童貞と男の娘③

 大阪を離れてから二日後の月曜日、俺は歯医者に行く予定があった。右下の奥歯の真下に、良性の腫瘍があって、それが大きくなっていないか確認するため中学生の頃から毎年レントゲンを撮りに行っているのだが、その日の朝起きると、かなり具合が悪かった。前日の夜から体の不調を感じていたのだが、市販の風邪薬を飲めば大丈夫だろうと高を括っていたら、全然治っておらずむしろ悪化していた。間違いなく熱があるような気がしたが、一番気になったのは喉の痛みだった。すぐさま俺は「性病じゃないか?」と疑った。

 急いでネットで検索すると、咽頭クラミジア咽頭淋病というのが引っかかった。これらの病気はオーラルセックスで感染するらしい。しかも、そこに書かれている症状が、今の状況とほぼ一致している。どうやら、普通の風邪と見分けがつかないとか。俺はすぐに病院に行かなくてはと思った。それで近所の性病科のある病院をいくつか調べてみたら、運が悪いことに、個人病院だからか、全部お盆休みに入っていた。お盆でもやっている大学病院には性病科がなく、途方に暮れていたところ、yahoo知恵袋で「泌尿器科でも咽頭クラミジアの検査はできる」と書いている人がいて、藁にも縋る気持ちでそれを信じ、最寄り駅から二駅先にあるT大学病院に自転車で向かった。高熱で煮えたぎった脳の中では、ヘンリー・ミラーの『南回帰線』のある部分がぐるぐると旋回していた。

 

 ズボンをぬいでいたとき、ぼくはふとクロンスキーの奴に言われたことを思い出した。さっそく一物を取り出ししげしげと眺めてみたが、いつもと同じ無邪気な表情だった。「梅毒にかかったなんて言わんでくれよ」と言い聞かせながら、ぼくはそいつを手に取り、膿でも出ないかためそうとするように、ちょっとばかり絞ってみた。いや、梅毒にかかるなんていうことは考えられなかった。ぼくはそんな星の下には生まれていないはずだった。淋病──と、こいつのほうは十分可能性があった。淋病なら、だれでもいつかはご厄介になる。だが、梅毒だけはいただけなかった!(河野一郎訳)

 

 俺のペニスもまだ「無邪気な表情」をしていた。だが、今後どうなるかわからない。それにしても、たった一回の風俗で性病にかかるなんて、なんて不運な男なんだろう、俺は……。今となっては手遅れだが、たとえフェラでも、コンドームをつけてするべきだった。

 例の悪夢のこともあって、ミラーとは逆に、段々それが必然というか、そういう星の下に生まれてしまったというか、何かの罰のようにも思えてきた。人類の歴史では、梅毒とかエイズといった強力な性病が流行るたびに、宗教勢力がそれを「天罰」と見做してきたが、セックスというのは罪悪感と結びつきやすいから、そういう発想に至るのだろうけど、性病にかかった側(まだ決まったわけではないけど)としても、「天罰」と考えるほうが納得いくような気がした。それは性病というのが交通事故の如く不意に訪れるからで(初めから性病を覚悟してセックスする奴はほとんどいないだろう)、これを「偶然」と割り切るには、パニックに陥らない強い精神力が必要だった。

 不安が極限に達した頃、病院に着いた。そして、受付嬢を視界に入れた時、彼女に性病について告白しなければいけないのだと想像すると、自然に足が止まった。それで、受付の周辺を不審者よろしく無暗にうろつき、五分ほど悩んでから、清水の舞台から飛び降りるつもりで泌尿器科への案内を頼んだ。特に症状については聞かれなかったのでほっとした。俺は診察券を泌尿器科の受付に出し、待合室のソファに座った。性病とは無縁そうな老人しかその場にいなかった。そのうちに、診察室から古強者といった感じのおばさん看護婦が出て来て、「氷川さん」と俺の名前を呼んだ。

「はい」と言って、俺は立ち上がった。

「今日、どうしました?」

 俺は言葉に詰まった。周囲に人がいるからかなり話しにくい。

「ちょっと、喉が……」

「喉?」

「いや、性病というか、風俗で病気をもらったかもしれなくて……。喉のクラミジアじゃないかと……」

 俺は相手に聞こえてるか不安になるぐらい小声で喋った。

「遊んじゃった?」

「ええ、まあ」

「遊んじゃったか。それだったら、ここじゃ検査できないねえ」

「あ、そうなんですか」

「保健所で検査できるから、まずはそこに行って、そこで結果が出てからだねぇ」

「わかりました」

「今日のところはカードを返しておくね」

 カードを受け取り、俺は逃げるように病院を脱出した。保健所で性病の検査が行われていることは知っていたが、保健所の指定する日じゃないと検査ができないからこうして病院に来たのに、泌尿器科じゃそれが出来ないって何なんだよ、と羞恥心に由来する激しい怒りが沸き上がった。

 俺は電車に乗って新宿に向かった。新宿には、お盆でも休みじゃない、性病科のある病院があって、最初からそこに行けば良かったと今更ながら後悔した。しかし、俺は母親、祖母と同居しているから、遠出するとなると説明しなきゃいけないので、できれば近場で済ませたかったのだ。もちろん、今日も歯医者に行くことは言っているが、性病のことについては一言も告げていないし、熱があることも教えていなかった。すべて内々に終わらせたかったのだ。

 歯医者の予約は十六時だったから、昼頃に新宿につけばそれに間に合うと考えた。電車のなかでは、ずっとスマホで淋病、梅毒、エイズについて調べていたが、混乱してあまり頭に入ってこなかった。

 都営新宿線新宿駅で降り、そこから五、六分歩いたところにある雑居ビルの五階にその病院は入っていた。エレベーターに同乗した白人と風俗嬢っぽい女も、同じ階で降りたので、密かに苦笑してしまった。この病院は、内科もあるが、基本的には性病の検査・治療で有名らしく、恐らく患者の半分以上は、それ目的なのだろう。待合室は場所柄的に、二十代、三十代が多く、荒っぽい感じの人間も少なくなかった。さっきの大学病院と違って、「性病仲間」という意識が生まれるからか、受付で症状を説明してもあまり恥ずかしさを感じないのが良かった。体温計を受け取って、今日初めて熱を測ったら、三十八度を超えていた。そのわりには動けるなと思った。

 問診表を記入してから、三十分近く待って、診察室に呼ばれた。眼鏡をかけた三十後半ぐらいの男の医者だった。

「今日はどうされましたか?」

「喉が痛くて、熱があるんです。風俗に行ったから、それが原因じゃないかと思って」

「風俗に行ったのはいつですか?」

「先週の金曜日です」

「じゃあ、まだ二日しか経ってないんですねえ。早すぎると、検出されないことがあるんですよ」

「そうなんですか」

「一応検査しますけど、一週間以上経ってもまだ具合が悪かったら、また再検査ということになりますね」

「あの、薬とかは出るんですか?」

「申し訳ないんですが、検査の結果が出ないと薬は出せないんですよ」

「え、そうなんですか」

 俺はこの医者の首を締めたくなった。三十八度の熱を出しているのに、そのまま帰れっちゅうのか、こら。間違いなく悪化するやんけ。

「じゃあ、検査まで待合室で待機してください。あと、その間この紙も読んでおいてください」

 と言って医者は検査について説明した紙を渡してきた。それによると検査結果は、病院のホームページにアクセスして確認するという方式らしい。喉の性病の場合、結果が出るのは、2~4日のようだ。

「津崎さんどうぞ」

 検査室は小さな部屋で、看護婦が二人そこに待機していた。用意された椅子に座ろうとしたら、ベッドの横に置かれていた点滴に足を引っかけそうになった。誰か寝ているらしいが、カーテンで遮られ、確認することはできない。

「じゃあ、この薬で二十秒間うがいしてください。二十秒経ったら、このコップに薬を出してくださいね」

 俺は言われたとおりうがいを始めたが、途中で苦しくなり、うがいが止まりかけ、液体を飲みそうになった。

「あと、五秒なので頑張ってください」

 とタイマーを持った看護婦が冷酷に言った。

 タイマーが鳴り、俺は薬をゆっくりコップに吐き出した。この茶色い液体の中に、菌が入っているのか。当然それは目視できないのだが、何となくそれっぽいものが浮かんでいるような気がした。

 神保町に着いた時には、さらに身体がおかしくなっていた。食欲は全然なかったが、歯医者までの時間を潰すためにドトールに入ってコーヒーとパンだけを注文した。席に着く際、少しふらついてコーヒーをこぼした。幸い、誰にもひっかからなかった。

 その後気合で病院に行き、検査を終わらせたが、会計を待っている時に、突然北極にいるかのような凄まじい冷えに襲われた。悪いことに、外では大雨が降っていた。雨宿りと体力の回復のため、しばらく椅子に座って待つことにした。三十分経過し、雨はやや収まったが、体調は全然よくならなかった。しかし、このままここにいてもしょうがないので、無理にでも帰宅することにした。

 電車を降りた後、最寄り駅から自宅まで、雨に濡れながら自転車を漕いだ。家に戻ると、気力が切れたのか、ふらつきが激しくなった。急いで風呂に入り、母親と祖母に熱があることを伝え、そのままベッドに入った。ミイラになるぐらい、ものすごい量の汗が出た。母親に家の目の前にあるスーパーでポカリスエットを買ってきてもらい、それを飲んで命を繋ぎ止めたが、全身が倦怠感の繭に包まれているような感じで、何をしても苦しかった。

 幸い次の日には平熱よりやや高いぐらいまでに症状は治まったが、喉は依然として痛かった。またぶり返しそうだったので、近所の総合病院(性病の検査を受けにいったところとは別)に行き、治療を受けた。その際、溶連菌に感染しているかもしれない、と言われ、綿棒で喉の細胞を採取したが、菌は検出されなかった。医者に、性病のことは話さなかったので、もらった薬がきちんと効くのか半信半疑にならざるを得なかった。

 

 新宿の病院を訪れてから三日後、性病検査の結果が出た。クラミジアも梅毒も陰性だった。ほっとしたが、検査を受けるのが早すぎるとちゃんとした結果が出ないという医者の言葉もあって、全ての不安が取り除かれたわけではなかった。この「潜伏期間」というのが、性病の恐ろしさを倍加させている気がする。本当に悪魔のような病気だ。

 薬を飲んだ後、体調は次第に元に戻り、夏休み明けの会社にも普通に出社できた。しかし、三週間ぐらいは、少し具合が悪くなるたびにナーバスになった。とにかく、身体の不調の全てが性病に起因しているような気がしてならなかったのだ。オナニー中包皮の一部分が固くなっていることに気付いた時は、「梅毒の初期症状か?」と思って、風呂で何度も確認したりした。

 そして、一か月以上経過した今、喉の痛みも消え去り、特にこれといった症状は出ずに済んでいる。それで、また「男の娘」がいる風俗のページを見るようになった。喉元過ぎれば熱さを忘れるというわけだ。

 今回、「性病」に振り回されたことで、ヘンリー・ミラーがより身近になったような気がした。娼婦が出てくる小説は色々あるが、性病にまできちんと言及しているものは、あまりない。性病はセックスを脱ロマン化するからだ。その点ミラーは、短編「マドモアゼル・クロード」で、娼婦クロードを「天使そのもの」と呼びながら、彼女から病気を移されたのではないかと怯える男を描いた。この生臭い生活感こそ、ミラーをミラーたらしめている要素でもある。逆に、「マドモアゼル・クロード」の翻訳者でもある吉行淳之介とか、村上春樹の描く娼婦が余計胡散臭く思えてきた。特に、村上の『ダンス・ダンス・ダンス』における、「僕」と高級コールガールとのやり取りなんか、滅茶苦茶鼻白む。娼婦と言わずに、「コールガール」、しかも「高級」というところが余計腹立たしい。俺は一万五千円出すのにも、相当ためらっているのに。

 快楽主義者とみられた谷崎潤一郎や、自由恋愛を称賛していたアプトン・シンクレアなどは、実生活では結婚を重視していた。二人とも性病を恐れていたので、素性の知れない人間とセックスするのは、あまり気が進まなかったようだ。5回結婚したヘンリー・ミラーや、6回結婚したノーマン・メイラーも、そうだったのかもしれない。性病は、恋愛主義者に「結婚」という道をとらせる。逆に、結婚しない恋愛主義者は、病気があまり怖くないのだろうか。

 

 引用・参考文献

愛と笑いの夜 (福武文庫)

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グループ

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南回帰線 (講談社文芸文庫)

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聖母のいない国―The North American Novel (河出文庫)

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川端康成伝 - 双面の人

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谷崎潤一郎伝―堂々たる人生

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アプトン・シンクレア―旗印は社会正義

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