翻訳の世界 1992年10月号 若島正「改訳したい10大翻訳」

 昔、フィリップ・ロスナボコフの翻訳で知られる大津栄一郎ウィキペディアのページを見てみたら、「ナボコフの『賜物』の翻訳については若島正から『翻訳の世界』誌の「改訳したい小説ベスト10」で多数の誤訳を指摘されたため、「若島正氏に反論する」を同誌に寄稿し反駁した。 これに対する若島正の反論は『乱視読者の冒険―奇妙キテレツ現代文学ランドク講座』におさめられている」*1という文章が目に留まった。というか、著書や翻訳リストを除くと、それだけで全体の半分ほどが占められていて、ナボコフだけでなく、大津の翻訳そのものが酷いというような印象を与えている気がする。

 若島正が改訳したい小説というのが気になって、とりあえず、『乱視読者の冒険』をめくったら、「ナボコフと翻訳」という章に、大津と論争に至った経緯は書いてあったが、「改訳したい小説ベスト10」が、『翻訳の世界』の何年何月号に掲載されたのかという情報は書いていなかった。もちろん、ウィキペディアにも書いていない。『乱視読者の冒険』が1993年の出版だからその辺りなんだろうという検討はつくが、「翻訳の世界」のバックナンバーが区立図書館には置いておらず、国会図書館に行く用事もないので放置していたら、いつしか相当な年月が経っていた。

 そうしたら、今年になって、明治学院大学から出ている紀要『言語文化』に、秋草俊一郎氏による「日本人はナボコフをどう読んできたか―『ロリータ』を中心に―」という論文が出て、そこで若島-大津論争についても触れられており、例の「改訳したい小説ベスト10」が『翻訳の世界』1992年11月号に載っていると書いてあったので、他の調べ物と一緒にコピーしてきた(しかし、実物を見てみたら、11月号ではなく、10月号のほうだった)。

 実物(のコピー)と若島の「ナボコフと翻訳」を同時に読んで、気付いたことがある。それは大津のウィキペディアに書き込んだ人物が、『翻訳の世界』の方を見ていないのではということ。なぜなら、『翻訳の世界』に掲載され論争の元となった文章のタイトルは「改訳したい10大翻訳」であり、これを若島は「ナボコフと翻訳」の中で「改訳したい小説ベスト10」という形に変えていて、ウィキペディアンも後者の表記をそのまま流用しているからだ(もちろん、秋草氏の論文には、「改訳したい10大翻訳」と書いてある)。だから、ウィキペディアには、号数についてなにも書かれていなかった(というか書けなかった)わけだ。

ナボコフと翻訳」には、『翻訳の世界』から原稿依頼が来た時、「何人かに頼んだのだが断られて、その結果わたしにお鉢がまわってきたらしい」と書いてある。誤訳指摘はブーメランにもなりかねないし、人間関係もあるので、誰もやりたがらないのだろうが、『翻訳の世界』には別宮貞徳による「欠陥翻訳時評」という連載もあって、編集部には良・悪並置しようとする強い姿勢があったのかもしれない(ちなみに、同じ号には井上健による後世に残したい翻訳をテーマにした文章も載っている)。

 それでは、実際にどういった小説があげられ、その後改訳されたのか見ていきたい。

 

グレアム・グリーン『第三の男』小津次郎訳(早川書房

 わたし自身はけっしてグリーンの最高傑作が『第三の男』だなんて思っているわけではありませんが、普通の読者はやはりグリーンと言えばまずこの小説を手に取るわけで、それがこの程度の翻訳では拙いんじゃありませんか。原文は難しくないのに、単純な誤訳が多く、ことに恋愛的要素がからむ場面になるとますます怪しくなる。とてもシェイクスピア学の権威であった小津氏の訳だとは思えません(もしかして、これは小津氏ご本人が訳していないのでは)。(後略)

 現在流通しているハヤカワepi文庫版『第三の男』は、その小津次郎訳である。巻末には、「本書は、一九七九年九月に早川書房より刊行された『グレアム・グリーン全集』第十一巻所収の『第三の男』を文庫化したものです」と書かれている。 それで、全集版も一応見てみたら、なんと文庫版と全集版は完全に同じものではないということが判明した。

 まずグリーンによる序文が、文庫版だと大分長くなっていて(つまり全集版の序文は抄訳だったのか?)、訳文も小津のそれを微妙に修正してあるし、漢字の使い方やカタカナの表記も少し違う。文庫版は2001年が初版で、小津は1988年に死んでいるから、別の人間が手を入れたとしか思えないが、それについては触れられていない。といっても、基本は小津の訳文がそのまま使われているので、改訳というほどではない。

 

アントニイ・バージェス時計じかけのオレンジ乾信一郎訳(早川文庫)

 これ、話そのものはたいしたことはなくて、例の「ナドサット語」という造語が小説全体を支えているわけです。だからそこのところの翻訳をどう処理するかが勝負だろうと思うんですが、それをあっさり訳者は回避しちゃった。なるほど逃げるのは楽ですが、やはり逃げたんじゃおもしろくない。『フィネガンズ・ウェイク』も翻訳できるんですから、ジョイスの末裔であるバージェスなんかそれに比べりゃ簡単じゃないの、と無責任な読者のわたしは思ったりするんですが。

 『時計じかけのオレンジ』といえば、翻訳だけでなく、無削除版か削除版かという問題もあった。アメリカで出版された『時計じかけのオレンジ』は、出版社側の要請で最終章を削ったものとなっており、キューブリックの映画もそれに則っているが、日本では、削除版を底本にした単行本・文庫と、無削除版を底本にした選集の両方が存在するという混乱状態にあった(どちらも早川書房)。だが、2008年になり、それまでの経緯を解説した柳下毅一郎の解説付きで、文庫も無削除版に置き換えられた。ただし、選集版を文庫化しただけなので、翻訳に変化はない。

 なぜ、選集では無削除版が底本になったのかというと、1977年に文庫(削除版)を出した後、早川書房編集部が1974年のプレイボーイに掲載されたバージェスのインタビューを発見し、そこでキューブリック版『時計じかけのオレンジ』の結末を批判していたから。そのため、無削除版が作者の本意だと判断し、選集ではそちらが底本となったが、当時流通していたのは削除版だったために、訳者の乾信一も混乱している。

時計じかけのオレンジ』に両方のバージョンがあることは、1971年に単行本で翻訳出版した時から、訳者の乾は知っていたが、「どういう事情からこの最後の章がはぶかれたのかは不明だが、その章があるのは初版だけであって、あとの版にはないとなると、当然作者側と出版社側との間に削除についての合意があったとしか考えられない」(訳者あとがき)ということで、選集版が出るまで、日本でも削除版が翻訳の底本となっていた。

 実は、橋本治も、この翻訳に関しては文句を言っている。

時計じかけのオレンジ』の最大のネックは、翻訳ね。アントニイ・バージェス氏の翻訳になってても、日本の暴走族の言葉にはなってないのね。日本の暴走族の子ってサァ、メチャクチャな言葉使うじゃん。アントニイ・バージェスは、それやりたかったのよねェ。英語をメチャクチャにする為にサ、ロシアに侵略されたイギリスという近未来状況を設定してきた訳でしょう──ア、これそういう話ね。ここまで徹底してSFやれる人っていないんだよねェ。訳が、“幼児語”にはなっていないけど、この一冊はお奨め。(「現代の青春小説」)

 余談だが、1978年より刊行された「アントニイ・バージェス選集」、予告には『熊にハチミツ』(原題:Honey for Bears)という小説もその中に入っているのだが、なぜかこれは出なかった。早川書房は、「ノーマン・メイラー選集」を出した時も、『偶像と蛸』を予告に入れておきながら、結局出版しないということがあった。色々あるんだろうね。

 

ウィリアム・トレヴァー『リッツホテルの天使達』後惠子訳(ほおずき書籍) 

 こういう本が存在していることじたい、まったく信じられないほどおぞましい翻訳。当代きっての短編の名手による名品揃いを、よくぞここまでめちゃくちゃにしてくれたものだとつくづく感心します。(略)なにしろ、この翻訳の会話部分は、およそ人間が喋っている言葉とは思えませんから。

 1975年に出版されたAngels at the Ritz and Other Storiesは、12本の短編を収録した小説集だが、日本版ではその一部がカットされ、7本のみとなっている。そのことについて、訳者は何も書いていない。というか、この本の訳者あとがきは、帯に使われるキャッチ・コピー程度に短く、トレヴァーの略歴がちょろっと書いてあるだけで、通常あるような作品の解説といったものが完全に省かれている。なので、そもそも訳者自身、この本に興味がないのでは、と思わせるぐらいだ。版元であるほおずき書籍は、長野にある出版社で、現在も存続しているが、どういう経緯でこの本を出そうと思ったのか。普通に自費出版なのだろうか。それにしては、訳者があとがきで何も書かなさすぎだが。

 とにかく、若島が指摘している会話部分を、「イスファハンで」からあげてみると、

ボンベイの方がずっといいようにと、願っています。あなたが少しも彼等に期待しない時には、そうなりますでしょうね」

「それは強壮剤の様です。あなたのおかげで、私はとても楽しかった」

「そんなことを言って下さるとは、御親切さま」

「私達の間に喋っていないものがたくさんあります。あなたは私を覚えていて下さいますか」

  ちなみに、同じ個所を別の訳者(栩木伸明)が訳すと、

ボンベイでいろんなことが好転するといいですね。ものごとは全然期待していないときにうまくいくことがあるから」

「元気が出る薬を飲んだみたい。あなたと会ってとても幸せな気持ちになれたわ」

「そう言ってもらえて光栄です」

「言い足りないことはまだたくさんあるけど、わたしのこと、忘れないでくださる?」

  ウィリアム・トレヴァーは、21世紀に入ってから翻訳が続々と出るようになり、特に国書刊行会は、「ウィリアム・トレヴァー・コレクション」と称し、三冊も出している。Angels at the Ritz and Other Storiesそのものは改訳されていないが、その中に収録されている" In Isfahan"は『異国の出来事』(国書刊行会)で、"The Distant Past"は『いずれは死ぬ身』(河出書房新社)で読むことができる。

 

ヘンリー・ミラー『南回帰線』大久保康雄訳(新潮社)

 これって実は削除訳なんですよね。どういう事情か知りませんが、勝手に自己検閲しちゃったんでしょうか。原文と照らし合わせてみると、削除箇所はどれもこれももう大笑いするしかないっていう凄い文章ばかり。つまりミラーのミラーたる部分が欠落していて、そこが笑う女陰みたいに黒々と空いた穴になっている感じで、これでは冗談にもなりません。ノーマン・メイラー編の『天才と肉欲』(野島秀勝訳、TBSブリタニカ)でその「陰部」を拝むことはできますが、この際ぜひ文庫版で改訳してほしいものです。

『天才と肉欲』の訳者あとがきには、「すでにわが国ではミラー「全集」は出ている、が、正確にいって、それは「全集」ではない、削除版にすぎない。むしろ、読者は、このメイラーの〈アンソロジー〉によって、ようやくミラーという現代の怪物、さらに現代そのものの迷宮に入り得るアリアドネーの糸を与えられたのだと、わたしは自信をもって言うことができる」と書いてある。この「全集」とはかつて新潮社から出ていたものだが、21世紀に入り、水声社より新訳ミラー・コレクションが出版され、「削除版」の問題は解決された(水声社のミラー・コレクションは、あと『冷暖房完備の悪夢』を残すのみだが、いつ頃出るのだろう)。

 ただ、『南回帰線』は、大久保以外の人間も結構訳しており、清水康雄(角川文庫)、河野一郎講談社文庫)、谷口陸男(中央公論社:世界の文学)、幾野宏(講談社:世界文学全集、集英社集英社ギャラリー「世界の文学」)と、水声社版を入れればこれまで6人もの人間が翻訳してきたことになる。角川文庫版はわざわざタイトルに「完訳」といれてるぐらいだし、1971年の時点で無削除版は出ていたのではと想像したのだが、実物を見ていないので断定はできない。

 

ジョン・アップダイクカップルズ』宮本陽吉訳(新潮社)

 アップダイクは翻訳に恵まれているとは言えません。あえて「この一冊」を挙げるとすると、誤訳の宝庫として有名な『走れウサギ』になるでしょうが、ここでは同じ訳者の手になる『カップルズ』を選びます。姦通という主題を扱いながら、とにかく典雅としか言いようのない文章で綴られた傑作だけに、ぜひとも美しい日本語で読みたいものです。

  ジョン・アップダイクのラビット・シリーズは、第一作の『走れウサギ』だけが宮本訳で白水社から出て、残り三作は井上謙治訳で新潮社から出版されていたのだが、1995年にラビット・シリーズを一巻本にまとめた『ラビット・アングストローム』がアメリカで出版され(1500ページもある辞書みたいな本)、日本でも1999年に、井上訳で新潮社より『ラビット・アングストローム』が翻訳出版された。ただし、原著と違い、二巻にわかれている。井上訳『走れウサギ』を読もうと思っても、分売されていないので、『ラビット~』そのものを買う必要があるが、新品で2万ちょっとする。図書館にも、ほぼ置いていないだろう。

『走れウサギ』は、1964年に出た単行本版と1984年に出たUブックス版で、多少訳文に差異があり、そこで誤訳もいくつか修正されたと思われる。何しろ、単行本では「その幻想がウサギをつまずかせる」となっていた文章が、Uブックス版では「その幻想がウサギを走らせる」と、正反対のものになっているから。

 若島は「アップダイク礼賛」(『乱視読者の冒険』所収)の中で、「アップダイクの途方もない懐の深さを知るには、まず彼の雑文集を読むのがいちばんだ」と書いており、後にアップダイクの翻訳をした時も、『カップルズ』ではなく、エッセイ・書評の翻訳だった(『アップダイクと私 アップダイクエッセイ傑作選』)。そういえば、ニコルソン・ベイカーが、アップダイクについて書いた『U & I 』を、「2018年 この3冊」に選んでいたこともあった。

 アップダイクは、それなりに翻訳が出ている作家で(著作自体が多いので未訳も多いが)、池澤夏樹の世界文学全集に『クーデタ』が入ったりもしたが、再評価の波は起こらず、今では顧みる人がほとんどいない。ちなみに、『走れウサギ』は、大江健三郎の『個人的な体験』に影響を与えたとも言われていて(大江は原文で読んだのだろうが)、60年代の前半ぐらいまで、大江は現代アメリカ文学をよく読んでいた。大江が『個人的な体験』の英訳者であるジョン・ネイスンと一緒にアメリカへ本の売り込みをしに行った時も、その豊かなアメリカ文学の知識で、書評者らの関心を引いたという(ジョン・ネイスン『ニッポン放浪記』)。

 

トルーマン・カポーティ『夜の樹』龍口直太郎訳(新潮社) 

 アップダイク同様、翻訳のせいか日本では評価されないカポーティ。この天才の文章を台無しにしてしまう翻訳は、やはり困りもの。たとえば短編集『夜の樹』は、うしろの解説を読めば、この訳者が小説とはまったく無縁の人だということがよくわかります。そういう人にカポーティはやってもらいたくないですね。(略)ここはぜひ、「無頭の鷹」を自発的に訳してみたことがあるという村上春樹氏の翻訳で読んでみたいところです。

  龍口直太郎は『夜の樹』だけでなく、『冷血』、『ティファニーで朝食を』も手掛けていたが、『夜の樹』は1994年に川本三郎訳、『冷血』は2005年佐々田雅子訳、『ティファニーで朝食を』は2008年に村上春樹訳に置き換わった。龍口訳の評判の悪さは結構前から知られていたと思うのだが、なぜこんなに改訳が遅れたのだろう。

 そういえば、なぜか野坂昭如が『カメレオンのための音楽』を訳したことがあり、当時時評とかで酷評されたらしいが、別宮貞徳は「不当に酷評された」(『特選 誤訳 迷訳 欠陥翻訳』)と擁護している。野坂は当時の自分の訳に納得できていなかったようで、『カメレオンのための音楽』がハヤカワepi文庫入りするにあたり改訳したとあとがきで書いている。

 村上春樹訳による「無頭の鷹」は、『誕生日の子供たち』(文春文庫)で読める。

 

ウラジミール・ナボコフ『ロリータ』大久保康雄訳(新潮文庫) 

 かつて丸谷才一氏が具体的に誤訳を指摘して噛みついたといういわくつきの翻訳。巷ではこれは読んではいけない翻訳本として喧伝されているそうな。そういうはなはだ芳しからぬ世評にもかかわらず、わたしはこの翻訳を評価しています。問題になった初版は点検していませんが、意外にこの文庫版には明らかな誤訳はそう多くはありません。(後略)

 『ロリータ』は若島の手によって、2005年に新潮社より新訳が出版され、2006年には新潮文庫に入った。丸谷と『ロリータ』の関係については、秋草俊一郎『アメリカのナボコフ』が詳しい。

 

ウラジミール・ナボコフ『アーダ』斎藤数衛訳(早川書房

 日本で『アーダ』について誰も語らないのは、やはり翻訳のどこかに原因があるとしか思えません。たとえば、ナボコフ自身がつけた注釈を、あたかも訳者による注釈であるかのように処理したりしているのは、どう考えてもおかしな話です。この絢爛たるナボコフ世界に注釈をつけるとすれば、大変な努力を要するのは目に見えているし、その労力を背負いこむだけのナボコフに対する愛が翻訳者には要求されるでしょう。(後略)

 若島訳による『アーダ』は、出版自体は予告されながらも発売日がなかなか確定せず、蓮實重彦の「『ボヴァリー夫人』論」ぐらい長く待ち望まれてきたが、2017年にとうとう早川書房より出版された。

 

ウラジミール・ナボコフ『賜物』大津栄一郎訳(福武文庫) 

 ついでに、ナボコフをもう一冊。これは白水社から出ていたものを「徹底的に改訳した」新訳版だとのこと。しかし、原文と読み比べると、明らかな誤訳が数多くそのまま初版から生き残っていて、それが結構、ナボコフを読むおもしろさと直結する箇所だけに、残念。邪推するに、原文と照合する時間的な余裕がなく、初版の日本語の文章に手を入れられただけなのではないでしょうか。大津氏の文章はナボコフの感性としっくり合うような気がしますし、なんとかナボコフの亡命時代の最高傑作と評価の高いこの小説をさらに良いものにしていただきたく思います。

  論争のきっかけとなった文章。詳細については、若島の「ナボコフと翻訳」、それから秋草俊一郎「日本人はナボコフをどう読んできたか―『ロリータ』を中心に―」をどうぞ。これも2010年に沼野充義による改訳が河出書房新社より刊行され、今年になって新潮社からもナボコフ・コレクションの一冊として同じ訳者で出版された。

 

トマス・ピンチョン『V.』三宅卓雄訳他(国書刊行会 

 この難物をとにかく翻訳しただけでも充分価値があるわけで、その意味では訳者グループの努力に敬意を表します。ただ、よく読みこんではあるものの、いかにも研究会の産物という感じで、ピンチョンのあの猥雑なエネルギーに欠けていて、別のヴァージョンを読んでみたい気になるのも事実。訳者候補としては、ノリの良さでは天下一品でおそらくピンチョン翻訳の最適任者である佐藤良明氏か、みごとな『V.』論を書いた池澤夏樹氏にお願いしたい。

  佐藤は1979年から1980年にかけて、『ユリイカ』にピンチョン論を寄稿し、その後も様々な媒体でピンチョンについて書いていたので、選ばれたのだろうか。佐藤によるピンチョンの翻訳は、1998年の『ヴァインランド』より始まり(池澤夏樹編による世界文学全集にも収録された)、2011年に小山太一との共訳で『V.』を出した。その後も、『競売ナンバー49の叫び』や、『重力の虹』といったピンチョンの主要作品を手掛けている。

 

 計算すると、10冊中6冊が他の訳者によって改訳されたことになる(『南回帰線』は既に大久保以外の訳があったが)。それは、翻訳者の代替わりでもあり、ナボコフ、ピンチョン、カポーティなんかは、上手く次世代に引き継げた例だろう。

 そこで重要なのは、翻訳と宣伝、二つの能力を持った人間に恵まれるかどうか。良い翻訳が出来るかだけではなく、その作家が文学史において如何に重要であるか、ということまでプレゼンできないと出版には漕ぎつけられないから。だから、元々影の存在であるはずの翻訳家が、メディアにおいてブランド化・スター化し、市場において、作家本人よりも翻訳者の方が信頼されるという状況が一部では起きている。翻訳家がスター化する以前は、小説家がその役割を果たしていたが(実際の翻訳は別人が行い、作家はそれにちょろっと手を入れ名前を貸す)、村上春樹登場以降は、ほぼ無くなったと思われる。

 グレアム・グリーンヘンリー・ミラーのように、今でも作品そのものが読者に対し訴求力を持っている作家は必ずしもスター翻訳家を必要としないが、アップダイクとバージェスは、時の流れと共に存在感を失い、沈没してしまった。俺はノーマン・メイラーや、フィリップ・ロス、ソール・ベロー、バーナード・マラマッドといった、50年代前後にデビューしたアメリカの作家に興味があるのだが、彼らも80年代には影響力がなくなり、後期の作品の多くが未訳状態で、新訳も絶望的な状況だ。ロスもメイラーも、ライブラリー・オブ・アメリカ入りし、古典化しつつはあるのだが……。 

 

乱視読者の冒険―奇妙キテレツ現代文学ランドク講座 (読書の冒険シリーズ)

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時計じかけのオレンジ (ハヤカワ文庫 NV 142)

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リッツホテルの天使達

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南回帰線 (1969年) (新潮文庫)

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カップルズ  (上) (新潮文庫)

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夜の樹

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ロリータ (新潮文庫)

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アーダ (1977年)  上下

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賜物〈上〉 (福武文庫)

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V. (1979年) (ゴシック叢書〈7~8〉)

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