体験的演出論もしくは無能演出家の効用

 私は人生で一度だけ演出というものをしたことがある。

 昨年、私は『妖女hocoten』というオムニバス形式のコント公演を企画した。

 脚本は書き上げていた。一番の問題は演出だった。私には紙の台本を舞台上のパフォーマンスへ移し替える技術が著しく欠けていた。というか、完全なる未体験ゾーン、未知との遭遇に他ならなかった。これはマジでやばいことだった。

 稽古初日。私の書いた台本を目の前で演じてもらうのだが、もちろんそれは未完成品である。完成度でいえば5%ぐらい、いや3.4%程度だろうか。料理で言えば、まだ食材を集めている段階だ。

 だが、役者が演じる言葉をどんなに集中し、虚心に聞いても、どこをどう修正すればよりクオリティが高くなるかという判断が私にはまったくつかなかった。私は焦った。その場にいる誰よりも緊張していた。

「どこか直すところありますか?」と役者が当たり前のように聞いてくる。一言も頭に浮かばない。50音表の消滅。どうする。どうする? どうする…… ここで「わからない」などと言えば、この企画は崩壊する。とにかく何か言わなければ、ば、ば、ば、ば、ば。

「た、多分大丈夫です。あ、大丈夫です。完璧です」

 なんと稽古初日にして、完成してしまったのである。演劇史上前代未聞のことだろう。ローレンス・オリヴィエだってこんなこと経験したことないはずだ。

 そういえば、映画や演劇を見ていても、役者の演技の上手下手をほとんど気にしたことがなかった。そもそも、演技というものにさほど興味がないのかもしれない。興味が無いから指摘できないのだ。私の中で唯一の基準といっていいものは、「わざとらしくない」ということだけなのである。とにかく自分の中で「こいつわざとらしいなぁ」と思えば、たちまちのうちに冷めてしまう(お笑いでいえば、笑いどころを強調するための張り上げた大声など)。こんなニュアンスで話す人間現実にいないだろうと。だから、演技らしい演技を見ると、逆に評価が下がってしまう。私にとっての理想は、初期の北野武映画の静かさだったり、ニッポンの社長や天竺鼠のコントだったりする。

 それもこれも、感情を表現する機能が他人と比べ極端に劣っているせいかもしれない。日常生活において、喜怒哀楽を表に出すことがほとんどない。例えば、音楽ライブに行っても騒がないし、感動もしない。そんな客がいても迷惑なだけだろうと思い、ライブいくこと自体しなくなった。

 そんな人間が人様に演出をつけるということ自体無理筋なのである。

「イメージはあるんですよね」と聞かれるが、確かにイメージはある。だが、目の前で繰り広げられるそれがさほどイメージと異なっていないように見えるというか見えてしまう場合、どう修正すればよいのか、または修正する必要が無いか伝える言葉を私は何一つ持ち合わせていなかった。

 幸いその場に、演出経験のある人が数名入っていたし、役者も経験豊富な人たちだったから、彼らに助けられながらなんとか形作ることはでき、最終的には満足のいくものになったと自負している。だが、私の関与といえば、ほぼゼロといっても過言ではない。というか企画者なのに自己主張をしなさすぎて、無制限の遠慮尽くしで、むしろそっちのほうがやばかったと思う。

 まあ、そんなことがありまして、自分は演出無理やなぁと思いながらこの1年ばかりすごしてきたのですが、この前たまたまピーター・ブルックの『なにもない空間』という本を読んだんですね。今では、演劇好きの間ですらピーター・ブルックと聞いてもピンとこない人の方が多いと思うんですが、一昔前の(特に前衛演劇における)カリスマ演出家です。『マラー/サド─マルキ・ド・サドの演出のもとにシャラントン精神病院患者たちによって演じられたジャン=ポール・マラーの迫害と暗殺』の映画監督としても知られています(たんに文字数を稼ぎたかっただけ)。

『なにもない空間』というのは、まあブルックによる現代演劇批判+提言といった感じの本なんですが、その中でこんなことが書いてあった。

 

 もちろん、あらゆる仕事には頭を使うことがつきものだ。すなわち、比較したり、考え込んだり、間違えたり、引返したり、躊躇したり、やり直したりすることである。(略)ところが劇の演出家はみずからの優柔不断さを出演者たちの目にさらさねばならない。その代わりに、彼の媒体は反応を示しながら進展して行く。(略)

 ここに奇妙な逆説がある。最も有能な演出家に匹敵するほどの効果をあげうる者──それはただ無能演出家のみである。演出家がまったく駄目で、まったく無方針で、まったく自分の考えを伝えられないような人間であるために、こういう無能さがかえって長所になるといった場合がある。俳優の方では絶望してしまうからだ。演出家の無能さの結果、出演者たちはみずからの前に口をあける深淵をのぞき見る思いをするようになり、初日が近づくにつれて、不安は恐怖にとって代わられるようになる。そして恐怖は力になる。出演者たちがぎりぎりの段階で、まるで魔法にかかったかのように力と統一とを見出したといった例が、実際にあるのだ。(太字は引用者による)

 

 この文章を読んだとき、私は雷に打たれたような衝撃を覚えた(あまりの衝撃に陳腐な比喩を使うことすらためらわない)。なるほど、あのコント公演がうまくいったのも私が無能演出家だったからなのだ。つまり私は何一つ卑下する必要はなかったのだ。

 ということで、もしコントの演出家を探している人がいたら遠慮なく声をかけてほしい。おそらく、地球上のどこを探してもこんなに無能な演出家はいないから。ちなみに、コントであれば台本も書けるので一石二鳥です。自分いけます。やらせていただいて。よろしくお願いします。

 

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逆推し活のすゝめ

 最近TVやネット、はたまた職場でまで「推し活」というワードを聞く機会がべらぼうに増えた。頻度で言えば、クリスマスの時にしか流れない「恋人がサンタクロース」と違って、こちらは24時間365日、オールシーズンタイヤのごとく季節を問わず垂れ流されている。

 そんなに「推し活」が好きなら、推し活の子供になりなさい! 推し活、推し活ってお前は恵美押勝か! あ、恵美押勝さんでしたか、すいません。

 キューバのグァンタナモ湾にあるアメリカ軍の収容所では、Nine Inch Nailsや Rage Against the Machineの曲が拷問に使われていたらしいが、メディアにおける「推し活」の波状攻撃、絨毯爆撃もすでに拷問の域へと達している。もはやこのまま黙っているわけにはいかない。

「推し活」の何が問題か? 

 私は二つの問題点があると考えている。

 一つは、他人を応援するという「行為」があまりにも無邪気に肯定されすぎているとうことだ。本来人を応援するという行為には葛藤が付随している。また付随すべきである。なぜなら他人を応援するということは、非常に政治的な行為だからだ。応援されるものがいれば応援されないものがいる。そこには自動的に排除の論理は働く。そこに自覚的になるからこそ葛藤が付随する。葛藤があるからこそ応援という行為は人間的なものとなるし、責任を自覚するきっかけともなる。葛藤は批評そのものだからだ。だが、「推し活」からはそのような政治性がきれいに省略されている。

 なぜか?

 まず、「推し活」という行為自体に、自我を消失させる作用が含有されている。自我を対象に委ねることで、思考を放棄し、対象の一挙手一投足すべて称賛・肯定する。自我を預け切っているから、好意を向ければ向けるほど、ポジティブなフィードバックを得ることができる。これは一見エゴイズムからかけ離れた行為のように見えるから、自己肯定感の低い者ほどハマりやすい。自分のためにお金を使うのを惜しむ人が、「推しのため」という錦の御旗を掲げた瞬間、なんだってやってしまう。問題は「推し活」による行動は、無批判にすべて肯定されてしまうことだ。この無邪気さこそ、メディアが積極的に乗っかっている要因なのである。政治性が排除されているからこそ、メディアは誰にも気がねすることなく「推し活」という運動にベットすることができる。そして、すべては巧みに資本制へと回収されていく。

「推し活」が排除しているのはまさしく「排除の意識」なのである。無意識であるがゆえに、彼らは「推し活」の旗の下一斉に集合する。巨大化した無意識の塊は、いつしかカルト化し、「推し」に対する批判的な意見をみれば徹底して排除しようとするだろう。無意識にそれが正しいことだと信じているからこそ、それは容赦のないものとなる。

 さて、「推し活」についてもう一つ問題点をあげよう。

 私が「推し活」という言葉になじめないのは、それが不必要な言い換えだからである。もともと、「推し活」という言葉ができる前は、「ファン」とか「愛好家」という言葉で、対象への好意を語っていた。既存の言葉があるにも関わらず、あえて「推し活」という言葉を使っているのなら、それ相応の誠意を見せなければいけない。「ファン」よりも一段上の忠誠心を見せなければいけない。にもかかわらず、中には数か月で「推し」を見捨てる人間がいる。なんという軽薄さだろうか! 手垢まみれの言葉を使っているという自覚もなく、ただ流行っているからという理由だけで、無意味な言い換えを乱用する。これを現代の病理と言わずしてなんと言おう! 一度「推し」という言葉を使用したなら、そいつが死ぬ瞬間まで看取るべきだ。もはや言葉も発せず寝たきりとなり自ら排泄すらできなくなった「推し」の肛門を丁寧に拭いてやるべきだ。その程度のことすらできない人間が「推し」という言葉を使うべきではない。ファンでよろしい。

 ここまで「推し活」への批判を大々的に繰り広げてきたわけだが、一つ代替案を提示したいと思う。それが「逆推し活」のすゝめである。「推し活」の問題点の一つに、「排除の意識」があると私は述べた。では、自分がいったい何を排除しているのか? それを自覚する試みが「逆推し活」である。すなわち、自分の好みから最も遠いものを身近に置き、それによって自らの排他性を自覚し、偏った精神を引き戻そうとする認知行動療法的取り組みである。

 まずは隗より始めよということで、さっそく私は矢沢永吉のキーホルダーを購った。これまで私はいわゆる文系文化圏の中で生きてきたわけだが、「逆推し活」をするにあたってそこから最も遠い場所、すなわちブルーカラー的文化圏への接近を図った。矢沢以外では長渕剛という選択肢もあったが、「E.YAZAWA」という、ファンでなくとも伝わるあのシンボリックなロゴのインパクトから矢沢のキーホルダーをチョイスした。そして会社で使用しているPCの物理キーに取り付け、毎日「E.YAZAWA」のキーホルダーを周囲に見せびらかせている。同僚から「矢沢好きだったんですか?」と聞かれた際は、「好きではない。これが『逆推し活』だから」と答え、「意味が分からない」と言われている。パイオニアが理解を得られないのは当然のことである。私は「推し活」という言葉が廃れるまでこの運動を続けるつもりだ。

 

E.YAZAWA

 

 

ブンシャカラカ日記

 板橋区立高島平図書館に行ったら「TAKASHIMADAIRA ROCK FESTIVAL」なるものがひっそりと開催されていた。「ロッキング・オンのメイン事業は今や雑誌ではなくフェスである!!!」という魂の叫びをどこかで聞いたことがあるくらい音楽フェスって儲かる時は儲かるらしいのだけど、それが板橋区まで波及しているとは思わなんだ、という感想を抱く。4マス戻る。

 1m四方のテーブルの上に、「TAKASHIMADAIRA ROCK FESTIVAL」に出演するアーティストのCDが置いてあった。ラインナップを惜しみなく教えよう。

 

・フリッパーズ・ギター

・ディープ・パープル(第7期)

・電気グルーヴ

・ジャック・ジョンソン

・テイ・トウワ

 

 非常に挑戦的な並びである。どういうコンセンプトなのかまったく読めず、また誰がヘッドライナーなのかも不明だが、フリッパーズ・ギターが板橋区で再結成するということだけはわかった。これが彼らの2024年サマー・ビューティー計画なのだろう。あのThe Blue Heartsもこう歌っている。

 

気ぃ~が~狂いそう(ナ~ナ~ナ~ナ~ナ~ナ~)

 

 昨日は、劇団「地蔵中毒」のhocoten(kじゃなくてc)さんと漫才の練習をした。なぜそんなことをしているのかはあまり大きな声では言えないが、お笑いのライブでに出るためである。これも大きな声では言えないが、実は世の中にはお金を出せば出演できるライブというのが存在しているのである。

 

でっかい声で言ってやる! ガンバレって言ってやる!

 

 というわけで、レンタルスペースを借りたのだが、部屋の外の手すりにつけられたキーボックスがパスワードを入れたにも関わらず開けることができなかった。そのため、入室能わず状態に陥り、我々は30分ほど部屋の外でBozenと立ち尽くし、トラベリングをとられた。

 結句我々は近くのカラオケ屋に入り、hocoten(kじゃなくてc)さんはglobeの「FACE」を熱唱(特に「情けないようで たくましくもある」の箇所)し、私は卍ラインの「ブンシャカラカ」を途中まで歌った。

 帰り際、エコーズの「ZOO」について話したような記憶があるが、なぜそうなったかはとんと思い出せない。おそらく、朝寝坊のニワトリも結局はケンタッキー送られるのだろうという話だったと思う。

 

 

 

 

「逆張り」の魅力と意義

 どうも~。ふらぐめんつの藤山と申します。会社員やりながらコントとか書いたりしていま~す。

 最近、2冊本を読んだんですが、その2冊がテーマ的に似ているんじゃないかなと思い、また自分がよく考えていることにも近いということで、今回取り上げさせてもらいたいと思います。

 1冊目がね、綿野恵太『「逆張り」」の研究』。これがどういう本かというと、「本書は、逆張りくんとからかわれ、逆張り特集の逆張り担当に指名された、逆張り当事者による逆張りの研究である。逆張りの、逆張りによる、逆張りのための研究である」という風にまえがきに書いてあるんですね。

 まあ、その、「逆張り」という言葉がいかに定義なく使用され、意味合いが変化していったかということを、主に作者の周辺から具体例を提示しつつ時代ごとに辿っていく、そういう本ですね。簡単にいえば。

 題名に「研究」とありますけど、本人も言っている通り「エッセイ」なんで、結構パーソナルなことが書いてあってそこも興味深かったですね。実は、綿野さんとは一時期O田出版というところで一緒に働いていたことがあったんで、余計に私小説的な読み方をしたところもあったかもわからないですが、一番筆が乗ってるのもそういう部分だとそういう部分であると言わざるを得ない可能性がございます。

 本書では、様々な「逆張り」の用法が挙げられていて、不肖・藤山も自他共に認める「逆張り人間」をやらせていただいているんですが、自分が理想としている「逆張り」というのがあって、勝ち筋の見えない逆張り、こういうのに強く惹かれてしまいますね。本書の中でも扱われてますけど、「こいつと反対のことを言っておけば安心だ」みたいなそういう最初から支持者や共感者が見えてしまっている脳死の逆張りはつまらないんですね。あなた言ってやったぜみたいな顔してるけど、めっちゃ周囲に目くばせしてますやん、みたいな。笑いの世界で言えば、ベタに対してベタで返すような感じなんで。

 自分がなぜ「逆張り」をするのかというと、他人の作った文脈に乗っかりたくない、というのが非常に大きいですね。小松海佑の言葉を借りるなら、「大勝負でもあり、強がりですよ」と。なので、ワイが逆張りするときは、僕の前に道はない 僕の後ろに道はできる だけど誰もついてこない、そういう感じで行きたいと思ってるんですよね。最初に下心ありきの逆張りってめちゃくちゃ醜いですから。

 というわけで、2冊目の紹介に行きたいんですが、これが柴崎裕二『ポップミュージックはリバイバルをくりかえす』ですね。

 これは今年読んだ本のなかで最も知的興奮をもたらしてくれた一冊です。サブタイトルに「『再文脈化』の音楽受容史」とあるように、ミュージシャンが過去に蓄積されてきた音楽遺産を、どのように解体し、自分の音楽に取り入れてきたかということを、豊富な実例を挙げて解説しているんですが、「こことここが繋がっていくのか!」という、まるで手品の種を見せてもらっているかのような読書体験でした。

 えー、ではここで「逆張り」というテーマに無理やり繋げさせていただきますが、本書を読んだ限り、ミュージシャンという人種も、結構逆張り的な選択をしていることが多いんじゃないかなと。基本、もうみんなが忘れ去ってしまったようなものを、リバイバル(=再文脈化)しようとするんですよね。

 例えば、1990年代に発生したオルタナカントリーというジャンルがあるんですけど、それなんか逆張りの最たるものだと思います。

 

 オルタナカントリーは、先行するオルタナロック世代のバンド、例えばリプレイスメンツなどの影響が特に大きかったとされるが、その根底には、「カントリーミュージックの失われてしまった(忘却されてしまった)カウンター性を取り戻す」という姿勢が滲んでいた。

 これは、かつて1960年代末に現れた初期カントリーロックの理念とも重なり合うものであり、実際にオルタナカントリーのプレイヤー/ファンともども、グラム・パーソンズをその始祖として崇拝する傾向があった。1990年代のポップな主流カントリーが「産業にその本質を骨抜きにされたカントリー」であるとすれば、オルタナカントリーはそれへのアンチテーゼであり、かつてカントリーミュージックの生命力をロックという「反権威」と接合することで賦活したパーソンズこそは、直系の先祖ということになる。(柴崎裕二『ポップミュージックはリバイバルをくりかえす』p88)

 

 ここで取り上げられているUncle Tupeloというバンドは、1987年に活動を開始しているんですけど、やっぱりその時代にカントリーを取り入れようと思ったのが、僕的にはすごく良い「逆張り」なんですよね。今同じことやってもWilcoの影響力がまだまだ強いんで大して「逆張り」にならないですけど、1990年前後にインディー・ロックのフィールドでカントリーを取り入れるって、相当強い意思を持ってないとできないことですから(細かいことを言うと、The Mekonsのような先駆者はいたけど)。

 ワイの好きなバンドでBlack Flagっていうハードコア・パンク・バンドがいるんですけど、この人たち最初はいかにもパンクっぽい2分未満の早くて短い曲を演奏していて、それですごく持て囃されていたんですが、ある時思想的には真逆にあるはずのヘヴィー・メタルを取り入れるという、パンク・ファンを振り落とすような「逆張り」をして、それがすごくかっこよかったんですね。そういう「支持する人間はいないかもしれないが、やりたいことをやる」っていう姿勢にすごく惹かれてしまいますね、ぼかぁ。だいたいそういう人が歴史変えてますから。

 結局、なんの話がしたいかというと、バランスの話なんですね。みんながみんな「順張り」して、同じ方向を向くと、世の中のバランスがおかしくなってしまいますから。なにか起きた時、全員が沈みますから。なので、ワタクシも微力ながらこれからも積極的に「逆張り」に励まさせていただく所存でございます。ありがとうございました。

 

 

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ビートたけし『みんなゴミだった』

 突然ですが、ここでセックスの話をしたいと思います。セックスって知ってますか? 異性ないし同性同士が主に裸で行うアレね。自分の場合、主に風俗という桃色のフィルターを通して行うことが多いんだけど、人生で一度も没入感を得たことがない。一番興奮するのが、ホテルで相手を待っているとき。そこがピーク。実際にやりましょうとなったら、最初の5分ぐらいでもう飽きてる。「早く終わらねーかな」としか思っていない。それでも、金がもったいないし相手のこともあるから、残りの50分は熱中しているふりをしているんだけど、気持ちが完全に降りちゃってるから(©ミームを考える)、性行為をしている自分を俯瞰してみちゃってるんだ。そうすると、セックスという行為が冗談にしか思えなくて、ますます気持ちが離れていく。だから、一度風俗に行くとしばらくはそのことが頭をよぎって、セックス自体がどうでもよくなり、もっぱらオナニーで満足するんだけど、やっぱり半年ぐらいすると喉元過ぎれば熱さを忘れるで、風俗の予約をして、また最初に戻るんだよね。

 結構前にビートたけしの『みんなゴミだった』っていう本を読んだんだけど、たけしもそんな感じらしいよ。やっぱ、俺とたけしは発想が近いわ。

 

 ところが、コーマンっていうやつは男と女がいきなりハダカになってやらなくちゃならないもんだし、そのやってる最中の格好とか、口走ってることとかって、すごい滑稽なんだ。

 だからセックスっていうのは、ギャグの宝庫になってる。ネタは無限に埋蔵されてる。(ビートたけし『みんなゴミだった』)

 

 たけしが書いた本って、(本人が書いてない物も含めると)相当出てるけど、彼の思考が一番露骨に表出しているのが、この『みんなゴミだった』じゃないかな。とにかくニヒリズムというか諦念というか、常に一歩引いたところから世界を眺めていて、読み終わるとちょっとした虚無感に襲われる代物なんだ。

 たけしという人は非常に屈折していて、ロマンティスト的なところもあるんだけど、表層的にはシャイだから、そういうところを「ボケ」や「露悪」で隠そうとするんだよね。特にこの本の場合、露悪の方向性がかなり強くて、そこがうんざりする人もいるだろうな。

『TAKESHIS'』っていう映画では、売れない俳優「北野武」と大物芸能人「ビートたけし」を並置する手法をとっていたけど、『みんなゴミだった』を読むと、売れてなお、何者でもなかった新宿時代を引きずっているがよくわかるね。一歩間違えれば自分も「ゴミ」になっていたんじゃないかっていう不安と、自分はそういう連中とは違ったから成功したというプライド、この両方に足を突っ込んでいるのが、たけしという人間の矛盾であり魅力になっているんだよ。本では新宿時代の「文科系コンプレックス」を告白しているけど、成功したからこそ言える言葉なんだろうね。

 で、話をセックスとギャグに戻すんだけど、実は俺も風俗のネタを書いたことがあるんだよな。「丁寧すぎる風俗客」っていうネタなんだけど、いつか映像化したいなって思ってる。多分Youtubeには載せられないから、どっかのスペース借りて、上映会方式でやりたいね、っていう宣伝でした。

 

kakuyomu.jp

 

 

youtu.be

お笑い行為展覧会(日記)

 先月、自分が企画したライブが終わり、時間ができたので、他人のライブを観に行こう月間にしようと思い、積極的に外出している(※当社比)。なにせここ10年ぐらい土日に家から出る用事が皆無だったので、週1回予定を作るだけで、自分としては相当な運動量となっている。

『電王・馬肉かなめのM-1対策させないライブ』を9/30に観た。電王の謹製さんは『妖女hocoten』に出演してくれた人であり、馬肉さんはわざわざ観に来てくれた人である。

 ライブのコンセプトとしては、M-1用のネタを披露・ブラッシュアップしにきたコンビの邪魔をすべく、電王と馬肉さんが合間に場をかき乱すようなネタをするというものだった。そのためか、一発目に披露された電王のネタは直球の下ネタだった。

 ライブで一番暴れていたのは馬肉さんで、替え歌・コント・一発芸を披露していた。コントでは、クラブの跡地に業務スーパーを建てるというバカバカしい世界観を大真面目にやりきっていて、劇団ひとりを彷彿とさせるような演技力だった。

 また、一発芸は、ドライアイスを口に含み、ちいかわの書かれたボードに向けて煙を吐くという過激なものだったが、芸に入る前「ドライアイスがほとんど溶けてしまいました!」というセリフから始まったため、会場にいる誰もが「そういうコントなのね」と思った瞬間、小石ぐらいまでに溶けたドライアイスをためらうことなく口の中に放り込んだので、さっきまで爆笑していた客席からは壮絶な悲鳴があがった。ライブ終了後のエンディングでは、ドライアイスの舐め方(舌の薄皮は剝がれるがすぐに再生するらしい)とゴキブリコンビナートの出し物である「狂ったOL」の話をして、会場を圧倒していた。

 10/7は『16F2 or 32F』を観た。「警備員とニシブチによる『ジュウロッカイ』でのネタライブ第2弾」とのことだったが、警備員の体調不良によりニシブチのピンネタライブ『32F』が当日は開催された。

 ニシブチ氏はピンネタを人前で披露したことがないということだったが、そんなことを微塵も感じさせないほどの演技力と密度のあるネタだった。自分も人にピンネタを提供した経験を持っているが、コンビでのネタに比べると明確な笑いどころやストーリーの展開を作るのが難しく、非常に難儀したのだけれど、ニシブチ氏は会社勤めをしながら2週間(三分の一は11時帰宅)で書き上げたというのだから恐ろしいですね。

 ご本人は「『人間らしくない』とか『コンピューター』とか揶揄されることも多い」らしいが、今回披露されたネタの多くは、急遽ピンになってしまった状況を織り込んだ、めちゃくちゃ人間味溢れるものだった。そういった経緯を知らなくても面白いが、できればニシブチ氏のnoteを読んでから見たほうがよい。普段感情を出さない(と思われている)人がこういうことをやるからこそ、グッとくるのだと思う。

 ライブの構成も、最後とあるストーリー仕立てになっていて、残念ながら思い通りにはいかなかったけれど、次の「ジュウロッカイ」or「ハチカイ」の単独ライブにつなげてほしいですね。

 惜しかったのは会場(高円寺ジュンジョー)の構造上、後ろの席にいると映像や小道具がほとんど見えなかったこと。そこだけが残念だった。

twitcasting.tv

 

 

 

ふらぐめんつ第一回コント公演『妖女hocoten』

 Yo! What's up "bro"!

 東京は今何時ですか?

 私は今埼玉からこれを書いています。

 宴もたけなわではございますが、ここでご報告がございます。

 来る9月23日(土)~9月24日(日)、しもきたドーンにて単独ライブを開催することになりました。

t.co

 ステージナタリーにも情報載せてもらいました。

natalie.mu

 人生で一度はナタリーに載りたいなぁ、と思っていたら、案外あっさり載せてくれたのでびっくりしました。これでもう思い残すことはないですね。人生の最大の目標をクリアした、そんな感じです。今までありがとうございました。デジタルタトゥーにならないよう今後は立ちしょんなどを控えたいと思う所存でございます。

 

 というわけで、このライブを開催することになった経緯について手短に公表します。

 元々自分はお笑いのネタを一人で書いていたのですが、それを実演する人間がいないというちょっとした悩みがあり、そこをXで相互フォロワーだった劇団「地蔵中毒」のhocotenさんに相談したところ、立川がじら(劇団「地蔵中毒」)・尾形悟(マグネットホテル)・謹製(電王)という個性、知性、品性、感性がダダ漏れな面々を集めてくれました。

 また、hocotenさんには、演者集めだけではなく、スタッフ集め、稽古場探し、演出、フライヤー作成諸々を手掛けていただき、今のところ自分は置かれた場所で咲いているだけの存在となっております。この場を借りてお礼申し上げます。

 

 今回なにをやるのかというと、公演のタイトルにもある通り、コントです。お笑いです。しもきたドーンという会場選びにもその思想が根強く反映されていますので、ご理解のほどよろしくお願いいたします。

 ステージ上で脱糞する田口トモロヲ的なパフォーマンスはありませんが、課長の人体が裏返るコントはあります。あと、メリケンサックとイヨネスコも登場します。コント8本、映像1本で、だいたい1時間ぐらいの公演を予定しています。

「第一回コント公演」とある通り、今回がふらぐめんつとして初の単独ライブとなります。というか、自分の書いたものを人前で披露すること自体初めてとなります。なので、2023年9月9日02時30分時点で、私の書いたネタを生で見た人間はいません。そのため、どんな雰囲気なのか非常に分かりづらいと思うので、私が好きなネタを参考までにあげておきます。こういうのが好きな人間が作るネタだと思っていただければ不幸中の幸いです。

 

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 はい、というわけでね、いろいろ書いてきたわけですが、とりあえず予約してもらえるとありがたい可能性がございます。

 今回の公演は、いわば名刺代わりになるようなものにするつもりです。これを観て面白かったら、ライブなどにお誘いただけると嬉しいです。人生最大の目標という言葉再度を使用させていただきますが、テアトロコントに出れたらいいなぁとか、テーマを決めたライブを作れたらいいなぁとか、まだまだやりたいことはたくさんあります。

 以上です。お忙しいところ、ご確認お願い致します。

 

 ↓以前Youtubeにあげたショートネタです。こちらのチャンネルにも今後ネタを上げていく予定です。チャンネル登録してもらえると、私が喜ぶ可能性がございます。

会社員あるある(ハードコア篇) - YouTube

 

追記

ネタ動画公開されました。

卑屈すぎる小説家

ふらぐめんつ コント「卑屈すぎる小説家」 - YouTube

ふらぐめんつ コント「気の弱い殺し屋」 - YouTube

ふらぐめんつ コント「三者面談」 - YouTube

ふらぐめんつ コント「裏返った課長」 - YouTube

ふらぐめんつ コント「大げさすぎるインタビュアー」 - YouTube

ふらぐめんつ 幕間V「鞄の中身」 - YouTube