中上健次と「文壇」

「文壇」というものを体現していたのは中上健次が最後だ、ということはよく言われる。それは、中上が俗に文壇バーと呼ばれる場所で大いに暴れ、そして、その行為自体が一つの「批評」として受け止められていたからだ。角川書店時代に中上と付き合いのあった編集者、見城徹は『編集者という病』の中で次のように記している。 

 

(前略)例えば、「茉莉花」という新宿のクラブでも、中上は度々暴れました。そこは野間宏水上勉から高橋三千綱村上龍まで当時の錚々たる作家や詩人たちと各社の文芸編集者の集う場でもあり、銀座ほど高くはないけれどホステスもいて、彼女たちも文学の話で客をもてなしてくれました。キャンティとは違った角度で、そこもまた特別な理想郷で、認められた者だけが常連になれる雰囲気があったんです。ある日、芥川賞をとったばかりの三田誠広がたまたま居合わせた中上に挨拶に来ると「〝僕って何〟だ? ふざけんじゃねーよ」と怒鳴りながら、ミネラルウォーターの瓶で殴り、その上パンチを繰り出して三田の肋骨にヒビを入れてしまった。その理由が〝三田を文学として認めない。だから殴るんだ〟というメチャクチャなもので……。ただ黙って殴られている三田にも文学を感じましたね。

  

 瀬戸内寂聴も『奇縁まんだら 続』の中で、中上が『文藝』の編集者、寺田博を叩き割ったビール瓶で殴ったエピソードを書いており、酔った中上の暴力というのは日常茶飯だったようだ。

 中上はその作風や言動から「マッチョ」や「ホモソーシャル」とも評されるが、「マッチョ」に関しては前述したエピソードが該当するだろう。「ホモソーシャル」については、金井美恵子の「ある微笑」という、中上が死んだ時に書かれた追悼文に少し描き出されている。

 一九八六年、ある文壇バーの閉店パーティーが行われ、そこに金井は参加していた。中上は遅れてバーに到着すると、ポール・アンドラの家で開かれたパーティーに参加していたのだけれど、さみしくなってここに来たと言う。そして、「どういう加減でそうなったのか、気がついてみると中上健次は、編集者と批評家と若い小説家に、いつの間にか店内にガンガン響いていたモータウンサウンドにあわせて、まるで叱咤するかのように、さあ踊れよ、と声をかけ、さらには強引にシャツを脱がせて上半身を裸にしてしまうものだから、あまりのことに、こういうのって、醜悪じゃないの、と上半身裸の決して美しいとは言えない肉体群をアゴでしゃくって、声をかけると、確かに醜悪だよな、と、脱げ脱げと叱咤し気合をかけるだけで大事そうにカシミアのコートを着たままの当人は周囲を見渡しごく冷静に言い捨て」た。

 その後、二人は金井の家で金井の姉と一緒に飲み直し、中上は泊っていった。次の日、中上は前日の出来事を振り返り、「本当に日本の文壇はホモ集団だから、あんたなんか仲間外れで、まともに批評もされない」と金井に言い、金井が「あんたのことはみんな愛してるんじゃない? あの人たち」と返すと、「みんな一列に並ばせてケツを出させて、順番に掘ってやろうかな」と「嬉しそう」に言ったらしい(実際にその光景を想像したら、「気持ち悪いよなあ」と吹き出して笑ったそうだが)。

 金井は中上のそれらの言動を、「愛に応えずにはいなかった中上健次」と表現し、出来の悪い連中とあえて付き合う彼の行動原理を分析している。また、中上はマッチョで無教養な物言いをすることがあったけれども、他の奴らよりかははるかに知性的であったという風にこの追悼文では書いているのだが、中上にあまり感心したことのない私としては、おぞましさばかりが印象に残った。

 中上健次が「文壇」の中心となれたのは、小説の良し悪しだけではなく、酒場で出来の悪い「男」にも惜しみなく「愛」を振りまいていたからだろう(中上本人は他人事のように「ホモ集団」と言っているが)。そして、中上から愛を振りまかれた人々は、金井が言うように、自分だけが愛されているのだと勘違いした。その「愛」が、普通では考えられないほど過剰なものだったから。

 だが、中上の本質は博愛主義なのだ。それはまるでキリスト教のようだが、寵愛・教えを受けた「男」たちが、教祖について積極的に語り継ぐという構図はかなり似ている。中上の暴力が「批評」として好意的に受け止められたのも、それが「愛」の裏返しであり、文学に真剣なるあまり殴っているのだと、みんな解釈したからだった。金井は追悼文の中で「過剰」という表現を使っていたが、「文壇」の不在について語る人々は、今は過剰な人間がいないのだということを言っているのだろう。

 

編集者という病い (集英社文庫)

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奇縁まんだら 続

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