体験的演出論もしくは無能演出家の効用

 私は人生で一度だけ演出というものをしたことがある。

 昨年、私は『妖女hocoten』というオムニバス形式のコント公演を企画した。

 脚本は書き上げていた。一番の問題は演出だった。私には紙の台本を舞台上のパフォーマンスへ移し替える技術が著しく欠けていた。というか、完全なる未体験ゾーン、未知との遭遇に他ならなかった。これはマジでやばいことだった。

 稽古初日。私の書いた台本を目の前で演じてもらうのだが、もちろんそれは未完成品である。完成度でいえば5%ぐらい、いや3.4%程度だろうか。料理で言えば、まだ食材を集めている段階だ。

 だが、役者が演じる言葉をどんなに集中し、虚心に聞いても、どこをどう修正すればよりクオリティが高くなるかという判断が私にはまったくつかなかった。私は焦った。その場にいる誰よりも緊張していた。

「どこか直すところありますか?」と役者が当たり前のように聞いてくる。一言も頭に浮かばない。50音表の消滅。どうする。どうする? どうする…… ここで「わからない」などと言えば、この企画は崩壊する。とにかく何か言わなければ、ば、ば、ば、ば、ば。

「た、多分大丈夫です。あ、大丈夫です。完璧です」

 なんと稽古初日にして、完成してしまったのである。演劇史上前代未聞のことだろう。ローレンス・オリヴィエだってこんなこと経験したことないはずだ。

 そういえば、映画や演劇を見ていても、役者の演技の上手下手をほとんど気にしたことがなかった。そもそも、演技というものにさほど興味がないのかもしれない。興味が無いから指摘できないのだ。私の中で唯一の基準といっていいものは、「わざとらしくない」ということだけなのである。とにかく自分の中で「こいつわざとらしいなぁ」と思えば、たちまちのうちに冷めてしまう(お笑いでいえば、笑いどころを強調するための張り上げた大声など)。こんなニュアンスで話す人間現実にいないだろうと。だから、演技らしい演技を見ると、逆に評価が下がってしまう。私にとっての理想は、初期の北野武映画の静かさだったり、ニッポンの社長天竺鼠のコントだったりする。

 それもこれも、感情を表現する機能が他人と比べ極端に劣っているせいかもしれない。日常生活において、喜怒哀楽を表に出すことがほとんどない。例えば、音楽ライブに行っても騒がないし、感動もしない。そんな客がいても迷惑なだけだろうと思い、ライブいくこと自体しなくなった。

 そんな人間が人様に演出をつけるということ自体無理筋なのである。

「イメージはあるんですよね」と聞かれるが、確かにイメージはある。だが、目の前で繰り広げられるそれがさほどイメージと異なっていないように見えるというか見えてしまう場合、どう修正すればよいのか、または修正する必要が無いか伝える言葉を私は何一つ持ち合わせていなかった。

 幸いその場に、演出経験のある人が数名入っていたし、役者も経験豊富な人たちだったから、彼らに助けられながらなんとか形作ることはでき、最終的には満足のいくものになったと自負している。だが、私の関与といえば、ほぼゼロといっても過言ではない。というか企画者なのに自己主張をしなさすぎて、無制限の遠慮尽くしで、むしろそっちのほうがやばかったと思う。

 まあ、そんなことがありまして、自分は演出無理やなぁと思いながらこの1年ばかりすごしてきたのですが、この前たまたまピーター・ブルックの『なにもない空間』という本を読んだんですね。今では、演劇好きの間ですらピーター・ブルックと聞いてもピンとこない人の方が多いと思うんですが、一昔前の(特に前衛演劇における)カリスマ演出家です。『マラー/サド─マルキ・ド・サドの演出のもとにシャラントン精神病院患者たちによって演じられたジャン=ポール・マラーの迫害と暗殺』の映画監督としても知られています(たんに文字数を稼ぎたかっただけ)。

『なにもない空間』というのは、まあブルックによる現代演劇批判+提言といった感じの本なんですが、その中でこんなことが書いてあった。

 

 もちろん、あらゆる仕事には頭を使うことがつきものだ。すなわち、比較したり、考え込んだり、間違えたり、引返したり、躊躇したり、やり直したりすることである。(略)ところが劇の演出家はみずからの優柔不断さを出演者たちの目にさらさねばならない。その代わりに、彼の媒体は反応を示しながら進展して行く。(略)

 ここに奇妙な逆説がある。最も有能な演出家に匹敵するほどの効果をあげうる者──それはただ無能演出家のみである。演出家がまったく駄目で、まったく無方針で、まったく自分の考えを伝えられないような人間であるために、こういう無能さがかえって長所になるといった場合がある。俳優の方では絶望してしまうからだ。演出家の無能さの結果、出演者たちはみずからの前に口をあける深淵をのぞき見る思いをするようになり、初日が近づくにつれて、不安は恐怖にとって代わられるようになる。そして恐怖は力になる。出演者たちがぎりぎりの段階で、まるで魔法にかかったかのように力と統一とを見出したといった例が、実際にあるのだ。(太字は引用者による)

 

 この文章を読んだとき、私は雷に打たれたような衝撃を覚えた(あまりの衝撃に陳腐な比喩を使うことすらためらわない)。なるほど、あのコント公演がうまくいったのも私が無能演出家だったからなのだ。つまり私は何一つ卑下する必要はなかったのだ。

 ということで、もしコントの演出家を探している人がいたら遠慮なく声をかけてほしい。おそらく、地球上のどこを探してもこんなに無能な演出家はいないから。ちなみに、コントであれば台本も書けるので一石二鳥です。自分いけます。やらせていただいて。よろしくお願いします。

 

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