橋本福夫 『橋本福夫著作集Ⅰ』
橋本福夫(1906-1987)と言えば、ジェームズ・ボールドウィンやリチャード・ライトといったアメリカ黒人文学の翻訳者としてのイメージが強かったのだが、彼の死後編まれた著作集の第一巻が「創作・エッセイ・日記」をまとめた物であることを知り、ちょっと読んでみた。
創作はほとんどが短編私小説で、『文学空間』(創樹社)や『高原』(鳳文書院)といった小さな雑誌に載せたものだ(ちなみに、『高原』の編集には、橋本以外に、堀辰雄、田部重治、片山敏彦、山室静といった当時軽井沢周辺に住んでいた文化人が携わっていた)。それで私小説と言っても、田山花袋のそれではなく、志賀直哉の心境小説にやや近い印象を受ける(日記でも志賀の小説を褒めている)。時代はどれも第二次大戦前後、主人公の苗字は基本的に「葛木」で統一されている。内容はエッセイに書かれていることと被っていることが多く、素材をあまり変形させないで書いたようだが、起伏の変化に乏しく、枚数も少ないことから、やや消化不良を感じさせないこともない。それでも軽井沢・追分における敗戦直後のやけくそな高揚感と不穏な空気を描いた「通り過ぎて行った男の顔」や、36歳の時、神戸で英語塾を開いた時の体験をもとにした「葉のそよぎ」は十分面白く読めた。
エッセイでは、橋本が子供の頃、地主・村長の家の養子となり、そこで部落差別に直面した時のことなどが書かれている。橋本とはその養家の苗字だ。後に成長した橋本は左翼思想や有島武郎に影響を受けることになるが、その萌芽はここにある。黒人文学への共感も、そうした家庭環境から来るものだったのだろう。橋本は有島のように土地を小作人に解放することを考えていたようで、そうしたことから元々折り合いの悪かった養母と喧嘩になり、最終的に橋本は養家と絶縁する。橋本は同志社を卒業して以来、パン屋を営んでみたり、英語塾を開いて見たり、翻訳の仕事に携わってみたりと、定職につかない不安定な生活をしていたが、1942年に長野県の追分に妻(同志社時代に知り合い、1934年に結婚)とともに移住する。堀辰雄とはそこで知り合った。本書では少しだが、堀についても触れられている。
日記には、その追分での暮らしが詳しく描かれている。また、軍人に対する嫌悪感についても書かれているが、日本軍が1941年にイギリス領となっていた香港を攻め落とした時は、中勘助の「大東亜戦争」という戦争賛美の詩を引用し、わりと素直に祝福している。戦後は「ナルシス」という文壇バーに通うことが多かったようで、よく名前が出てくる。埴谷雄高や小島信夫との交流についての記述もある。橋本はかつてトロツキー伝の翻訳を手掛けたことがあるのだが、山西英一から同じトロツキストだと思われたことについては、「閉口」していると日記には書いている。
本書の最後の方に載せられている「アメリカ文学とのかかわり」と題されたインタビューでは、これまで橋本が翻訳してきた本を中心に、文字通りアメリカ文学とどのように関わってきたかということを話している。サリンジャーのThe Catcher in the Ryeを『危険な年齢』(ダヴィッド社、1952年)というタイトルで橋本が翻訳したことは一部で知られているが、当時「大出版社」からはことどとく出版を断られ、大久保康雄の紹介で何とかダヴィッド社に決まったらしい。ラルフ・エリソンの『見えない人間』の翻訳を持ちこんだ時も同じように拒絶されたとか。サリンジャーやエリソンがアメリカで有名になった後、「新潮社などには、僕のすすめた作品はいずれも傑作だっただろうと苦言を呈したところ」、「今後は先生の推薦された作品は必ず出版します」という約束をしてもらったという。『白人へのブルース』や『ブッシュ・オブ・ゴースツ』は、そうした経緯で出版された。
「信濃追分でのこと」というインタビューでは、「近代文学」や「高原」との関係について語っている。「高原」の編集に携わっていた山室静・片山敏彦の二人が、堀辰雄の推薦した中村真一郎、福永武彦と対立していたというのは興味深かった。加藤周一も堀経由で「高原」に関わっていたらしい。
巻末には年譜もあり、橋本の人生が簡単に把握できるようになっている。
西川正身 『アメリカ文学覚え書 増補版』
本書は、アメリカ文学者で翻訳も多く手掛けた西川正身がこれまで戦前から戦後にかけて雑誌などに書いてきた、アメリカ文学に関する批評文を集めたものだ。メルヴィルやフランクリン、マークトゥインといった正統派アメリカ文学を取り上げているが、実はそういったものよりも、日本におけるアメリカ文学研究の実情について書いた「アメリカ文学研究室」、「高垣松雄教授」、「戦時下のある集まり」、「日本のアメリカ文学研究草創期」といった文章のほうに価値があると俺は思う。
「戦時下のある集まり」は、日本出版文化協会に勤めていた英文科出身の萩谷健彦から、「日に日にきびしくなっていく出版統制の実情を聞かせてもらう」ために、中野好夫が主唱者となって、1942年、学士会館に集まった時のことを書いた物だ。参加者は他に、福原麟太郎、間野英雄(中野が「文学界」に発表した鴎外論は、間野の言葉にヒントを得て書かれた物らしい)、織田正信、尾島庄太郎、大和資雄がいた。この会合は以後毎月一回行われるようになったらしい。翌年、その彼らが中心になって、「米英文化敵性批判研究会」主催という形で、石田憲次、大河内一男を呼び講演会を行った。だが、この講演会は東条英機の秘書の目にとまり、研究会は解散する破目になった。また、「英文出の某評論家」がこの講演会を新聞か何かで批判したらしいとも書かれている。そして、1944年には集まり自体が自然消滅。その後は、空襲が激しくなったため、近くに住むメンバーだけで読書会(場所は中野の家)を行うようになったという。
「日本のアメリカ文学研究草創期」では、齋藤光、亀井俊介、渡辺利雄を聞き手に、これまで自分がどうアメリカ文学研究に携わってきたかということを西川は喋っている。瀧口直太郎に誘われ英米の新進作家を取り上げるMELグループに参加したり、『新英米文學』の編集を手伝ったり、「英語英文學講座」を通じて高垣松雄と親しくなったことなどが、ここでは詳しく語られている。西川が若手の頃というのは、イギリス一辺倒だった日本の英語文学研究の世界に、徐々にアメリカの風が入り込み始めた時だった。そのため、試行錯誤の段階であって、今では古典となっているような小説が紹介から抜け落ちるというようなこともあったという。また、西川は文壇に吹き荒れたプロレタリア旋風の影響についても触れている。
ちなみに、「翻訳談義」の中で、昭和6年に出版されたシンクレア・ルイスの『本町通り』の翻訳は、「一ページに二、三カ所づつ誤」りがあると西川は言っていて、訳者の名前は出していないが、これは前田河広一郎のことである。
ポール・ニューマンとアカデミー賞
2016年に行われた第88回アカデミー賞受賞式では、これまで4度候補に挙がりながらオスカー像を逃し続けてきたレオナルド・ディカプリオが、5度目のノミネートで遂にアカデミー主演男優賞(『レヴェナント: 蘇えりし者』)を受賞したことが話題になった。彼が最初に候補となったのは1993年の『ギルバート・グレイプ』の助演男優賞の時で(受賞したのは『逃亡者』のトミー・リー・ジョーンズ)、そこから受賞まで23年かかったことになる。受賞時、ディカプリオは41歳だった。
抜群の知名度がありながら、アカデミー賞と相性の悪かった俳優としては、ポール・ニューマン(1925-2008)がいる。彼は1956年公開の『傷だらけの栄光』で一躍スターとなり、アカデミー賞初ノミネートは、1959年の時、『熱いトタン屋根の猫』の主演男優賞だ。そして、ここから彼の落選人生が始まることになる。簡単にその流れをまとめてみよう(記載してある年度は、アカデミー賞受賞式が行われた年)。
1959年:アカデミー主演男優賞
デヴィッド・ニーヴン ー 旅路(受賞)
トニー・カーティス ー 手錠のまゝの脱獄
シドニー・ポワチエ ー 手錠のまゝの脱獄
ポール・ニューマン ー 熱いトタン屋根の猫
1962年:アカデミー主演男優賞
マクシミリアン・シェル ー ニュールンベルグ裁判 (受賞)
シャルル・ボワイエ ー ファニー
スペンサー・トレイシー ー ニュールンベルグ裁判
スチュアート・ホイットマン ー 愛の絆
1964年:アカデミー主演男優賞
シドニー・ポワチエ ー 野のユリ(受賞)
アルバート・フィニー ー トム・ジョーンズの華麗な冒険
リチャード・ハリス ー 孤独の報酬
レックス・ハリソン ー クレオパトラ
ポール・ニューマン ー ハッド
1968年:アカデミー主演男優賞
ロッド・スタイガー ー 夜の大捜査線(受賞)
ダスティン・ホフマン ー 卒業
スペンサー・トレイシー ー 招かれざる客
ポール・ニューマン ー 暴力脱獄
1982年:アカデミー主演男優賞
ヘンリー・フォンダ ー 黄昏(受賞)
ウォーレン・ベイティ ー レッズ
バート・ランカスター ー アトランティック・シティ
ダドリー・ムーア ー ミスター・アーサー
ポール・ニューマン ー スクープ/ 悪意の不在
1983年:アカデミー主演男優賞
ジャック・レモン ー ミッシング
ピーター・オトゥール ー My Favorite Year
ポール・ニューマン ー 評決
1987年:アカデミー主演男優賞
デクスター・ゴードン ー ラウンド・ミッドナイト
ウィリアム・ハート ー 愛は静けさの中に
ジェームズ・ウッズ ー サルバドル/遥かなる日々
1995年:アカデミー主演男優賞
ナイジェル・ホーソーン ー 英国万歳!
2003年:アカデミー助演男優賞
ジョン・C・ライリー ー シカゴ
7度目のノミネートでやっとオスカーを獲得(その後2度落選)。ポール・ニューマン62歳の時である。最初のノミネートから28年かかった。ただ、アカデミー協会側もニューマンを評価していないと見られるのを恐れたのか、85年(主演男優賞受賞の二年前)、ニューマンに名誉賞を与えたいと言ってきた。そして、翌年の3月に行われた第58回アカデミー賞受賞式で、ニューマンは男優賞を獲得する前に名誉賞を受賞したのだった。
ヘンリー・フォンダもまた、初の男優賞を獲得する一年前に、名誉賞を貰っている。名誉賞を受賞したのは、1981年、75歳の時で、翌年『黄昏』で主演男優賞(上を見てもらえばわかるが、候補者にはニューマンがいた)を獲得した約5か月後にフォンダは死んだ。二人の主演男優賞受賞は、かなり功労賞に近いものであったと見ていいだろう。ちなみに、『黄昏』はアカデミー賞3部門受賞、『ハスラー2』のアカデミー賞受賞はニューマンのみとなっている。
ニューマンの2度目の妻は、女優のジョアン・ウッドワード(1930-)だが、彼女はニューマンと結婚した2か月後に、『イブの3つの顔』でアカデミー主演女優賞を獲得している。1958年のことだ。ニューマンよりウッドワードの演技の方が上手いという意見も数多い。
ニューマンとウッドワードは結婚後、数々の作品で共演し、ニューマンの初監督作品『レーチェル レーチェル』(1968年)ではウッドワードが主役をつとめている。この映画は批評的にも興行的にも順調で、ニューヨーク映画批評家協会監督賞を──これには賛否ありながらも──ニューマンは受賞した。だが、アカデミー監督賞にはノミネートされず、ニューマンは落胆した。作品賞、主演女優賞、助演女優賞、脚色賞にはノミネートされたが、すべて落選という結果に終わる。その後、監督した作品が──難解な作風も災いしたのか──アカデミー賞という舞台で取り上げられることはなかった。
上のリストを見ると、69年から81年まで、ニューマンは俳優としてアカデミー賞にノミネートされていない(1969年開催の第41回アカデミー賞では、『レーチェル レーチェル』が作品賞でノミネートされ、プロデューサーとして候補にあがったことはある)。俳優として脂が乗っていたであろうこの空白の期間に、ニューマンは『明日に向かって撃て!』(1969年)と『スティング』(1971年)という映画史に残る二つの作品に出演している。前者はアカデミー賞4部門受賞、後者は7部門受賞したが、ニューマンは相手にされなかった。70年代のニューマンは、精力的に仕事をこなしてはいたが(大作『タワーリング・インフェルノ』にも出た)、『明日に向かって撃て!』で英国アカデミー主演男優賞にノミネートされたこと以外、賞とは無縁の生活を送っていた。ちなみに、1977年に出演した『スラップ・ショット』は後にカルト的な人気を博した。
1980年、彼は『アパッチ砦ブロンクス』の製作に入ったが、撮影中、この作品が人種差別的だと話題になった。「ニューヨーク・ポスト」は、リベラル派として知られているニューマンがそうした作品に出るのはおかしいと熱心に批判した。マスコミに対する不信感が募っていた時、『スクープ/悪意の不在』に出演しないかというオファーが来た。『スクープ』はマスコミの不正行為を糾弾する映画で、現在の彼の心情にぴったりだった。『ポール・ニューマン アメリカン・ドリームの栄光』には、インタビューなどで『ニューヨーク・ポスト』を激しく攻撃するニューマンの様子が描かれている。『スクープ』に出たおかげで、14年ぶりにアカデミー主演男優賞にノミネートされるという大きなおまけもついた。『ニューヨーク・ポスト』とはその後も冷戦状態が続き、ちょうど『ハスラー2』が公開された頃、彼の身長に関する記事をめぐって、凄まじい戦闘が両者の間で起きた。この馬鹿馬鹿しい争いは先にあげた『ポール・ニューマン アメリカン・ドリームの栄光』に詳しく書いてあるので気になる人は確認して欲しい。これ以後ニューマンが、『ニューヨーク・ポスト』のオーナー、ルパート・マードックが所有していた20世紀フォックスと仕事をすることはなかった。ちなみに『ニューヨーク・ポスト』は一時期、テレビ欄からもニューマンの名前を消していたそうだ。
ポール・ニューマンが自身の名前を冠した食品会社「ニューマンズ・オウン」から売られているワイン。ラベルに彼の似顔絵が貼ってある。
青春について語ることは、恥ずかしさとサリンジャーについて語ることだ
特別お題「青春の一冊」 with P+D MAGAZINE
青春というのは気恥ずかしいものだ、という共通認識が世間にはある。若さゆえの過ち。だからこそ、若い時の恥ずかしい思い出は、大人になってからの恥ずかしい思い出よりも、堂々と発表できる。青春について語れと言われた時、それは「恥ずかしかったこと」を語れと言われているのとほぼ同じである。だから、ここでは自分にとって恥ずかしい一冊を語ろうと思う。
それはJ・D・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』。中高生の頃にこの本を読んで、「ここに描かれている主人公は俺だ!」と勘違いし、大学を卒業する頃にはその思い出をなかったことにするというのが、世界共通の通過儀礼のようなものである。そのため、ジョン・レノンを射殺したマーク・チャップマンが犯行現場でこの本を読んでいたと報道された時、そこには彼の幼児性を強調する意図があった。
『ライ麦』にはまる中高生というのは基本的に、クラスの非主流派である。少なくとも俺はそうだった。日頃、主流派から迫害を受け日陰で生きざるをえない時、思考はだんだんと純化されていく。これは学生に限らないことだが、余裕がない人間はグレーゾーンの思考を持つことができない。黒か白かで世界を判断するようになる。『ライ麦』を語る際よく使われるのは「イノセント」という単語で、主人公ホールデンの妹フィービーがそれを代表していると言われている。ホールデンはフィービーに薄汚れた世界に染まってほしくないと考えている。
だが、社会に出ればどうしたって手を汚す状況が出てきてしまう。取引を有利に進めるために、ハッタリをかますことは珍しくない。就職活動の時に、経歴を誇張した人間は少なくないはずだ。先に「大学を卒業する頃にはその思い出をなかったことにする」と書いたのはそういうことだ。
俺が『ライ麦』を読んだのは中学生の時だった。母親に教えられて読んだというのが、また恥ずかしい。分かりやすぎるくらい簡単にはまった俺は、英語でお気に入りの物を紹介するという授業の時は当然『ライ麦』を選んだし、学校の図書委員で記念写真を撮った時も『ライ麦』を手に持っていた。あー、恥ずかしい。
『ライ麦』の翻訳には村上春樹訳と野崎孝訳があり、俺は最初村上春樹訳を図書館で借りて読んだのだが、後に本屋で買った時は野崎訳を選んだ。「あえて野崎」というスノビズムがそこには働いていた。古めかしい野崎訳はスノッブ精神をくすぐってくれる(有名なところではFuck Youを「オマンコシヨウ」と訳したところ)。あー、恥ずかしい。
俺が大学で文学部の英文科に進んだのも、サリンジャーを通しアメリカ文学に興味を持ったからだった。他のアメリカ文学を読んだり、それに対する批評を読んだりしている内に、サリンジャーに対する関心は薄れた。大人になったというよりかは、彼がテーマとしてた領域と自分が離れていったという感じだ。繊細さを表現する芸術よりも、ヘンリー・ミラーやノーマン・メイラーのような性的な事象を扱った作家が好きになっていた。
それでも彼の小説を愛好していた過去は消すことができない。それが自分の恥ずかしさを受け止めることでもある。いづれサリンジャーの伝記を読もうと思っている。彼が恥ずかしいと思っていた過去を知るために。
パトリシア・ボズワース 『マーロン・ブランド』
マーロン・ブランドは1924年、ネブラスカ州オハマで生まれた。家族構成としては、両親の他に二人の姉がいる。母親のドディはブランドが小さい頃──時には家族そっちのけで──演劇に熱中していた。彼女は芸術家肌だったが、セールスマンの夫はそれに対し無理解であった。そして、ブランドが6歳の頃、仕事の都合でイリノイ州へ引っ越すと同時に、彼女は所属していた劇団を離れざるを得ず、以後舞台からは遠ざかった。
ブランドは母親っ子だった。ある日、ドディが夫の浮気を詰ったところ、暴力を振るわれた。12歳のブランドは現場に駆けつけ、父親に対し、「殺すぞ」とすごんだ。ブランドは父親と生涯にわたり対立し続けることになる。パトリシア・ボズワースは本書の中で「少年時代、ブランドを駆り立てていたのは父親への怒りと復讐の夢だった」と書いている。
学校では体育と演劇だけが得意な教科だった。勉強には熱心ではなく、学内ではいたずらに熱中し、教師に反抗的な態度をとり、学校を二つほど辞めさせられた。教育をまともに受けなかったことは、終生彼のコンプレックスとなる。
学校を辞めたブランドは親元を離れ、1943年の秋ごろ、ニューヨークへと向かう。姉が二人ともニューヨークに住んでいたことや、前年ニューヨークを訪れた際、すっかり都会を気に入ったことが移住のきっかけだった。移住前、両親には、「ニューヨークに出て、俳優になろうかな」(『マーロン・ブランド自伝』)と言ったものの、そこまで強い意志があったわけではなく、わりと漠然とした考えだったようだ。当時は、第二次大戦中だったが、ブランドはアメフトで膝を壊していたのと、近眼だったことから、兵役不適格者の烙印を押されており、徴兵はされなかった。彼自身も戦争に行く気はなかった。
ニューヨークに到着して数か月後、演劇のワークショップに参加したことが、彼の人生の転機となる。そこで彼は演劇指導の責任者だったステラ・アドラーと会い、彼女からスタニスラフキーのメソッドを学び、実際の舞台にも出るようになる。そして、演出家のエリア・カザンに見込まれ、1947年、創設されたばかりのアクターズ・スタジオに参加し、『欲望という名の電車』の舞台にもメインで出演。『電車』は大ヒットし、ブランドは1949年までスタンリー・コワルスキーの役を演じ続けた。ちなみに、『電車』の上演中、劇作家のソーントン・ワイルダーが『電車』の原作者テネシー・ウィリアムズに「ステラのような家柄のよいレディは、スタンリーのような野蛮人と結婚などしない。いわんや、その性的暴力に屈したりしない」と主張したところ、ウィリアムズはワイルダーのいないところで「あの男はいいセックスをしたことがないに違いないぜ」と呟いたという。
1951年には、『電車』が映画化され、そこでもブランドはコワルスキーを演じた。翌年には『革命児サパタ』に出演したが、カザンはラストのサパタ兄弟による対決シーンをもっともらしく撮るために、ブランドとアンソニー・クインを嘘の情報で仲違いさせた。おかげで15年近く、二人は不仲だったという。『サパタ』が公開された後、カザンが昔の仲間を共産主義者としてHUAAC委員会で告発したという記事が新聞に出た。時代は冷戦の真っただ中であり、映画界でも(元)共産主義者を追放しようという動きが活発だった。アクターズ・スタジオのメンバーの多くはカザンに反発し、直接的な処分は下さなかったが、彼は長い間戻ってこなかった。彼がいない間は、リー・ストラスバーグが主任教師の役割を務めた。ブランドもカザンに対し複雑な感情を抱いた。
54年には、『乱暴者』『波止場』といった、後の代表作となる映画に出演*1。ブランドは映画という世界を超え、文化そのものになっていった。ただ、ブランドの精神は有名になるにつれ不安定になり、この頃は当時流行だった精神分析医にもかかるようになっていた。彼は不安神経症で、時折パニックに陥ることがあった。
『波止場』が公開された年に、最愛の母ドディが死んだ。過去にひどいアルコール中毒だったことが彼女の死期を早めた。後に、ブランドはアルコールに依存することを恐れ、代わりに過食に走ることになる(冷蔵庫に鍵をかけなければいけないほどだった)。
ブランドはコンスタントに映画に出続けた。そして、61年には主演兼監督で『片目のジャック』が公開された。この映画にはキューブリックも関わっていたが、彼は途中で降りた。『ジャック』制作中、57年に結婚したアンナ・カシュフィと離婚するという私生活上のトラブルも起きた。息子の親権を巡って、二人は何年も争うことになる。
60年代に入ると、俳優としてのブランドのキャリアにも影が差し始めることになる。62年に公開された『戦艦バウンティ』は、巨額の制作費がかかり、その責任はブランドにあるとされた。元々ハリウッドでは、製作会社やマスコミに協力的でないブランドに反感を持っていたが、彼がオスカー俳優であり興行面でも成功を収めていたので黙っていた。しかし、彼の人気に陰りが見え始めると、彼を笑い者にするような記事が増えた。父に任せた会社が失敗したり、子供たちの養育費の問題があったりと、早急に金を稼ぐ必要があったので、ブランドは出演する映画を選べなくなり、そのことも彼の地位を低下させる原因となった。
65年に、父親が死んだ。ブランドは父に仕事を与え面倒を見たが、彼が家族に対し行った数々の卑劣な言動には怒りを燃やし続けた。父親は決してブランドを認めようとはしなかった。父の死後も、ブランドの怒りは収まることがなかった。
落ち目となっていたブランドに72年、転機が訪れる。『ゴッドファーザー』と『ラスト・タンゴ・イン・パリ』へ出演したのだ。マリオ・プーゾやコッポラ、ベルトルッチといった人々は、彼のことをまだ重要かつ偉大な俳優だと考えていた。ただし、ブランドのまったく台詞を覚えようとしない態度には、コッポラ、ベルトリッチ共に振り回されることになったが。
本書では『スコア』に出演した頃までの、ブランドのキャリアが記述されている。映画以外にも、ブランドの私生活や社会運動への関わりについても触れられている。短い本なので、手っ取り早くブランドの人生について知りたければこれを読むといいだろう。
- 作者: パトリシアボズワース,Patricia Bosworth,田辺千景
- 出版社/メーカー: 岩波書店
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- 作者: マーロンブランド,ロバートリンゼン,Marlon Brando,Robert Lindsey,内藤誠,雨海弘美
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 1995/07
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ジャン=ジャック・ベネックス『オタク』の裏側
リリー・フランキーの『美女と野球』に入っているエッセイ「フランスのおっさん」(初出は「クロスビート」93年11月号)には、リリーがオタクのドキュメンタリーを撮りに日本へやってきたジャン=ジャック・ベネックスをアテンドした時のことが書かれている。
リリーは、ベネックスをサンシャインの噴水広場で行われた「K嬢」のコンサートに連れて行き、インタビューさせるのだが、その時のベネックスはいつもの高慢チキな態度とは打って変わり、「K嬢」に鼻の下を伸ばしっぱなしだったようだ。
この「K嬢」が誰なのか気になったのだが、このドキュメンタリーは日本では一度もソフト化されていないらしい。ただ、フランス本国ではVHSとDVDが出ている。
取りあえず、ドキュメンタリーの原題であるOtaku : fils de l'empire virtuel でGoogle検索するとyoutubeに全編アップされていた。そこで確認したところ「K嬢」とは加藤紀子のことであった。
リリーはこのドキュメンタリーを輸入ビデオで見たらしい。エッセイの中では、「案の定、『オタク』という言葉も文化も、まるで理解できないズッコケ作品であった」と書いている。
ちなみに、ドキュメンタリーには東京ガガガ時代の園子温やスチャダラパー、中森明夫などが出演している。気になる人はDVDを買うか、下の動画をチェックしてみてくれ。
アンディ・ウォーホルと「臆病さ」について
「ウォーホルはとても臆病な人間だ」。それがフレッド・ローレンス・ガイルズの『伝記 ウォーホル―パーティのあとの孤独』を読んだ時の感想である。彼の人生は虚偽に塗れていた。銀髪のかつら、鼻の整形、出身地の詐称…… これらの嘘は自分を保護するためのものだった。伝記を読むまで、俺は彼の事を道化師のような振る舞いをして場を盛り上げるような人間かと思っていた。作家のカポーティがまさにそういう人間だった。だが、ウォーホルは人と喋るのがかなり苦手だったらしい。自身の講演会に偽物を送り込んで大問題になったことがあるのだが、それはふざけているのではなく本当に喋りたくなかったからのようだ。それでもパーティにだけはきちんと出席し、自分の存在をアピールすることだけは忘れなかった。「有名」であることの重要性を彼は知り尽くしていたのだ。
喋りが苦手だったから、見た目を奇抜にしたというのもあるのだろう。どんなに混雑しているパーティでも銀髪のカツラを見れば、「ウォーホルがいる!」となるわけだ。また、彼が容姿にコンプレックスを持っていたというのも確かである。子供の時は病弱で肌が白かったのでよくからかわれた。しかし、内気ではあったが、注目されたいと願い続けてきた。そんな幼少期のウォーホルについて、「内気や臆病さは本心を隠す仮面のようなものだった」とガイルズは伝記の中で書いている。彼は子供の頃から映画スターに憧れていたが、後に自分でも映画を撮るようになる。始めは実験的なものが多かったが、後にポール・モリセイの力を借り、ストーリーのあるものも作るようになる。彼の映画にはファクトリーにたむろしていた連中(全員が社会からドロップアウトした人間だ)が大勢出演し、彼らは「スーパースター」と呼ばれた。それは映画界に憧れていたウォーホルが作った、ハリウッドのミニチュアだったのかもしれない。本物のハリウッドで活動するには、ウォーホルは弱すぎた。彼が操作できるのは、自分よりもはるかに弱い人間でなければならなかった。
ウォーホルは人間関係において受け身であり続けた。自分から近づいて行くというよりかは、誰かが近づいてくるのを待った。ファクトリーと名付けられた彼のスタジオは、彼が有名になるにつれニューヨーク中を移転していったが、基本的には誰でも入れるような場所だった。だが、ウォーホルは気に入らない人間は容赦なく追放した。ファクトリーにいる人間で最も成功に近かったイーディ・セジウィックも追放された。彼女は28歳で死んだ。ファクトリーにいた連中の多くは薬物問題を抱えており、多くが若死にした。彼自身も、ファクトリーに一時出入りしていたヴァレリー・ソラナスに狙撃され、生死の境をさ迷った。
ウォーホルが何の解釈も加えずに「キャンベルのスープ缶」を芸術作品として提出したのは、デュシャンの影響もあったが、彼が「臆病」な性格であったことも影響しているだろう。他の作品にも言えることだが、彼はとにかく解釈することを嫌った。解釈するということは自分の意見を出すということだ。彼に意見がなかったというわけではない。『ウォーホル日記』を読めば、彼が鋭い知性の持ち主だということはわかる。だが、それを他人に披露することを彼は避けた。彼は本質的には発信者ではなく、観察者だった。それと同時に有名人にも憧れていたことが、『マリリン・モンロー』や『デニス・ホッパー』『毛沢東』といった作品に繋がっていったのだろう。彼の作品は全て彼の顔を覆う仮面のようなものだったのだ。
- 作者: フレッド・ローレンスガイルズ,Fred Lawrence Guiles,野中邦子
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 1996/04
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