、川端さんに祝辞を述べて下さいって言ったら、「嫌です、絶対に嫌です」って断られたんだって。それを三島さんが愚痴ってさ。僕は村松剛と仲良かったんだ。剛さんと何度か外国旅行もしたんだけど、剛さんが「慎ちゃん、三島がこの頃死にたがって死にたがってしょうがないんだ。本当心配なんだよ」って。その後、川端さんも意地悪なんだよな。頼みに行った時、「嫌です、絶対に嫌です」って二回言った。それで三島さんもショックを受けて、あの人を見損なったって言った。
この本以前に読んだ『この名作がわからない』の中で、小谷野敦が三島について「慕われた川端は迷惑したと思いますよ」と言っていたが、これでその裏付けとなった。三島の父親は、盾の会の件で川端を恨み、三島の死後『諸君!』で川端批判の文章を書き、川端を激怒させた(小谷野敦『川端康成伝』)。
坂本 (坂本氏「文学の不易流行」(「新潮、一九八八」)を取り出して)久しぶりに「新潮創刊千号記念号」の座談会を読んだんですけど、これ、面白かったですよね。
石原 うん、面白かった。最近また読んでいる。
坂本 僕が司会したんだけど。
坂本 これ、傑作ですよ。自分がやって言うのも変だけど。
石原 この時なぜか大江がね、「石原さんのヨットは人生的な意味が分かるけど、開高さんの釣りは怪しいな」って言ったんだよ。なんであんなこと言ったんだろう。
坂本 一種のジェラシーかも知れないね。
「文学の不易流行」は、江藤と大江が、『群像』で行われた対談「現代をどう生きるか」(1968年1月号)以来、久方ぶりに公の場で同席したという意味で珍しいものとなっている。『群像』が発売される前、江藤、大江の順で、『三田文学』に秋山駿によるインタビューが掲載されたが(秋山はその時未だ二人の対談を読んでいなかった)、そこで大江は、「江藤さんの批評を必要としない」、「江藤さんとの対談はもうごめんこうむるつもりです」とまで言い、江藤の『小林秀雄』が読売文学賞に落選した時、彼の父が選考委員である佐藤春夫に電話で抗議したということまで暴露した。『群像』と『三田文学』での発言から、二人は決定的に訣別したと言われていたから、この座談会はある種の驚きを呼んだ。
しかし、仲直りしたということではなく、座談会から二ヶ月後の『新潮』(1988年7月号)に掲載された第一回三島由紀夫賞(大江と江藤は選考委員だった)の選評で大江は「「天皇」という一語が発せられるだけで、座談会そのものが消滅してしまう、埋めようのない淵が、江藤と僕の間に開いているのを、僕は認めていた。おそらく江藤も同じで、司会役としてそれを避けたのだろう」と書き、依然として対立状態であったことを明らかにしている。ちなみに、石原の天皇観については『ユリイカ』の石原慎太郎特集で猪瀬直樹が次のように言っている。
(注:三島・石原の対談「守るべきものの価値──われわれは何を選択するか」のなかで)どちらも日本の風土に根ざすものを言いながら、三島は三種の神器=天皇だと言っていて、石原は天皇じゃないと言っている。不思議なことに、ぜんぜん違う。僕も『ミカドの肖像』のなかで西洋人に対して三島由紀夫的な説明をしているんですね。ヨーロッパはピラミッド型の組織だけれど、東京は中心が皇居というブラックホールにもかかわらず、同じ近代を達成しているんだと。ところが、石原さんは天皇はいらないと言っている。東京都の儀式なんかで「君が代」斉唱のときに、石原さんの横に立っていたら、石原さんは「君が代」と言っていないんだよ。「われらが代」って言っているんだ(笑)。おもしろいよね。「君」じゃないんだ。「君」は天皇だから、天皇なんて負けた戦争の責任者だろうくらいに思っているんですよ。僕にもそういうニュアンスのことをチラッと言ったこともある。僕は『ミカドの肖像』も書いているから、一度、なにかの雑誌で天皇制について石原さんと対談しないかと打診されたことがあったんだけど、石原さんは「天皇興味ねえ」ってそんな反応で、けっきょくその対談はやらなかった。「変人・石原慎太郎」
座談会はそういう爆弾を抱えた状態で行われたため、つっこんだ話はなく、当時運輸大臣だった石原を「大臣、大臣」と適宜いじることで、無理やり平穏なムードを演出しようとしている。
そんな中で、話題が開高の魚釣りに及んだ際、まず江藤が「開高の魚釣りというのは、僕は素晴らしいと思う傍らね、なんかちょっと、哀しい感じもあるんだ」と言い、
大江 開高さんのおもしろい点はね、釣りの話でね、いつも一番大切なことはとっていて、釣り旅行記には書かないでおいてるという感じが何時もするんだがな。
開高 違う。違う。違う。
石原 あなたもそう思う? そう思うだろう。僕、そう思うんだなあ。ジェニュインなものがないんだな(笑)。
開高 違うんだ。ちょっと違うんだ。
大江 今、整理するからね、僕たちは同じことを感じているわけだ。石原は、開高さんの作品に釣りの中の本当のジェニュインなものがないと感じるわけね。石原は、自分の小説の中で、本当にジェニュインなものだけを釣ろうとしていて、魚なんかは釣ろうとしていない。
開高 ああ。
大江 僕のいっていることは、彼と違ってね、ここにあるはずの大切なものは別の時、小説を書く時にとっておいていると。
「ヨット」という単語は出てこないのだが、石原が上で言っていたのはこのあたりだろうか。これから一年半後ぐらいに開高は死ぬのだが、その際『新潮』で大江と石原による追悼対談「現代を生きる作家」(1990年2月号)が組まれ、より率直に開高について語っている。例えば、大江が石原と開高の小説の違いを比較し、それを受けての石原の発言。
石原 僕は前に、あなたと開高さんと江藤淳さんと四人で「新潮」千号記念号の座談会をしたときに、大江さんが「開高さんの釣りの文章は石原さんの小説の中のとちょっと違う」と言ったでしょう。それについて僕がどうのこうのというつもりはないけど、その言葉を思い出したのね。釣りなら釣りに本当に情熱を燃やし、熱中し集中するのならいいのだけれども、何か作家の実在というものに絡んでの燃焼というよりも、あの人は割とそれに関するペダントリーについて情熱的で、いつもいろいろ説教が出てくるのだな。『珠玉』も定年前のサッカー選手のフットワークみたいで、ちょっと重いんだな。『夏の闇』というのは僕もとても評価した小説だけれども、これだって彼のとてもいい短編に比べると、やや饒舌というのか、ペダントリーがあってね。
石原も大江も、開高が「俗物」だったということを言いたいのだろう。石原は「本ものグルメは、いかにもなれたという様子を見せないし、第一、しゃべらないよ。僕は、彼の宝石や釣りや、猟や美酒美食のお師匠さんになる人をよく知っているけど、彼はいつもにこにこ笑って黙っているからこそ、大通で、名人なんだな」とも語っている。大江は開高が三島の次の作家を狙っていたと指摘しているが、確かに二人とも、知識人でありつつ、若者受けする文章も書く、という硬軟併せ持つタイプであった。そして二人とも、「こういう風に見られたい」と意識しながら行動する人間でもあった。
開高はある時期から現代文学の不振ということを盛んに言い立て、金井美恵子からその身振りを揶揄されたり、石原からも新潮での座談会で「小言幸兵衛」と言われていたが、そういう大仰な感じが、すべてにおいて彼の行動をわざとらしく見せるのだろう。三島にしても開高にしてもそういうあざとい感じが文学の外にいる人間にも受ける要因となっていたのだろうが、そのおかげで、文壇からは嫌われ、文学賞には恵まれなかった。坂本によれば、そのことで開高はふて腐れ、「最後に「夏の闇」を書いた時もみんな傑作だと褒めたのに、受賞を断ってしまった」ということがあったらしい。『夏の闇』は「文学賞の世界」というサイトで確認する限り、3つの文学賞の候補に上げられ、全て落選しているが、その中のどれかということだろうか。
ちなみに、江藤にも「俗物」的なところは多分にあって、江藤と大江がまだ決裂していなかった頃、江藤・大江・石原でよく飯を食べにいったらしいが、「江藤はなぜか開高をあまり呼ばなかったな」と石原は坂本に言っていて、それは恐らく同族嫌悪によるものだと思われる。大江と石原の追悼対談が載った『新潮』には、江藤による追悼文も掲載されているが、最後の「君がさっさと先に逝ってしまったのだから、私もそろそろ締めくくりの支度をはじめなければならない」という文章は、江藤が自殺したことを知って読むと不気味である。しかし、それに続く「今はやすらかに、うまい酒でも飲みながら待っていてくれたまえ」という文のセンチメンタルな臭みには、辟易するが。
江藤は石原文学の理解者としても知られていたが、石原本人は文筆家としての江藤を認めていなかったようで、『昔は面白かったな』では次のように言っている。
石原 (前略)江藤の文体は僕は嫌いなんだよ。「海は甦える」なんか、非常に説教がましくて、押し付けがましくて。彼の解釈とか理解には感謝はしたけど、文章は固くて説教がましかったね。でも、「幼年時代」はとってもこなれて、奥さんを含めた母親に対する本当の思慕が表れていて、いい文章だったね。
石原は江藤が「およそ非肉体的な人間だった」とも喋っているが、三島といい江藤といい、運動音痴から来るコンプレックスによって、石原に接近するということがあるようだ。石原文学を認めることが、コンプレックスの解消に繋がるかのように。石原本人も、その二人について「肉体的な条件から見て、僕に対して羨みみたいのがあったんでしょう」と言っている。「羨み」ということでは、伊丹十三と大江の関係もそれに近い気がする。運動以外では、江藤、三島共に、政治と関わることに関心を持ち、晩年の三島は先駆けて議員となった石原に変な絡み方をした。
三島と開高が文壇では不遇だったことは少し前に書いたが、石原もそれは同じで、『化石の森』が新潮の日本文学大賞の候補になった時は、同じく候補に挙がっていた福田恆存が劇団を抱えていて大変だということで、福田の 『総統いまだ死せず』が受賞した(河上徹太郎の『有愁日記』も同時受賞)。それを主導したのは、選考委員だった大岡昇平と中村光夫らしい。といっても、大岡に対してはそこまで憤ってはおらず、文学賞の選考に関して、石原が本当に嫌っていたのは吉行淳之介だ。
江藤は、第19回谷崎潤一郎賞の選評をもとに、吉行が文壇政治を行っていることを『自由と禁忌』で批判し、「文壇の人事担当常務」と呼んだ。その時の谷崎賞を受賞したのは古井由吉『槿』で、落選したのは中上健次の『地の果て 至上の時』だったが、中上と吉行は友好関係にあり、江藤と対談した時も、「(注:吉行について)僕は江藤さんのように、文壇の人事係とか、そんなふうに露骨には思わない」と擁護している(「今、言葉は生きているか」)。谷崎賞で中上を落とし続けたのは、丸谷才一だと言われている*1。
石原と吉行が激突したのは、『文學界』(1989年3月号)に掲載された、「賞ハ世ニツレ 芥川賞の54年に見る「昭和」の世相と文壇」と題された芥川賞を巡る座談会上でだ。出席者は、芝木好子・吉行淳之介・石原慎太郎・大庭みな子・池田満寿夫・池澤夏樹。昭和10年代から60年代まで10年ずつに分けて、その中で芥川賞を受賞した作家の中から代表者を一人ずつ選んでいる。石原と吉行の文壇政治をめぐるやり取りは以下の通り。
石原 やっぱり芥川賞は新人の賞ですよ。直木賞とそこが違うんだよ。直木賞はちょっとポリティカルなところがあるし、唯一芥川賞がフェアな賞だからいいんだよ。あとはアンフェアだよ、他の文学賞なんておおかた、芸術院と同じだ。ちゃちな政治がらみで本当に奇々怪々だもの。やっぱり芥川賞はフェアである限り続くでしょう。続いてもらいたい。
池田 それはフェアだと思う。ぼくに賞をくれたんだもの。
吉行 あのね、意地でフェアなの。
石原 しがらみがないからな。芥川賞をもらったあと五年、十年、みんな紙一重のところで闘ってるよ、それは。しかし、それから後の問題は、言わないけどいろんなことがあるよ。やっぱり総じて芥川賞以後のプロセスの賞にはいろんな問題がある。
吉行 そんなの、ないよ。
石原 ある。
吉行 ない。
石原 ある。あんた、芸術院なんてところにいて、そんなこといってたって通じないよ。
吉行 まあいい、あとでやろう。
吉行 芥川賞は公平だけど、情実がないといったほうがもっと正しい。
石原 ほかの賞は情実があるな。いろいろあるぞ。
吉行 情実というより、なげやりなところが出ざるをえない場合があるんだよ。
石原 うまいこと言うな、やっぱり文士は、言い逃れがうまい。吉行さんは日本の文学を投げてるわけだな。
吉行 いや、ちょっと聞いてくれ。違う角度からわかりやすく言うから。
石原 あなたのような人は毅然としてもらいたいね。
吉行 (前略)ある作家が芥川賞候補になったとき、人を介して、委員にたいしてどうすればいいんですかとぼくに訊いてきた。その頃ぼくは賞を貰って数年目といったところでね、もしそういうことをしたら、入るものも落ちるよと言っておいた。
石原 なるほど(笑)。芸術院とは逆だよな。
吉行 それから、これは特に石原さんに聞いてもらいたいんだけど、既成作家が既成作家の作品を決めるのは嫌なんだ。だから、新人賞は勉強のために、また一種の義務感で引き受けるけど、あとのものは一切ノータッチにしようと思って、谷崎賞の委員は三年断った。ところが、やっぱり浮世の義理というのがあるね。どうしてもダメだね、引き受けさせられた。あとは芋づるだよ。
ちなみに、この時点で吉行が選考委員を務めていた文学賞は、芥川龍之介賞・泉鏡花文学賞・ 川端康成文学賞・中央公論新人賞・谷崎潤一郎賞・野間文芸賞・読売文学賞・柴田錬三郎賞+日本藝術院会員。文壇の主要な賞にはほぼ顔を出していて、文壇政治家と見られても仕方がないところはある。もし賞が欲しかったら、後輩作家は自ずと吉行批判を抑えざるをえないからだ。
上にピックアップしたやり取りだけでも、結構険悪だが、活字にした際、結構削られたらしい。『群像』(2018年3月号)で行われた西村賢太との対談は次のように述べている。
石原 (前略)そもそもは、文藝春秋で芥川賞の集まりがあってね、そのときに僕が吉行に「お前は芸術院の会員か」と聞いたら「そうだ」と言うので、「俺を芸術院の会員にしろよ」と言ったら、「だめだ。君なんかは我々は必要としていない」と言うから、「偉そうなことを言うな。じゃ、大江をしろ。江藤をしろ」と言ったら、「彼らも必要としていない」と言うから、「おまえの小説は必要とされていないから全然売れねえじゃないか。彼らのほうがよっぽど売れてる。俺だってたくさん本が売れてるぞ。おまえと違って必要とされるより売れてるんだよ」ということでけんかになったんですよ。当時の「文學界」の編集長に、「これはちゃんと載せろよ」と言ったけど、遠慮して載せなかったんだな。その後、エーゲ海の何とかという変な小説を書いたやつ、何と言ったっけ。
西村 池田満寿夫。
石原 あれが酔っぱらって入ってきてゴチャゴチャになって、険悪な雰囲気がおさまっちゃったんだよ。(後略)
藝術院のことについては、『en-taxi』(2014年冬号)で行われた、坪内祐三によるインタビューでもこんな風に言っている。
石原 芸術院ってのは良くないよ、本当に。税金の無駄だよ。芸術院の会員を選ぶときになると、元老みたいな審査員が京都にいっぱいいるから、古典芸術に関係ある連中は賄物を持ってそこをまわるんだ。ただ、相手が多くて普通はとても一日じゃまわりきれないんだけれども、その専門の運転手に頼むと一日でパッとまわってくれる。どうも人間の世界っていうのは皆そうで、どこもアンダーテーブルですよ。
坪内 十数年ぐらい前に『佐藤栄作日記』が公刊されましたけど、あれを読むと、文化勲章の候補が決まる時期になると必ず東郷青児や堀口大學が佐藤栄作のところを訪ねてきて、それを「俗物なり」みたいな感じで佐藤栄作は書いているんです。
石原 佐藤栄作はそこまで読み切ってるわけだ。
石原と吉行のその座談会後も続き、大江の勧めで書いた『わが人生の時の時』(1990年)が、吉行が選考委員を務めていた野間文芸賞の候補となったが、吉行が「こんなのは小説じゃない」と言って落としたらしい。野間文芸賞は候補作を発表していないのだが、1990年度の選考会では吉行が欠席しているので、恐らく翌年のことだろうか。その際の受賞作は河野多恵子『みいら採り猟奇譚』(1990年)で、選評では全員河野の作にしか触れていないため、他の候補作が何だったのかは結局わからない。
参考文献・サイト
「藝術院とは何か?」を収録
おまけ
江藤淳は吉行淳之介を批判したが、江藤と対談した中上は吉行とは友好的だった。写真は『唐十郎血風録』より。