マッチングアプリの時代の愛③

 Oさんとマッチングしてからちょうど一カ月経過した。夏が終わり、過ごしやすい季節となっていたが、その間、誰からもグッドは来ず、俺が送ったグッドも返ってこなかった。最優先にグッドを送ろうと思っていた人たちには、全て振られていた。それでも保有しているグッドは五十以上余っていたが。
 そこで、もう一度体勢を立て直すべく、お気に入りを研究者のような執念で巡回した。気になる人が一人いた。いや、以前から注意はしていたのだが、いくつか不安要素があって今の今まで保留していたのだ。
 彼女の登録名は、A・U。年齢は俺と同じ二十八歳。居住地は練馬区で一人暮らし。職業欄には、団体職員(医療系)と書いてあるが、年収欄は無記入。趣味はクラシック鑑賞、ピアノ、読書。ちなみに、俺と共通するコミュニティは、椎名林檎太宰治夏目漱石近代文学だった。
 俺は自分自身が低収入なために、給料や待遇が「ある程度」安定している女を求めているところがあった。つまり、仕事を続ける意思の固い人。俺の給料ではとうてい女を養うことができないので、寿退社を考えているような人だと困ってしまう。また、ヒモになるつもりはなかったが、自分に万が一のことがあった時に、その懐を頼れるのではないかという計算もあった。団体職員という文字列を見た時、まともに就活をしたことがなく、社会性の低い自分は、「多分安定してるんだろうな」というアホみたいな感想を持ち、評価が上がった。
 だが、それよりも注目したのが、学歴のところに大卒(六大学)と書いてあったこと。俺は六大学の一つ、豊島大学の出身で、練馬から一番近いのが豊島だから、もしかしたら同級生かもしれないと思ったのだ(もし、彼女が学生時代から練馬住んでいると仮定しての話だが)。また、東大・早稲田・慶應出身者は、「東大OB・OG」とか「早稲田出身」みたいなコミュニティに入っていることが多いけれども、彼女は大学に関しては何のコミュニティにも入っていなかったので、残りの三つのうちのどれかだと睨んでいた。もし同じ大学なら口下手な自分としては話題が一つ増えるので、もろ手を挙げて歓迎すべきことだった。
 逆に、グッドを送るのに躊躇していた理由としては、二つほどあった。まず、メイン写真が証明写真だったこと。これまで多くの女をダブルスで見てきたが、証明写真を使用している人は、彼女含めて数人しかおらず、まあ、変わっている人がほとんどだった。彼女が、性格・タイプの欄で、「マイペース」を選択しているのも、すぐに納得できた。
 他の写真を見ても、公衆トイレの鏡を使った自撮りが一枚と、風景の写真が数枚で、反射的に「友人がいないのかな?」と思ってしまった。友人が少ないのは俺もそうだから別に構わないが、一人もいないとなると、協調性がまったくないとか、そういうネガティブなことを想像してしまう。ただ、証明写真に関しては、本人もアレだったと思ったのか、それとも顔を不特定多数に晒すのが恥ずかしくなったのか、いつの間にか取り下げていて、スマホで顔の隠れた自撮りがメイン写真になっていた。
 証明写真から判断する限り、彼女の容姿はそんなに悪くなかった。しかし、証明写真の性質上、ひどく垢ぬけない感じに写っていた。分厚い黄色いセーター、風に流されて出来上がったかのような七三分け、色の薄い唇、化粧っけのない顔から、実際の年齢より老けて見えた。子持ちの主婦のような、「女」でいることに無頓着になった人に見えた。ただ、俺は自分にあまり自信がないから、派手な人よりかは地味な人の方が気を楽にもてたので、それ自体はむしろプラス要素だった。といっても、自撮りの方では、薄い赤と白がウェーブ状に入り交ざった金魚のような柄の和服を着ていて、実際は結構お洒落好きなのかもしれなかったが。
 もう一つ気になったのが、自己紹介文が四十行近くもあったこと。恋愛対象となる年齢から(二十七歳から三十二歳まで)、ラインの頻度(なるべく一日、二日で返しますが、プライベートの都合で遅れるかも)、好きな物の羅列(自然や歴史的建造物、遊郭にも興味があります)、自分の性格(内向的なので一人の時間も大切にしたい)、相手に求めること(専門知識を持っている、向上心がある、リードして欲しい)まで詳述していた。また、出会い方に関しても、「まずはメッセージのやり取りをして、お互いに興味を持ったら、お茶をしましょう」と最初から具体的に指定していた。ついでに、「徐々に信頼関係を作れる気の長い方と仲良くしたいです」とも書いてあった。
 コミュニティも、「女子高育ち」とか「恋愛経験が少ない」とか、「初めて会う時に緊張する」というものに入っていて、男に対する警戒心が強く、メイウェザーのように隙が無いという印象を持った。俺もセックスには大いなる関心を抱いていたが、恋人になるかもしれない相手と出会った初日にそういうことを求めるような、軽い付き合いは望んでいなかったので、気の長い誠実なやりとりをするのはよいとしても、恋愛経験のない自分がそんな防御力の高い相手を攻略できるのかと疑問に思った。それに、趣味についても合わないところがいくつかあった。何しろ、彼女は百五十ぐらいコミュニティに入っていて、趣味の狭い自分からすると、広すぎるようにも感じたのだった。つまり、減点法でいくと、グッドをためらいなく送るには、点数が足りなかった。
 そういうことから、彼女のことは気になりつつも放置していたわけだが、仕事をしていても、読書をしていても、ネットサーフィンをしていても、なぜか彼女のことが無性に頭を離れず、そこまで気にしているなら、もうグッドを送って決着をつけたほうがよいと思うようになった。それに、自分のコピーを探しているわけじゃないのだから、多少の趣味の違いは無視するのが大人の態度だろうとも考えるようになっていた。
 女にグッドをつけるときは、いつでも緊張する。マッチングへの期待と無視されることへの不安が、分かち難く同居しているからだ。今回も、少しばかり躊躇しながら、最後には「オラッ!」と叫ぶぐらいの勢いでUさんのアカウントにグッドを送ると、「これでもう取り返しがつかないぞ!」というパニックと興奮に襲われたので、感情をリセットするため、アプリを即座に閉じた。ちなみに、その時彼女についていたグッドは六十前後だった。
 すると、当日中にグッド!が返ってきて、早くもマッチングが成立した。Oさん以来、二回目のマッチングだった。その日が休日だったこともあり、今すぐ返事を出してもおかしくはないだろうと判断し、すぐにメッセージを送信した。前回、Oさんに送ったものをちょっと手直ししただけなので、文面に悩むことはなかった。
「Uさんはじめまして。氷川といいます。文学関係のコミュニティで見て、グッドしました! よろしくお願いします」
 以降、彼女からどんな返事が来るのか、希望半分、不安半分で待った。Oさんの時のような失敗は二度と繰り返さないぞと固く決意しつつ、単純労働と要領の悪さに起因するうだつの上がらない日々に耐え忍んでいたが、待てど暮らせど彼女からの返信は返って来なかった。
 俺がUさんにメッセージを送ってから一週間目ほど過ぎたある日、会社帰りの電車の中で、暇つぶしにツイッターを眺めていたら、「Hさんが参加している『三島由紀夫』がきっかけで、カヤさんから『グッド!』が届きました」という通知が来た。アプリに課金して二ヶ月目で、ついに女の方からグッドをもらった! 電車の中で小踊りしたくなるほど、黄金の歓喜に包まれた。同じ電車に乗っている人間全員に自慢したくなった。今すぐにでも、どんな相手からグッドが来たのか確認したかったが、俺が即ログインしたことを向こうに気づかれたら恥ずかしいので、帰宅するまで我慢した。
 が、それにしても、三島由紀夫のコミュニティにいたカヤさんって誰だ? 三島のコミュニティに所属している女は全員チェックしたはずだが、全然記憶にない。
 帰宅してダブルスを開き、通知欄を確認すると、自宅と思われる場所で体育座りをしながらピースをしている女の子が飛び込んできた。かわいい。メイン写真の斜め右上に「NEW」の表示があったので、今日登録したばかりの女の子のようだ。写真の笑顔がぎこちなかったのと、撮影場所が家の中というのもあって、マッチングアプリのためにわざわざ写真を撮ったのかなと思った。そして、明るい女が苦手な俺にとって、その固い笑顔は、ものすごく魅力的に映った。
 プロフィールを見てみると、未記入の所が多く、職業が保険業、埼玉在住、二十六歳ということ以外ほとんど何もわからない。自己紹介文も記入していなかった。入っているコミュニティもカルチャー系のものが十個程度とかなり少なかったが、三島由紀夫の他に、川端康成谷崎潤一郎のものにも入っていたので好感度が暴騰した。しかも、「一人暮らし」である。あー、絶対に家に行きたい。家に行って色んなことをしたい。片腕を借りるとか、足の拓本をとるとか、全裸で朝食をとるとか……。というのは冗談で、本当にやりたいのは、ツタヤで借りてきたDVDを一緒に観るとか、一緒にゲームをするとか、メロウな音楽をかけながらセックスをするとか、そういう日常的なことなのだ。
 Uさんについては、一週間経っても未だ連絡が来ないのだから、間違ってグッドを返してしまったんだろうと判断した。実はそういうことは珍しくないようで、特にスマホマッチングアプリをやっている人は、指が滑って意図しない相手にグッドを送ってしまうことが、よくあるらしい。そして、「間違えました」とわざわざ告げるのも面倒だから、マッチングしてしまっても無視するかブロックする。
 だから、カヤさんに乗り換えること自体に罪悪感はなかった。正直、相手のことを知るための情報が少なすぎる気はしたが、女の方からグッドをくれることなんてもう一生ないかもしれないので、そこは迷うことなくグッドを返した。そして、マッチング成立即メッセージ送信。ラモーンズの演奏より速い。
「グッドありがとうございます。氷川といいます。文学関係のコミュニティから見てくれたんですかね? よろしくお願いします!」
 OさんやUさんの時と違い、今回のグッドは向こうからだったので、大分気が楽だった。そのうちに、これは明らかに好意を持たれているんじゃないか、という希望が膨れ上がってきた。女の方からグッドを送ってくるなんてよほどのことだぞ。つまり、交際まであと一歩ということ。やっと俺にも春が来た。これで付き合えたら、今までモテなかったことは全てチャラだ。あれは厳しい修行の時期だったと考えればいい。さようなら、わたしの非モテよ! という風に、感情が一日のうちにポジティブな方向へ急上昇していった。
 しかし、肝心の返事がまたもや来ない。彼女のアカウントは毎日確認していたが、俺がメッセージを送信した翌日から、「最終ログイン二十四時間以内」という表示が一度も出なくなった。つまりあれからログイン自体していないということだ。
 結局、彼女はそれ以降一度もログインしないまま現在に至っている。業者なのかとも考えたが、業者ならもっと不特定多数に届くようなプロフィールにするはずだし、どこかに誘導するようなメッセージも送ってくるだろう。怖くなって止めたのならアカウントを消せばいいのに、放置したまま消息を絶つというのはどういうことなのか。メッセージに本名を記載したせいで、相手に感じる不気味さに拍車がかかり、今でも俺の中で平成の未解決事件としてモヤモヤしたままだ。
 Uさんの方もあれからずっと監視し続けていたが、こちらはログインしている形跡はあるものの、俺に対する反応が一向にない。やっぱり、間違えてグッドを返してしまったとしか思えなかった。
 Uさんにメッセージを送ってから十日、カヤさんにメッセージを送ってから三日経った。得体の知れない誰かに騙されているかのような不透明な状態に、気分が鬱々とし始めていた時、突如、Uさんから返信があった。
「こんばんは。眼の疲れがひどくて、しばらくスマホから離れていました。マッチングありがとうございます。A・Uといいます。よろしくお願いします。日本の小説はわたしも好きです。最近は忙しくて、なかなか読めていませんが……。よかったら色々お話ししましょう」
 十日ぶりの返信だったので、嬉しいというよりもびっくりしてしまった。それに、二点ほど気になるところもあった。一つは、「スマホから離れていた」という説明。俺はこの十日の内に彼女が何回かログインしていたのを目撃しているのだ。しかし、いきなりそんなことを詰問できるわけもないので、何か事情があったんだろうと無理に納得した。
 あと、本名を隠したままというのも、やや引っかかった。俺もプロフィールの名前は頭文字からとって、R・Hという風にしていたが、マッチングした際は、苗字を明かすようにしていた。じゃないと、呼びにくいし、信頼もされない。だけど、彼女は、そのままA・Uと名乗っていて、これだと今後俺は彼女のことをカフカの小説に出てくる記号化された登場人物みたいにUさんと呼び続けなければいけなくなる。多分、これも彼女の強い警戒心の現れなのだろう。
 そういう細かいことはさておき、まずはこれに返事をしなければならなかった。だが、事務的なこと以外、異性を相手にメールやラインをほとんど交わしたことがない自分にとって、異性の気を惹く魅力的な文面を創出することは、一度も触れたことのない大型機械を説明書なしで設定をするぐらい無茶なことだった。なので、プライドをかなぐり捨て、ネットのマッチングアプリ攻略サイトに頼った。そこで一番参考になったのは、メッセージのラリーが続くように、相手に質問をしろということだった。俺は彼女の入っている百五十以上のコミュニティを丸暗記するぐらい何度も確認し、自分との共通点や話しやすい事柄を徹底的に洗い出した。入試の時でもこんなに熱心に何かを覚えようとしたことはなかった。
そして、翌日の夜、メッセージを返した。
「返信ありがとうございます! 眼精疲労はつらいですね。僕も目が悪いのでわかります。温めたりすると効果があるみたいですが。色々写真をあげてますけど、Uさんは旅行とかよくするんですか?」
 その三日後に、
「こんばんは。旅行は行きたいのですが、なかなか時間がとれなくて。写真は都内のものばかりですよ。Hさんは旅行によく行かれるんですか?」
 俺が最初のメッセージでわざわざ苗字を名乗ったのにも関わらず、彼女は俺のプロフィールに記載されているイニシャルの方を採用していた。そのおかげで、お互いにイニシャルで呼び合うという珍妙な状況が起こり、人間性がはく奪された世界が生まれた。このままだとカフカを通り越し、ベケットにまで行き着くかもしれない。
「僕も、旅行はそこまで行かないですね。夏に、友達がいるんで大阪にいったぐらいで。普段写真撮らないから、そこで撮ってもらったものを今、ダブルスで使ってます(笑)。Uさんは、どこか気になっている場所とかあるんですか?」
「こんばんは。私も普段あまり写真は撮りません。撮ってみたい風景とかはあるのですが、やりたいことややらなければいけない事がたくさんあって優先順位が下がっていますね。大阪はまだ行ったことはありませんが、食べ物がすごく美味しいと聞いたので、いつか機会を作って行ってみたいです」
「紹介文のところにも遊郭跡に興味があるって書いてありますもんね。最近は、吉原に専門の本屋ができたりして、盛り上がっているみたいですが。僕は、祖父の祖父がイギリス人で、その人の住んでいた家が神戸に保存されていて一般公開されているので、それを一度見てみたいですね」
 さて、人間誰しも「俗物」的な趣味や感情を持っていると思うが、自分の場合、江藤淳と同じで、「家系」を密かな誇りとしていた。高校生の時、何かのきっかけで友人に自分の先祖について話した際、それが印象的かつ自慢げに響いたらしく、茶化されてしまったので、以後なるべく口にしないようにはしていたが、今回に限っては、彼女が「レトロな建築・洋館が好き」というコミュニティに入っていたので、ついつい伝家の宝刀よろしく持ち出してしまったのだ。
 と、ここまで言い訳したので、あとは心置きなく書かせてもらうと、俺の母方の高祖父は、エドワード・ハズレット・ハンターというアイルランド系イギリス人で、江戸時代に貿易目的で来日し、明治に入ってから日本人と結婚、その後神戸で「E・H・ハンター商会」という貿易会社を設立した男で、彼の経営していた大阪鉄工所が、現在の日立造船や範多機械に発展した(ただし、直接的な関係はない)。そして、その彼が住んでいた洋館が、「旧ハンター邸」という名称で神戸市灘区の王子動物園内に保存され、一般公開されているのだ。
 福田和美の『日光鱒釣紳士物語』(山と渓谷社)によると、エドワード・ハンターの長男は、母親の姓をとって、平野龍太郎(英国名:リチャード・ハンター)と名づけられたが、明治二十六年に廃絶状態だった範多家の戸籍を引き継ぎ、以後、彼の兄弟たちも範多姓を名乗るようになったという。
 エドワードの次男、範多範三郎(英国名:ハンス・ハンター)も父や兄と同じく実業家で、中禅寺湖周辺のリゾート開発を進めた人物として知られている。『日光鱒釣紳士物語』は、そのハンスについて多くの記述が割かれている。
 エドワード・ハズレット・ハンターの三男、範多英徳(英国名:エドワード・ハンター)が、俺の曾祖父に当たるが、英徳にはエリザベスという妻に二人の子供までいて、祖父の母、氷川愛(一九〇二年生まれ)は、英徳の愛人という立場だった。だから、祖父は私生児として生まれた。
 祖父が二〇一二年に死んだ際、諸々の手続きのために戸籍を取り寄せたことで、様々なことが判明した。祖父は一九二三年生まれだが、実際に戸籍の届出がされたのは一九二七年六月になってから。祖父には弟と妹がおり、弟は養子に出されたが、妹が生まれたのは一九二七年一月で、どうやらそれが戸籍を作るきっかけとなったようだ。つまり、祖父は四年間も無戸籍状態だったことになる。
 無論、英徳とは結婚できないので、愛は阿部という人物と一九二七年六月に偽装結婚し、祖父と大叔母、二人の戸籍を作った。戸籍を見ると、祖父は長男のはずなのに、戸籍上は阿部家の次男になっていた。この阿部という人は、愛と結婚する前にも、二度ほど結婚し、それぞれ子供がいることになっていたので、もしかしたら偽装結婚を生業にしていたのかもしれない。
 そして、一か月後に協議離婚が成立。阿部との結婚で、愛の実家は廃家となっていたため(つまり、結婚当時愛は戸主だったのだろうか)、新たに氷川という家を創立し、祖父と大叔母を自分の養子にした。氷川という名字は、氷川愛一郎という、有名な実業家で後に政治家に転身した人物からとったと聞いた。ちなみに、俺が氷川という名字なのは、両親が三歳の時に離婚し、母親に引き取られたからだ。
 英徳に関しては兄二人に比べてほとんど情報がない。もちろん、愛人がいたことなど誰も書いていない。俺が調査した限りでは、やや長いものになると、二つぐらいしか見つけられなかった。一つは、モグラ通信というサイトの「在りし日の範多農園を訪ねて」というページ内にある、「英徳は英国留学から帰国後、 原宿の表参道に広い屋敷を設け、虎ノ門で『英徳商会』を営み蒸気自動車や電気自動車木炭自動車を販売していた」という記述。
 もう一つは、『大阪春秋』五十三号の、「開化大阪と外国人」という特集に寄せられた、井上琢智「大阪鉄工所とハンター家」という論文にあったもので、
「三男範多英徳(Edward Hunter)は、兄竜太郎と同様、一九〇六年以降一二年までグラスゴウ大学に在学し、機械工学、造船学などを専攻し、造船学で一九一三年に科学士号をとった。彼は、一九一四年十月、イシャーウッド式船体構造の特許購入のため渡英し、その獲得に尽力した。大阪鉄工所はその独占的製造販売権の獲得により造船界で有利な立場に立つことができた。一九三六年に、彼は四十九歳でなくなった。その墓は横浜外国人墓地にある」 
 ただし、『市民グラフ ヨコハマ』三十三号に載った記事では、一九三七年死亡となっているとか。
 気になるのは英徳がどのようにして二重生活を送っていたかということだが、大叔母によると一緒に暮らしていたようで、英徳が死んだ後も、彼の屋敷に残っていたとか。『日光鱒釣物語』では、日本が米英との戦争に入ったため、英徳の実子は英国に帰国し、屋敷は日本政府に没収されたというが、空襲で家が焼けるまで祖父や大叔母が住居に困ったという話は聞いていない。ちなみに、英徳はあちこちに家を買い、それを売却した金でより大きな家を建てていたらしい。

 

 彼女に家系自慢した翌日、メッセージが返ってきた。
「こんばんは。吉原に専門の本屋ですか……。すごく気になりますね(笑)。遊郭とか女性の文化に魅かれるんですよね。彼女たちの衣装や小物、装飾品の鮮やかさって独特で、興味深いと思います。神戸に保存されているということは、歴史的価値があるお家なんですかね? 昔の建築物を見るのも好きなので、興味あります」
 彼女からの返信を見て、現在の俺の家が金持ちだと誤解されたらまずいなと思った。そもそも、範多家とは血でしか繋がっていないのに、その過去を得意げに話すこと自体滑稽なのだが、自分のしょぼい経歴を補うために、今度は旧ハンター邸の写真が載ったURLまで送って、範多家のことを説明してしまった。
エドワード・ハンターといって、江戸時代に来日し、神戸で貿易会社を作った人の家なんです。先祖なんで、一度見ておきたいんですよね。まあ、僕の家と範多家は、もう全然交流はないですが……」
「こんばんは。素敵な家ですね。Hさんが行ってみたいというのもわかります。先祖のことを知るのって、面白いですよね」
 彼女とメッセージを交わし始めてから、二週間ほど経っていた。そろそろ、デートに誘ってもよい頃合いなんじゃないかと判断し、
「家族のルーツとかを聞くのは、意外なことが知れたりして面白いですね。よかったら、今度お茶でもしませんか? 会って色々とお話してみたいです」

 と返信した。
「こんばんは。お茶はいいですね~。人見知りなので、二人きりになるとしばらく緊張してると思いますが、それででもよければぜひ。お住まいはどちらですか?」
 よしっ! ついにここまで来たぞ! ダブルスに登録して二ヶ月を少し過ぎ、ようやく出会えるところまでたどり着いた。長かった。俺が登録したのは三ヶ月プランだから、それが無駄にならずに済んだ。一時はどうなることかと思い、夜中ベッドの中でマッチングアプリのことを考えすぎて、不眠状態に陥ったりもしたが。嬉しくてちょっと泣きそうになった。
 とにかく、ここまで来たなら、あとのメールは事務的なものに近くなるから、精神的に相当楽だ。どういう文章を書いたら相手の気を惹けるかとか、そういうことを考えずに済むから。
「僕は、W市に住んでますけど最寄りは板橋区にあるM線のN駅とY線のN駅ですね。普段は新宿まで通勤してます。Uさんは、どこにお住まいですか?」
「私もY線沿いに住んでいます。板橋区ではなく練馬区ですが。最寄りはD駅で、買い物なんかはO駅とかでよくします。わりと近いですね」
「それでしたら、O駅でお茶しますか? 都合の良い日があったら教えてください!」
「こんばんは。お気遣いありがとうございます。お言葉に甘えて、もし宜しければ二十六日か二十七日の十九時から一時間位、駅前のD珈琲でお茶はいかがですか?」
 お茶だから、昼間の時間を指定されるかと思っていたら、十九時と遅かったのでちょっと面食らった。これなら夕飯の時間だ。あと、「一時間」っていうのも結構短いが、期待外れだった時のための保険か? まあ、盛り上がりさえすれば、時間なんて関係なくなるだろう。
「それなら、二十七日の十九時からがいいですね。D珈琲の前で待ち合わせって感じで大丈夫ですかね?」
「こんばんは。恐らく私が先に着くと思いますので、とりあえず、わかりやすい位置に席を取っておきますね。お話できるの楽しみにしてます。おやすみなさい」
 女から「会うのを楽しみにしている」なんてことを言われたのは初めてだった。社交辞令だとしても、歓喜、感激のロケットが急上昇していくのを止めることはできない。異性から求められているという快感。これが俺の生活に一番欠けていたものだ。
 二十八年間生きてきて、女と一対一で食事をしたのは、多分三回か四回ぐらいで、しかも全部二回目がなかった。「今度いつ会える?」と聞くと、例外なく相手がアメリカの大統領ぐらい忙しくなってしまうのだ。たった一回の食事で簡単に切り捨てられるほど、俺は魅力に乏しくつまらない存在らしい。
 だから、浮かれてばかりいないで、「勝って兜の緒を締めよ」じゃないが、ここで一度気を引き締める必要があった(そもそもまだ勝利にはほど遠いのだけれど、あまりにもモテないので、これしきのことでも天狗になってしまう)。
「二人きりになるとしばらく緊張している」と彼女は書いていたが、俺も緊張することにかけては人後に落ちない(もちろん、「僕も緊張しいなんですよ」とは男として口が裂けても言えなかったが)。ひどいあがり症で、仕事とかでも、相手に何かを説明する時はいつも心臓が破れそうになり、結句、途中で頭が混乱し、向こうの理解力に全てを委ねることとなる。
 そのため、何の準備もせず会いに行ったら間違いなく討ち死にすると思ったので、会話用の話題をいくつか事前に準備しておくことにした。「初めて会う時に緊張する」なんてコミュニティに入っているぐらいだから、こちらから積極的に話しかけないと、気まずい沈黙に場が支配されることは容易に想像できた。そんなことになったら、絶対に二度目はない。
 会社にいる時も仕事そっちのけで当日に使う話題を考え続け、思いついたものはこっそりメモ帳に記録。帰宅後、いつでも確認できるように簡単に箇条書きにしてスマホのメモ帳に清書。

マッチングアプリの感想
太宰治夏目漱石とか文学の話
・大阪旅行について
遊郭とか
・彼女がアップしていた写真について
・大学について
・彼女の趣味について

 そして、これらのテーマをもとにした会話のシミュレーションを脳内で実施(俺としては、自分の不利になるようなことを、初対面の段階ではあまり言いたくなかったので、会話の主導権を握れるように、こうしたシミュレーションは必須だった)。頭の中で話す内容の順番を組み立て、流暢に披露できるよう訓練。また、準備した話題に関係する本を拾い読みし、知識を脳に定着。無論、彼女のプロフィールや加入しているコミュニティの再確認も怠らない。最初は彼女の詳細すぎるそれにやや当惑したわけだが、今となっては話のネタ探しに重宝した。
 あと、当日風邪でもひいたら洒落にならないので、手洗いだけでなく、イソジンを使ったうがいも、日々のルーティンに加えることにした。そんなに風邪をひくことはないのだが、油断は禁物である。
 着ていく洋服も、前日に母親にコーディネートしてもらった。恥ずかしい話だが、そういうのは得意な人間にやってもらった方が、間違いがなくていい。大江健三郎だって、「私は自分の服装、髪型そのほかに一切関心がありません」と言って、妻ゆかりに見立ててもらっているのだから(『大江健三郎 作家自身を語る』)。
 そうして完全武装して迎えた当日の午後三時ごろに届いたメッセージが、
「Hさんこんにちは。すみません、前日にご連絡できれば良かったのですが、実は昨日から風邪気味で寝込んでしまっておりまして、大変申し訳ないのですが、日程を伸ばしていただけるとありがたいのですが……。行くのは行けそうなんですが、やっぱり元気な時にお話できた方が良いなと思いまして。申し訳ありません。次回の日程はHさんに合わせます」
 家族に今日はデートだと散々言いふらし、浮かれ騒いでいた後だったので、事実を受け入れるのに一時間ぐらいかかった。相手の言葉が『アンチ・オイディプス』くらい頭に入ってこなかった。しばらくすると、今度は彼女の病気が、デートを断るための方便なんじゃないかと思えてきた。しかし、返事をしないわけにはいかないので、
「了解です。お大事にしてください。また、都合がついたら会いましょう」
 とだけ震えながら返信。家族にデートがなくなったことを伝えるのは、受験に落ちたことを報告するぐらい苦痛だった。それで何度か深呼吸し気分を落ち着かせてから、
「今日のデートなしになったわ」

 となるべく感情を込めずに、リビングでテレビを見ていた祖母と母に伝えた。自分の今のくさくさした気持ちを読み取られたくなかったので。
「ええ?」
「なんか風邪ひいたらしい」
「じゃあ、今日はうちで食べるんだ」
「それって、面倒くさくなったんじゃないの? あたしも、断る時は風邪ひいたって言うし」

 と母。
「でも、次の予定は俺が決めてくれってわざわざ書いてあったから本当だと思うよ」
 さっきまで彼女を疑っていたのに、身内からそれを指摘されると、瞬間的に反発する気持ちが生じ、無意識のうちに早口で反論していた。段々興奮してきて、意味のなく居間をうろうろした。郊外の夕陽がベランダを突き抜けて室内に差し込み始めていた。
「それならまだいいじゃないね」

 と祖母。
「もう返信したの?」
「ん、日程についてはまだだけど。ただ、『お大事に』って返しただけ」
「なら、相手の気が変わらないうちに、早めにしておいた方がいいよ」
 俺はパソコン部屋に戻り、
「もしよかったら、来週の土曜日に今日の予定をスライドしても大丈夫ですか?」

 と打った。それから夜になって、
「こんばんは。本日はご迷惑おかけして本当に申し訳ありませんでした……。あれからずっと横になってたらだいぶ良くなりました。どうもありがとうございます。では、来週十一月三日の十九時ということで、よろしくお願いいたします」
 と丁寧な返信が返ってきたので安堵した。フラれたわけではなかったのだ。
「回復したみたいでよかったです! 無理はしないでくださいね。三日、心待ちにしてます」
 それから三日になるまで、小学生の模範となるほどに、うがい手洗いを徹底したのはもちろんのこと、彼女の体調についてもひたすら祈り続けた。まだ一度も会っていない段階で再度ドタキャンなぞされたら、やり取りを続ける意欲が激減してしまうかもしれなかったが、他に当てがあるわけでもないので、相手への気持ちが冷めるようなことがこれ以上起こらないよう、ひたすら願うしかなかった。彼女にとって俺は六十人の中の一人でしかないが、俺には彼女しかいないのだ。

 十一月三日土曜日、昼前、怠惰という名の蒲団をゆっくりとはがし、二度寝から目覚めると、スマホにダブルスからの通知が届いていたことに気がついた。急いで寝室を脱出し、寝ぼけまなこを擦りながらパソコンを立ち上げ、ダブルスに届いていたメッセージを開封すると、
「おはようございます。今日はご予定大丈夫ですか? もし大丈夫でしたら、十九時にO駅のD珈琲で待ち合わせしましょう。宣しくお願いします!」
 メッセージが届いた時間を見ると、七時四十五分だった。慌てて返事を出す。
「おはようございます! 予定は大丈夫ですよ。黒のジャケットとベージュのチノパン身に着けてると思います(一週間前に用意した組み合わせ)。よろしくお願いします!」
 とりあえず、大丈夫そうなのでホッとした。振り返ると、相手から初めてメッセージが返ってきたのが、九月二十七日だったから、出会うまでに一月以上費やしたことになる。今の二十代に比べると、結構なスローペースではないか? ここだけ『失われた時を求めて』みたいな、ゆったりとした時間が流れているのか?
 十八時頃、リュックサックに財布とスマホを入れて、十年近く使っている電動自転車でY線のN駅まで向かった。街灯の少ない車道に、濃い暗闇がカーテンのように下り、道の両端には居酒屋の油ぎった灯りがこぼれている。やや肌寒いが、まだマフラーや厚いコートは不必要な程度。ペダルを漕いでいるうちに徐々に体温も上がっていく。緊張なのか疲労なのか、心臓がブランコの如く揺れる。陳腐な青春映画みたいに叫びだしたい気分だ。自転車を駐輪場に預け、リュックサックを颯爽とカゴから取り出した時に、
「ぬわっ!」という奇怪な声がすかしっ屁の如く自分の口から漏れ出た。自転車を漕いでいる間は周囲が暗かったためわからなかったが、カゴの底に干からびてボロボロになった糞が苔のようにびっしりとこびりついていたのだ。一瞬、「人糞か?」と最悪の想像も浮上したが、冷静になって灰色の脳細胞をフル稼働させた結果、すぐに謎は解けた。俺の自転車は電動だから、母親もよく借りていくのだが、数日前スッペを動物病院に連れて行った時に、あいつがカゴの中で盛大に漏らしてしまったのだ! しかし、なぜ母親がそのことに気づかなかったのかはわからない。スッペはウンコをする時、必ずその場でコマの如くぐるぐると回り始めるから、すぐに気づくはずだが……。
 今更戻ることもできないので、リュックの底を近くの壁に優しく擦りつけ、付着した乾燥糞をこそぎ落とし、リュックは背負わないで手で持っていくことにした。顕微鏡レベルの精度で目視した限りでは、もう何もついていなかったが、泉鏡花の半分ぐらい潔癖症なところがあるので、リュックが身体に触れないよう、提灯を持つような奇妙な手つきでそれを運ぶはめになった。
 Y線に乗り、O駅へ。腕時計を確認すると、まだ約束の時間まで二十分以上余っていた。D珈琲の場所はすぐにわかったので、暇つぶしに駅の周辺を歩いてみたが、何も面白いところがないのですぐに飽きてしまった。結局、D珈琲を見下ろすことのできる、巨大な歩道橋の上で、ツイッターやネットニュースを見たりして、時間を潰した。駅前だが、歩道橋は人通りが少なく、これから人と会うのに、ひどく寂しくなった。おまけに空気は固く、頭上の青い月は冷たく俺を見下ろしていて、寂寥感に拍車がかかった。
 一九時五分前。再びD珈琲の近くまで来た時に、ポケットに入れていたスマホが振動した。彼女からのメッセージだったので、ダブルスをひらいてみると、「こんばんは。早く着いたので」以降の文字がなぜか表示されなかった。いくら更新してみても、メッセージのほとんどが切れたままで、解読できない。しかも、こちらがメッセージを送ろうとしても、なぜか反応しないという不具合。いつもパソコンからメッセージのやり取りをしていたので、俺のスマホでこんな不具合が起こるとは知らなかった。
 仕方がないので、店に入って直接彼女らしき人を探すしかない。ゆっくりとドアを押し、薄暗い店内に入ると、右側の窓に沿って設置された長テーブルがまず目に入った。そこに何人かポツポツと座っている。若い女も一人いて、パソコンで作業をしていた。「あれは違うな」と即座に判断し、左に眼を向けると、四角いテーブルが等間隔で設置され、向かい合うように椅子が置かれている。ペアで座っているのがほとんどだったが、一人やや俯きながら椅子にちょこんと座っている女の子がいた。
「あれか?」
 と思ったが、証明写真で見た彼女とはかなり風貌が違っていた。しかし、該当しそうな人が彼女ぐらいしか見当たらなかったので、忍者のようにそろそろと近づいていき、「あの、氷川と言いますけど、もしかしてUさんですか? あの、マッチングアプリの……」

 と恐る恐る声をかけた。彼女はおもむろに上目遣いになって、
「あ、どうも、こんばんは。えーと……」
「あ、氷川と言います。あの、お名前は?」
「莵原です」
「あ、莵原さんですか。氷川です」
「こんばんは」
「こんばんは」
 俺は直立不動のまま固まった。
「あ、どうぞ座ってください」
「はい」
 緊張で一昔前のロボットのようなぎくしゃくとした動きになり、椅子を引く時「ズズズッ」という耳障りな音が出た。
「何か飲みますか?」
「莵原さんは何を飲んでるんですか?」
「普通のコーヒーです」
「じゃあ、俺もそれをもらおうかな。ここって、レジに行くんですか?」
「いや、そこにボタンがありますよ」
「あ、これですか」
「それです」
「コーヒー結構、減ってますけど、一緒に何か頼みますか? 食べ物でもいいですけど」
「あ、大丈夫です。ちょっと喉が渇いてたんで、一気に飲んじゃって。あんまり飲むと、眠れなくなるんで」
「そうなんですね。僕は気にせずガンガン飲みますけど」
「どれくらい飲むんですか?」
「休みの日だと、一日十杯とか……」
「すごいですね。何かこだわりがあるとか?」
「いや、たんに飲めればいいんで、何でもいいんですよ。飲む量が多いんで、かなり薄めてますけどね。本当に、色のついたお湯みたいな。だから、喫茶店とかで飲むと、その濃さにちょっとびっくりしますね」
 ボタンで店員を呼び出し、コーヒーを注文。改めて彼女の顔を観察する。芥川龍之介のような真っ赤な唇に自然と視線が向かう。彼女を見つけた際、まず目に飛び込んできたのがそれというぐらい目立つ口紅だったが、自然な情熱というよりかは、情熱への憧れを感じさせるもので、内気な人間が「情熱」のコスプレをしているような感じだった。
 唇以外は、髪型も含め、『ドカベン』のサチ子に似ていた。つまり、童顔で、眼が大きく、こぢんまりとしていて、全体的に輪郭の丸いところが、一昔前の漫画に出てくる女の子を連想させた。服装は、黒のタートルネックの上に、キャメルの薄いセーターを羽織るというもので、地味だがある種の美意識を感じさせた。
 しかし、ダブルスに載せていた証明写真とは雰囲気がまるで違っていたから、ちょっとびっくりしたが、俺とマッチングした時にはその写真を消していたので、驚きを直接伝えることはできなかった。マッチングアプリには加工した写真や写りの良いものを載せることができるから、「実物に会ったら幻滅した」ということがよくあるらしいが、俺の場合その反対だった。
「ここってよく来るんですか?」
「ここらでよく買い物したりするんで、たまに」
「そうなんですか。僕はOに来るのが初めてなんで」
「へえ」
「莵原さんは、ダブルスに結構写真あげてましたけど、いろんなところによく行くんですか?」
「あれは、みんな都内ですね。なかなか、旅行とかできなくて」
「ああ、ゴールデン街の写真もありましたね」
「はい。一度だけ入ったことがあって。行ったことありますか?」
「どんなところなんだろうって、外から眺めたことはありますね。中に入ったことはないです。ちょっと離れたところに風花って文壇バーもあるんですよね。又吉とか来てるらしいですよ」
「行ったことあるんですか?」
「いや、知り合いがいないと入りにくいところみたいなんで」
「そういえば、大阪に旅行したって言ってましたけど、どうして行ったんですか?」
「大阪に転勤になった友達がいるんで、会いに行ったんですよ。ついでに川端康成文学館も観に行きました。ノーベル文学賞作家なのに、建物が結構小さくてびっくりしましたね。あとは、飛田新地を見てきました。昔、遊郭だったところで、まあ今もやってますけど、料亭のようなつくりの小さな家が通りにずらっと並んでいて、入口のところに女の人とやり手ババァって呼び込みがいて、歩いてると『お兄さんこっち見てっ!』って呼ばれるんですよね。それが結構恥ずかしくて」

 と事前にシミュレーションした通りに喋った。
「へえ、すごいですね。ちょっと、どんなところか調べていいですか?」
 と彼女は言うと、スマホで検索し始めた。そして、スマホをこちらに向けて、
「こんな感じのところなんですか?」
「そうですね。こんな感じですね」
「入ったんですか?」
「いやいやいや、観光しただけです」
 と慌てて否定したが、その後に風俗の予定を入れていたことには当然言及しなかった。「僕が行ったのは昼間だったんで、全然客はいませんでしたね」
「そうなんですか。面白いですね。私、大学生の時に『さくらん』って映画観て、それで遊郭とかに興味持ったんですよ」
「ああ、蜷川実花の」
「そうです」
「……」
 会話がネタ切れという名のギロチンで切断される。頭の中は漂白されたかのように真っ白だ。その場しのぎに炭の如く真っ黒なコーヒーを一口啜り、記憶の底から必死に会話の種を探していると、風俗との連想で出てきたのか、
「昔、僕の大叔母が甲斐美春って芸名で、額縁ショーってのに出たことがあるんですよ。ストリップの元祖と言われている見世物で、裸で舞台に出るんですけど、でかい額縁の中で西洋の名画と同じポーズをとって、『これはエロではなく芸術だ』って主張して、無理やり決行したという」

 と見切り発車で話し始めていた。
「初めて知りました。そんなのがあったんですね」
「ちょっと前の朝ドラでも取り上げられてたんじゃないかな。芸術って言っても、実際は、みんなエロ目的で見に来てたんですけどね。吉行淳之介も観たらしいですよ」
「すごいですね」
「だから、記録に残っている限りじゃ、うちの大叔母が、日本で一番最初に公の場で裸になった人なんですよ。ハハハ」

 ***

 額縁ショーについては風俗史の観点から興味を持っている人が今もいて、最近でも小泉信一の『裏昭和史探検』という本に取り上げられていた。そこから引用すると、

 東京・新宿。いまは新宿マルイ本館が立つ一角にあったのが「帝都座ビル」である。1947(昭和22)年1月、「帝都座五階劇場」(定員450人)がビル五階にオープンする。「ヴィナスの誕生」と題した公演。歌や踊りで構成されたショーだったが、その中の一景に観客は目を見張った。カーテンが開くと舞台に大きな額縁。下着をつけて両腕で胸を隠した女性が静止ポーズを取っていた。10秒、20秒、30秒……。カーテンが静かに閉まる。客席から漏れる、ほおーっというため息。
 翌月は「ル・パンテオン」と題した公演。今度は19歳の新人ダンサー甲斐美春が額縁の中で胸を堂々と露出し、西洋画のようなポーズをとった。腰は薄い衣をまとっているだけ。「本物の裸だよ」と評判が評判を呼び、連日大入り満員。やがて「額縁ショー」と呼ばれるようになった

「ヴィナスの誕生」で、ボッティチェリの同名絵画を演じたのは、日劇ダンシングチーム一期生の中村笑子。絵画と違い下着をつけていたため、ヌード第一号にはならなかった。甲斐美春が出演し、裸となったのは、翌月の「ル・パンテオン」という公演だが、この時はルーベンスの『アンドロメダ』をもとにしたポーズをとっている(ちなみに、この出演を機に、芸名を美和から美春に変えた)。裸といっても、小泉が書いているように、全裸ではなく、股間が見えないよう下半身には布が巻かれていた。三月にも、「ルンバ・リズム」という公演で、両手に持ったソンブレロ股間を隠しつつ、舞台上で裸を見せた。この時の様子を、吉行淳之介は「踊り子」という随筆の中で、「舞台に設えた大きな額縁の中に、泰西名画よろしく裸の女が大きな麦藁帽子を腹のところに当てて、拗ねたような表情をしてじっと動かずにいるだけのものだった」と描写している。
 甲斐の功績について、橋本与志夫は、「甲斐は額縁ガールとしては中村笑子につぐ第二号だが、はじめて乳房を舞台で露出した女性であり、日本のストリップの誕生をここに見ることができる」と『ヌードさん──ストリップ黄金時代』で書いている。とはいっても、これは記録(写真)に残っている限りでの起源で、橋本も、それ以前に舞台上で裸になった女がいるという証言に触れている。そもそも、裸の女を見世物にするというアイデア自体誰でも思いつくものだ。額縁ショーが他のヌードショーと違ったのは、「名画アルバム」と題し、ヌードに「芸術」という建前を与え、文化とエロを巧みに融合させたこと。だからこそ、検閲をすり抜け、宣伝もでき、一般客を呼べ、記録にも残り、ストリップにおける正史となり得た。
 額縁ショーを企画したのはレマルクの翻訳者としても知られる秦豊吉である。彼の経歴を、『ヌードさん』からひくと、

 日本のショービジネスの父」ともいわれる秦豊吉は、一八九二年東京生まれ、七世松本幸四郎の甥にあたる。一高、東大法学部から三菱に入社、一九三三年、東京宝塚劇場に転じて、支配人から四〇年には社長になっている。宝塚生みの親である小林一三に師事し、ショービジネスでの後継者となった。この間に世界一周なども経験して、世界のレビュー、ショービジネスを見ることができた。東宝名人会をはじめたり、アメリカのラジオシティミュージックホールのラインダンサー、ロケットガールズに刺激されて、NDT(日劇ダンシングチーム)を創ったのも秦である。
 終戦後、(筆者注:公職追放によって)東宝(映画と劇場が合併)の役員を追われた秦は、吹けば飛ぶような小劇場である帝都座五階劇場を手掛けるが、第一次大戦後のドイツを見た経験から舞台に裸体を登場させたら観客に受けるだろうと確信していた。

 秦が額縁ショーの元ネタにしていたのは、西洋のタブロー・ヴィヴァンという見世物で、日本では「活人画」と訳されている。秦本人も、著書の中で、この活人画という言葉を使っている。京谷啓徳は「秦豊吉と額縁ショウ」(中野正昭編『ステージ・ショウの時代』所収)で、タブロー・ヴィヴァンの歴史について次のように述べている。

 人が静止した状態で絵画を演じるタブロー・ヴィヴァン(活人画)は、初期近世の君主の入市式における同様の趣向を前史としつつ、十八世紀後半に正式に歴史の舞台に登場する。当時流行の古代熱を背景とし、聖書や神話の物語場面を描いた著名な絵画を古代風の衣装で演ずることの多かったタブロー・ヴィヴァンは、まさに新古典主義の申し子であったといえる。そして、それがウィーン会議の際に重宝された余興であったことからも推測されるように、当初は、古代趣味と芸術教養を共有する上流階級の高尚な娯楽であった。
 ところが、時代が下るにつれ、タブロー・ヴィヴァンは舞台上の女性そのものを鑑賞する場、果ては裸体見物の場に変貌する。公衆の面前で裸体をさらすことがタブーとされた時代、そのタブーをかいくぐるための口実として、タブロー・ヴィヴァンが用いられたのだ。

 タブロー・ヴィヴァンは上流階級の余興から、大衆相手のレヴュー・ショーに導入され、第一次大戦後、三菱の社員としてベルリンで勤務した秦も、それを大いに鑑賞し、日本にも導入しようと夢見ていた。
 それを実現させたのが、額縁ショーというわけだが、前例が皆無なため、出演者選び及び説得に難航し、初回に出演した中村笑子は、ブラジャーにズロースという格好で、ボッティチェリの絵画を演じたため、秦の理想とはかけ離れたものになった。この時の公演が、好評だったか不評だったかというのは、人によって書いていることが違うのだが、秦が納得していなかったことだけは間違いない。そのため、次に白羽の矢を立てたのが、甲斐美和だった。その時のことを、『劇場二十年』の中でこう書いている。

「つまり上半身に何もつけないで、じっと動かずにいるだけで、無論それは名画の中の人物としてね、やってみる勇気がある?」
「ええ、やりますわ」
 と即座に無邪気な返事をしてくれたのが、ダンシング・ガールとして入座していた、甲斐美和という、十九歳の元気な娘さんだった。
 この少女は、小麦色の肌で、身長もあり、健康な処女らしい肉体であったが、肌の色は雪のように白くとはいかないが、証明で工夫したから、実に美しく、金と黒との額縁の中で、花籠を抱いた姿で、最初の記念すべきカーテンを開いて、ほんの四五秒、この「名画アルバム」を見せ、あっという間もなく再びカーテンを閉じた時は、場内はシンとした。私達もほっとした。

 しかし、これとはまったく違う場景を、ロック座の支配人だった仲沢清太郎が『踊り子風流話』の中で書いている。文中で、「秦天皇」と呼称されているように、実際の秦豊吉は独裁者的人物として恐れられていたようだ(「帝国劇場の社長時代は法皇になった」とも)。

(筆者注:『ヴィナスの誕生』の後)秦天皇は、誰を額縁の中へ入れようかと、踊り子たちを物色した。
 ──と、目についたのは、小麦色の肌をした、堂々たる体躯をしている甲斐美和である。彼女は日劇系統の踊り子ではない。振付師の矢田茂(ダン・ヤダ)の弟子で、矢田茂が伴れて来た踊り子だった。
 秦天皇はこっそり甲斐美和を呼んで口説いた。勿論、ハダカになって、額縁の中に這入らないかと云ってである。「娘、十九は、まだ純情よ」と、歌謡曲の歌詞にもあるが、まだ、純情、十九歳の彼女は、唯ただ、「厭です。厭です!」の一点張りで、恥しそうに断った。が、秦天皇はおだてたり、すかしたり、ねちねちと口説き続けた。
「お母さんさえ、いいと云ったら、私、額縁の中へ這入ります。」
 と、ついに、彼女がこう云うところまで漕ぎつけてしまった。

 そして、母親が呼ばれると、秦は外国のヌード・ダンサーの写真を見せ、いかに西洋では舞台での裸が珍しくないかということを説き、「あなたの娘さんは、帝都座ショウの踊り子さんの中でも、一番、美しい肉体をしていらっしゃる」とおだて、結果、日本におけるヌード第一号が誕生したという。
 常識的に考えれば、仲沢の記述の方が真実に近いだろう。秦の文章は、自分に都合よく書かれているところがある。あと、秦のものだけ読むと、なぜ父親が出てこないのかわからない。仲沢は甲斐の父が死んでいることに触れているが、それが戸籍上の父ではないということまでは知らなかったようだ。
 さて、二人が触れていないことが一つあって、それは「金」だ。恐らく、これが一番大きい。何しろ、生活の面倒を見ていた実父英徳が、第二次世界大戦中に死に、以後、自活を余儀なくされただろうから(英徳が英国籍に帰化していいたため、彼の資産は政府に没収された)。甲斐がダンサーという職業を選んだのも、そのためだろう。水上勉私小説フライパンの歌』は、昭和二十年から二十三年までの時代を扱っているが、貧困を抜け出すために、主人公の妻がダンサーになるという場面があって、そういう発想自体珍しくなかった。ちなみに、吉行淳之介が昭和二十一年に、月給四百円で女学校の時間講師をしていた時、「日劇(NDTが活躍していたほうの、つまり大きなスペースの方である)の案内ガールが、浅草の芝居に出てくるヌードモデル役として一日八百円でスカウトされた」らしいという噂を先の「踊り子」の中で書いている。
 もしかしたら、秦は甲斐が母子家庭であることを知っていて、誘ったのかも。また、甲斐の母、氷川愛は、あえて実業家との愛人生活を選んだぐらい、貧乏暮らしを嫌っていた人である(甲斐もその性質を受け継いでいる)。英徳との出会いも、恐らく遊郭か待合のようなところで、かつて、俺の祖母に「連れ込み宿を経営したい」と言ったぐらい、性と金を繋ぎ合わせることに躊躇がない人だった。そういう倫理観を持っている母がいたからこそ、甲斐美春のヌードは生まれたのだと思う。
 だが、甲斐の額縁ショーへの出演は長くは続かなかった。再び、『踊り子風流話』からひくと、

 ある日のことだった。甲斐美春が恐るおそる秦天皇に云った。
「先生、お願いです。額縁ガールをやめさしてください。」
 途端に、秦天皇の顔色がサッと変わった。
(略)
 甲斐美春は帝都座ショウの呼物である額縁ヌードとして、他に掛替えのない踊り子である。その彼女が、突如、額縁ガールをやめさせてくれと云ったのだから、ワン・マン、秦天皇がサッと顔色を変えたのも無理からぬことだった。
「一体、どうしたと云うんだね?そりゃア、理由と事情によっちゃア、やめさせてくれと云うのなら、やめさせてあげないこともないが……。」
 彼女は、明朗な、舞台熱心な、踊り子だ。ちょっとやそっと、人気が出たからと云って、すぐ、居直ったり、他の劇場へ抜かれていくような踊り子ではなかった。
「私が額縁ガールをやってることが、……伯父さんに知られちゃって、……伯父さんは、もう長いこと病気で臥てるんだから判りやアしないだろうと思ってたんですけど、それが、すっかり、伯父さんに判っちゃって、私も母も、ひどく叱られて……。」
 彼女の亡き父に代って、親権者の立場にある病臥中の伯父が、強硬に反対していると云うのだから、秦天皇と雖も、彼女をハダカにして、額縁の中に立たす訳にはいかなくなった。
「病気の伯父さんが反対してるんなら仕方がない。早速、君の後継者を捜すことにしょう。」
 意外にも、秦天皇は彼女の申し出を、あっさりと承認した。

 ここに出てくる伯父さんが、範多範三郎である(もう一人の伯父である、範多龍太郎は、1936年に死亡)。第二次世界大戦前までは、会社経営も順調で、地元の名士としても活躍していたが、戦争の影響で事業の継続が困難となり、不本意ながら事業家を引退。その後、アルコールに溺れ、脳軟化症を患い、疎開先の中禅寺湖畔で敗戦を迎えた。敗戦後は療養のため、昭和二十一年に中禅寺湖から東京の南霊坂町に引っ越したが、病気の影響でほとんど会話もできなくなっていたらしい。だから、甲斐もその母も、ヌードになっても範三郎にはわからないと思ったのだろうが、誰かが密告したのか、親バレならぬ伯父バレということになったようだ。しかし、『日光鱒釣紳士物語』では、南霊坂町に引っ越した頃には「もうなにもわからないほど病状が進んでいた」というのだから、実際は別の誰かが範三郎の意思を忖度するという形で忠告したのか。
 範三郎は、甲斐が「ル・パンテオン」で裸になってから、七か月後に死亡した。
 甲斐は、「帝都座ショウのコーラスの一踊り子に戻った」が、西条昇のツイートによれば、昭和二十三年五月に、甲斐一と改名し、浅草ロック座でヌード・ダンサーとして再デビューしたようだ*1。しかし、仲沢によると、「もう、その頃は、猫も杓子も、ストリップ・ガールに転向していた時分だったので、全然、彼女は問題にされなかった。数ヶ月後病気を理由に、彼女はロック座の舞台から寂しく去って行った」。そして、現在(一九五八年)、「鎌倉にいるそうだ」としている。
 その後の甲斐の足取りは誰もつかめず、朝日新聞が一九八六年二月八日夕刊の記事で、額縁ショーを取り上げた際も、消息不明となっている。俺の家ではちょうど朝日新聞をとっていたが、祖父は自分の妹が額縁ショーに出ていたことをよく思っていなかったので、この記事を見た時、不機嫌になったとか。俺も大叔母の人生についてはほとんど知らないが、どこかの実業家が彼女のペルセウスとなって、事実婚状態を続けていたらしい。また、その人に出資してもらい、銀座で母親と一緒にバーを出したこともあるそうだが、それは一年程度で失敗したという。
 
***

「いつから一人暮らししてるんですか?」
「大学卒業してからですね」
「じゃあ、それまでは、実家から大学に行ってたんですか?」
「はい。Y線のZというとこに住んでいて、一本だったんで。今もY線沿いに住んでますけど」
「え、大学はどこだったんですか?」
「あ、豊島大学です」
 彼女のプロフィールから豊島大学じゃないかと冗談半分に推測していたが、まさか本当に当たってしまうとは!
「本当ですか! 僕もそうなんですよ。学部はどこですか?」
「文学部の日本文学科でした」
「えー! 僕もそうですよ。あれ? 一九九〇年生まれですよね?」
「ええ」
「じゃあ、同級生だったわけですね」
「あ、そうなんですね。ごめんなさい、覚えてなくて……」
「いや、僕も名前とかを見た記憶がなくて。僕は吉井先生とか、村川先生のゼミにいたんですが、多分違いますよね」
「そうですね、違うゼミでした」
「まあ、日文だけで二百人ぐらいいましたから、覚えてなくても不思議じゃないですよね」
 まさか、こんな形で大学の同級生に出会うとは! 俺は普段オカルトの類を軽蔑しているが、自分にとって都合の良い偶然は大切にしていたので、これは運命なんじゃないかと思うことにした。
 しかし、同じ大学までは良かったが、同じ学部・学科となると個人的に問題があった。当時の俺は恋人どころか友人もほとんどおらず、しかも四年の時には頭がおかしくなってゼミを無断欠席し留年までしていたので、そういう黒歴史を知っている共通の知人がいたら、それだけで全てが水の泡となってしまう。が、そうはいっても当時の話を避け続けるのも不自然だ。
「ゼミで思い出したんですけど、四年の時、オリエンテーションで中里学って人のゼミが開かれるって先生が言って、その時紹介した本が『中里学が天才になるまで』っていう本で、みんなが爆笑するということがあったんですけど、覚えてますか?」
「えー、いや、ちょっと覚えてないですね。そのゼミにいたんですか?」
「僕は行かなかったですけど、知り合いが入りましたね。普段は女の子ばかりの日文なのに、そのゼミは男しかいなかったって。日文って全体の四分の一しか男がいないから、すごいことですよ。あ、莵原さん、サークルとかには入ってたんですか?」
「文芸部に一年いましたけど、部員の人とあわなくて辞めちゃいましたね」
「そうなんですか。僕も、軽音サークルに一年いましたけど、辞めましたね。もう一つぐらい別のサークルに入ってればよかったなって、後から後悔しましたけど」
「二年生からだと入りにくいですからね、サークルって。いくつか掛け持ちしとけば、あとから選べたのかもしれないですけど」
「本当そうですね。じゃあ、バイトとかは?」
「近所のスーパーでしてました」
「変な人とか来ないんですか?」
「そんなにはなかったですね」
「僕は、サンシャインの方にあるツタヤで働いてたんですけど、結構、客層が悪かったんですよ。ヤクザが孫のカードでAV借りようとしたりとか。やっぱり、誰でも入れる店ってのは、どうしてもおかしなのが来ちゃうんですよね。一番、最悪だったのは、ツタヤなのに『ゲオどこにあんだよ』って聞いてきたチンピラですけど。僕が夜中にレジに立ってたら、外にあるクレーンゲームを『全然とれねえじゃねえかよ!』って叫びながら揺らしてる奴がいたんですよ。『やばい奴来ちゃったよ』と思ってちょっと奥の方に逃げたんですけど、たまたまその時俺しかいなくて、店に入ってくるなり『ゲオどこにあんだよ!』って言ってきて。それで『この辺にはないですね』って言ったら、『じゃあ、ここで借りるわ』って言うけど会員証持ってなかったんで、カード発行の手続きをとろうとしたら、そいつが保険証しか持ってなくて、『後日、住所確認が必要になります』って言ったら、『てめぇ、さっきと言ってることがちげーじゃねえかよ!』ってなぜかめちゃくちゃにキレ始めて。カウンターとかバンバン蹴って。俺は固まって。それで他の店員が副店長呼んで対応変わってもらったんですけど、俺はやることなくなって、溜まってたDVDを売り場に戻してたら、他のアルバイトが急いで俺のとこにやって来て、『氷川君、ここにいたのか。さっきの人が〈あの眼鏡どこにいった!〉って探してるから隠れたほうがいいよ』って言ってきて、男に見つからないように、棚に隠れつつ移動して。それで、終業時間までバックヤードに隠れてましたね。帰る時も待ち伏せされてんじゃねえかって、すごい怖かったですけど」
「結構変な人が来るんですね」
「アルバイトの店員も変な人いましたね。クレーム入れてきたおばさんに、カウンター越しに殴りかかったおっさんとか。その人、普段は気味が悪いほど丁寧な口調なんですけど、キレると手が出る癖があって、他のバイトとも仕事で揉めて深夜に殴り合いになって、レジが空っぽになって客がDVDを借りれなかったなんてこともあったりして。
まあ、その時は、おばさんの言ってることが明らかにおかしかったんですけど、「あんたじゃ、話にならんから店長呼んで」ってそのおばさんが言った瞬間、おっさんが「てめぇ、ふざけんなよ!」って、カウンター越しに飛びかかって。その場にいたみんなで、アメフトみたいに、おっさんをどうにか抑え込んだんですけど。当然、警察沙汰になって、後日警官立ち合いのもと謝罪して、おっさんはクビになったんですけど、その謝罪のときにおっさんがすごい不服気な顔をしてたらしいんですね。それで、おばさんが『この人、全然謝る気がないじゃいの』って言ったら、またおっさんが殴りかかろうとして、店長と副店長が慌てて止めるっていう。そのおっさんは洋画コーナーを担当してたんですけど、次の日、副店長が、その人が販促のために作ったポップとかを全部片づけてる時に、ふと気配を感じて横を見たら、クビになったはずのおっさんがすごい悲しそうな顔をして立っていて、副店長は『殺される』と思ったていう」
 ということを、身振りを混ぜながら選挙演説の如く熱狂的に喋り続けていたら、急に悪寒が走った。そして、全身がぷるぷると震え始めた。昔、ジョーバという乗馬をモデルにした奇怪なダイエット器具が流行ったが、あれに乗っているような感覚。彼女にそれを悟られないよう、腕を組み両手で脇腹をぎゅっと掴み、人間バイブと化した身体をどうにか抑えようとしたが、焼け石に水で震えは止まる気配がない。おまけに、声までも震えてきた。時計を見ると、いつまのか二時間近く経っていた。
「そろそろ行きましょう」

 と彼女がきっぱりとした口調で言った。まったく躊躇のない言い方だったので、嫌われたのかと思うぐらい。
「そうですね」
「その前にライン交換しますか?」
「あ、いいんですか?」
 まさか、彼女の方からラインの交換を提案してくるとは夢にも思わなかった。ということは、二度目もあるということか? 俺は希望を持っていいのか? 生まれて初めて二度目のデートがあるのか? ようやく読み切りではなく、連載が持てるのか?
 かなり久しぶりのライン交換だったので、手順を思い出すのにやや時間がかかった。それに、俺のアカウントには友達が七人しかおらず(家族をのぞくと五人)、それもどうにか見られないようにしなければならなかった。無事交換し終え、彼女のアカウントを確認すると、柴犬をアイコンに使い、「アリサ」という名前で登録していた。
「犬好きなんですか?」
「あ、好きなんですよ。いつか飼いたいと思って、アイコンに使ってるんですけど、一人暮らしだとなかなか難しくて」
「僕、犬飼ってるんですよ。シーズーとトイプードルの雑種で、名前は……」
「そろそろいいですか」
「はい」
 会計のためレジに向かうと、彼女が財布を取り出そうとしていたので、
「僕が呼んだんだから、僕が払っておきますよ」
「いいんですか?」
「大した金額じゃないですから」
 と大学生の時に購入して以来十年近く使い続けている、表面が爪でボロボロになったポール・スミスの財布から千円札を恭しく取り出し、百三十六円のお釣りをこぼさないように慎重に財布に入れ店を出た。
 同じ電車で方向も同じだったが、彼女の方が近かったので、そこまで一緒に帰った。最寄りのN駅で降り、適当に選んだラーメン屋に入って注文した油そばを犬のように貪り食うと、ようやく震えが止まった。どうやら単純にエネルギーが切れていただけらしい。実感としては、将棋のプロ棋士ぐらい頭を使ったような気がする。ここまで考えながら喋ったのは、就活以来だが、それよりも時間は長い。おまけに、食事もしていなかったから、途中でガス欠を起こしたわけだ。
「やっぱり実際に会わないと本当に好きになるのは無理だな」

 と油そばを飲み込みながら思った。プロフィールの表面的な情報だけだと、どうしても悪いことばかり想像してしまう。刺青の入った人間と遭遇した際、一般人なのか反社会的勢力なのか区別がつかないから、とりあえず避けるのと一緒だ。
 確かに、マッチングした時やデートに誘えた時は、大きな喜びがあったが、それは達成感によるもので、恋によって引き起こされたものではなかった。顔写真やプロフィールから相手のことを気に入ってはいるのだが、現実に会うまでは未知の相手であり、それによって自然と防衛反応が出て、恋愛感情を生じにくくさせる。だが、実際に本人と会えれば、自分の生活領域に相手がいるという実感が、相思相愛への期待を異常に高め、その期待こそが恋へと繋がっていくのだ。
 また、マッチングアプリの問題として、候補が多すぎることで、好意、関心が分散されるということがある。比較する相手が大勢いるから、変に目が肥えてしまい、結局誰のことも好きになれなかったりする。それに、「来週になればもっといい人が登録するかもしれない」という期待感も、一人の人間に集中することを妨げる。つまり、マッチングアプリというのは相手のことを好きになるのが大変なのだ(好きになれたとしても、グッドが返ってくるとは限らないという問題もある)。
 しかし、俺は脈がないとわかるまで、アリサだけにアプローチし続ける所存である。その間、絶対に他の誰かにグッドを送ったりはしない。なぜなら、この恋愛を純粋なものにしたいから。
 油そばを食べ終える頃、彼女からラインが来た。
「今日はどうもありがとうございました。色々お話伺えて楽しかったです」
「こちらこそ、今日はありがとうございました! お話できてよかったです。また、会いましょう」
 すると、向こうから「OK」のスタンプが届いた。

 帰宅すると、母から「どうだったの?」と聞かれたが、
「いやいや、それより、自転車のカゴにウンコついてたんだけど!」

 と質問には答えず、代りに怒りの火山を噴火させた。自転車で家に向かっている間、彼女のことよりウンコの方が大事になっていたから。
「は? ウンコ?」
「スッペのウンコでしょ! この前病院連れてったんじゃないの?」
「あー、そうだったかも」
「ていうか、何でウンコしたこと気づかないんだよ。回るじゃん、スッペはウンコする時!」
「それで、ウンコはとってきたの?」
「ちょっと、待って。いやいやいやいや、それって俺がやるの?」
「気づいた人がやるのが当然でしょうが!」
「いや、原因は俺じゃないじゃん! 気づかなかったお母さんが取るべきじゃん!」
 三十分後、ビニール袋とウェットティッシュを持って、俺は深夜の自転車置き場に向かっていた。ウンコは完全に乾燥していて、爪を使わなければ、そぎ落とすことができなかった。

 

マッチングアプリの時代の愛④

 

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『サン写真新聞』に掲載された、額縁ショーの出演中の甲斐美和。ポーズは、ルーベンスの『アンドロメダ』から。

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