『前略 小沢健二様』
本書は『クイック・ジャパン 』Vol.5(1995年)の企画「拝啓・小沢健二様もしくは……どーしちゃったのさ、オザケン!?」を、増補して書籍化したものだ。「800円本シリーズ」の一冊でもある。
小沢の同級生、元バンド・メンバーらに取材した「同級生10人が語る小沢健二のスクール・デイズ」、「小沢健二の基礎知識」、ポリスターのプロデューサー牧村憲一にインタビューした「バック・トゥ”フリッパーズ・ギター”」、「ビニール・ジャンキー予備軍に捧げるオザケン元ネタ全曲解説」といった内容で、本書は構成されている。特に着目したいのは「同級生10人が語る小沢健二のスクール・デイズ」。『ロッキング・オン・ジャパン』1994年4月号に掲載されたインタビューで、小沢は学生時代について振り返っていたのだが、本書はその発言を同級生の側から検証するという形になっている。気になったものをいくつか載せていこう。
平林(インタビュアー) (和光中学では)毎年夏に全校生徒参加の水泳合宿が千葉県の館山海岸で行われますよね。そのときの思い出はなにかありますか?
森(和光の同級生) (小沢の)水泳が下手だったのを覚えてる(笑)。そういえば小沢、体育は苦手だったな。(p.9)
平林 あと、「フリッパーズ・ギター」 という言葉を、いま小沢さんがすごく嫌がっているのは知ってます?
(中略)
森 笑える。でも。なんでいやなの?
平林 わからないんですよ、それが。
森 何も言わないんだ。
平林 そうですね、ホントの理由は。でも、どうしてあんなに過敏に反応するのかな? かえって、フリッパーズ・ギターという言葉を使えと言っているようなモノじゃないですか。
森 ふと思ったんだけど、小沢って本当はすごく”さみしがりや”なんじゃないかな。きっとそれは、”もっと愛されたい”っていう気持ちの裏返しなんだよ。だってさ、そんなふうに”絶対使うなよ”って言えば、”えー、なんで? なんで?”ってみんなの関心が集まるじゃん、うまいよね、そういうことをする小沢って。
平林 さみしがりやの性格と頭のよさが同居してるんですか。
森 うん。嫌だ嫌だって言ってるけど、じつはあの言葉が好きなんじゃない。私はそう思った。(pp.14-15)
平林 (和光中学に)入学した当初の小沢さんの印象は?
井上(和光中学の同級生) まあ、あの性格だからやっぱりリーダー的なことは言ってたし。クラスをひっぱっていくことにも快感を覚えていたんじゃないかな。自己満足ってわけじゃないんだろうけど。
中学一年のときに担任を降ろした話は聞いてる?
平林 Y先生ですよね。
井上 そう。あのときは異常なノリがあったけどね(笑)。学校でもホント異例のことだったし。で、やっぱり小沢はあの性格だから筆頭に立つことになって。司会みたいなのをやってみんなを仕切ってた。(p.19)
平林 小沢さんが多摩高校に進学したことに関しては、どんなふうに受け止めていらっしゃいますか?
井上 たぶん和光のノリに冷めちゃってたんじゃないかな。遠泳とか。後夜祭なんかみんなでキャンプ・ファイヤーを囲んで歌ったりするじゃない。そういうスポ根っぽい部分が馬鹿らしかったのかもしれない。自由なところはよかったんだろうけど。文集とか読むと、冷めた対応してるのがわかるし。まあ、悪い印象を与えないようにうまくは書いてるんだけど。(p.20)
加川(和光中学の同級生) 夏、館山に行くじゃないですか? あれは一年の時だったから、僕なんか恐縮しておとなしくしてたんだけど……隣の部屋が大騒ぎで。何してるのかと思ったら、小沢君が、まさに三本目の足をだしていて。
平林 え? フリチン*1だったんですか?
加川 僕はそういうのを堂々と見れる人じゃないから、遠慮がちにチラッと覗いたら、そういうことを先輩にかこまれてやってのけてたから、スゴイな、と。
平林 やらされていたんじゃないですか?
加川 それにしては喜んでやってるみたいな……(笑)。しかもけっこう笑いながら。だから、いじめではないんですよね。あれは本人がやりたかったんだろうけど。できないよなー、スゴイなー、と思ってね。先輩にも一目おかれているというか。そういうの、僕はあんまり好きじゃないからおとなしくしてたんだけど、小沢くんは同期だけじゃなくて先輩とも対等に渡りあってるな、という気はした。
平林 それを見て?
加川 それだけじゃないけどね。あまり関わりのないグループとかにもどんどん入っていって、人間関係を築きあげているな、という。うらやましい気はしましたよ。(pp.27-28)
西野(和光中学の同級生) 小沢派みたいな人達がいたね。たんに仲が良いから一緒にいただけなんだろうけど……でも小沢派というイメージ。
彼自身がすごく枠を作るタイプだったし。それに彼のような人は、好かれるのも嫌われるのも激しいというか。どうしても反発する人間がでてくるから。やっぱり派閥みたいなものが何となくできたりする。
小沢のことが大嫌いで、「絶対に口をきかない」というのをポリシーにしていた女の子もいた。(後略)(p.32)
出口(和光中学の同級生) 性格はよかったと思いますよ。そんなに攻撃的な人じゃなかったし。すごく穏やかそうに見えたんだけど……でも、いま思うと、本当はクラスメイトを見くだしたようなところがあったのかな。
私がそう思うようになった理由は、音楽雑誌を立ち読みしていたら、彼が和光のことをすごくバカにしたふうにしゃべっていたから。それを読んで、「なんかヤな学校に渡しは通っていたんだな」と思わされました。
平林 あ、逆にね。そういうことを言っていた小沢さんを嫌になったのではなく、彼の言葉によって、和光は嫌な学校だな、と思わされた。
出口 私はいい学校だと思って通っていたんですけどね。なんか、それを読んでちょっとガッカリしたというか、小沢くんのこともちょっとムカついた。
平林 たぶんそれ、『ロッキング・オン・ジャパン』の九四年四月号じゃないかな。
出口 何だったんだろう? けっこう自分のことをサラブレッドみたいに言っていた。(pp.48-49)
出口 小沢征爾さんが私たちの合唱のために指揮をしてくれたことがあったんです。私はもうちょっと大人になってからスゴイ人だということを知ったんですね。小沢さんの書いた『ぼくの武者修行』とかも読んで。「すごくカッコいい人だ」と思った。
そのときは小沢さんのスケジュールに合わせて授業をつぶして。かなり気さくな方だったんで、ずいぶんみんなを盛り上げてくれました。
男の子を前に呼んでちょっと歌わせて、「こうしたほうがいい」と言ってみたり。「学生の頃は音楽よりスポーツに熱中していたんですよ。ただ、ラグビーをやっていて人の指が鼻に入ってしまった。そのときに鼻が折れたので今はこんなすごい顔をしているんです」とか。そのあと実際に合唱練習になって、「ここはもう少しゆっくり」とかいう感じで教えてもらった。
平林 そういう場面で周囲を盛り上げるみたいなところは、小沢さん本人にもあるような気がしますね。
出口 ああ。たぶんそれ、家系じゃないかな。お兄さんもそんな感じだし。大学教授のお父さんもそんな感じ。本を読んだ限りでは、小沢征爾さんの弟もわりと人なつこくてまわりを盛り上げるタイプみたいだし。
そういえば小沢くんも指揮する時よくタートルネックを着ていたんですよね。小沢さんって指揮者なのにタートルネックを着ることでも有名じゃないですか。(pp.51-52)
加藤(多摩高校の同級生) ふだん彼(小沢)はほとんど勉強しないんですけど、テスト前とかになるとすごい勢いでやるんですよ。テスト期間中は授業が早く終わりますよね。「家に帰るとできない」と言って学校に残ってずっと勉強をしているんです。(後略)(p.66)
加藤 多摩高の生徒は、大ざっぱに言うと三通りのタイプにわかれるんです。こつこつと勉強してきたタイプ。スポーツも勉強もできてリーダーシップもとってきたタイプ。たいして勉強もしないのに出来る天才タイプ。僕は彼は最後のタイプだとばかり思っていたんですよ。
平林 面白いですね。実は正解は二番目のタイプ。
加藤 雑誌を読んで中学時代の彼を知ったんです。ビックリしました。高校のころの彼はそういうところがまったく感じられなかった。
あと、『月刊カドカワ』で吉本ばななと対談してましたよね。”わりとぼく人を怒らせるタイプなんですよ”みたいなことを言っていたけど、当時からそういうところがあって。
平林 どんなふうに怒らせるんですか?
加藤 自分がいかにデキルかということを、皮肉っぽく言ったりするんです。そのときの対応を見て、相手の人間性を判断しているところがあるんですね。でも、たまに度が過ぎるからカチンとくる人がいるんです。ぼくなんかは、「すごい!」という感じで素直に聞いていたんだけど(笑)。
平林 ケンカになったりはしなかったんですか?
加藤 あからさまにはなかったですね。そういうことで対立するとプイッとどこかに行ってしまうから。(pp.66-67)
栗田(多摩高校の同級生) あの人、どこにいてもすぐにイヤになるんじゃないのかな(笑)。多摩高のことも嫌いだったんですよ。というか、何もかもイヤなんですね。学校もイヤ、世の中もイヤ……嫌いな人ばっかり。そんな性格で生きていけるのかなあ、と思っていましたけど。
平林 和光の同級生のあいだでは、小沢さんは大人に見えた、という意見が多かったんですけれども。
栗田 たぶん、妙に達観しているような雰囲気を持っているからそう見えたんでしょうね。ただ私は、それほど大人でもないんじゃないかなと思いますけどね。だって、『ライフ』なんて、すごく直接的な歌詞だったでしょ。
平林 あの歌詞は栗田さんの良く知る小沢健二のもの?
栗田 というか、フリッパーズ・ギターのときって、すごく離れたところから人ごとみたいにモノを見ているような気がしたんです。だから今は、「そんなことばかりしていてもしょうがないんじゃないか?」と思っている時期なのかなあ、と。きっと、そういう自分の状態に正直になっているだけだと思うんですよ。これからどうするかなんて、決めていないんじゃないのかな。(pp.83-84)
平林 (フリッパーズ・ギターは)妙な上昇志向が全然なさそうなバンドでしたよね。それが「らしい」という感じでしたけど。
荒川(ロリポップ・ソニック&フリッパーズ・ギター、元ドラム) 上昇志向なんてなかったしメジャーも関係なかったし。いまの自分が言うのも変ですけれど”メジャー・ヘイト”だったから。インディーでOKでしょ、クリエイションとかで出せたら、という感じ。それはとうぜん小沢くんも同じだったと思うし。
あの頃(88年頃)、小沢くん、日本語の曲とかも書いていたんですよ。ひとりで作ったデモテープがあぅって、いくつかロリポップのプロットもあったんですけど、ほとんどが自分のものという感じ。もちろん今の曲とはぜんぜん違う。ブリティッシュのインディーポップの感じを日本語で歌ってた。オリジナルラブとかすごく好きだったみたいだから*2、どちらかというとXTCみたいなちょっとひねくれた曲に日本語の歌詞を乗せるという。
小山田くんと仲が悪いということはなかったし、曲でぶつかることもなかったと思うし。「コーヒー・ミルク・クレイジー」は小山田くんの曲ですけど、ギターソロとかは小沢くんがひとりで考えたと思うんですよ。二人で共同作業をやっていたんじゃないですか?
平林 じゃ、そのあたりの経緯がまったくわからずに、目の前に曲がドンと置かれると言う(笑)。
荒川 「これちょっとウドゥン・トップス風にね」みたいに言われて、「ウドゥン・トップスのどの曲かな?」と思ってみたり。「これはふまえるけど、このパターンは入れていい?」と言ってみたり。ホントに”バンド”という感じだったんです。
平林 小沢さんが入る前は小山田さんがひとりで曲を作っていたんですか?
荒川 そうですね。小沢くんとやろうという話はあったんですけど、「受験だからちょっと待ってくれ」みたいな雰囲気だったんですよ。
で、小沢くんが入ってくるとすぐに井上(由紀子)さんの家に合宿してデモテープを作りはじめて。だから、バンドに参加したらいきなり曲をつくりはじめたという感じになってんですね。(pp.88-89)
平林 このままプロになるんじゃないか、というふうには思っていましたか?
荒川 ぜんぜん思っていませんでしたね。とにかく「今がいいや」みたいな(笑)。大学に入る前だったから、受かってバンドやる時間があればいいな、と。
ロリポップをやっていたとき、小沢くんは大学一年生だったじゃないですか。六本木インクスティックでライブをやって朝になっても、「ウチに帰って一限から出るんだ」とか言ってたし。「大学卒業したらこんなヤクザな商売はやめてちゃんと就職する」とも言ってましたからね。けっこうしっかり人生設計していたんですよ。
平林 バンド全体ではなく、小沢さんと小山田さんの二人に限っておたずねしたいんですが。やっぱり当時からすごく才能があったと思うんですよ。荒川さんは、あの二人がプロになるとは考えていなかったんですか?
荒川 そうは思っていなかったんですよ。たしかに最初から、曲もいいしすごく才能がある、とは思っていたんですけど。
いまはあの手の音楽は当たり前ですが、当時はなかったわけで。”イカ天”が全盛期のころですよね。プロになって行くバンドといえば、ブラボーとかフライングキッズとか、もう気持ち悪いのばっかり。「そんなところに行ってもしょうがない」というのがみんなの口癖だった。「こんな音楽は売れないし」とか言いながらやっていたんですよ。周りの友達のバンドとかと楽しくやっているだけでいいという。「どうして日本語でやらないの?」と言われても二人は迎合しなかったわけです。(pp.89-90)
平林 デビューにあたってフリッパーズ・ギターという名前にしたんですよね。
荒川 そうですね。レコーディングが終わる二日前くらいに「今日までに名前を決めないとダメだよ。じゃないとこっちで勝手に決めるからね」と脅かされて。いろいろと五人で考えたんですけど、どれもピンとこなかった。ロリポップ・ソニックという名前にも愛着があったし。「名前を変えるなんてダメだよね」なんて言ってた。
でもまあ考えよう、ということになって。そのとき小山田くんはスタジオでミックスやっていたから、「名前は二人で決めてくれ」という感じ。で、小沢くんと僕とでずっと考えていたんです。辞書とかネタ本とか持ってきて、パーッとめくって「ココだ!」って開いてね。でも全然ダメ(笑)。
そのすえに出た名前がフリッパーズ・ギターだった。『わんぱくフリッパー』を見たとき、「ピンボールにもフリッパーがあるしイイんじゃないの」ということになって。それにギターを付けたんです。「楽器の名前がいいよね」なんて言ってたから。フリッパーズ・ドラムとかもあったんですよ。僕はドラムがいいって言ったのに(笑)。
で、見せに行ったら、「ああ、いいね。これでいいよ。名前なんて後からついてくるものだから」だって(笑)。(pp.92-93)
平林 (ファースト・アルバムを)出した後に反響はあったんですか?
荒川 いや、ぜんぜんなかったと思いますよ。
平林 でも、色々な音楽雑誌で見たような気がするんですけれどね。
荒川 たぶん、広告の打ちかたがうまかったと思うんですよ。例えば、その頃は『オリーブ』に広告を打つなんて誰もやらなかったことだし。
平林 いろいろなレコ評をコラージュした広告とか。
荒川 ありましたね。みんな、音楽雑誌なんていちいち読んでいないと思うんですよ。『オリーブ』みたいなファッション雑誌に出たりしたから目についたんじゃないのかな。なんといっても、最初は三〇〇〇枚ですからね。ぜんぜん売れなかったですよ。あとからついてきたみたいですね。(p.94)
平林 (前略)荒川さんから見て二人はどう認め合っていたと思いますか? あるいはどう対立していたか?
荒川 対立にに関しては基本的にわからなかった。それはたぶん、井上さんという存在が大きかったからだと思うんですよ。彼女には我が強いところがあって、二人に「どうして? どうして?」とつっかかって行くことがしばしばあったから。ようするに共通の敵がいるようなものだったんです。
平林 じゃ、いい三角関係が保たれていたわけですね。
荒川 そうですね。「いろいろ言ってきてうるさいヤツだな」みたいな感情が二人の間にはあったと思うんですよ。「からかっちゃおうぜ」とか。それでまた井上さんが怒る。そういう平和的な感じだったと思う。
音楽的なことに関して言えば、小山田くんは小沢くんに「きみは詩がすごい」とか言っていたと思うんですよ。だから、詩はほとんど小沢くんに任せて。小山田くんが日本語で書いてきた詩を小沢くんが英詩にするっていうのもあったけど。
一方、小沢くんは小山田くんをヴォーカリストとしては尊敬してる。それに小沢くんはけっこうヒネくれた感じのハモをつける。いぶし銀っていうのかな(笑)。
だからお互いに、「おまえは詩がすごい。ハモもすごい」「でもきみはヴォーカリストとしてすごいね。コマーシャリズムというか、表に立つのもすごいよね」とかって話していたと思うんですよ。
言い方は悪いんだけど、お互いのいい部分を使っていた、というところかな。ただ、使い合うというのは理想的な関係だから。使えるところがあればずっと関係は続くわけだし。使えなくなってしまうから、嫉妬が生まれて解散ということにもなる(pp.95-96)
荒川 小山田くんがすごいのは、やったことに対してみんながついてくるところですよ。今回のアルバム(『69/96』)だって、そんな売れる感じじゃないし、注目されそうでもない。けれど、小山田ブランドみたいのがあって、やっぱりみんながついてくる。直感でやっていく天才肌ですよね。でも、小沢くんは「これはこうだから」みたいに考える。
平林 本人は嫌がりますけど、やっぱり小山田さんは和光を引っ張っていたじゃないですか。やることなすことすべて流行ってしまう。
荒川 「小山田くん、最近なに聞いてんの?」「アメリカのハードコア」「エッ!」。それでみんなが「ワーッ」となって聞き始めるでしょう。
平林 ファッションなんて特にそう。和光のなかだけでなく、ストリートも遅れてついてくる。『オリーブ』の街頭スナップに小山田さんが載ると、そのとき着ていた服がとつぜん流行りだしたり。
荒川 そうなんですよね。それ、僕もすごく思ってた。小山田くんの場合、なに気ない古着をきるだけでもカッコイイじゃないですか。そのあたりは小沢くんはまあチョットという感じ。同じ服を着たとき、どうしてこんなに違うのかな、と思ったこともありますね。
だから、小山田くんは二〇〇万枚~三〇〇万枚はいかないかもしれないけど、それは好きなことをやってるからであって。ちょっと考えたらそこまでいく要素はいっぱい持っている。好きなことをやってもある数のセールスまでは行くからスゴイんですよ。小沢くんも考えてあそこまで売っているんだったらそれは大変なことだし。
平林 本当に小沢さんと小山田さんは対極的な存在ですね。きっとフリッパーズ・ギターの解散にもそういったことが関係しているんでしょうね。
荒川 力を使い合う理想的なバランスが崩れてしまったときなんでしょうね。そうなると一緒にやっていても、つらい部分のほうが多くなる。(後略)(pp.98-99)
荒川 最近、小山田くんがまたバンドやりたいって言い出したんですよ(笑)。でも、やったとしても、たぶんメンバーがついてこれないだろうな。やっぱりジレンマに陥るんじゃないですか。「きっとフリッパーズ・ギターの時みたいになるんだろうな」 と言っていましたしね。言葉の端々から、究極的にはひとりで全部やりたい、という雰囲気がにじみでていました。それで小沢くんともそうだったのかな? と勝手な想像をしてるんですけど。お互いに、この曲がやりたいあの曲やりたい、というふうになって。
『ヘッド博士の世界塔』がコンセプトアルバムだとか言われてるけど、僕はバッファロー・スプリングフィールドのサードの『ラスト・タイム・アラウンド』みたいにかなりグチャグチャなわかれ方をしている感じがする。または、解散間際の藤子不二雄。そういう匂いがプンプンしている。かなりキビシイでしょう。実際にバッファロー・スプリングフィールドのコラージュみたいなのが入っていますからね(笑)。(pp.100-101)
コンセプトアルバムとされている『ヘッド博士』が実は「グチャグチャなわかれ方をしている」という指摘は面白かった。グチャグチャだからこそ、コンセプトアルバムという風にして、あたかも統一感があるかのように見せかけたのかもしれない。
あとは、「小沢=秀才、小山田=天才」論も興味深い。『LIFE』を出した頃の小沢は、家系自慢とかちょっとの勉強で東大に入ったみたいなことをテレビで言って、育ちの良い天才として振舞おうとしている感じがあったけど、本人も自分が「秀才」だという自覚があったんだと思う。
- 作者: 平林和史,FAKE,佐藤公哉,串田佳子,村田知樹,進藤洋子,PWM‐ML
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