秋草俊一郎 『「世界文学」はつくられる 1827-2020』

 ある小説が優れていることについて、「これは世界文学だ!」と表現する人がいて、自分はそれを見るたびに苛立っていた。まず、「世界文学」という言葉は昨今あまりにも乱用されており、それ自体既にクリシェと化しているのにも関わらず、そこに気づかない非文学的な鈍感さに対して。それから、「『世界文学』って言っておけば今どきかつ安全なんだろ?」という、空気を読むことだけに徹した軽薄さに対して。

 なぜこのような事態が起こっているかと言うと、それは「世界文学」という言葉がこれまで厳密に定義されたことがなく、みんなが好き勝手に使っているからだ。なにしろ、「世界文学」という言葉が広まるきっかけを作ったゲーテ自身、それをきちんと定義しなかったがために、その意味するところを解明しようと、研究者たちが膨大な量の論文を書いているという。それ以来、世界中で「わたしのかんがえるせかいぶんがく」が量産されていることになる。秋草俊一郎の『「世界文学」はつくられる 1827-2020』は、そのゲーテから始まり、世界文学全集や世界文学アンソロジーの成立過程や状況を分析することで、いかに「世界文学」という言葉・概念が、恣意的に使用されてきたかということを解き明かしている。

 これまで「世界文学全集」について焦点を当てた書物といえば、矢口進也の『世界文学全集』があった。日本における世界文学全集の始まりからその終焉までを描き(池澤夏樹のものは時期的に含まれず)、戦後の世界文学全集については掲載作品まで転記していることから、データ的にも役に立つのだが、分析よりかは紹介に重点が置かれていた。秋草著の場合、精密な分析はもとより、意識して日・米・ソという視点を導入しているので、矢口のものより遥かに広い視野で「世界文学」というものについて見通すことができるようになっている。

 日本の世界文学全集が誰をターゲットにしていたのかという話や、ソ連で刊行された『世界文学叢書』に、『失われた時を求めて』、『ユリシーズ』、『変身』が政治的理由から収録されなかった話など、本書には「世界文学」にまつわる面白いエピソードが色々あるのだが、中でも興味深かったのが、アメリカの大学で教科書として使われている三種類の「世界文学アンソロジー」全てに樋口一葉が収録されている理由だ。

 

 「世界文学アンソロジー」に、一葉が繰り返し採択される理由はいくつか考えられる。第一に、一葉が女性作家であること。「世界文学アンソロジー」が、しだいに女性作家にも門戸を開くようになったことはすでに説明したが、一葉は近代日本(そしておそらく東アジアでも)における最初期の職業的女性作家であり、話題にとりあげやすい。第二に、作品がどれも短いこと。紙面がかぎられたアンソロジーに代表作を収録しやすいのは大きなメリットだろう。

 そして第三に、一葉が同時代人にくらべても西洋文学の影響をほとんど受けなかったこと(引用者注:「受けなかった」に傍点)。予想に反して、その地域主義ことが、一葉文学の強みになっている。『ベッドフォード版世界文学アンソロジー』は、「イチヨー・ヒグチ」を十九世紀末の最高のリアリストのひとりと位置づけているが、それはそのリアリズムが、西洋の「物まね」ではなく、日本(アジア)に由来するものだからだ。

 

 俺はこのくだりを読んで、ただちに村上隆を思い出した。現代アートの世界は、作品そのものより、それが成立するまでの「コンセプト」を重視するところだが、そこで「日本人」として成功した村上は、「欧米の芸術の世界は、確固たる不文律が存在しており、ガチガチに整備されております。そのルールに沿わない作品は『評価の対象外』となり、芸術とは受け止められません」と『芸術起業論』の中で書き、西洋が考える「日本像」を強く意識してアートを作った。

 それと同じことが文学の世界でも起きているわけで、例えば日本の文学史では伊藤整ジョイスモダニズムに影響されて小説を書いたということが特筆されたりするが、「世界文学アンソロジー」の編者からすれば、まったく興味の持てない事柄だろう。我々が西洋文学から影響を受けて創作しても、向こうからすれば、それはは単なる「猿真似」でしかない。明治から現在にいたるまで問われてきた、「日本文学は世界文学を規範としなけれなばらない」という問題意識が、国内限定でしか通用しないという皮肉な状況がここにはある。

 秋草はそこからさらに突っ込んで、次のようなことを書いている。

 

「世界文学アンソロジー」をながめていて気づかされるのは、アジアやアフリカはマイノリティや女性、植民地といった役割を押しつけられすぎているのではないかということだ。どんなに先鋭的な「世界文学アンソロジー」を編んだところで、シェイクスピアやダンテといった西洋文学のカノンの中核をになう男性作家を締めだすことはできない。全体の頁数を増やさずに、多様性や平等を実現しようとすれば、どこかで調整が必要になってくる(引用者注:「平等」に傍点)。そのためのしわ寄せが、北米の読者からはあまり知られていない地域にきてしまっているのではないか。エドガー・アラン・ポーハーマン・メルヴィルははずせなくても、極東の文豪をマイノリティ女性作家にいれかえることは心理的にたやすい。同種の現象がほかのよりマイナーな地域の文学でおこっていても不思議ではない。

 

「世界文学」を「世界中の文学」という意味で使う人間はいない。「世界文学」はある一定のルールに基づいて選別されている(ソ連の『世界文学叢書』からプルーストが排除されたように)。今度、そのルールが変更され、シェイクスピアや『ドン・キホーテ』がアンソロジーから取り除かれていくことだってありえない話ではない。むしろ、異なるルールで編まれたアンソロジーが複数存在しない限り、「多様性」を確保するのは難しいだろう。

 本書では、今後「世界文学」を研究するにあたって目指すべき方向性も書かれている。文学そのものだけでなく、文学の受容のされかたにも興味があるなら、必読だろう。

 

 

「世界文学」はつくられる: 1827-2020

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世界文学全集

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芸術起業論 (幻冬舎文庫)

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  • 作者:村上 隆
  • 発売日: 2018/12/06
  • メディア: 文庫