縄張り争いというのは、あらゆる生物に共通する、最もポピュラーな戦いの一つだ。また、縄張りは、物理的な物に限らず、例えば同じ分野の研究者同士が途轍もなく仲が悪かったりする。作家にしても、関心領域が近いと、争いに発展しやすい。
ただし、作家同士の争いというのは、直接的な批判よりも、「俺の方がもっと上手く書ける」というような、同じテーマを扱った作品のぶつかり合いという、やや間接的な形で表面化するケースが多い(三島由紀夫が太宰治に酒席で直接文句を言ったという「伝説」的な争いもあるが)。
例えば、江戸川乱歩は、谷崎を尊敬していたが、「金色の死」と同じモチーフを使った作品『パノラマ島奇談』を書き、谷崎から距離を置かれた(小谷野敦『谷崎潤一郎伝』)。また、サント=ブーヴと敵対していたバルザックは、サント=ブーヴの小説『愛欲』を書き直すつもりで、『谷間の百合』を執筆した(アンヌ・ボケル、エティエンヌ・ケルン『罵倒文学史』)。これらはわかりやすいケースだが、発表時期のズレや、黙殺、関係の意外性などから、見過ごされている場合も少なからずある。
俺が驚いたのは、三島由紀夫と遠藤周作のライバル関係(遠藤の方が二歳上)。それを指摘したのが、佐伯彰一だ。佐伯は、二人の作風が「ドラマチック」であるという点で似通っていると言い、さらなる共通項として、二人とも「サド侯爵」に興味を持っていたことをあげている(『回想 私の出会った作家たち』)。
遠藤がサドに触れたのは、フランス留学の頃(五〇年)で、帰国後、サドへの関心を綴った日記を、五三年から『近代文学』に連載している。そして、五十四年には、『現代評論』でサドの伝記を書き始めた。『現代評論』の終刊で伝記の連載は中断したが、芥川賞受賞から四年後の五十九年に、『群像』(九月号~十月号)上で、再び『サド伝』を連載した(山根道公「評論家遠藤周作」)。
日本におけるサドの権威、澁澤龍彦が初めてサドの翻訳を出したのは、五十五年(短編集『恋の駆引』)で、翌年には、彰考書院から澁澤訳による『マルキ・ド・サド選集』が出版された。この選集の序文を三島由紀夫にもらったことから、二人の交友が始まっていく。五十九年六月には、『悪徳の栄え』の翻訳を出すが、この出版に影響されて、遠藤が再度『サド伝』に着手したのではないかと山根は書いている。遠藤は、自身の『サド伝』に澁澤のサド論「暴力と表現 あるいは自由の塔」を加えた共著の出版を、三島由紀夫経由で持ちかけたようだが、そのサド論を収録した単行本が九月に出る予定だったので、計画は頓挫したようだ。その後、遠藤の『サド伝』は全集に収録されるまで、封印された。ちなみに、遠藤は、「サド裁判」の時に、特別弁護人を務めてもいる。
三島は四九年に出版した『仮面の告白』の中で、「ド・サァドの作品については未だ知らなかった私」と書いていることから、この時点では名前を知っていたことになる。ただ、サドへの関心を強めたのは、恐らく澁澤龍彦の翻訳が出てからで、澁澤の手による伝記(六四年)をもとにして、その翌年には『サド侯爵夫人』を発表した。
三島は、遠藤の『サド伝』を間違いなく知っていたが、あえて無視した。推測だが、ライバルとなる作家から影響を受けること(または、受けたと思われること)を忌避したのだろう。ちなみに、遠藤、澁澤、両氏ともジルベール・レリーの研究に多くを寄って伝記を書いている。ただ、澁澤は、「サド夫人の夫に対する献身と共犯とを、少なくともレリーより強調して書いた」と主張しており、三島もそこに反応したのだろうと「『サド侯爵夫人』の思い出」の中で書いている。
遠藤には澁澤にサドを独占されるという予感があり、それで慌てて共著の出版を持ちかけたのだろう。それが失敗した後、出来に不満だった『サド伝』の資料を集めるべく、妻を連れて再度渡仏。しかし、体調を崩し、帰国直後に結核が再発し、入院することになった。そうやって、『サド伝』の加筆が停滞しているうちに、澁澤の手による伝記が出て、しかも、その翌年には『サド侯爵夫人』の発表。日本におけるサド産業は、完全に澁澤と三島の独占状態となり、遠藤が『サド伝』を書いていたことなど忘れられてしまった(しかし、三島は『奔馬』で澁澤をパロディ化したキャラクターを描いており、澁澤に対し思うところはあったようだ)。佐伯は遠藤と三島の関係について次のように書いている。
今からふり返ってみると、三島による『サド侯爵夫人』のいち早い仕上げ、また上演は、遠藤にとって相当なショック、いわゆるトラウマにも近いものではなかったろうか。その上、サドに関しては、自分こそ明らかに「先駆者」の筈なのに、広い評判をよんだのは、まず澁澤龍彦の翻訳また伝記であり、友人仲間の三島まで、澁澤伝記への依拠を認めながら、遠藤については名前さえあげていなかった。「先駆者」として面白かろう筈はなく、今からふり返ってみれば、当時彼の味わわされた「苦さ」は、相当のものだったに違いないと、改めて気づかされるのだ。(後略)
その分野において先駆的な役割を果たしたと自任している人間が、後から来た人間にそれを乗っ取られた挙句、先行研究を無視までされたのであれば、かなり腹も立つだろう(しかし、こういうトラブルは結構よくある)。三島に意図的に無視されたと感じた遠藤は、そのことを直接告げたわけではないようだが、鬱屈した感情を持ち続けたようで、同人誌『批評』の仲間が三島追悼のために集まった時、泥酔状態で乱入し、同人仲間に罵言を浴びせまくったなんてこともあったらしい。その日は、遠藤の戯曲『黄金の国』の千秋楽で、批評家、村松剛の解釈によれば、そんな大事な日に「同人仲間が誰一人やって来ないばかりか、三島のためにわざわざ集まりまでやっていた」ことに、「作家としての『やっかみ』、嫉妬心」が爆発したとのことだ。ちなみに、遠藤は、ジャン・ルイ・バロォ劇団によるフランス語版『サド侯爵夫人』を見た際、佐伯に対し、「佐伯くん、三島さんのこの芝居、フランス語の方が、えぇのと違うか」と「軽く言い捨てて、さっと姿を消してしまった」という。ただ、第二回谷崎潤一郎賞では、遠藤の『沈黙』と三島の『サド侯爵夫人』が候補となり、遠藤が受賞している。しかし、三島は谷崎潤一郎賞の選考委員だったため、自ら辞退したので、あまり勝った気分にはならなかったかもしれない。
遠藤は一般的に、ユーモアな人柄の人物として知られていたが、それは強烈な嫉妬心(有馬稲子を巡り、大江に嫉妬したように)を隠すための仮面だったように思える。五九年に書いた『サド伝』が、七五年に出版された新潮社の『遠藤周作文学全集』に入るまで、単行本未収録だったのは、間違いなく一つの挫折だった。