作家の写真を読む(三島由紀夫篇)

 三島由紀夫ほど、多くの写真を残した作家は、世界的に見てもそういない。流行作家として写真を撮られる機会が多かっただけでなく、自らも写真を表現の一つとしてとらえ積極的に撮らせたからだ。石原慎太郎に「雑誌のグラビア写真は必ず自分で選べ」とアドバイスしたこともある。このサイトでも三島の写真をいくつか紹介してきたが、今回は、年代別にまとめてみた。

 

1958年

撮影者:樋口進

 

『別冊文春』のグラビアのために撮影したもの。場所は文春ビルの屋上。煤煙で手摺が非常に汚れていたとか。同席していた石原裕次郎は三島の服装について「なんだか知らないが、彼の着ていたコートも背広も特別誂えだろうが、ありゃあ高いぜ。でも手袋まで同じ色とはあんまりいかさねえな。第一あんな色は日本人の背丈には合わないよ」と評した。

 

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1961年11月

撮影者:細江英公 『美の襲撃』のカバーと口絵

1963年3月

撮影者:細江英公 『薔薇刑』

 

 細江英公土方巽を撮った写真(『DANCE EXPERIENCEの会』土方巽におくる細江英公写真集)に感銘を受けた三島が、自身の評論集『美の襲撃』のカバーと口絵に使う写真を細江に依頼。三島の体にゴムホースを巻きつけるという細江のアイデアが活かされた写真が掲載された。

 その後、三島とのコラボレーションに手応えを感じた細江の方から三島にアプローチし、『薔薇刑』へと発展する。『薔薇刑』には、『美の襲撃』で使用した写真がすべて収録されている。篠山紀信を撮影者に選んだ『男の死』は、三島主導で撮影が行われ、篠山はそれに不満を持ったようだが、『薔薇刑』では、細江主導で撮影が行われた。また、三島がベレンソンの『イタリア・ルネッサンス』(61年に翻訳の出た『ルネッサンスのイタリア画家』か?)を参考資料として渡したため、「さまざまな涜聖」と題された章ではそれらの引用が作品に反映されている。

薔薇刑』は日本でこれまで四回ほど異なるヴァージョンが出版されており、それぞれデザイナーが違う。初回が杉浦明平(1963年)、二回目が横尾忠則(1971年)、三回目が粟津潔1984年)、最新版が浅葉克己(2015年)。横尾は自ら売り込むほど熱心で、63年版のときはすでに杉浦に決まっていたのでアシスタントとして働き、その後自ら装幀・装画を担当した。出版は三島の死後だが、これは途中横尾が足の病気で入院したためで、三島本人は内容を把握し、自決直前に絶賛の電話を横尾にかけている。横尾は1983年に篠山の『男の死』をモチーフにした三島の肖像画も描いており、モーリス・ベジャールが『デュオニソス』の中で使ったりした。

 

筆者が所蔵する二十一世紀版『薔薇刑』

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『美の襲撃』のカバーに使われた写真

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ボッティチェリヴィーナスの誕生』が引用された写真

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ジョルジオーネ『眠れるヴィーナス』を引用した写真

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ジョルジオーネ『眠れるヴィーナス』

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1966年

撮影者:矢頭保 『体道 日本のボディビルダーたち』

 

 写真家としての矢頭は生前二冊の写真集しか残していないが、そのうちの一冊『体道 日本のボディビルダーたち』に三島の写真が収録されている(序文で自分は逆柱のようなものと謙遜している)。「体道」というタイトルには、「ボディビルが武道,茶道と同じくとして完成するように,という願い」がこめられているらしい。

 三島由紀夫のボディビルの師匠である玉利斉や平松俊男が解説を書いており、表向きはボディビル普及を目指した写真集となっているが、制作に矢頭・三島・ウェザビーといったゲイ人脈が関わっていることから、ゲイ向けとも見なされている。巻末の人名索引には、モデルの職業、経験したスポーツ、体重、身長、胸囲、ボディビル歴まで記載されている。ちなみに三島は、身長164cm、体重70kg、胸囲110cm、ボディビル歴10年。

 

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1968年10月

撮影者:篠山紀信 「男の死」(『血と薔薇』に収録)

 

血と薔薇』は、天声出版の編集者だった内藤三津子が企画し、澁澤龍彦が編集長を務めた雑誌。創刊号の目玉の一つが、三島の企画によるグラビア「男の死」で、三島だけでなく、土方巽唐十郎、三田明らも参加し、写真で「男の死」を表現している。

「男の死」のアイデアはそこで終わらず、三島は、横尾忠則にもモデルになるよう説得し、篠山紀信撮影で互いに「男の死」を演じるというプランを建て、内藤が設立した薔薇十字社より写真集を刊行することにした。しかし、横尾が足の病気で入院していたため、三島一人で撮影を進めざるを得ず、結局出版が実現する前に自決した。死の三日前には、「一体いつまで、足に拘っているんだ、早く、写真を撮ってくれ」と催促されたという。

 三島側の撮影は終わっており、三島単独で写真集を刊行することも計画されたが、平岡瑤子の反対や、薔薇十字社の経営悪化もあり、頓挫。今年に入って、アメリカの出版社リッツォーリからThe Death of a Manが出版されるまで、『血と薔薇』創刊号に掲載されたニ葉以外、「男の死」が公開されることはなかった(ただし、「聖セバスティアンの殉教」はThe Death of a Manから外されている)。

 篠山によれば、三島は写真にうるさく、コンタクトプリントの段階ですべてチェックし、好みのものには裏に「三島」とサインした。側腹筋がうまく出ているものを選んでいたらしい。 

 

血と薔薇』に掲載された二枚

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1970年11月25日付

撮影者:不明 朝日新聞夕刊

 

 三島が自決直後に撮られた総監室の様子。中に入れないので欄間の上から撮影している。

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1970年12月11日発行

アサヒグラフ 特報・三島由紀夫 割腹す

 

 未確認

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1983年12月

新潮日本文学アルバム 三島由紀夫

 

 新潮日本文学アルバムは、文学者の生涯を写真を通じて辿る企画。どぎつい写真は載っていないが、あまり見たことのないものも多数あり、それなりに面白い。

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1984年11月23日発行

撮影者:不明 週刊フライデー創刊号

 

 講談社が発行している週刊誌フライデーの創刊号に掲載され、騒ぎになった三島の生首。「この写真は遺体が始末される前の、ごく短時間内に撮影され、奇跡的に世に残っていたもの」と説明されていて、出所元は伏せされている。また、森田必勝の介錯をした古賀浩靖が出所後生長の家に入信したことも書かれている。

 平岡瑤子は知人のジャーナリストたちから写真は警視庁から流出したものだと教えられ、警視庁に調査を依頼し、講談社には雑誌の回収と三島の著作の重版停止を求めた。児童向けの『潮騒』を除くと、1998年の『中世 剣』(講談社文芸文庫)まで、三島の新たな著作が講談社から出ることはなかった。

 当時、フライデーの編集長だった伊藤寿男によれば、三島の死体写真を売り込んでいる男がいて、フライデーに回ってくるまでの間、三島の本を出している大手出版社二社に持ち込み、採用されなかったという(新潮と集英社?)。講談社には文芸誌『群像』があり、三島の本もそれなりに出していたが、伊藤の判断で掲載を決め、一人で責任をとるため上司には一切相談しなかった。持ち込まれた写真は10枚以上あり、それでも生々しすぎるものはカットした。

 後日、警視庁に伊藤は呼び出されたが、「入手先は口外できない」で押し通した。

 石原慎太郎佐々淳行から、切腹の指示・準備をしている三島由紀夫の非公開写真を見せてもらったと坂本忠雄との対談本で語っているが、流出元もその周辺なのだろうか。

 

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1990年9月

グラフィカ三島由紀夫

 

 この写真集について、石原慎太郎は、「他の作家なり誰ぞの写真集と違って、三島氏のそれは眺め終わるといかにもくたびれる、というよりいささかうんざりさせられる」と書いた。三島由紀夫が「三島由紀夫」を演じているような、自己主張の強い写真集。下の写真は、石原がその中で唯一好きだという、自然体の三島を写した一枚。

 

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ラシーヌ『ブリタニキュス』に出演した三島由紀夫

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1995年11月

撮影者:篠山紀信 『三島由紀夫の家』

 

 三島由紀夫生前の写真と篠山紀信が撮影した三島邸の写真を組み合わせたもの。写真で見る限り豪邸に見える三島邸だが、実際はそうでもないらしい。

 

 洋書が置かれた書斎の一部。『ブリキの太鼓』や、『ブルックリン最終出口』、ニン『炎へのはしご』などが見える。

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2014年10月

撮影者:篠山紀信 『記憶の遠近術 ~篠山紀信、横尾忠則を撮る』

 

血と薔薇』の版元である天声出版から、横尾忠則と彼のアイドルを一緒に撮影する、『私のアイドル』という企画が生まれ、最初の被写体として選ばれたのが三島由紀夫だった(撮影は1968年)。三島は『私のアイドル』のために、「ポップコーンの心霊術 横尾忠則論」という文章を書き、本の序文に使用されるはずだったが、三島の生前には刊行されず、1992年になってようやく『記憶の遠近術』(講談社)というタイトルで出版された。

『記憶の遠近術 ~篠山紀信横尾忠則を撮る』は、2014年10月11日から2015年1月4日まで横尾忠則現代美術館で開催された同名の展覧会のカタログで、講談社版『記憶の遠近術』を再構成し、展覧会で使用した写真も追加している。

 横尾はなぜ自分が『男の死』の共演相手に選ばれたのかわからないと言っている。下の写真では、シリアスな三島と弛緩した横尾という対照的な様子を見せているが、こういう雰囲気を『男の死』でも表現したかったのだろうか。それとも、横尾がいれば、自分がより際立って見えるだろうと計算していたのか。

 

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2020年9月

撮影者:篠山紀信 Yukio Mishima: The Death of a Man

 

 50年に渡って封印されてきた『男の死』が今年遂に解禁された。しかし、撮影者である篠山の発言がないせいか(俺が見つけられていないだけかもしれないけど)、メディアの反応も鈍く、どこかひっそりとしている感じがある。篠山自身はこれまで楽しい撮影ではなかったと語っている。調べたら、6月に発売された『季刊文科』夏号の「特集 自決から半世紀 没後50年の三島由紀夫」に横尾忠則がエッセイを寄せていて、アメリカと日本で『男の死』が発売されると書いていたのだが、これもあまり反響がなかったのでは? 俺は発売の1ヶ月ぐらい前にTwiitter上で「Amazonで『男の死』の予約が始まった」というツイートが回ってきて偶然知った。その場で予約したら、10月12日に到着した。その後、Amazonの在庫は不安定なようだ。

 堂本正樹が、三島はジムのシャワー室で前を隠さず歩き回っていたと書いたり、矢崎泰久が、三島はサウナ後の談話室でも全裸のまま過ごしていたと書いたりしていたが、どうやら三島本人は自分のペニスのサイズに大いなる自信を持っていたらしく、『男の死』では、全裸で吊るされていたり、股間を強調するような衣装を着たりしていて、本当は無修正のペニスを載せたかったのではと一読して思った。

 珍奇な物を見たいという欲望は満たしたが、この写真集について真剣に考えると、やはり空々しいという思いは拭えない。何しろ、自分が自決することを意識し、予め「用意した、「観賞用の死体」なのだから。本人は、自分の本当の死体写真が流出するところまでは予測していたのだろうか。五十年も経つと、死体写真すら生々しさを失い、ネットのネタになっているのが現状だ。

 

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参考文献

細江英公「『薔薇刑』撮影ノート」『二十一世紀版 薔薇刑』

細江英公「写真集『薔薇刑』ノート--三島由紀夫氏との最初の出会い」『ユリイカ』1986年5月

内藤三津子『薔薇十字社とその軌跡』

伊藤寿男『編集者ほど面白い仕事はない』

石原慎太郎『三島由紀夫の日蝕』

石原慎太郎、坂本忠雄『昔は面白かったな : 回想の文壇交友録』

横尾忠則「象徴化を拒む魔力--男の死,あるいは三島由紀夫とヴァーグナーの肖像」『ユリイカ』1986年5月

横尾忠則「男の死」『季刊文科』2020年6月

堂本正樹『回想 回転扉の三島由紀夫』