ほしい物リストの女

 大沼が映画のシナリオ作家から劇作家志望へと転向したのは、浅黄への片思いが原因だった。
 
 浅黄というのは、小劇場を中心に活動している女優だ。
 大沼が彼女のことを知ったのはツイッター経由である。映画の趣味繋がりで相互フォローだった岩倉虚人という人がアングラ風の劇団をやっていて、今度彼が脚本・演出を担当する舞台に、彼女が出演することになったのだ。そこで、浅黄が舞台の宣伝するツイートをし、虚人がそれをリツイートしたことで、大沼の目に留まった。そのツイートには、文章だけでなく、自撮りも添えられていて、親しみやすいぱっちりした目と、中性的な顔立ち、黒髪とショートボブの組み合わせ、子供っぽさを残した八重歯、それら「未完成」と表現したくなるような雰囲気に彼はたちまち引き込まれた。
 そして、これまで演劇に毫も興味なぞ持っていなかったにも関わらず、すぐさま彼女の出演している劇のチケットを予約した。前売りで二三〇〇円。予約フォームには、チケットノルマと関係するのか、「誰でこの演劇を知りましたか?」という項目があり、大沼は「浅黄」を選択した。これが彼にとって初めての観劇だった。
 大沼は彼女のツイッターアカウントを即座にフォローし、当日までツイートを熟読玩味した。彼女の年齢は彼より七つほど下の二十五歳だとわかった。好きな音楽や好きな映画もわかった。しかし、何より重要だったのは、彼氏の有無だ。彼女の美貌からして、彼氏の一人や二人いてもおかしくない。むしろ、いないほうが不自然だった。それに、演劇というのは性に奔放な人間が全員集合しているという大いなる偏見もあった。目を皿にして一年分以上のツイートをさかのぼってみたが、幸い彼氏の存在を思わせるようなそれは終ぞ発見できなかった。少しホッとしたが、予断は許されなかった。
 彼女が出演する劇場は阿佐ヶ谷にあった。開場時間まで迷子のごとく周囲をうろつき、時間ちょうどに会場入りした。大音量で客入れの音楽が流れている客席は、五十~六十程度のキャパで、大沼はなるべく目立たないよう後ろから二番目の、一番右端の席に腰かけた。舞台にはなぜかファミコンが置かれ、役者たちがだるそうにそれで遊んでいた。元来人見知りが激しく、友人のいない大沼には、その内輪の光景がひどく羨ましかった。そのうちに、手持ち無沙汰なのか、舞台にぶらぶらと虚人や浅黄が現れた。大沼は二人に嫉妬を含んだ陰鬱な視線を送り続けた。大沼がツイッターに登録してから三年以上経っていたが、生来の内気な性質から、一度もオフ会などに参加したことがなかったため、無論、彼らの方では大沼が誰なのかは知らなかった。
 不意に、この二人は交際しているのではないかという暗い疑念が脳髄の奥底からごぼごぼと湧きあがった。何しろ虚人は劇団の主催者であり、劇を書きおろした張本人であるから、たとえそれが小劇場という狭い世界の話であったとしても、どこかカリスマじみて見えてくる。また、ツーブロックにちょんまげを組み合わせた髪型や、耳と鼻には収まった巨大な円形のピアス、下駄、男物のワンピースという一般的な社会人とかけ離れた風貌も、「カリスマ」としか言いようがないものだった。そして、カリスマのもとに女が集まるのも、これ世界の真理、法則である。一方、大沼といえば、母親が十年前にジーンズメイトで買ってきた薄汚れたジーンズ(洗濯のしすぎで自然に穴が開いた)に、近所の東京靴流通センターであがなったブランド不明のごつごつとした運動靴(つま先が泥で汚れている)という体たらく。文豪佐藤春夫は、駆け出しの頃、「まず、服のほうから大家になるのだ」と言って、後に伝説化するぐらい目立つ格好をし、それからさほどの時を要せずして実際に大家へと昇りつめた。その故事にもとづけば、今後虚人が春夫のごとく出世することは自明の理であり、大沼はその将来性に猫を前にした鼠よろしくびびったのであった。
 演劇自体はストーリーが不明瞭な前衛的なもので、歌やら踊りなどがあったが、大沼の趣味に合うものではなかった。ただ、彼女の衣装はよかった。とはいっても、大沼の貧弱なファッション知識では、ホテルの清掃婦の制服に似ていた、といった拙い表現しかできなかったが。
 演劇が終わった後、知り合い同士であろう役者と観客がそこかしこで雑談し、浅黄や虚人もそこにいたが、根が小心者である大沼は、万引きでもしたかのように、小走りで劇場から逃げ去った。それから、夕食をとるために入ったファミレスで、「虚人さんの舞台面白かった! 傑作!」とツイートし(内容はまったく理解できなかったので、ぼろが出ないように簡単なコメントにしている)、後々のために媚を売った。

 

 大沼は映画好きで、黒沢清ファスビンダーを尊敬し、大学時代から映画監督になるのが夢だった。だが、人と交流するのが何より苦手な大沼に、人を集めて指導するなぞという、人望や行動力を要求される行為などできるはずもなく、彼が一人でもできる脚本家を目指すようになったのは極めて自然なことだった。そして、大学時代から十年以上コンクールに応募し続けたが、箸にも棒にも掛からなかった。彼は自分を受け入れない日本の映画界にひどく絶望した。そして、「日本の映画関係者はバカばっかりだから、中島哲也とか山崎貴を持ち上げて、俺を認めないんだ」と結論付けた。
 執筆するための時間が欲しいという理由で、大学卒業後も就職せず、学生時代から働いていたハリウッドというチェーンのビデオ屋でアルバイトを続けた。二十五歳までにはデビューすると意気込んでいたが、あっという間に三十を超えてしまった(大沼と同じくビデオ屋でバイトしていたタランティーノが『レザボア・ドッグス』を発表したのは二十九歳の時だ)。その間にかつての同級生らは、課長に昇進したり、結婚して家庭を築いたりした。大学生のバイトが、就職で辞めるたびに、取り残されているような気分になった。ヤンキー風の客から、「借りたDVD観れなかったんだけど、どうすんだよ! 二回目だぞ!」とクレームの電話がかかってきて、「すみません。すみません。今すぐ代わりのDVDを届けますので」と頭を下げている時は、「俺は将来カンヌかヴェネチアをとる人間なんだぞ」と心の中でつぶやいて留飲を下げた。
 大沼は恋人もいないまま実家暮らしを続けていた。当然、肩身は狭い。世間では彼のような人間を「子供部屋おじさん」と呼んでいた。小説家の村田沙耶香がコンビニで働きながら芥川賞をとった時だけ、「お前もあれを目指せ」と両親から叱咤激励されたが、その後も鳴かず飛ばずの息子を見て、ほとんど諦めているようだった。
 ビデオ屋では、映画に詳しいからと、洋画コーナーを任されていた。大沼にとって、自己表現できる場所はそこしかなかった。彼は一生懸命企画を考え、手作りのポップを休憩時間中に作成した。深夜の客が少ない時間帯に、「芸術の秋に観たいアート映画30」と題したコーナーのため、ミヒャエル・ハネケ(もちろん、『ファニー・ゲーム』ではなく『セブンス・コンチネント』)や、ゴダール(もちろん、『勝手にしやがれ』ではなく『カルメンという名の女』)の作品を厳粛な手つきで棚に並べる。その時の彼は間違いなく恍惚とした表情を浮かべていただろう。あるテーマに沿って選び抜かれたDVDと、ラミネート加工され、てらてら光る自作のポップを、通路の反対側の棚を背にしてじっくりと眺める彼の姿は、バイト連中の間でも有名になっており、洋画コーナー一帯が「大沼コーナー」と密かに揶揄されていた。
 休憩時間を使ってまで働いていると、否が応でも会社に対する帰属意識というのは高まってくる。大沼もその例外ではなく、「俺がいないとこのビデオ屋はだめだ」とまで増長するようになった。手を抜いて仕事をしている学生バイトに激しい怒りを覚えた。しかし、直接文句を言う勇気はなかったので、年下の副店長井川に向ってよく愚痴をこぼした。井川も映画好きで、気さくな人柄だったから、大沼のような狷介な人間でも会話することができたのだ。だが、
「井川さん、大沼さんと仲良いっすね」
「平田君、やめてよ! 向こうに懐かれてすげー困ってんだよ、俺。助けてよ」
「ワハハハ」
「あいつ、映画勧めてくんじゃん。『あれ観たか』とか『これ観たか』とかさぁ。面倒くせぇんだよ」
「相手にしなきゃいいじゃないですか」
「だって怖いじゃん。何するかわかんないからさぁ」
「あの人この前、ぶつぶつ言いながらコンビニ弁当食ってましたよ」
「うわー、気持ち悪いなー」
「風呂入ってるんですかね。髪の毛とかべとべとじゃないですか」
「お前、大沼さんに、『ちゃんと風呂入ってますか?』って聞けよ」
「嫌ですよ! あたし、殺されますよ」
「ファーッッ!」
 などという会話が彼のいない飲み会で繰り広げられていることなど知る由もなかった。

 

 最初の観劇の翌年、浅黄が中野にある大ホールを借りて、「バッカス映画祭」というイベントを企画した。小劇場を中心に活動している劇団や自主制作をしている若手映画監督らが二十分程度という制限のもと撮影した映画を、順番に流していくという方式だった。出演団体は十五組ほどで、そのオーガナイザーっぷりに、大沼は驚愕、圧倒され、彼女がより遠くへと行ってしまったような感覚を覚えた。小劇場なら客と演者の距離が近い。が、中劇場まで行けば、もう別世界の住人だ。大沼は「客」でしかない自分に満足していなかったけれど、向こう側に行くにはあらゆる能力が欠如していた。
 大沼と浅黄は相互フォローになっていた。しかし、それは浅黄が自分をフォローしたアカウントを無差別にフォロー返ししていたからだ。大沼は少しでも彼女の役に立とうと、宣伝ツイートをリツイートし、数少ないフォロワーに情報を届けた。彼は硬派なファンを演じていた、というか演じようとしていた。「確かに彼女は美人だ。だけど、才能もちゃんとある。俺が彼女の顔にひかれているのは事実だが、才能を見逃すようなバカなことはしていない」とひたすら自分に言い聞かせた。硬派なファンを自称しているから、彼女のツイートにいいねをつける時は、演劇関係のものに限定し、自撮りツイートはひたすら無視した。それでいて、自撮りが投稿されるたびに右クリックで保存することは欠かさないという浅ましさだった。
 バッカス映画祭が開催されたのは、四月下旬で、外はまだ冬の寒さが残っていた。大沼はところどころ擦り切れたジャンパーに身を包み、木製の座席に腰かけた。ホールのキャパは千二百程度だったが、七割ぐらいは埋まっているように見えた。演劇関係者らしき人間も、ぽつぽつといた。ホールの外では、出演者らが物販を行っていて、虚人もそこにいた。虚人は一人和装で、相変わらず目立っていた。大沼は買いに行こうか悩んだ。うまくいけば、繋がりがもてるかもしれない。一応、虚人とは相互フォローという共通点がある(ただし、一度も会話を交わしたことはない)。休憩時間中、大沼は何度も立ち上がりかけたり、虚人の周囲をうろついたりした。
「あ、き、虚人さんですか? どうも、相互フォローの、サ、サタン団子です」
「サタン?」
「サタン団子です。相互フォローの……」
「(しばし考えて)ん、ああ、どうも」
「あの、今日は、見にました、演劇」
「ありがとうございます」
(間)
「あ、何を売ってるんですか?」
「過去の公演のDVDとかです」
「あ、じゃあ、一本もらおうかな……」
「三千円です」
「あ、はい」
「ありがとうございます」
「あ、じゃあ、あの、これで」
 といくら会話のシミュレーションをしてみても、親睦が深まるようなやり取りにはならなかったので、結局、大沼はコミュニケーションを断念した。何もしていないのに額が脂汗で湿っていた。
 映画の多くは、大沼の理解の埒外にあった。話の筋を追おうとしてもすぐにわからなくなった。それでも、五時間以上──時折メモをとりながら──一本も見逃すことなく映画を見続けた。今回そこまでしたのは、ブログに書くためだった。大沼は五年前から映画の感想などを記したブログを運営していて、そこに重厚な感想・批評を書けば、いずれ浅黄の目にもふれ、他のファンにも差を付けられるという作戦である。ちなみに、彼のブログのアクセス数は日/2~3という過疎っぷり、インターネットという大海の藻屑にすぎなかったが……
 拙い褒めちぎり評論をブログに載せて三ヶ月。なんと彼女から、コメントがついた。バッカス映画祭についてブログなどで触れているのが彼しかおらず、そのため検索すれば必然的にトップに表示されていたのだ。
「来ていただいてありがとうございます! 励みになります。また、開催する予定なので、ぜひお越しください」
 彼が喜びの絶頂に達したことは言わずもがなだが、しばらくして冷静に考えてみると、これではいつまでたっても「演者」─「客」の関係性から抜けられないことに気が付いた。そして、やはり実作者にならなければ駄目だと思い、戯曲に取り組む準備を始めた。ただの「客」として彼女に会っても、リスペクトを勝ち取ることは難しく、関係性が発展することも皆無。だが、戯曲を書き、それが何らかの賞をとったりすれば、彼女に演じてもらうことだって不可能ではないはずだ(自分で劇団を興す根性はなかった)。そして、演出も自分で担当し、「浅黄! そこはね……」と時に優しく時に厳しく指導する……。演劇の世界を観察すると、有名な劇作家が自分の作品に起用した女優と付き合ったり結婚したりしているケースが少なくない。名声と女、その両方を得られるのが演劇だ! なんてすばらしい!
 映画のシナリオがうまくいかず創作意欲が枯渇気味でもっぱらオナニーばかりに勤しんでいた大沼だが、一度そうした妄想が噴出すると、俄然やる気が出てきた。バイト終わりに、近くの喫茶店へ入り、執筆に励んだ。タイトルは『惡の華』。当然、浅黄を主役に想定した内容となっていて、「退廃的な世界に咲く一輪の惡の華=浅黄」というのが、彼の構想だった。
 さて、二ヶ月間猛烈に書き続けてみたが、どうもうまくいかない。元々映画のシナリオを書いていたのだし、親戚みたいなものだろうと高をくくっていたが、映画と舞台では勝手が違うことに段々気が付いてきた(そもそも映画の脚本でさえ、上手く書けたことはないのだが)。
「大沼さん、最近仕事帰りに喫茶店行ってますよね」と仕事中、大学生バイトの平田が声をかけてきた。彼は早稲田の学生で、仕事の手を抜くのがうまく、それでいてミスも少なかった。アルバイトの中では影のリーダー的存在であり、店長や副店長にも影響力があり、人付き合いの下手な大沼は彼を苦手としていた。
「え?」
「いや、何してるのかなって」
「な、なんもしてないよ!」と思わず大沼は大声を出した。彼はシナリオや戯曲を書いていることを隠していた。知られたらいじられそうだし、いきなり大きな賞をとってみんなの鼻を明かしてやりたいという卑小な願望もあった。
「そうすか」
「うん。なんもしてないんだよ。ただ、休んでるだけでさ」
「あ、この前店長が、大沼さんの作ったコーナー褒めてましたよ。結構、借りられてるって」
「え、そうなんだ」
「本部の人も見に来て、評判いいらしいっすよ」
「あ、僕も結構、気合いれて作ったからうれしいな。イーストウッドって知ってる? あの『グラン・トリノ』とか『硫黄島からの手紙』の撮った人。あの人の特集なんだけど、『白い肌の異常な夜』っていうのがすごい面白いから、今度見てみてよ」
「大沼さん、正社員とか興味ないんすか? 店長も井川さんも、『大沼くん、やる気あるんだから、正社員になればいいのに』ってよく言ってるんすよ」
「あー、興味ないことはないけどさ、正社員になると時間とられちゃうからね。僕、まだやりたいことあるからさ」
「え、何かやってんすか?」
「あ、うん、まあ、ここだけの話だけど、僕、シナリオ書いてるんだよね」
「えー、そうなんすか。じゃあ、喫茶店によく行くのも、そのためなんですか?」
「うん。あ、みんなには秘密ね。恥ずかしいから」と慌てて付け加えた。
「全然大丈夫っすよ。俺、そういうのは黙ってるタイプなんで」
 大沼はホッとして、仕事に戻った。
 だが、
「……っていう感じで、大沼さん、バイト終わりに毎日喫茶店でシナリオ書いてるらしいっすよ」
「作家だったんだな、あいつ。でも、言われてみると、いかにもやってそうだよな。コミケとかで売ってんでしょ?」
「どんな内容なの?」
「いや、そこまでは聞いてないけど」
エロゲーか同人誌だろ」
「オタクなんですか、あの人?」
「知らんけど、見た目的にはそうだよな。童貞に恋愛ドラマとかは書けないっしょ」
「じゃあ、今度からみんなで『先生』って呼ぼうぜ」
「やめてくださいよ。俺が言ったことバレるじゃないすか」
「今度、大沼さんが出勤してくると同時に『情熱大陸』のテーマ流さない? 『脚本家大沼の一日はビデオの返却から始まる』ってナレーションいれて」
「悪いなー」
 などという会話が彼のいない飲み会で繰り広げられていることなど知る由もなかった。

 

 大沼が戯曲を書くと決意してから二年近く経過した。『惡の華』はいつしか頓挫し、次なる戯曲に取り掛かるも、一幕程度でアイデアが枯渇、そこから一行も書き進めることができないということを何度も繰り返す日々。そのため、大沼の意欲は再び急低下した。彼は三十五歳になっていた。去年あたりから、両親に「そろそろ就職したらどうだ」と圧力をかけられていたが、新型コロナが逆に幸い、それが落ち着くまで就活は延期という合意が三者の間で形成された。大沼は再び自分の最後の砦である洋画コーナーの充実に力を入れ、「感染映画ベスト20」という棚を制作した。井川からは「やってるねー」と声をかけられ、大沼は得意になった。
「おう、なかなかいいね、これ」
「あ、そうですか」
「うん。このまま長期的にやっていこうよ」
 今年の四月頃から、新型コロナの流行で演劇が続々と中止になり、浅黄の懐は苦しくなった。それまでAmazonほしい物リストを公開することは、彼女のプライド的に許される行動ではなかったが、背に腹は代えられぬ、「乞食行為」と卑下しつつツイッター上で公開に踏み切った。
 彼女の役に立つことを諦めていなかった大沼は、そのツイートを見て、俄かに色めきだった。「ああ、これで直接彼女に貢献することができる」と感涙にむせんだ。大沼の給料は月十五~十六万程度だったが、実家暮らしで、金も映画以外にはあまり使うことがなかったので、これから毎月五千円を彼女のほしい物リスト代にふりわけることにした。まず、彼が選んだのは、

・美しき冒険旅行
・フレアフレグランス 柔軟剤IROKAネイキッドリリーの香り 詰め替え
・ジョンソンボディケア リッチスパ プレミアム ローション
・折り畳みドアハンガースマート ホワイト

 この中で、『美しさ冒険旅行』だけは、彼女のリストに入っていたものではない。ほしい物リスト経由で品物を贈る際、Amazonが直接販売・発送を行っている商品ならば、そのリストに入っていなくても贈ることができ、中にはその機能を悪用して十キロの砂やカラーコーンを送りつけるなどのイタズラを実行する不届き者もいるが、大沼の場合は、己の「センス」という自意識を彼女に伝えるためだった。
 予算五千円以内という条件で品物選びを始めた時、必ず自分の選んだDVDとリストにある生活必需品の組み合わせにしようと大沼は決めていた。一方的に自分の選んだDVDを送るだけではエゴの押し付けにしかならないし、かといってリストに載っているものだけ送っても相手の印象に残らない。そこで、大沼はセンスの良い(と大沼が思っている)映画のDVDと、リストに掲載されている生活必需品を同時に贈ることで、文化面にも生活面にも気を配れる、視野の広い紳士というキャラクターをそこで演じようとした。
 また、映画のDVDにしても単なる名作ではなく、今後の彼女の女優人生の参考になるような物というコンセプトで選んでいた。なにしろ、これまで彼女の出演している舞台を七回以上見ていたから(そのすべてが虚人の脚本だった)、舞台における彼女のキャラクター性のようなものは、それなりに理解していると自負していた。その第一弾が、ニコラス・ローグの『美しき冒険旅行』。ちなみに、それ以降は、一か月に一枚、
ロバート・アルドリッチ『何がジェーンに起ったか』
ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーヴェロニカ・フォスのあこがれ
キム・ギドク『ブレス』
・ジョゼフ・フォン・スタンバーグ嘆きの天使
 といった厳選されたラインナップで彼女に贈りつけた。
 DVDや商品を選んでいる時、大沼の脳は普段仕事をしている時の五倍は覚醒していた。寄付が趣味の人が時折いるが、善行をしている自分というのを意識すると、快楽に繋がる脳内物質が出るようだ。
 ほしい物リストで品物を贈る場合、注文時の手順によって、匿名配送にすることができる。大沼もさすがに自分の名前を出すことにはためらいがあった。しかし、特徴のある商品の選び方をしているから、それで同じ人間が送り続けているのだろうと向こうが気づいてくれることに期待した。社会に対しなんら影響力を持たない一アルバイトの大沼が彼女を支援するには、あしながおじさんになるしかなかった。

 

 当初、品物が届くたびに、ツイッター上で感謝の言葉と共にそれを紹介していた浅黄だったが、四ケ月目からぱたりとそれが途絶えた。巨大な不安と不満に急襲された大沼は、品物を贈り続けてから六ケ月目にして、とうとう我慢できなくなり、彼女に会いに行こうと思った。あしながおじさんは自分だと、彼女に知ってほしくなった。もう、影の存在でいることに耐えられなくなった。
 浅黄は普段新宿ゴールデン街にあるバーで働いていた。大沼は、酒をほとんど飲まないためゴールデン街に足を踏み入れたことはこれまで一度もなかったし、極度の恥ずかしがり屋のせいで、常連がたまっているような個人経営の店に入ることができず、外食はこれまですべてチェーン店で賄っていた。
 月曜夜、大沼は独り早足でゴールデン街を歩いていた。店舗名の描かれた突き出し看板が次々と目に刺さっていくが、緊張でどれも同じにしか見えない。ゴールデン街は文化人のたまり場らしいという極めてあやふやな情報しか持っていなかった大沼は、すれ違う人全員が大物に見えてきて、自分がひどく場違いな存在に思えてきた。俺みたいななんでもない人間がこんなところにいてよいのだろうか。店に入った瞬間、「おい、あいつ誰だ?」と睨まれるのではないだろうか? 時折、店から漏れてくる笑い声に大沼はいちいちびくついた。コロナ以前、ゴールデン街にどの程度人がいたのか大沼は知らないので判断がつかなかったが、いるところにはいるといった感じだった。
 十分程度歩くと、目的の「マルタ」というバーの目の前に着いた。それから、大沼は、十分以上出入口の前の道路を行ったり来たりした。意味もなく自販機で缶コーヒーを買った。街灯の周りを飛び回る蛾を眺めた。何度も帰ろうと思った。会わなければそれで済むのだ。安定した日常がまたやってくるのだ。匿名の存在でいるからこそ、逆説的に俺は存在できるんだ。
 が、自分の存在を認知してもらいたいというねばついた欲望が内気に勝った。大沼は、震える右手でドアノブをつかみ、意を決し、飛び込むように中へ入った。
「こんばんは」
 眼の前に彼の女神たる浅黄が、バーコードのような色調のシャツを着て、立っていた。舞台上の彼女のことは何回も見ていたが、「現実」の彼女とこうして対峙するのは初めてで、舞台の時よりも圧倒された。演劇ならコミュニケーションは一方通行だが、今は大沼からも発信する必要がある。嫌われたくない。そのストレスが大沼に重く圧し掛かっていた。
「あ、こんにちは」
 客はまだ誰もいなかった。大沼は、狭い店内をきょろきょろと見回し、出入口から一番端のカウンター席におもむろに腰かけ、目を伏せた。
「初めてですか?」
「え、ええ、ええ。初めてなんです。ハハ」と奇妙な薄笑いを浮かべた。とにかく笑っていれば少なくとも敵意は感じさせないだろうという彼なりの処世術であったが、その代わりに、不快感を伴った不気味さを相手に味わわせる結果となっていた。
「何か飲みますか」
「は、なんでも大丈夫です」と相手の顔を見ないまま喋った。目を合わせると吐いてしまうと思った。
「なんでもですか?」
「いや、えーと、何ですかね、なんか甘いやつがあれば、はい。ハハハ」
「じゃあ、適当に作りますね」
「あ、お願いします」
 カウンターには種々様々な酒瓶が置かれていたが、大沼には区別がつかなかった。ようやく顔を上げると、古い映画のポスターがべたべたとカウンター内の壁に貼ってあるのが目についた。どうやら映画好きの人間が集まる店らしい。『緋牡丹博徒』とか、ソウル・バスがデザインした映画のそれが多かった。
 浅黄が殻付きピーナッツの入った小さな皿と酒を彼の目の前に置いた。手持ち無沙汰の大沼は、ピーナッツを殻のついたまま口に入れた。ガキッという不穏な音が大村の口腔内から放出された。
「んッ」
 奥歯が折れたと思った大沼は慌てて涎まみれのピーナッツを口から取り出した。そして、舌で何度も奥歯に触れ、折れていないか執拗に確かめた。
「殻は剥いたほうがいいですよ」
「あ、そうですよね。ははは」
 大沼は決まりの悪さをごまかそうと大急ぎで酒を飲んだ。体質的にアルコールに弱く、しかも空きっ腹だったから、大沼の顔面は一気に赤く染まった。他人を不安にさせる、病的な赤色だった。
「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です。赤くなりやすいんですよ、僕。ヘヘヘ」
「……」
「あの、映画好きなんですか?」とカウンター内のポスターを指さした。
「ええ、結構好きです。それで、ここを選んだんですけど」
「ああ、なるほど。僕も、ファスビンダーとかニコラス・ローグとかが好きなんですよ」
 大沼は自分が送ったDVDの監督の名前を出し、反応を探った。
「あー、そうなんですか。どんな映画撮ってるんですか?」と浅黄は無反応。そこで、
「あの、う、うつ、いや、えーと、あ、忘れちゃいました。へへッ」
 作品名まで出せば気付くだろうと思ったが、そこで天然の臆病さが発揮され、つい口ごもった。ここまできてもなお告白する勇気が出なかった。濡れたグラスを手遊びする幼児のごとくいじりながら、次に出す言葉を探っていると、「うぃーっす」とひげ面に、チューリップハットを被った胡乱な男が入ってきた。足取りと顔色を見るに、既に微醺を帯びているらしい。
「あ、野中さん、こんばんは」
「浅黄ちゃん、元気?」
「元気ですよ」
「この前、虚人と旅行行ってたんだって?」
「え、何で知ってるんですか?」
「インスタに載せてたじゃん」
「あ、そうか」
「なんで旅行行ったの?」
「彼が、今度K賞にノミネートされたんで、その前祝いに」
「へえ、すごいじゃん。あいつ、この前、Mさんにも褒められてたよね」
「そーなんですよ。あれ、びっくりしちゃった」
「Mさんに褒められたら大したもんよ。そろそろナタリーとかでインタビューされんじゃない?」
 大沼は無関心を装いつつ、二人の会話を必死に聞き取っていた(といっても狭い店内だから、勝手に聞こえてくるのだが)。浅黄のインスタグラムの存在は知っていたが、鍵がかかっていて見ることができなかった。また、虚人も二年前から舞台の宣伝ツイートしかしておらず、プライベートの断片を呟いたりすることがなくなっていた。そのため、大沼の目に入る範囲では、二人が交際していることはわからなかった。むろん、当初から二人が実は付き合っているのではという疑問は持っていたが、そのような疑念を抱くこと自体いけないことのように思えたし、また、考えると自分がつらくなるだけなので意識的に無視、抑圧していた。
 だが、ここにきてとうとう非情な現実を拳銃よろしくこめかみに突きつけられた。自分は結局ただの養分だったのではないかという思いにとらわれた。もちろん、誰かのファンであるということは、必然的にその人の養分になることだが、芸術家になることを諦めきれていない大沼にとって、それは受け入れがたいことだった。彼は三年間で、浅黄・虚人の公演を七回ほど見てきた。結局それは虚人の活動を助けただけだった。大劇場ならともかく、小劇場なら一人当たりが果たす役割は大きい。そんなせこい計算が高速で大沼の頭を駆け巡った。
「グラス空ですけど、何か飲みます」
「あ、はい」
「同じのでいいですか?」
「あ、あ、いいです」
 空のグラスに青色の液体が注がれた。大沼はそれを一気に飲み干した。浅黄が呆気に取られている中、
「ぼ、ぼくなんです」
「え?」
「あ、浅黄さんに、欲しいものリストで物贈ってたの、ぼ、僕なんですよ」
「あ、そうだったんですか」
「はい、あの、どうでしたか?」
「いや、ありがとうございます。助かりました。これまで直接お礼言えなくて、すみません」
「ふはっ、ああ、よかったです」
「あのー、でも、もう大丈夫ですんで」
「え?」
「もう贈ってもらわなくても大丈夫なので」
「あ、迷惑でしたか?」
「いや、迷惑というより、半年もずっと贈ってもらうのは、なんていうんですかね、さすがに重いというか…… 全然、うれしいんですけど、そこまでしてもらう必要がないじゃないですか。えーと、お名前は……」
「大沼です」
「大沼さんとあたし、今日が初対面ですよね?」
「いや、あの、七回演劇見に行きました。ツイッターでも相互で……」
「あ、そうなんですか」
「はい」
「でも、大丈夫ですんで」
 気まずい沈黙が立ち込め、耐えきれなくなった大沼はふらふらと席を立ち、黙って金を払った。よろよろとした足取りで店を出ようとすると同時に二人組の男とすれ違い、ぶつかった。よろめいた瞬間、胃の底から吐き気が急速にせり上がった。酸味のある涎が口中に広がった時、「ここで吐いたらまずい」と思い、とっさに両手を顔の前に出すと、少量の吐瀉物が手の中にすっぽり収まった。だらだらと指の間からこぼれていく吐瀉物を持ったまま、大沼はゴールデン街をさまよった。異様な恰好で歩く大沼を見て、すれ違う人の何人かが振り向いた。五分ほど歩いてようやく適当な植え込みを見つけ、それを捨てると、近くのトイレで手を洗った。洗面器に向かって、口に残ったゲロと唾を吐き出すと、ピーナッツのかけらが見つかった。

 

 翌日、鈍く痛む頭を抱えながら、店に出た。いつもとは異なる陰惨な雰囲気を察知したのか、バイト仲間は挨拶以外声もかけない。無意識のうちに、口から意味のない言葉が漏れ出た。昨日の記憶が時折フラッシュバックし、叫びかける事もままあった。そんな折、レジに一人のおばさんが並んだ。険のある顔をした人で、自分の意見が社会の常識であることを信じ込んでいるような狂った頑固さが表情からにじみ出ていた。これまで何百人ものクレーマーと対峙してきた大沼は、彼女を一目見た時から強烈な嫌悪感に襲われていた。そして、偶然彼女が自分のレジの前にやってきた。鬱陶しい気持ちを押し隠しながら対応する。彼女の会員カードをレジについているカードリーダーに通すと、エラーが出て、レンタル機能が付与されていないことに気が付いた。カード自体は、ポイント事業で提携しているスーパーやコンビニで作ることができ、買い物などでポイントを貯めることは可能だが、レンタル機能はついておらず、ハリウッドでDVDやCDをレンタルするには一度店で会員登録する必要があった。デザインを確認すると某コンビニで発行されたものだとわかった。
「こちら、コンビニで作ったハリウッド・カードでしょうか?」
「そうですけど?」
「コンビニで発行したカードはレンタル機能がついていないんですね。なので、一度うちで会員登録してもらう必要がありまして。今日は、身分証はお持ちでしょうか?」
「でも、作った時に、ここでも使えると言われたんですけど」
「いや、でもお客様のカードを通したときにですね、会員情報が出てこなかったんですね。うちで使ったことはないですよね」
「いや、ありますよ」
「ん、でも、情報が出てこないんですよね。使ったのはこのカードですか?」
「はい」
「では、データを調べてみますので、失礼ですが、お客様のお名前を教えてもらってもよろしいでしょうか」
「村野八千代」と彼女はブスっとした声で吐き捨てた。
 大沼はレジに搭載されているデータベースに彼女の名前を打ちこんで検索した。ハリウッド上のそれには登録されていなかった。カードの番号を入れても、会員登録はされていなかった。彼女がハリウッドで会員登録したという証拠はまったく出てこなかった。
「そうですね、データが出てこないですね。過去のデータも残ってないようなので、申し訳ないんですが、一度、ここで登録していただかないと、借りることはできないんですね」と大沼はこみ上げてくる怒りを抑えるべく、慇懃無礼なほど丁寧な口調で言った。
「でも、できるっていわれたんですけど」
「いや、たぶんそれは説明した人が間違っていたんだと思います。うちで使用するためには、レンタルのための会員登録を別にする必要があるんですね」
「でも、おかしいですよね、カード作ったのに使えないなんて変じゃないですか。わたし、ビデオ借りようとわざわざここに来たんですけど」
「いや、カードを作ることはできるんですよ。ただ、レンタル機能がついていないだけで」と大沼は早口で言った。
「はぁ?」
「だから、使えないんですよ、このカード」と大沼は思わず大声を出した。普段陽に当たっていない青白い顔が、熟したトマトより真っ赤に染まっていた。仕事をしながら二人の会話を聞いていたバイト仲間らにも緊張が走り、何かあれば間に入ろうと二人ににじり寄っていった。一人はカウンター内に置かれた内線電話で、事務所で仕事をしていた店長を「すぐ来てください」と呼び出した。一方、平田は「面白いことになってきたな」と内心ワクワクしていた。
「それが、おかしいって言ってるんですよ、こっちは!」
「わ、わからない人だな、あなたは」
 大沼の声は震えていた。口の端に泡がついていた。力一杯握りしめた拳が鬱血していた。
「あんた、ただのアルバイトでしょ? ちょっと店長呼んできなさいよ。あんたじゃ全然話にならないわ」
「お、お、お前、ふざけんなよ!」と大沼はレジカウンター越しに殴りかかった。異変を察知していた他のアルバイト二人が咄嗟に大沼に飛びついたため、攻撃は当たらなかった。大沼は細い腕を振り回しながら、「ビャビャア、ぶっ殺すぞ! 殺すからな、てめえ! ぜってえ殺すからな!」と泣きながら叫んだ。おばさんは、「ちょっと、あいつ逮捕して!」と叫び返していた。

 

「それで、どうなったんですか?」
「いや、警官立ち合いのもと、事務所で俺と店長で謝罪したよ。大沼さんも一緒にいたんだけど、あの人全然頭下げないんだよ。足とか組んで、ふんぞり返っちゃってさ。どっちが加害者なんだか」
「やば」
「そしたら、おばさんが『この人全然反省してないじゃないの!』って切れてさ。大沼さんがまた『ふざけんなよ!』って飛びかかろうとして、俺と店長で必死に止めてさ。大変だったんだから」
「お疲れさまです」
「で、この前大沼コーナーを解体してて、なんか気配を感じて後ろを振り返ったら、クビになったはずの大沼さんが立ってたんだよね」
「怖っ!」
「俺、殺されるかと思ったもん」
「大丈夫だったんですか?」
「なんか、虚ろな目でずっと見てた。怖いから会釈だけしてその場を離れたんだけど、いつの間にかいなくなってたな」
「それ、幽霊じゃないですか?」
「幽霊の方がまだましだよ」