『五分後の世界』の元ネタと龍と蓮實の微妙な関係
「残酷な視線を獲得するために」と題された村上龍と蓮實重彦の対談(初出は「ユリイカ」臨時増刊「総特集 村上龍」青土社、1997年)で、村上は『五分後の世界』がメイラーの『裸者と死者』に影響を受けたことを明らかにしている。
僕は、ノーマン・メイラーってあまり好きじゃないんですけど、やっぱり『裸者と死者』というのはすごく、妙にインパクトのある作品で、原稿用紙にして多分、何百枚を費やして書いた中尉みたいなのが一行で死ぬんですよ。戦争というのはこういうものだというのが、一行でその人物が消えてしまうというのでわかってしまう*1
上記の村上の発言は、直接的には、蓮實が「『五分後の世界』では小田桐がアンダーグラウンドに行って、女性に会いますよね。彼女は後で出てくるわけじゃなくて途中で死んでしまう。つまり彼女はあそこの瞬間しか描写されていないわけですよね。今までの書き方をなさっていたら、彼女は生かしますよね。次に使うというのがあるでしょう。そういった手法がすごく面白かった」と述べたことに対する回答だが、村上が発言する直前に、蓮實から「僕は、はじめから村上春樹は小説家ではないという理由のない確信がある。(中略)何をやりたいんでしょうね、あの人は」と質問されたのを、かわすために持ち出した話題でもある。
村上が「中尉みたいなの」と言っているのは、ロバート・ハーン少尉のことで、彼は主要登場人物中、ほとんど唯一のインテリであり、独自のファシズムを展開するカミングス将軍と敵対する役割を担っている。カミングス将軍の命令によって、他の兵隊を引き連れ、偵察に出ることになったハーンが、一発の銃弾であっけなく即死するシーンは、この小説を通読した人間の多くが印象的に感じるシーンの一つである。
メイラー自身は、「フィクションの技術」と題されたインタビュー(パリ・レビュー 第31号 1964年)で、E・M・フォースターに、多くのことを学んだと述べている。
『最も長い旅』(邦訳『果てしなき旅』岩波文庫)の四章の途中ぐらいで、ページを繰っていくと、こういう文に出会う。「その日ジェラルドが死んだ。ラグビーの試合中、彼は撲られて死んでしまった」とね。これが実に小説としては異常なやり方だ。だって、ジェラルドは小説の冒頭から非常に重要な登場人物だったからね。しかし、彼が突然、しかも唐突に死んでしまうから、他の人物たちの性格が急に変わり始める。これを読んで、人物の性格というものは僕が考えていたよりもはるかに流動的であるし、劇的で、意表をつくものだし、また不正確でよいということを学んだ(岩元巌訳)*2
メイラーがフォースターを読んで、上記のことを意識したのは、『バーバリの岸辺』以降のことらしいので、『裸者と死者』に影響された村上と直接はリンクしないのだが、感傷を排したスタイルで重要だと思われていた登場人物をあっけなく抹消する、という描写にフィクションの技術として、作家・評論家らが、注目しがちであるということは、ここまでの記述からわかってもらえるだろう。逆に言うと、あるフィクションの中で、褒めるところが見つけにくい場合、そういう部分が余計に取り上げられることもあるはずだ。淀川長治が、テレビの映画紹介で全体を褒められない時に部分批評をすることで乗り切った、というのは蓮實が言ったことだが、『五分後の世界』の褒め方も、幾分、そんな感じがしないでもない。蓮實は、逃げ場を用意しつつ、村上と対峙しているのではないか?
というのも、蓮實はこの対談の冒頭で単独の村上龍論を書く意志があったと言いつつ、結局は『ピアッシング』の文庫版によせた、かなりレトリックに富んだ解説文(『魅せられて 作家論集』に収録)ぐらいしか書かなかったし、映画に関してもこの対談の後の方で村上に、「僕は思うのですが、例えば、職業監督として演出に徹してみませんか、一度?」と提案しているのが、暗に村上の脚本が良くないということを告げているのに等しく(宇多丸も松本人志に対し、タマフルの映画評論コーナーの中で同じような提案をしたことがある)、つまり、蓮實は心から龍を認めているわけではなくて、春樹の対抗馬(対談では『ねじまき鳥クロニクル』の話題が出た)として戦略的に持ち出しているようにしか思えないのだ。実際、21世紀に入ってからの二人の交流はほぼない。「群像」(2001年1月号)で行われた村上龍・柄谷行人対談では、柄谷が批判的に蓮實ことを取り上げ、ちょっとした緊張が走っている。ちなみに、『五分後の世界』の文庫解説を書いたのは渡部直己である。