「教祖」から抜け出すことの難しさ

 教祖化する文筆家というのがいる。横光利一とか、小林秀雄とか、吉本隆明柄谷行人とかだ。彼らはみな晦渋な文章を書いたという共通点があるが、それだけではない。難解であるというだけでは、「教祖」になることはできない。教祖になるために必要なのは、「はったり」と「同時代性」と「人間的魅力」である。

 しかし、ここで書きたいのは、教祖批判ではなく、教祖的なものから抜け出すことの難しさだ。Aという教祖を批判しても、Bという教祖には心酔する、もしくは教祖を批判しつつ自分自身が教祖化していく、そういうことが往々にしてあるのである。

 小林秀雄の批判者としては、ずばり「教祖の文学」を書いた坂口安吾が知られている。この文章は1947年に『新潮』に発表されたもの。内容は、坂口が「小林の文章にだまされて心眼を狂わせていた」と告白することから始まり、小林の文章技法を説明していく。

 彼が世阿弥について、いみじくも、美についての観念さも世阿弥には疑わしいものがないのだから、と言っているのが、つまり全く彼の文学上の観念の曖昧さを彼自身それに就いて疑わしいものがないということで支えてきた這般の奥義を物語っている。全くこれは小林流の奥義なのである。

 自明ではないことをあたかも自明であるかのようにして押し切っていく。これが俺のいう「はったり」の一つであるが、安吾にしてもそうした「はったり」と完全に手を切っているわけではない。「教祖の文学」の前年に書かれ、彼を有名にした「堕落論」もまた、その手のレトリックが使われている。 

 戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければいけない。 

「正しく堕ちる」とはいったいどういうことなのかよくわからないが、坂口にはわかっていたのだろうか。こういう非論理的ながらも、勢いで持論を展開するやり方は、彼が批判した小林と似ている。実は、「教祖の文学」にも、そういった激情的な部分が見受けられ、特に後半になるとそれが一層加速し、あたかも失恋した人間が恨み言を述べているかのようにも見えてくる。元々、坂口は小林を「盲信」していたのだから。

堕落論」についての批判では、十返肇のものが面白かった。

 もしも、私たちの面前に「俺はこれから堕落しようと思っているんだ。堕落したら救われるからネ」などと得意になっているような手合いが現れたらどうであろう。しかもそいつが、「俺は正しく堕落する考えだ」などといったら、私たちは閉口するほかあるまい。それこそ自分に甘え他人に甘えた鼻持ちならぬ観念家である。卑屈にして傲慢なる独善的自己陶酔でありかつ自己欺瞞。ましてや、かかる人物が、そのような意識を抱くことによって自虐しているなどと考えるならば、それは即ち最も低俗な意味での自愛でしかない。(「贋の季節」 坪内祐三編『「文壇」の崩壊』所収)

 十返は、一時期売れっ子評論家になったが、坂口や小林のように、カリスマになることはなかった。それは、「軽評論」と呼ばれた、明快で地に足のついた文章によるものだが、俺はそんな十返が好きである。是非、読んでもらいたい。

 話を「教祖から抜け出すことの難しさ」に戻すと、最近では鹿島茂のケースがある。鹿島には、『ドーダの人、小林秀雄』という著作があって、ここでは「ドーダ」という概念を使い徹底的に小林のはったりを暴き出しているのだが、吉本隆明について書いた『吉本隆明1968』では、「吉本隆明の偉さ」についてひたすら解説するだけに終っている。呉智英が『吉本隆明という「共同幻想」』の中で書いているが、鹿島は小林の「アシルと亀の子」というタイトルの付け方のはったりを指摘していながら、同じはったりを用いた吉本の「マチウ書試論」については何も言っていない。小林のはったりには鋭く切り込める鹿島も、吉本に関しては大学生の時に衝撃を受けて以降、その影響から抜け出せなかったということになる。『吉本隆明1968』という書物は、鹿島(とその世代)にとってなぜ吉本が重要だったかということはわかるが、その「偉さ」については、まったく理解できなかった。「同時代性」というのは、それぐらい激しい呪縛なのだろうか。

 しかし、『吉本隆明という「共同幻想」』(2012)で吉本を批判した呉も、『読書家の新技術』(1982)では『共同幻想論』に対し、「内容は重要」と書いていた。

 

 

堕落論・日本文化私観 他二十二篇 (岩波文庫)

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「文壇」の崩壊 (講談社文芸文庫)

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ドーダの人、小林秀雄 わからなさの理由を求めて

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吉本隆明という「共同幻想」

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読書家の新技術―時代が変われば方法も変わる (Century press)

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