逆推し活のすゝめ

 最近TVやネット、はたまた職場でまで「推し活」というワードを聞く機会がべらぼうに増えた。頻度で言えば、クリスマスの時にしか流れない「恋人がサンタクロース」と違って、こちらは24時間365日、オールシーズンタイヤのごとく季節を問わず垂れ流されている。

 そんなに「推し活」が好きなら、推し活の子供になりなさい! 推し活、推し活ってお前は恵美押勝か! あ、恵美押勝さんでしたか、すいません。

 キューバグァンタナモ湾にあるアメリカ軍の収容所では、Nine Inch NailsRage Against the Machineの曲が拷問に使われていたらしいが、メディアにおける「推し活」の波状攻撃、絨毯爆撃もすでに拷問の域へと達している。もはやこのまま黙っているわけにはいかない。

「推し活」の何が問題か? 

 私は二つの問題点があると考えている。

 一つは、他人を応援するという「行為」があまりにも無邪気に肯定されすぎているとうことだ。本来人を応援するという行為には葛藤が付随している。また付随すべきである。なぜなら他人を応援するということは、非常に政治的な行為だからだ。応援されるものがいれば応援されないものがいる。そこには自動的に排除の論理は働く。そこに自覚的になるからこそ葛藤が付随する。葛藤があるからこそ応援という行為は人間的なものとなるし、責任を自覚するきっかけともなる。葛藤は批評そのものだからだ。だが、「推し活」からはそのような政治性がきれいに省略されている。

 なぜか?

 まず、「推し活」という行為自体に、自我を消失させる作用が含有されている。自我を対象に委ねることで、思考を放棄し、対象の一挙手一投足すべて称賛・肯定する。自我を預け切っているから、好意を向ければ向けるほど、ポジティブなフィードバックを得ることができる。これは一見エゴイズムからかけ離れた行為のように見えるから、自己肯定感の低い者ほどハマりやすい。自分のためにお金を使うのを惜しむ人が、「推しのため」という錦の御旗を掲げた瞬間、なんだってやってしまう。問題は「推し活」による行動は、無批判にすべて肯定されてしまうことだ。この無邪気さこそ、メディアが積極的に乗っかっている要因なのである。政治性が排除されているからこそ、メディアは誰にも気がねすることなく「推し活」という運動にベットすることができる。そして、すべては巧みに資本制へと回収されていく。

「推し活」が排除しているのはまさしく「排除の意識」なのである。無意識であるがゆえに、彼らは「推し活」の旗の下一斉に集合する。巨大化した無意識の塊は、いつしかカルト化し、「推し」に対する批判的な意見をみれば徹底して排除しようとするだろう。無意識にそれが正しいことだと信じているからこそ、それは容赦のないものとなる。

 さて、「推し活」についてもう一つ問題点をあげよう。

 私が「推し活」という言葉になじめないのは、それが不必要な言い換えだからである。もともと、「推し活」という言葉ができる前は、「ファン」とか「愛好家」という言葉で、対象への好意を語っていた。既存の言葉があるにも関わらず、あえて「推し活」という言葉を使っているのなら、それ相応の誠意を見せなければいけない。「ファン」よりも一段上の忠誠心を見せなければいけない。にもかかわらず、中には数か月で「推し」を見捨てる人間がいる。なんという軽薄さだろうか! 手垢まみれの言葉を使っているという自覚もなく、ただ流行っているからという理由だけで、無意味な言い換えを乱用する。これを現代の病理と言わずしてなんと言おう! 一度「推し」という言葉を使用したなら、そいつが死ぬ瞬間まで看取るべきだ。もはや言葉も発せず寝たきりとなり自ら排泄すらできなくなった「推し」の肛門を丁寧に拭いてやるべきだ。その程度のことすらできない人間が「推し」という言葉を使うべきではない。ファンでよろしい。

 ここまで「推し活」への批判を大々的に繰り広げてきたわけだが、一つ代替案を提示したいと思う。それが「逆推し活」のすゝめである。「推し活」の問題点の一つに、「排除の意識」があると私は述べた。では、自分がいったい何を排除しているのか? それを自覚する試みが「逆推し活」である。すなわち、自分の好みから最も遠いものを身近に置き、それによって自らの排他性を自覚し、偏った精神を引き戻そうとする認知行動療法的取り組みである。

 まずは隗より始めよということで、さっそく私は矢沢永吉のキーホルダーを購った。これまで私はいわゆる文系文化圏の中で生きてきたわけだが、「逆推し活」をするにあたってそこから最も遠い場所、すなわちブルーカラー的文化圏への接近を図った。矢沢以外では長渕剛という選択肢もあったが、「E.YAZAWA」という、ファンでなくとも伝わるあのシンボリックなロゴのインパクトから矢沢のキーホルダーをチョイスした。そして会社で使用しているPCの物理キーに取り付け、毎日「E.YAZAWA」のキーホルダーを周囲に見せびらかせている。同僚から「矢沢好きだったんですか?」と聞かれた際は、「好きではない。これが『逆推し活』だから」と答え、「意味が分からない」と言われている。パイオニアが理解を得られないのは当然のことである。私は「推し活」という言葉が廃れるまでこの運動を続けるつもりだ。

 

E.YAZAWA