「舞姫」を批判する男はモテるのか?

 森鴎外の短編「舞姫」は、教科書に掲載され、鴎外の作品の中で最も人口に膾炙したものだろうが、エリートの男が留学先で女を身勝手に捨てるという不道徳な内容から、発表当初より批判があり、また鴎外本人の身に起きたことを小説化していたため、小説・作家の両方が結びついたまま、現在も倫理的な側面から批判されることが多い。少し前にもツイッターで話題になっていた。

 俺のようなモテない人間からすると、この小説は「モテ自慢」にしか感じられず、まったく好きになれない。元不良の「昔はヤンチャしてた」という告白の不快さに近いものがある。文芸には、モテる男がひどい理由で女を捨て、それを懺悔・告白する、というような物がいくつかあって、例えば、トルストイの『復活』とかキルケゴール『誘惑者の日記』などだが、「舞姫」もこの系列に入るだろう。

 それで、俺は「舞姫」のことが嫌いだったのだが、それを誰かに言ったりもしなかった。言う相手や機会がなかったからだ。しかし、二年ほど前、ある出版社に就職試験を受けにいった際、「舞姫」について語る機会が初めて生まれたのだった。

 それは面接の待機中のことで、同じテーブルにいた早稲田の女の子が、話好きなのか、不安なのか、司会者の如く周囲の人間に順々に会話を振っていき、ぎこちなくコミュニケーションが進んでいた時に、確か小説の話になって、普段小説はあまり読まないという彼女が、「『舞姫』なら教科書で読んだ」と言ったのだ。

「俺は『舞姫』嫌いだな。あの主人公が」

「え、男の人で『舞姫』嫌いな人っているんだ。びっくりした」

 俺はここで少し得意になったことを覚えている。なぜなら、彼女が軽蔑している「『舞姫』的価値観」を否定することで、彼女のリスペクトを得られたと思ったからだ。童貞の俺は初めて女から「男」として認められたと感じた。

 大学三年の時、俺はフェミニズム関係の本を読み漁ったり、フェミニズムについての授業をとったりした。大学入学以来まったくモテなかった俺は、「女にモテないのは、女を知らないからだ」と考えたのだ。それで、提出するレポートなんかも、フェミニズムを取り入れたものが多くなった。成績はかなり良かった。「ここをこう書けば褒められる」というのがわかったからだ。フェミニズムというのは「理論」なので、ソフトのようにインストールできるのである。最初はある程度本気で書いていたのだが、段々「これは阿っているだけだ」と気付いた。それに、そういうこと書いたからといってモテるということもなかった。

 男がフェミニストであり続けることの難しさはここにある。つまり、「理論」と「現実」は、必ずしも一致しないのだ。実際、「女」といっても多種多様で、高学歴な女もいれば低学歴の女もいるし、言動がマッチョな男が好きな女もいれば、たんに性格の悪い女もいる。現代のフェミニズムはそのすべてに対応しているわけではなく、「高学歴」や「エリート」が理論の中心となっていることは否めないだろう。しかし、「女」であれば、当事者なのだから、フェミニストであり続けることはできる。だが、男のフェミニストは、「フェミニズムを理解する男」というメタ的な立場にしかなれない。性差別の問題において、男は常に加害者となるが、これを「理論」として飲み込めても、「現実」においては納得できない場面が絶対に出てくるだろう。

 それでも、積極的に「フェミニスト」を名乗る「男」はいるわけだが、それは「理論」の世界の中に閉じこもっているから出来ることで、そんな彼らの言葉には人間味というもの感じない。そこにあるのは歪な正義感だけだ。

 なぜ彼らがそんな風になったのかといえば、俺が「舞姫」を批判した時のように、そういった言動である種の女からの承認を得ることができたからか、もしくは、太田豊太郎のように女に対してひどいことをしたことがあって、その罪悪感からフェミニズムに走ったかのどちらかだと思う。

 フェミニストだからといって必ずしもモテるわけではないが、「優秀な少数派」として認知されれば、モテる機会は増えるだろう。エリートでありながらフェミニストというのが、恋愛市場において価値を生むのだ。その恵まれた立場に行きつくまでに様々な現実を通過しなければいけないはずだが、その辺は無視される。もし、フェミニストを名乗る男が急増すれば、フェミニストであることは意味を失うだろう。「少数派」であることが、男のフェミニストにとっては重要なのだから。

 結局のところ、「舞姫」を批判するだけでは、女からモテることはない。太田豊太郎のような人間だけが、フェミニストから認められる「フェミニスト」に変身できるのだ。

 

阿部一族・舞姫 (新潮文庫)

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