文学賞というのは表向きその本の実力によって選ばれていることになっているが、無論、人間がやっていることなので、1から10までフェアということは有り得ない。『万延元年のフットボール』が谷崎潤一郎賞をとるという納得のいく結果もあれば、功労賞としか思えないような凡作が受賞することもある。そこには、選考委員や出版社の思惑が複雑に絡み、独特の力学が発揮される。文壇、演劇界のボスとして君臨した久保田万太郎にいたっては、自宅の茶の間で「今度は誰にやろうかな」と言っていたらしい(後藤杜三『わが久保田万太郎』)。
こうした「賞」における政治的バランスを念頭に入れながら、結果を予想するという試みを行ったのが、大森望と豊崎由美のコンビによる「文学賞メッタ斬り」で、そうした見方が一般読者にも広がる契機となった(映画の世界でも、アカデミー賞の時期には似たようなことが行われている)。
また、「文学賞」という事象そのものについて研究したのが、川口則弘の諸著作、小谷野敦の『文学賞の光と影』、柏倉康夫の『ノーベル文学賞―作家とその時代』などで、どれも勉強になる。
俺は大学生ぐらいから本格的に小説家になりたいと思うようになり、その過程で、国内外の文学賞に興味を持ち、特に海外文学においては、ノーベル文学賞はもちろん、全米図書賞やピューリッツァー賞の受賞作などから作家の名前を覚えていった。それと同じころ、「文学賞メッタ斬り」を知り、20代中盤からは、文学史への興味が強まったので、過去の文学賞のあれこれについても興味を持つようになった
元々、ゴシップ好きなので、文学関連の本を読んでいても、自然にそういうところが目につき、自分でも少しずつ事例を収集し始めた。そして、それがそこそこ溜まったので、年代順・箇条書き式で、披露しようと思った次第である(日本の文学賞については、川口則弘氏のサイトを大いに参考、引用しています)。
第1回文藝懇話会賞(1934年度)
この賞は、満州事変以降の言論統制の強化を象徴するものとして知られている。文藝懇話会の発起人は松本学警保局長で、その目的は文学者の統制にあった。松本の主催する右翼的文化団体『日本文化聯盟』の出資により、機関誌の創刊と文学賞の創設が行われ、第1回目の受賞者に横光利一と室生犀星が選ばれた(高見順『昭和文学盛衰史』)。
しかし、実はこの時、島木健作『獄』が投票数で室生を上回っていたにもかかわらず、島木が左翼的だという理由から、室生が繰り上げ当選となり、そのことが外部に漏れて大騒ぎになった。
この時、松本の意を汲んで島木の落選を決定・発表したのが、機関誌の編集責任者を務めた上司小剣と言われている(楢崎勤『作家の舞台裏』)。
第1回ボリンゲン賞(1948年度)
ボリンゲン賞はポール・メロンによって創設された詩の賞で、第1回はエズラ・パウンドの『ピザン・キャントウズ』に与えられた。ファシズムに好意的だったパウンドは第二次大戦中イタリアで枢軸国を擁護する放送を行い、反逆罪でアメリカ軍によって逮捕されていた。そして、精神鑑定の結果、精神異常との診断が出て、受賞当時聖エリザベス病院に入院していた。
裁判こそ行われなかったものの、戦争犯罪人として見られていたパウンドが受賞したため、議論が沸騰した。また、パウンドはその放送の中で反ユダヤ主義的発言も行っていたことから、人種問題も含んでいた。
選考委員は14名いたが、パウンドの受賞に賛成したのは11人。賛成派のメンバーの一人にT・S・エリオットがおり、また「パウンド門下の同級生たち」が選考委員の中に選ばれていたことから、はじめに結論ありきの議論だったとされている(堀邦維『ニューヨーク知識人』)。
第13回読売文学賞(1961年度)
受賞作:竹山道雄『ヨーロッパの旅』[正](続)等の海外紀行文(評論・伝記賞)
『三田文学』において、秋山駿がインタビュアーを務めた、「私の文学を語る」という企画があり、第一回目が江藤淳で、二回目が大江健三郎だった。1967年に出た大江の『万延元年のフットボール』の評価をめぐり、二人は決定的に対立し、秋山は双方から互いの批判を聞かされることになった。
その時、大江が暴露したのが、「かれが「小林秀雄」で読売文学賞に落ちた時、かれの銀行員の父親が、選考委員の佐藤春夫に抗議した」という話で、これは二人の対談が収録された『対談・私の文学』では削除されている。
第5回毎日芸術賞(1963年度)
戦後、舟橋聖一は、中間小説の分野において、丹羽文雄と並ぶ売れっ子大物作家だった。だが、純文学へのこだわりを捨てることはなく、文芸誌としては後発で歴史の浅かった『群像』に、格安の原稿料で執筆したのが『ある女の遠景』で、毎日芸術賞を受賞した。が、毎日芸術賞には大賞というのもあり、これに選出されなかったことについて、舟橋はひどく立腹し、受賞を拒否しようとも考えたが、その年の大賞が該当なしだったことで、何とか納得した(中島和夫『忘れえぬこと 忘れたきこと』)。
第18回野間文芸賞(1965年度)
野口冨士男の息子、平井一麥が書いた『六十一歳の大学生、父 野口冨士男の遺した一万枚の日記に挑む』という実質的な野口冨士男伝に、「『秋声伝』は、講談社の「野間賞」の候補にもあがった。しかし、ある身近な方の妨害で受賞できなかった」と書いてある。
当時の野間賞の選考委員で野口と近く、かつその受賞を妨害しそうな人と言えば、「行動」、「あらくれ」、「文芸時代」、「キアラの会」、「風景」で一緒だった舟橋聖一だが、選評を読んでいないので確証は持てない。
第2回谷崎潤一郎賞(1966年度)
三島由紀夫はなぜか野坂昭如の『エロ事師たち』をかなり評価していて、クノップ社が日本文学の翻訳を計画した時は自らそれを推薦し、谷崎潤一郎賞の候補に上がった時も擁護したりした。翻訳の方はうまくいったが、谷崎賞は丹羽文雄の反対で落選(野坂昭如『文壇』)。そのすぐ後で、野坂は直木賞を受賞した。
第3回太宰治賞(1967年度)
受賞作:一色次郎『青幻記』
『短篇小説の快楽』(角川文庫)に収録された、荒俣宏・中沢新一・金井美恵子による、短編小説をめぐる鼎談の中で、金井が「石川淳は、どう?」と二人に聞く場面がある。そして、三人とも石川を評価しないことで一致するが、そこで金井が「私、十九歳の時「太宰治賞」の佳作になったんだけど、その作品を強く推してくれたのが石川淳だったので恩人なの。だからあまり悪口は言いたくないんだけど(笑)」と発言している。実際は、佳作ではなく最終候補だが、太宰治賞を運営している筑摩書房が出していた雑誌『展望』には受賞作である『青幻記』と一緒に載ったらしい。
金井が太宰治賞に応募した時のことについて、当時筑摩書房に努めていた野原一夫が『編集者三十年』の中で書いている。野原によれば、第一次銓衡の際、一人の編集者が「A」、もうひとりが「C」をつけた作品があった。評価が極端に割れたので、野原にも見て欲しいという。それが金井の「愛の生活」だった。野原はそれを評価し、一次銓衡を通過させた。そして、「愛の生活」は最終候補にまで残り、野原としてはそれが受賞することを望んだ。そこで、野原は高崎に住んでいた金井を呼び出し、欠点だと思ったところを一部書き直させた。が、「愛の生活」は落選。受賞者である一色次郎は、大屋典一の名で、それまでに二度直木賞にノミネートされている、新人として見るには筆歴の長い人だった。そつのない作品を書いた一色より、若くて、才能のきらめきが見られる金井が受賞すべきだったと野原は同書で書いている。
第25回全米図書賞(1974年)
受賞作:アイザック・バシェヴィス・シンガー『羽の冠』(フィクション)
トマス・ピンチョン『重力の虹』
トルーマン・カポーティはローレスン・グローベルによるインタビュー本『カポーティとの対話』(文藝春秋)の中で、トマス・ピンチョンの評価について問われ、「身の毛がよだつね」と答えた後、全米図書賞の審査員をした時『重力の虹』の受賞に反対し、そのせいでピンチョンは落選したと喋っているが、実際は受賞している。その際、ドナルド・バーセルミも候補だったようなことを言っているが、これも公式ブログを確認する限り間違いだ(バーセルミは選考委員)。
しかし、このインタビュー本、カポーティの勝手気ままな放言を楽しむことはできるものの、事実関係において眉唾物のところが多く、信頼しないほうが良いだろう。
第12回日本文学大賞(1980年度)
阿川弘之の『国を思えば腹が立つ』には、大江健三郎からバーでウィスキーグラスを投げつけられるところが出てくる。元々強い因縁のあった二人だが、今回の事件の発端となったのは、新潮社が主催する日本文学大賞だった。阿川はこの時選考委員で、候補に上がっていた大江の作品を評価していなかった(候補は公開されていないが、時期的に『同時代ゲーム』)。それで、古井と結城の受賞となったわけだが、大江からすれば阿川に落とされたと思ったことだろう。
大江は新潮新人賞の方の選考委員で、どちらの賞も新潮社が運営していたことから、選考会終了後、打ち上げ先のバーで顔を合わせることになった。そこで、大江は阿川にからみ、あしらわれると、席に戻ると見せかけグラスを叩きつけた。阿川は唇から流血し、騒ぎになったが、大江は逃げた。
大江は酒乱として知られていて、この時の行動も酒が影響していたのかもしれない。
第15回日本文学大賞(1983年度)
江藤淳のエッセイ集『西御門雑記』に「ふた通りの『文芸時評』」というエッセイが収められている。「ある文学賞の選考委員会の席上」で、ある選考委員が文芸時評ではべた褒めしていた本を、「ここに残っている作品のなかでは、なんといってもこれが一番文学性が低いですからね」と突き放したというのだ。びっくりした他の委員が突っ込んだところ、「いやァ、批評にもいろいろありましてね」と言い逃れた。また別の委員が、「いずれにせよ、いまのご意見が、地声というわけでしょう」と言うと、突っ込んだ選考委員が、「困るなあ、そんな、裏声で『文芸時評』を書かれちゃあ!」と叫び、一同爆笑という流れになったという。
小谷野敦『江藤淳と大江健三郎』によれば、これは新潮社が主催する日本文学大賞での出来事で、問題の発言をした委員は篠田一士、作品は丸谷才一の『裏声で歌へ君が代』だと、江藤淳のエッセイに散りばめられたヒントから答えを出している。
第21回谷崎潤一郎賞(1985年年度)
受賞作:村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』
この年の谷崎潤一郎賞は、三浦哲郎の『白夜を旅する人々』が大本命だったが、谷崎賞の前に、大佛次郎賞に決まったため、二番手だった村上の作品が「繰上げ当選」となった(安原顯『決定版 編集者の仕事』)。
第42回読売文学賞(1990年度)
受賞作:大庭みな子『津田梅子』(評論・伝記賞)
村松剛に『三島由紀夫の世界』という、三島の同性愛を完全に否定した本がある。三島の同性愛については、百歩譲ってグレーゾーンだと言うことはできても、同性愛者ではなかったと断言するのはかなり難しいはずなのだが、それをやったのが村松である。しかも、村松は三島が同性愛者であることを知っていてそう書いたのだ。
佐伯彰一の『回想 私の出会った作家たち』に、村松のその本が、佐伯が選考委員をつとめていた「さる文学賞の候補」になった時のことが描かれていて、その場に遠藤周作もいたというから、間違いなく読売文学賞のことと思われる。
佐伯と遠藤は村松と『批評』という同人誌をやっていた仲だから、二人は村松を擁護したかったのだが、当然他の選考委員はそんな本を推すはずもなく、落選した。
第44回野間文芸賞(1991年度)
受賞作:河野多恵子『みいら採り猟奇譚』
吉行淳之介と石原慎太郎は不仲で、1989年に『文學界』で行われた大座談会「賞ハ世ニツレ 芥川賞の54年に見る「昭和」の世相と文壇」では、石原が吉行に積極的に噛み付いている。
また、『新潮』の元編集長坂本忠雄との対談本『昔は面白かったな 回想の文壇交友録』では、石原の『わが人生の時の時』がある文学賞の候補になった際、吉行が受賞に反対したことで落選したとある。その賞とは、どうやら野間文芸賞らしい(『ユリイカ』に掲載された森元考との対談による)。
しかし、野間文芸賞はある時期から候補作を発表しなくなったので推測するしかないが、『わが人生の時の時』の刊行が1990年2月で、時期的には第43回(1990年度)の候補作の方がふさわしいように思えるのだが、第43回の時吉行は欠席している。吉行は、石原の小説を「こんなもの文学じゃない」と言ったらしいから、石原のそれは、吉行が選考会に出席した第44回の候補だったのではないかと思う。