高校生の頃は、大学に入れば誰でも恋愛できるものだと思っていた。文学・映画・漫画、どれを見ても、大学というのはそういう場所になっている。期待するな、という方が無理だ。その頃は、ネットの掲示板とかを見る習慣もなかったから、陽の当たる場所にしか目が向かなかった。
俺は六年間男子校にいたから、その時まではモテない理由を環境のせいにできたし、周りもオタクばかりだったから焦燥感を覚えることもなかったが、いざ共学の大学に入ってみると、自分が社会不適合者であり、恋愛弱者であることに気づかざるを得なかった。
不思議だったのは、自分が預かり知らぬうちに、同級生がカップルになっていたり、他の場所で恋人を見つけたりしていること。俺が家と大学をひたすら往復し、オナニーで性欲を解消している間に、彼らはメルアドを交換し、デートに行き、どうやらセックスまでしているのだ。異性と事務的会話以外交わしたことのない俺は、一体どうやって、会話だけでセックスにまで発展するのか見当もつかなかった。まず、女と話していても親密になることなど絶対にないのだから。
恋人を作るという「当たり前」のことができていないという鉛色の自己嫌悪に苛まれながらも、怠惰と臆病に満ちた体は何も行動せず、ひたすら現実への不満足感を育てていたら、一年はあっという間にすぎた。
豊島大学には、校舎全体に蔦がびっしりと絡まった一号館という名物的な建物があって、宣伝用のパンフレットなんかではよくこの建築物の写真が使われているのだが、学生の間では、「入学してから蔦が枯れるまでに恋人ができないと、卒業するまで恋人ができない」というジンクスがあって、ジンクス通りなら自分はもう卒業まで彼女ができないはずで、実際、二年になってもまるでモテなかったのだから、危機感は募る一方だった。もし、サークルに入っていれば、先輩特権のようなものが使えたのかもしれないが、俺は一年の時に入った軽音サークルを、楽器が全然上手くならなかったことと、他の部員にまったく馴染めなかったことを理由に辞めていたので、それを期待することもできなかった。
三年に進級すると、このままじゃさすがにまずいと思い、しかし生身の女とは話すことができないから、読書によって女を知ろう、ということで、フェミニズム関連の本を図書館から大量に借り出したり、当時話題になっていた『アラサーちゃん』とか『女子をこじらせて』を池袋のジュンク堂で買ったりしていた。それと当時に、日本文学だけでなく海外文学にも興味を持ち、特にアメリカ文学を読むようになった。といっても、当時の自分が好きだったのは、フェミニストに蛇蝎の如く嫌われている、ノーマン・メイラーとかフィリップ・ロス、ヘンリー・ミラーだったが。なぜ、その三人が好きだったのかといえば、男の苦しみが描かれていたからだ。余談だが、アメリカの純文学は、恋愛を忌避する男たちによって作られたと言われている。
そういうわけで、四年の時には、英米文学科のフェミニズム系のゼミを選択した。男は俺一人だった。未邦訳の古典をテキストにしていたので、授業中はいつも重苦しい雰囲気に包まれていたが、一度だけ恋愛の話になったことがある。ある時、ゼミ生の一人が、最近D・H・ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』を読んだと言い、担当教員の乾先生が「どうだった?」と聞くと、
「面白かったです。特に、コンスタンスと森番のメラーズの関係が。わたし、メラーズみたいな男に憧れるところがあるかもしれないです」
と言った。
ロレンスというのは、男根崇拝や女に対するサディスティックな態度・描写によって、フェミニズム的には不人気な作家で、その評価も二十世紀後半には大分下落した。『チャタレイ夫人の恋人』は、ロレンスの男根崇拝をメラーズというキャラクターに託した作品だが、当初は「性の解放」、「階級社会からの逸脱」という側面から評価されるも、フェミニズム批評が導入されてからは、「男の身勝手な妄想」と批判されるようにもなった。なにしろ「性の解放」といっても、形而上学的な要素を抜き取れば、野蛮な男が上流階級の女をセックスで目覚めさせるという話なのだから、ポルノと言われても仕方がない。俺はこの小説を読んだ時、六百ページにわたって続くロレンスのペシミズムと性的妄想と形而上学にうんざりさせられたので、『性の政治学』でケイト・ミレットによる批判を読んだ際は、テストに正解したかのような気分だった(だが、他の箇所では落第)。
しかし、問題は、フェミニズムに興味を持ってこのゼミに参加しているはずの「女」が、この作品を擁護していることだ。「おいおい、これはフェミニズム的にはダメな作品なんだぜ」と心の中で突っ込んだ。それで、乾先生がどうするのか待っていると、
「自分もメラーズみたいなマッチョな男と付き合ったことがあるのよね」
と衝撃の告白をした。
「若い頃の話だけどね。マッチョな男がすごく気になって。トラックの運転手だったんだけどさ。まあ、やっぱり合わなくて別れちゃった。でも、若い時に一度そういう人と付き合ってみるのもいい経験だと思うよ」
普段、あまりそういう軽い話が出なかったので、ゼミはにわかに盛り上がった。しかし、経験のない自分は誰とも目を合わせずひっそりと下を向いていることしかできなかった。
この時自分が悟ったのは、恋愛とフェミニズムは必ずしも重なるわけではないということ。つまり、恋愛というきわめて不定形な現場では、フェミニズムがマニュアルとして使える可能性はかなり低い。俺の通っていた大学は、良く言えばのんびりとした、悪く言えば志の低い人間がたくさん集まっていたので、余計そう感じた。あと、フェミニズムの本を読んでいると、俺自身が責められているような感覚に陥ることがままあり、精神衛生的にまずいと思ったので、手に取らなくなった。これは当事者かそうではないかの違いによって生まれるものだろう。何しろ男は常に加害者のポジションにあるのだから。男のフェミニストでやたら攻撃的な人間がいるが、あれはヴィクトリア朝におけるヒステリーのように、自我を抑圧した結果なんだろうなと思っている。
結局、自分のことは自分でどうにかするしかないと気づいたわけだが、当時の自分が導きだした答えが、「作家になってモテよう」というはなはだ非常識なもので、それは自分が性格的に会社員に向いていないと思い込み、またそういう生活を軽蔑していたことと、モラトリアムをいつまでも引き延ばしていたいという甘い考えから創出されたのだが、家族には「大学院に行く」と言い、体よく就活を放棄し、しかし実際は大学院なんかに行く気はなく、大江や石原の如く在学中にデビューを目指し怪文書のような小説を書いては行き詰るという毎日を送っていたら次第に将来への不安からノイローゼになり、いきなり英文が読めなくなって例のゼミを無断欠席したため留年が決定し、母親から八時間にわたる「生まなければよかった」式の罵倒を受けるもなんとか大学は続けられることになったが、授業を受けるだけで誰とも会話をしない虚無的な一年を過ごし卒業式も出なかった。そのため、「卒業証明書」を持っているにもかかわらず今でも本当に卒業できているのか不安になる時がある。
とにかく卒業したのはよいものの、遅すぎる就職活動は全滅で、最終的にある中小出版社にアルバイトとして入社。もちろんコネ作りを狙っていたわけだが、そんな上手い話があるわけもなく、仕事ができ愛嬌もあれば可愛がられもしたかもしれないが、実際は事務のおばさんに怒られる毎日で、契約自体も一年限りだったため、再び行き詰るも、俺が退社する二カ月前に入社した編集者から「暇なら少し手伝わないか」と言われ、貯金を切り崩しつつ仕事をし、同時に小説も書いていたが一次予選すら通過しない惨状で、当時の年収は十万程度(月収ではない)、これを二年ぐらい続けたが、さすがに将来的にまずいということで就職活動を始めたものの、当然上手くいくわけもなく、かなり時間をかけて、なんとか今の会社に潜り込むことができた。就活をしていた頃、ディアドリィ・ベァの『サミュエル・ベケット ある伝記』(書肆半日閑)を読んでいたら、無職、実家住まいで、作家としても無名だった頃のベケットが、母親から早く働けと怒られる場面が何度も出てきて、勝手に親しみをおぼえていたのだが、よくよく考えるとこれはベケットが後にノーベル文学賞を取るほどの作家になったからこそ輝くエピソードなのであって、俺みたいに結果を出していない奴がだらしなく共感することほどアホなことはない。そういえば、俺がかつて働いていた出版社にいた年の近い人たちは、独立して人気ライターになったり、本を出して注目されたりしているが、俺はマッチングアプリのプロフィール欄に「本を出すのが目標です」としか書けない体たらく。あまりにも自分が不甲斐なく、同世代が本を出版したり雑誌にコラムを書いたりしている現実に耐えられなくなり、一時期、本屋に入るのがひどく苦痛だったこともある。そんな俺は嫉妬の塊だった。
彼女と出会った二日後の月曜日、今度は食事に誘った。鉄は熱いうちに打て、というからなるべくすぐ行動に移した。今度は昼ではなく夜だ。すると、十六日と二十三日が空いているというので、十一月二十三日に会うことにした。金曜日だが、勤労感謝の日で祝日だった。場所は池袋にあるかまくら居酒屋(全席個室で、部屋がかまくらの形をしているらしい)。「池袋 デート」で検索したらオススメの店として出てきたので、食べログなどで評判を調べてから、そこに決めた。
そして、二十三日の朝、
「おはようございます。氷川さん、今日は予定通りで大丈夫ですか?」
「今日は予定通りで大丈夫です!」
店の予約が十九時で、待ち合わせがその十五分前だった。俺は十八時二十分ぐらいに池袋に着き、暇だったので西武の中にある三省堂に立ち寄った。すると、サブカルチャーのコーナーで、『出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと』という本が平積みにされていた。ダブルスに課金してから三ヶ月で一人という戦果の俺からすると、宇宙人が書いた本に見えた。しばらく三省堂内をうろついていたら、彼女から到着したというラインが来たので、急いで待ち合わせ場所に指定していたいけふくろうの前まで戻った。
「このふくろうの石像の頭の上に猫が座ってたの知ってますか?」
「いや、知らないです」
「大学生の頃、たまたまここを通りかかったら、猫がいてびっくりしましたね。野良猫にしては、結構きれいな猫でしたけど。ああ、こんな感じで」
とスマホで「いけふくろう 猫」で検索し、出てきた画像を彼女に見せた。
クリスマス一カ月前だからか、駅前がイルミネーションで飾られていて、サンシャイン方面へ渡る横断歩道の中央分離帯には、巨大なクリスマスツリーが設置されていた。心なしか、街の雰囲気自体も浮かれ始めているような気がする。いや、単に人が多いからそう感じるのか。こういう時期に一人で歩いていると心が荒む。
通り過ぎる人間の口から真っ白な息が立ち上る。気温はコートが必要なぐらい下がっていて、俺はポケットに手をいれながら歩いた。彼女は緑色の手袋を嵌め、グレーの分厚いコートを着用し、黄土色のマフラーを首に巻いていた。
店の場所は事前にグーグルマップで予習をし、目印になる場所を全て覚え、地図アプリを開かなくても行けるようにしていた。道に迷う男は間違いなく嫌われるから。
店は雑居ビルの六階にあり、写真では広く見えた店内だが、実際はそうでもなかった。三角屋根のついた小部屋に入ると、隣との壁の薄さが気になった。押したら、倒れそうだ。周囲も結構、騒がしい。メニューを彼女に渡すと、野菜の牛乳鍋が食べたいというのでそれを注文することにし、
「何か飲みますか?」
「うーん、そうですね……。氷川さんは?」
「えー、お酒とか飲もうかな……。莵原さんはどうですか?」
自分は普段一切酒を飲まないのだが、こういう場では飲んだ方が盛り上がるのかと思って、そう言った。
「わたしは、ウーロン茶でいいかな」
「じゃあ、僕もウーロン茶で」
「氷川さんって、クラフトビールが好きなんですよね?」
「え、ん、いや、それは俺じゃないと思いますよ」
「あ、そうでしたっけ?」
「僕は普段飲まないんで」
注文した牛乳鍋が席に運ばれ、煮えるのを待った。ガスコンロの青白い炎が鍋の底を叩いている。静まり返っていた鍋もそのうちにぐつぐつと騒ぎ始める。
「莵原さん、ダブルスで他にも会った人いるんですか?」
「何人かいますよ。有名な商社で働いてる人とか。年収が一千万近くあって、『最近家買ったんだ』とか言ってました」
おいおい、俺が勝てる要素が一つもないぞ。
「でも、海外旅行の写真とかを突然送ってきて、困ってるんですよ。『すごいですね』とだけ返しましたけど、もう会う気はないですね。なんか性格的にあわないんで」
よし! ざまあみろ、馬鹿野郎、死ね! 俺の勝ちだ! 男は中身なんだよ!
「ダブルスって、異性のプロフィールしか見られないじゃないですか? どんな男がいるんですかね?」
「ちょっと見てみますか?」
彼女はおもむろにスマホをこちらへ向け、赤いマニキュアを塗った小さな指でスクロールしていった。彼女にグッドを送った男たちがスタッフロールの如く流れていく。年収六百~八百万、医師、会社経営者……。猿のように歯をむき出しにした笑顔が、勝者の余裕を感じさせてむかつく。俺は「ふーん」とだけ呟いて「大したことないね」という表情を取り繕ったが、内心はライバルの多さとレベルの高さに卒倒しかけていた。まるで、ジェーン・オースティンの小説の世界だ。
鍋が煮えてきたので、火を弱め、取り分けようとすると、彼女の方から、「私がやりますよ」と言ってきたので、「あ、はい」とそのまま任せてしまったが、ここは強引にでも俺がよそうべきだったかもしれない、と思いつつ一緒に注文していた蓮根チップスをバリバリと食べた。
「あれじゃないですか、結構、グッドとか来るんじゃないんですか?」
と白菜を噛みちぎりながら言った。食べ方が下手くそなせいで、テーブルに汁がこぼれた。
「来ますね。わりとモテるんですよ」
そう言って、彼女は少しはにかんだ。
「はあ、なるほど。僕なんか、三ヶ月近くやって、グッド五未満ですよ。羨ましい」
「氷川さんは、婚活パーティーとか行かないんですか?」
「婚活パーティーですか? 友達は行ったことがあるみたいですけど、僕はないですね。趣味があわないとなかなか話もしづらいんで。え、ありますか?」
「ありますよ。職場の人に誘われて。色々な人に会えますね。一度行ってみたらいいんじゃないんですか?」
さっきから、俺に好意がないことを示すような台詞がいくつも登場して、段々気分が闇の中へ沈み始めていた。まず、酒の話なんかしたことないのに、クラフトビール好きの誰かと間違えていること。それから、婚活パーティーを勧めるのも、「別をあたれ」というサインなのでは?
「そういえば、大学のこととか色々思い出したんですけど、菊谷先生って覚えてますか?」
「ああ、覚えてます。独特な雰囲気があって、学生から人気ありましたよね」
「そうですね、中性的な感じで。三島由紀夫の戯曲を研究してるんですけど、演歌マニアでもあって、そっちの方でも本出してるんですよ。むしろ、文学よりもそっちが本職なんじゃないかって言われるぐらい、詳しくて」
「へー、そうなんですか」
「あと、レポートのコピペを見つけるのが上手いって。それで、前にその人の授業を受けてる時にすごく印象的だった言葉があって、『純粋な恋愛ができるのは大学までですよ』って、不意に何かの拍子に言ったんですよね。女子学生からは、すごいブーイングが起きたんですけど」
「あー、でも、そうかもしれないですね。大人になると、色々ありますからね」
「そうですよね。収入とか、学歴とか……」
「あの……」
「はい」
「同級生だよね?」
「はい」
「じゃあ、敬語じゃなくて普通に喋らない?」
「そうですね。あ、じゃなくて、そうだね」
「同い年なのに、変だったから」
「うん」
「よかった」
食事が終わった後は、店の近くにあったルノアールに入った。これまで利用したことがなかったから知らなかったが、メニューを見て、値段の高さに驚愕した。これなら、少し離れた場所にある、別のチェーン店に行けばよかったと、財布の中身を思い出しながら後悔した。とにかく、自分はメニューの中でも一番安いブレンドコーヒーを注文し、ありがたみを感じることもなく、むしろドトールが出す二百円ぐらいのコーヒーと何が違うんだと心の中で毒づきながらちまちまとそれを啜った。
「休みの日とかどうしてるの?」
「資格の勉強とか、美術館に行ったりとか。あ、最近、ボランティアにも何度か参加してみたんだけど、この前、急に具合悪くなっちゃって、当日に休んじゃったんだよね。そしたら、リーダーのおじさんにすごい怒られて行き辛くなっちゃった」
明るく話しながらも、瞳の奥にはほのかな悲しみがゆらいでいた。
「なんて、言ってきたの?」
「『ボランティアをなめるなよ』みたいな」
「いや、それはしょうがないじゃん。具合が悪くなっちゃったんだからね。嫌ならもう行かなくてもいいんじゃないの。ボランティアだけが人生じゃないんだし」
とゼミをばっくれて留年した人間の視点からアドバイスした。そういえば、大学の頃、ジョン・アップダイクの『走れウサギ』という小説を読んでやたら共感したのだが、あれも人生から逃げる話だった。
「ありがとう。なんか、楽になったわ」
「そう? なら良かった」
明日予定があるというので、九時にルノアールを出た。コーヒーの代金は、「さっき奢ってもらったから」と彼女が払ってくれたのだが、彼女の後ろで財布も出さずに会計を待っているのは男として何となく気まずかった。
駅前のクリスマスツリーの前を通りかかった時、
「そういえば、豊島でもそろそろクリスマスツリーのライトアップが始まるらしいよ」
「へー、そうなんだ」
豊島大学の正門と一号館の間には、二本の巨大なヒマラヤ杉が対になるように植えられていて、毎年クリスマスの時期が近づくと、これに大量の電飾を巻き、クリスマスツリーにするのが、伝統行事となっていた。その時期になると、大学関係者ではない、カップルとか家族連れまでもが豊島を訪れ、写真を撮っていったりするのだが、恋人のいない人間からするとその華やかさが不快の種となった。大学三年の時だかに、『対訳 コウルリッジ詩集』(岩波文庫)というのを読んだのだが、そこに収められていた「宿なし」という詩がやたら心に沁み、今でもクリスマスの時期になるとその詩が記憶の底からナメクジの如くのっそりと這いあがってくる。
「おお、クリスマス、楽しい日!
まさに天国のお味見だ、
楽しい家庭をもち、愛には愛を
返してもらえる人には」おお、クリスマス、憂鬱な日、
記憶の投げ矢の針先だ、
心に寂寥を抱えて
人生をひとり歩く身には。
「今度さ、一緒に見に行かない? クリスマスツリー」
なけなしの勇気を振り絞り誘ってみると、
「あ、いいね。見に行こうか。大学行くの久しぶりだし。いつ、点灯するんだろう?」
「確か、十一月の終りぐらいだった気がするけど」
「そっか」
随分あっさりとOKを貰ったのでいささか拍子抜けしたが、自分がそういうおしゃれなデートができることに何よりも驚いた。これまでの人生において一度もなかったことだ。
家に帰ると母からまたもや「どうだったの?」
と聞かれたので、
「次のデートも決まった。豊島のイルミネーション見に行く」
「へえ、随分頑張ったね」
「まあ」
適当に話を切り上げて、パソコン部屋でデートに使える店を探していると、
「今日はありがとう。楽しかったよ〜。お鍋美味しかったね。おやすみ」
というラインが彼女から届いた。
「こちらこそありがとう! 今度は豊島のイルミネーション見に行こう! おやすみ」
次のデートの承諾は一応もらえたわけだが、向こうは俺のことを恋愛対象として見ていないのではという疑惑がむくむくと膨らんだ。イルミネーションにしても、友達と一緒に行くような軽い感覚なのでは? 何しろ、返事があっさりすぎる。また、彼女のダブルスのアカウントを見ていると、時折コミュニティが更新されており、俺以外の誰かとも会っているか、もしくは会おうとしているかのように見えた。マッチングアプリではそれが普通なんだろうが、やっぱり良い気持ちはしない。付き合っているわけじゃないから止める権利も資格もないが……。
「お疲れ様です。豊島のイルミネーションの点灯式二十七日みたいですね」
「わざわざ調べてくれてありがとう! 莵原さんは、いつ頃なら都合良いかな?」
「お疲れ様〜。今日歩いてたら、窓から猫が見てました…」
という言葉と一緒に、家の窓からこちらをのぞく猫の写真が送信されていた。
「ちょっと間が空いてしまうんですが、十二月の三週目はどうでしょうか?」
「お疲れ。猫かわいい! 良い写真だね~。あと、質問なんだけど、三週目って、土曜が十五日の週、それとも二十二日の週?」
「おはよう! 二十二日の週でお願いします!」
「じゃあ、二十二日の十八時頃に豊島の前で待ち合わせして、その後に食事でもいきますか」
「OK。そうしよう!」
「今日、店の予約したんだけど、店の都合で十八時三十分からの予約しかとれなかったから、待ち合わせの時間十五分ぐらい早めて、十七時四十五分でもいいかな?」
「待ち合わせ時間了解です!」
日にちが決まった時点で俺は彼女に告白することを決めていた。どの恋愛指南サイトでも、告白は三回目のデートでするのが一般的と書いてあるし、なにせクリスマスという絶好の条件が揃っているのだから、しない方がおかしい。それに、そろそろ決着をつけてしまいたかった。いつまでも曖昧な関係性を持続させるのはもどかしすぎるから。
そして、俺は万が一のために、会社帰り、新宿にあるアダルトショップで生まれて初めてコンドームを買った。サイズを見ている時に、「Mサイズじゃ俺には小さいかもな」と思ったが、そこは一応謙虚にMを選んだ。しかし、根が吝嗇なので、もし自分が本当にLサイズの持ち主だったらお金がもったいないな、とレジで千円札を出している間もまだうだうだと悩んでいた。
帰宅して、鉄板のエロ動画を十分ほど視聴。脳内のエロ・スイッチを入れ、十分に一物を勃起させてから、コンドームの入った袋を箱から取り出す。袋には、裏表間違えないよう、予め「男性側」という文字が印字されていた。慎重に袋の端を破き、いざコンドームを手に取ってはめようとすると、
「うわ! なんじゃ、こりゃ」
左手にべったりとローションのようなものがついた。慌てて箱の裏側の説明を読むと、「滑らかな挿入感を出すゼリー付き」と書いてある。しょうがないので、パソコンを汚さないように気をつけながら装着しようとするも、うまくはまらない。どうしても亀頭までしか、コンドームが伸びてくれないのだ。まるで亀頭に帽子を被せているような間抜けな状態。
「やっぱり、俺のちんちんがでかすぎたんだなあ。こんなもん無理やりつけたら俺のチンポが壊死するわ」
とその日はうぬぼれながらオナニーした。
しかし、翌日、念のためもう一度丁寧に装着し直してみると、今度は普通にはまった。単純に俺の付け方が下手くそなだけだったようだ。俺のペニスは平均レベルでしかなかった。俺はMサイズの男。ミスター・M。
二十二日まで、関係性の炎を絶やさないよう、他愛のないラインを送り続けた。アリサとラインのやり取りをするようになるまで俺はスタンプというものを一度も使ったことがなかったのだが、母親から「女の子とラインするならスタンプがあった方が便利だよ」とアドバイスされ、ドラえもんのスタンプを買って使うようになった。確かに、文字だけだと雰囲気が固くなるが、そこにスタンプを入れると、なんとなく親密になったような気もしてくるし、返事に困った時もスタンプで誤魔化せたりする。
そして、当日。
「今日十七時四十五分に豊島前で待ち合わせで大丈夫だよね?」
「おはよー! 十七時四十五分豊島で大丈夫だよ。正門のところにいるね」
電車に乗って池袋に向かう間、性欲は各駅停車することなく亢進し続けた。リュックサックの中には、スマホ、財布の他に、コンドームが箱ごと入っていた。好きな相手とセックスをするのだと考えると、嬉しくもあり怖くもあった。いや、それよりも先に告白しなければいけないのだが、告白する場所については完全にノー・プランだった。とりあえず良い雰囲気が生じたら勢いに任せてしよう、みたいな漠然とした計画しか立てていなかった。
この日までに、俺は予約した店の周辺にあるラブホテルを全て洗い出し、優先順位をつけ、地図も頭にしっかりと叩き込んでいた。しかし、大学周辺がホテル街だったということは、調べていて初めて知った。ということは、みんな授業終りに大学からホテルに直行していたのだろうか。俺の知らないうちに。
俺は今でも「セックスをしている大学生」に強烈な不快感を持っている。ツイッターとかで、そういう話が流れてくると、苛立たしくなる。高校は男子校だったし周りもオタクばかりだったから童貞であることに引け目を感じなかったが、大学という恋愛とセックスが日常的になっている場所で、それらを一度も経験できなかった悔しさ・悲しさ・劣等感が、卒業してから五年経った今でも怨念のように身体に憑りついてしまっているのだ。
また、他人の性に対する嫌悪感が頂点に達していたのも大学時代だった。教室ではすまし顔で座っている男女が、別の場所では獣のようにセックスをしているのだと想像すると、ひどく偽善的なものを感じた。潔癖さが高じるあまり、セックスをしているならそういう顔をしろ、と理不尽なことを考えていた。だから、同級生がセックスの話をしているのを聞くのも嫌だった。特に、酒を飲ませてホテルに連れ込んだみたいな猥談が一番嫌いだった。理性が失われた状態でそういうことをするのは不誠実なような気がしていた。だから、自分は告白もセックスも素面でやろうと固く誓ったのだが、そういう機会もなく今に至っている。
約束の時間よりやや早く豊島大学に着いた。正門前には、今年も家族連れやカップル、大学生が集合し、スマホのカメラでライトアップされたクリスマスツリーを撮影したりしていた。俺はその輪の中で一人たたずんでいた。冷気が顔を叩いた。卒業証明書を会社に提出するため、卒業してからも大学を訪れたことはあるが、夜の大学は五年ぶりだ。しかし、ノスタルジーに浸れるほどの思い出が俺にはなかった。
ジャケットのポケットに手を突っ込んだまま所在なげに立っていると、「氷川くん?」と声をかけられた。声の方向に顔を向けると、赤い唇が目を刺した。彼女は手に紙袋を下げていた。
「あ、莵原さん」
「きれいだね、クリスマスツリー」彼女が喋ると、水晶のような息がもれた。
「そうだね」
「中に入る?」
「ああ。それ持とうか?」
俺は紙袋を指さした。
「いや、大丈夫」
クリスマスツリーを見上げると、ツリーのてっぺんに煌々と輝く星の飾りがついていることに気がついた。大学に在学した五年間、なるべく視界に入れないようにしていたので、そんな飾りがついていることすら知らなかった。彼女は俺の横でツリーの写真を撮っていた。ツリーに蛇の如く巻き付いた電飾から放たれる赤色と黄色の光が、青白い空の中に溶け込んでいる。多くの校舎は、人がいないのか、電気が消えていた。
「まだ予約まで時間あるし、少し校内歩いてみようか」
と提案した。
「うん」
クリスマスツリーの間の歩道を歩いていると、教会の方から薄っすらとハンドベルの演奏が聴こえてきた。バッハの「主よ、人の望みの喜びよ」だった。そういえば、入学式の時もハンドベル・サークルが演奏を披露してたな。そんなことが記憶の沼から『地獄の黙示録』のウィラード大尉の如く浮き上がってきた。卒業式は出ていないので、何があったかは知らない。
一号館を抜けると、人はほとんどいなくなった。二人だけでゆっくり大学の敷地を歩いた。奥に行けば行くほど暗闇は深くなり、静寂が増した。完全に二人だけの世界だった。俺は猛烈に手を繋ぎたかったが、その勇気が出なかった。ここで告白して失敗したら、その後の食事が気まずくなると思い、躊躇せざるをえなかった。ポケットに突っ込んだ手は葛藤という名の汗で湿り始めていた。俺は欲望を鎮めようと、爪が食い込むほど自分の手を強く握りしめた。
プラタナスが生い茂る薄暗い並木道を歩いていると、左手に四号館が現れたので、
「あそこのトイレで前に酷い目にあったんだよね。個室に入ったらさ、隣にも誰かが入って、ウォッシュレットを使い始めたんだけど、俺の方もなんか変な音がし始めて、ズボンを上げながらなんだろうと思ってたら、急にこっちのウォッシュレットも作動してさ。ちょうど俺の顔にウォッシュレットの水が噴射されて。それで、慌てて横に避けたら、しばらく壁に向かってウォッシュレットの水がかかっちゃって」
「え、それで、どうしたの?」
「いや、その日はもう帰ったね。豊島のトイレってさ、古い校舎だと変なのが多くて、荷物を引っかけるフックがなかったりとか、個室がせますぎて荷物を膝に置かなきゃいけないとか、そんなひどいトイレが結構あるんだよな。俺らが卒業する頃になってようやく改修されたけど。そしたら、男の個室にも音姫がついていて、『これが噂の音姫か』と思ってちょっと感動して。だけど、男で使う奴はまったくいないね。使ったら逆に目立つよね。俺は他に誰もいない時に試しに使ってみたけど、誰もいない時に使っても意味ないよな」
と馬鹿みたいな話をわめきながら歩き続けた。本当は大学生の時に、こうやって女の子と二人で夜の大学を歩きたかった。悲しいことに、昼の時でさえ、女と二人きりで歩いた記憶がない。俺は叶わなかった青春の穴埋めをしているのだろうか。
端までたどり着いたので、来た道を引き返した。途中で第一食堂が視界に入った。レンガ造りのこの建物も大学の名物らしいが、昼休み前からどこかのサークルやゼミの人間が占拠しているので、自分は一度も入ったことがなかった。そもそも食事自体ほとんど一人でとっていた。さすがに便所では食わなかったが、顔見知りに会わないよう、わざわざ西口から東口まで移動したりしていた。授業と授業の間に暇な時間が出来ると行くところがないので、図書館か喫茶店で本を読んでいた。
「ちょっと、トイレ寄っていい?」
と彼女が言った。
「あ、いいよ」
東門の近くにある七号館に入った。電気はついているが、中には誰もいない。あまりにも人気がないので、中のベンチに座って彼女を待っている間、少し怖くなった。心なしか、天井から「ブゥゥウン」という不穏な音が下りてきている気がするし、壁もくすんで見える。これで電灯が点滅し始めたらある意味完璧だ。確か、この校舎で英文学史の授業を受けたはず。そこで、オスカー・ワイルドの『レディング牢獄の唄』に少し触れたのだが、後にファスビンダーの『ケレル』というゲイ映画を観たら、「男は誰でも愛するものを殺す」という『レディング牢獄の唄』の一節が歌になっていた。
「お待たせ」
「おお」
予約時間ぴったりに店に着いた。西口繁華街の周縁にあたる場所で、人通りは少なく、道は暗い。どこかのグルメ・サイトに「おしゃれで美味しい隠れ家的イタリアン・レストラン」と載っていたから選んだのだが、周囲の空気からはそういったことが微塵も感じられず、ゴミが置かれる前のゴミ捨て場のような、淀んだ雰囲気ばかりが充満していた。
狭い階段を下り、レジの前で名前を告げると、女の店員に誘導されたのだが、さらに二階分も階段を下りたので、ゴボウのように細長い店なんだと思った。地震が起きたらすぐに埋まってしまうんじゃないかという不吉な予感が頭をかすめた。目的の階に着くと、靴を脱ぐように指示された。
そして、案内された個室というのが、びっくりするくらい狭かった。いや、俺自身が「カップルシート」というのを予約していたからなのだが、特に何も考えずに選んだので、ここまでの狭さだとは想像していなかった。そもそも、個室ではなく本当に「シート」で、壁を三角柱の形にくり抜いて、三角形の真っ白いテーブルをそこにはめ込み、その下に足を入れるようになっていたのだが、幅が狭すぎて必然的に相手との距離が近くなる仕組みになっていた。確かに物理的な距離は近いが、俺と彼女の間にある心理的な距離はそんなものでは埋められなかった。数センチ腕を隣に伸ばせば、彼女の小さな身体に触れられたが、そんな大胆なことをする勇気もなく、出来る限り端によって距離をとった。動くたびにテーブルや壁にぶつかり、ゴツゴツ、ゴソゴソという非ロマン的な音が出た。
「これ、クリスマス・プレゼント」
彼女は紙袋の中から、小さな箱を取り出した。
「ありがとう。これ何?」
「ケーキ。今日の昼、友達と一緒に表参道に買い物に行って、買ってきたんだ」
「おー、ありがとう。甘い物好きだからうれしいよ。何のケーキ?」
「フェデリコマテのフルーツケーキ。自分でも食べたけど、結構おいしいよ。身体にもいいらしいし」
「いいね。あ、俺もプレゼント持ってきたよ」
とテーブルの下に突っ込んだリュックサックを引っ張り上げようとしたら、「ゴン!」とテーブルに頭をぶつけた。
「大丈夫?」
「大丈夫」
俺は頭をさすりながら、真紅の包装紙に包まれた品物を取り出した。
「はい」
「ありがとう。これ、何?」
「椎名林檎が好きだっていうから、ライブのDVD」
「へー、ありがとう。見させてもらうわ」
店員を呼び、マルゲリータとバーニャカウダ、飲み物にはオレンジジュースとウーロン茶を注文した。テーブルに注文したそれらが置かれると、すぐにスペースがなくなり、テトリスの如く配置に気を使うはめになった。なので、ピザを切り分ける時も、他の皿に手がぶつからないよう、自身の内側に向かって収縮しなければならなかった。
告白への呪縛、緊張から、何を食べても味がしなかったし、手が小刻みに震えてピザについていたケチャップをテーブルの上にこぼすという失態も犯した。心の中は「告白」の二文字で完全に占拠されているのだが、それを切り出すタイミングがわからなかった。また、「告白」したら、今の状況が全て変わってしまうという怯えから、自らそれを引き延ばしているところもあった。それで、
「前に、野本って友達と二人でファミレスに行ったらさ、『デザートは食後でよろしいですか』って聞かれて、誰だって食後に頼むから、儀礼的な質問だと思ってたんだけど、野本って奴は、『食前で』って答えて、飯の前にデザート頼む人間が本当にいるんだなって思ったね。だから、あの質問は意味があるんだって。それで、俺がハンバーグ食ってる間、あいつはアイスを食べてたんだけど」
とおよそクリスマスには似つかわしくないエピソードを自分から話し、その場の空気を恋愛的なものから引き離そうと試みもした。そうして、俺が無理に笑いを引き起こそうとしている間、彼女の方は段々と瞼が下がってきていた。
「眠い?」
「あ、大丈夫。ちょっと、朝早かったから」
徐々に話題も尽きていき、二人とも黙り勝ちになった。ますます、告白しなければというプレッシャーが重くのしかかった。愛ではなく殺人を告白しそうなぐらい、深刻な感じが身体から滲み出ていた。自覚できるぐらい、思いつめたような苦しい表情をしていた。そんな俺の隣で彼女は少し船を漕いでいた。
「そろそろ出る?」
「うん」
レジで会計を済ますと、一組のカップルが入店してきた。
「空いてますか?」
「もう、予約で一杯なんですよ」
「あー、そうなんですか」
予約ぐらいしとけや馬鹿野郎と思ったが、向こうはなんだかんだでこの後ホテルにでもしけこんで上手くやっていくんだろうなという嫉妬混じりの黒い妄想が湧き、勝手に憂鬱になった。階段を上がり店を出ると、
「この後、どうする?」
と彼女がやや上ずった声で言った。
「二人きりになれるような場所に……」
繁華街の喧騒に消し飛ばされそうなほどの小声で呟いた。もちろんこれはラブホテルに行こうという打診であった。面倒な告白をすっ飛ばして、次の段階へ強引に突破しようとしていた。
「ねえ、コーヒー飲みに行こうよ、コーヒー」
俺の不気味な態度と異常な眼光に気づいたのか、唐突に明るい声を出した。
「じゃあ、ちょっと調べるよ」
俺はグーグルマップで近くの喫茶店を調べた。
「向こうの方にあるね」
そうして、中年のマスターとバイト、二人きりしかいない純喫茶に入った。店の真ん中には、理科の実験で使うような、巨大なコーヒーサイフォンが飾られていた。また、レコードでジャズがかけられていたが、その手の音楽に明るくない俺は、それが何の曲なのかはわからなかった。コーヒーが運ばれる頃には、ホテル行きを諦めていたので、やや気分が落ち着き始めていた。カフェインも神経を昂らせることはなかった。
「椎名林檎のライブとか行ったことあるの?」
「まだないんだよね。なんか好きすぎて、実物を見るのがもったいないような……」
「そうなんだ。どこらへんが好きなの?」
「もう四十歳なのに、未だにエロティックな衣装着たりしてすごいなって。女を楽しんでる感じがかっこいいよね」
しかし、これまで見てきた彼女の言動や服装は、椎名林檎的なものとだいぶかけ離れているように思えた。恐らく、自分にないものを椎名林檎に見出し、憧れているのだろう。その気持ちはよくわかる。俺も性的に奔放な作家の生き方に羨望の念を持っていたから。また、憧れていながら、それを実践していないところも二人は似ていた。
「『群青日和』のミュージックビデオはエロいよね」
「それって、濡れてるからでしょ」
「まあ、そうだけど。ハハ。なんか、椎名林檎聞いてると、女装したくなるね」
「え、そうなの?」
「うん、そんな気持ちになる時があるよ。したことはないけど。なんか過剰な女らしさを浴びるとそんな感じになるのかもね」
他愛のない話を暫くしてから店を出た。繁華街の人混みは酒とにんにくの臭いがした。空は薄く濁っていた。俺たち二人だけがシラフだった。時計を見ると、「終電で帰るってば 池袋」どころかまだ九時だ。高校生レベルの夜遊び。繁華街を抜け、西口駅前に着くと、池袋のシンボルであるふくろうの形に刈り込まれた大きな植え込みが目に入った。そこにも電飾が血管のように張り巡らされ、クリスマス仕様となっていた。彼女は駅に直行せず、「きれいだね」と言って、その植え込みに近づいた。俺は彼女の横に立ちながら、「これは告白しろということなのか?」と考え込んだ。そうじゃなきゃ、こんな寄り道はしない。近くを通り過ぎる人もあまりおらず、目立つこともない。俺は求愛の言葉をひねり出そうとしたが、唇が動くだけで、何も起こらなかった。告白したいという強い意志はあるのに、いざそれを形にしようとすると、喉元で言葉が泡のように消滅してしまうのだ。一分経ち、二分経ち、心の底に残留していた勇気を強引に押し出して、
「あのさ、俺たち付き合わない?」
と言えた。しかし、彼女の方を見ることはできなかった。
「……」
「あ、いきなり変なこと言ってごめん。でも、俺たち、結構気が合うような気がするから……」
「いや、私あんまりそういう経験ないから、どう反応していいのかわからなくて……」
と暗い表情を浮かべながら言った。
経験なら俺の方がないぞと叫びたかった。俺にとってここから先全てが未知数だった。出口のない迷路に入ってしまったような気分だ。
答えが出ないまま、駅に向かい、電車に乗った。当然、会話は少なく、「さよなら」とだけ言って別れた。最寄り駅に着き、コンビニで買った缶コーヒーを自転車置き場の近くで飲みながら、「これはダメだろうな」と確信に近い予感を抱いた。そして、十一時頃、彼女からラインが届いた。
「リクト君、今日は勇気を出して告白してくれてありがとう。私が恋愛対象であるという意思表示をしてくれたのは、嬉しかったです(私も今後それを前提に行動します)。私としては、もう少し時間をかけてお互いを知っていきたいな〜と思います。今度は食事だけではなくて、一緒にどこかへ遊びに行きませんか? あと、椎名林檎のDVDありがとう。豊島のクリスマスツリーもきれいでした。おやすみなさい」
「今日は付き合ってくれてありがとう! 告白に関しては、少し早かったかなと、反省しています。もし、行きたいところとかあったら言ってください! 付き合います! あと、ケーキさっき食べたけどおいしかったです。犬がものすごく欲しそうな目をしていました。これからもよろしく。おやすみなさい」
彼女から貰ったケーキの箱は捨てずに自分の部屋にとっておいた。生まれて初めて女からプレゼントを貰った記念として。