マッチングアプリの時代の愛⑥

 抑圧が炸裂したのは、四月の最終日だった。
 四月の始めに一度桜を観に行ったのだが、そこでも進展はなかった。また、会話の端々で彼女がうわの空になっているのが気になった。これは今に始まったことではないが、喋っていると彼女がまったくの無反応になることがある。ひどいときはうつらうつらとしている。そういう状態になると、等身大の人形と対峙しているような気分になり、虚空に向かって言葉を発しているような感覚に陥る。「この人は俺といて楽しいのだろうか?」という不安。
 告白してから四ヶ月近く経っても、曖昧な関係を続けている俺を見て母親が、
「あんたも、別の子探したら」

 と提案してきた。
 同時並行が珍しくないマッチングアプリでは、アリサみたいに時間をかけて相手を見極めようとする人ほど、取り残されることになるだろう。並行していたら、基本、先に受け入れてくれた方と付き合うだろうし、そもそもお互いに恋人を探してアプリをしているのだから、「とりあえず付き合ってみるか」と軽く考える男女の方が多いはずで、出会ってから交際に至るまで、だいたい二、三ヶ月で決着していると思われる。彼女と最初に会ったのが十一月だから(マッチングした日まで遡ると九月になる)、かれこれ五ヶ月にわたりデートを繰り返していることになるが、マッチングアプリでここまで長期戦を行っているペアは少ないのではないか。石橋を叩いて渡る女ともてない男が組み合わさったことで、こんな状況になってしまったわけだ。
 そして、持久戦になればなるほど、「ここまで時間をかける価値が果たしてあるのだろうか?」と思うことも増えてきた。ここまで関係を継続してきて、「やっぱりダメでした」となったら、悲劇だ。「それなら最初から別の人にグッドを送るべきだった」と大きく後悔することだろう。プライドを護るために、「実は最初からそんなに好きじゃなかった」と思い込もうとしたこともあった。
 問題はいつ彼女からの答えをもらえるかで、答えが出ない限り、俺の倫理的に動くことができない。動くことのできないじれったさから、心理的な抑圧が生まれ、怒りが少しずつ堆積し始める。むしろ、並行していた方が、相手への期待が分散し、こんな無益な怒りも生まれなかったかもしれない。中村真一郎の『色好みの構造』には、平安朝の貴族が、複数の相手と関係を結ぶ「色好み」という性的慣習によって、「情念の激発による人間の破滅からの回避」をしていたという仮説が、文学作品などを典拠にして説明されている。しかし、性的関係はともかくとして、同時に様々な女とやり取りするバイタリティーが俺にあるとは思えなかった。
 ゴールデンウィーク間近になって、どこか遊びに行こうという話になった。どういう風の吹き回しなのか、彼女の方から「ウチくる?」とラインしてきたので、気色の悪い笑みを浮かべながら「行きたい!」と全力で返事したのだがそれはいつしかうやむやになって、四月三十日の朝に「今日、新宿に買い物に行くから一緒に来ないか」という誘いのラインが来た。またいつものように買い物して食事してじゃあサヨウナラというパターンか、とは思ったものの断る理由もないのでOKし、家族には「今日、アリサちゃんと会ってくるから夕飯いらない」と言うと、「今日、餃子だったんだけどね」と告げられ、かなり心が揺らいだが、断腸の思いで出かける準備を進めていると、
「ごめん、なんかお昼食べたら気持ち悪くなってきた。行けると思ったけど、やっぱ体力的に厳しそうだから行くの明日にする。振り回すの申し訳ないから、買い物は一人で行ってきます」

 というラインが来た。
「お前これで(ドタキャン)三度目やぞ!」と巨人の清原が阪神の藪から三度目の死球を食らった時のように、怒り狂った。あまりの急転直下に、強いめまいがした。しかも、二日前、彼女がダブルスのプロフィールを大幅に更新していたのを知っていたから、さらに怒りが爆発した。そこには、「車を持っている人が好ましい」とか「頼れる人が良い」とかそういった文言が新たに追加され、コミュニティも「地元好き」というものに新しく加入していた。「絶対他の男を狙っているだろ!」と厳しく問い詰めたかったが、そこまでの勇気は持てず、堪え難きを堪え忍び難きを忍ぶ道を選んだ。
 とにかく、この突如白紙と化した予定をどうするか。家族に「中止になった」と言えば、アリサを非難する言葉が猛連射されるのは目に見えていて、それはそれで不快だし、彼女に振り回されている自分を見せたくもなかったので、とりあえず何も告げずに出かけることにした。しかし、用事もないのに行く先などあるはずがない。パソコンの前で腕を組み、じっとしていると、心臓がざわつき始め、殺意が湧きそうになった。これを上手く鎮めるにはどうすればよいのかと、瞑想しながら熟慮した時に、「そうだ 風俗、行こう」と天啓の如くひらめいた。実は以前から気になっていた風俗が新宿にあって、それは男が風俗嬢にメイクをしてもらい女装プレイができる、というものだった(女装プレイ専門ではなく、メインはM性感)。前に、AVを観る時は女優側に感情移入していると書いたが、「女」になって女とセックスしたいという願望を俺は持っていた。なぜなら、男が喘いだりするのは見た目的に気持ち悪いと常々思っていたからで、それは自分自身にも適用されていた。だから、「女」になれば、もっと性の世界に没入できるのでは、という期待を抱いていた。
 俺は風俗貯金というのをしていて、それが二万円ほどたまっていた。料金を調べると、ちょうど一時間分のお金だ。なので、急な思いつきにも関わらず金の心配をすることはなかった。
 十八時から一時間のプレイに入る予定を立て、ちょうどよい頃合いを見て家を出ようとしたところ、急にお腹の調子が悪くなり、慌ててトイレに戻ると、腸が空洞になるほどの軟便が出た。これだけ出ればもう大丈夫だろうと思い、安心して家を出、最寄り駅の近くまで着くと、スマートフォンで、例の風俗に電話した。
「お電話ありがとうございます。オーランドーです」

 女の声だった。安心した。こちらとしては、風俗店に勤める男に対し、ヤクザとか半グレ的なものを想像しているので、女が電話に出るとリラックスできる。
「あ、すいません、十八時から女装プレイで一時間入りたいんですが」
「ご予約ありがとうございます。当店のホームページはご覧になりましたか」
「拝見しました」
「では、衣装がいくつかあったと思うのですが、ご希望ございますか?」
 ホームページには白のワンピースや、女子高の制服、ゴスロリ、OLとか、そういうものが載っていたのだがどれもピンとこなかったので、
「特に希望はないです。適当に持ってきてください」
「わかりました。ちなみにサイズはMで大丈夫ですか?」
「いや、Lの方がいいかもしれません」
「わかりました。ご希望の女の子はいらっしゃいますか?」
「女装プレイが上手い人がいれば……」
「当店に勤める女の子はみなプロですので大丈夫です」
「じゃあ、空いている人で」
「了解いたしました。ちなみに、ホテルは決まっていますか?」
「いや、あまり新宿のホテルを知らなくて」
「では、うちでおすすめしているところがあるので、新宿に到着したら一度お電話もらえますか?」
「わかりました」
「それでは、失礼します」
 実は、一つだけ懸念材料があった。それは前日オナニーしてしまっていたこと。通常風俗に行く際は、一週間前に予約を入れ、当日のためにしっかり溜め込んでおくのだが、今回は発作的な行動だったので、同じ投手を二回投げさせるような形となった。オナニーでも二日連続というのはほとんどない。風俗だけでなくアリサと会う前も万が一を考えて数日前からオナ禁することはよくあったのだが、段々その期待も薄れ、どうせ今回も無理だろうと自暴自棄になり、不覚にも二十九日にオナニーを実行してしまったがために、こんなことになったのだが、それならもう一日我慢すればよかったと今更ながら後悔した。ちなみに、クリスマスの時に買ったあのコンドームは、集英社の世界文学全集の後ろに隠したまま、一度も使わず今日に至っている。
 電車に乗っている間、特に気持ちが盛り上がることもなく、坦々と時間だけが過ぎていった。途中、彼女から、「いたたたた」というふざけたラインが来たが、無視した。職場が新宿にあるからほとんど無意識のうちに乗り換えも済ませ、気付くと新宿三丁目に着いていた。すると、再び腹痛が怒涛の如く押し寄せてきて、幸い予定時刻まではまだ余裕があったから、ホテルに向かう前にトイレを借りようと、脂汗を垂らしながら伊勢丹にがに股で突入した。伊勢丹の男子トイレは個室が一つしかなかったが、運が良いことにちょうど空いていて、「神は我を見捨てなかった」と呟きながら、大量の軟便を心置きなく大放出。心なしか、身体が軽くなった。それでも一応、「さすがにもう出ないよな」と腸には確認をとり、「大丈夫です」という言質を得た。
 ただ、困ったことに、拭いても拭いても糞がとれず、二度目の軟便ということもあって、だいぶ肛門が擦れてしまい、退店する時もがに股という仕儀にあいなった。
 ようやく新宿三丁目から歌舞伎町に向かって北進する。そして、新宿区役所の前で一度店に電話し、通話しながら指示されたホテルに向かった。それは歌舞伎町の有名なホテル街の一角にあり、中でも値段が安いということ。電話を切り、ホテルに入り、タッチパネルで部屋を選択すると、フロントに呼ばれ鍵を受け取った。そして、部屋の中へ入り、中を一通り確認したところで、三度オーランドーへ電話をかけ、女の子が派遣されるのを待った。

***

 ソファーに座りながら、画面が脂まみれのスマートフォンツイッターを見ていると、ベッド脇に置いてある色の禿げた電話がけたたましく鳴った。
「女の方がみえているのですが、お通ししてよろしいでしょうか」
「どうぞ」
 フロントからだった。スマホをテーブルに置き、幽霊でも探しているかのように玄関の扉を凝視した。ノックの音が聞こえ、ドアを開けると、長髪をセンターで分けた、冷たい目つきの細身の女が立っていた。グレーの薄手のニットに、白のミニスカートとレギンスを履いている。身長は百六十五ぐらいか。細い眉毛と薄い唇、ブルーのアイシャドーが、高圧的な感じを醸し出している。見た目は悪くない。流行りの言葉を使えば、クールビューティー。というか、普段なら怖くてあまり話しかけられないタイプの女だ。ダブルスでもそういう感じの人は会った時に委縮してしまいそうなので、グッドを見送るようにしていた。
「こんばんは」
「あ、こんばんは」
 彼女はずいずいと部屋の奥へと入っていき、ソファーの前のガラステーブルにディオールのバッグを置き、テーブルの上に足を組んで腰かけた。俺は急いで彼女の対面のソファーに座った。その刹那、勃起した。前日にオナニーしていても意外に性欲が残っていて、自分でもびっくりした。また、先ほどまでの重い憂鬱も、女を目の前にするとだいぶ晴れていった。
「……です」
「どうも、範多です」
 彼女の名前が聞き取れず、焦った。
「プレイを始める前に、少しだけアンケートいいですか? 事前にどういうプレイにするのかだけ、簡単に」
「はい」
「今日は女装でいいの?」
「大丈夫です」
「女装は初めて?」
「初めてです」
「あ、そう。かわいくしてあげるね」
「はい」
「アナルはどう? 初めて?」
「アナルですか。初めてです」
 初めてではなかったが、咄嗟にそう答えていた。しかし、肛門の状態が不安だった。
「じゃあ、チャレンジしてみる?」
「ちょっとだけ」
「OK。じゃあ、準備してるから、お風呂入ってきてもらえる?」
「わかりました。あの、すいません、もう一度名前教えてもらってもいいですか?」
 彼女はコンドームなどを入れたメッシュのビニールポーチの横についているアーチ状の布を指さして、
「エリね」
 彼女が指さした場所には、細マジックで「Eri」と書かれていた。
 風呂へ。とりあえず肛門だけはいつもより念入りに洗い、プレイの時に糞が発見されないよう気をつけた。
 風呂を出ると、彼女は俺が着る洋服をベッドの上に並べているところだった。
「こういうの持ってきたんだけど、どう?」
 ベッドの上には、ピンクのアンゴラっぽいセーターと灰色が基調となったタータン・チェックのスカートが置かれていて、他にピンク色のブラジャーと下着、黒と金髪二種類のウィッグが用意してあった。
「かわいいですね」
「でしょ? じゃあ、着替えよっか。その後でお化粧ね」
「はい」
「あ、そういえば、なんて呼ばれたい? 女の子になるんだから名前も変えないと」
「じゃあ、アリサでお願いします」
 ほとんど躊躇なくそう答えていた。
「アリサちゃんね。OK。でも、まだアリサ『くん』だけどね」
 俺はバスタオルを捨て、ベッドの上にそっと腰かけ、パンティーに手をかけた。「こぼれるだろ、これは……」と思いながら、パンティーを履くと、案の定勃起したペニスが横からはみ出た。背徳感より羞恥心の方がここでは勝った。
「ブラジャーつけてあげるね」
 エリは俺の後ろに回り、ブラジャーをつけてくれた。不思議な装着感だ。空白を覆っているような気がする。あまりこの姿を鏡では見たくない。俺はさっさとスカートとセーターを身に着けた。
「ウィッグは、黒髪と金髪、どっちにする?」
「黒髪で」
 エリは洋ナシを包む時に使うようなネットを取り出すと、それを俺の頭に被せ、髪をまとめ、それから、黒髪のウィッグを被せた。長髪のウィッグなので、少し顔がくすぐったい。
「それじゃあ、化粧していくね。まずは、ファンデーション。これで、髭とか隠れるから」
 と言い、パフで、頬や額、鼻筋、顎などを軽く叩いていった。
「次に、チーク入れるね」
ブラシに桃色のチークを付け、頬に優しく塗っていく。自分の顔がキャンパスになったようだ。その後で、ブラウンのアイシャドーを入れると、
「次は、つけまつげ」
と黒い鳩避けのようなものを取り出し、俺のまぶたの近くに持ってきたので、眼を半分閉じた。そして、彼女はそれを俺のまつげの根本にゆっくりと押し当てた。
「これ、ノリついてて、とれないようになってるから」
「そうなんだ」
 最後に淡いピンクの口紅を塗って、女装が完成した。
「鏡で見てみる?」
 と言われたので、ベッドから降り、期待半分不安半分、テレビの横の洗面台に設置された鏡を覗き込んだが、裸眼のため輪郭しかわからなかった。それで、眼鏡をかけようとしたら、ウィッグのネットが邪魔でつるが全然耳にはまらない。見かねた彼女が、
「つけなくても、レンズで見るだけでいいんじゃない」
 とアドバイスしてくれたので、望遠鏡みたいにして眼鏡を持ち自分の顔を確認した。
「結構かわいくなったよね! ちょっとびっくり。自分でもそう思わない?」
「うん」
 確かに、本物のアリサよりわたしの方がきれいだな。
「じゃあ、写真撮る? エロいやつ」
「お願い」
 わたしはテーブルの上に置きっぱなしにしておいたスマートフォンを彼女に渡し、使い方を簡単にレクチャーした。そして、ベッドに寝転がり、身体を左に少し傾け、股間の辺りで手を組んだ。どんなポーズをとればよいのかわからなかったので、そんなつまらない姿となった。エリは、ベッドの脇に立つと、わたしの前髪を整えた。そして、わたしを見下ろす形で、写真を撮った。が、写真を撮られる瞬間、すね毛がひどいことに思い至り、「ワイルド・サイドを歩け」の"Shaved her legs and then he was a she"という歌詞を思い出したりもして、画竜点睛を欠くだな、と落胆した。
「はい。こんな感じだけど、どう?」
 写真は二枚。緊張で顔が強張っている。まじまじと観察すると、顎の辺りの骨格がマイケル・ジャクソンみたいで、多少現実に引き戻された。あと、手もゴツゴツとしている。それでも普段の自分より大分美化されていたので、馬子にも化粧かと苦笑した。肝心のすね毛だが、彼女がスカートの下の部分は写らないようにしてくれていたので、嫌な物を見ずに済んだ。
「いいね。ありがとう」
「じゃあ、エッチなこともしようか」
 わたしはベッドの上で胡坐をかき、彼女が乗っかれるようスペースを作ると、
「ダメでしょ。もう女の子なんだから、そんな格好しちゃあ」
 と叱られたので、足を横に崩した。
 二人とも洋服を着たまま、セックスに入った。わたしが受け身となり、彼女が責めていくというスタイル。女の子になったわたしはいつもよりやや大きく甲高い声で喘いでみた。彼女は上から下まで一通り責め終わると、わたしの両足を持ち上げ、肛門をむき出しにした。そして、ローションを穴に注ぎ込み、そっと指を入れた。
「あ、痛っ!」
 肛門の状態が悪かったわたしは思わず叫んだ。ついでに、右足の指先も軽く釣った。二つの異なる痛みを、わたしは必死に我慢した。彼女に悟られないよう、こっそり指先を何度か曲げ、釣っている状態をどうにか元に戻した。
「まだ、ちょっと早かったかな」
 と彼女はやや残念そうに言い、アナルに関してはそれで終わりとなった。
 わたしの性欲は、そこから急激に冷え込んでいき、ペニスもしぼみがちとなった。もっとキスがしたくて、何度か彼女にせがんだのだが、なぜか彼女の方はそれに答えてくれなかった。女の身体で一番好きな腋を舐めることができなかったのも、フラストレーションが溜まる要因となった。エリはわたしのペニスにローションを塗りたくり、ガシガシと擦り始めた。勃たなかった。コンドームを装着してのフェラも一切効果がなかった。セーターを着ているせいか、上半身だけがサウナにいるが如く蒸し暑く、汗が皮膚の底から滲み出て、気が散った。性の世界に没入しようと、さらに喘いでみたが、空しくなる一方。射精を諦めたわたしは、天井の黒い染みを呆然と眺めた。
「ちょっと、乳首噛んでいい?」
 停滞する状況を打開すべく、エリがそう提案した。
「いいよ」
 エリはゆっくりと乳首に顔を近づけると、獲物を見つけた鷹のような素早さで右のそれをガリっと噛んだ。
「ぬあぁっ!」
 乳首が取れた。絶対取れた。乳首の数が奇数になった。激烈な痛みに耐えきれず、わたしは身体をのけぞらせ、一基のアーチ状の橋となった。
 エリが顔をあげた。目を丸くしていた。もしや、わたしの乳首を飲み込んでしまったのか? それとも、口から転がり出てくるのか? 取れた乳首は外科手術でどうにかなるのだろうか?
「大丈夫?」
「だいじょうぶ……と思う……」
 と涙目で返事した。わたしは急いで乳首の有無を確認した。乳首はきちんとそこにあった。乳首は無事でも流血ぐらいはしているだろうと思い、指で確認したところ、それも大丈夫だった。
 だが、もうセックスとかそういう気分ではさらさらなかった。彼女のやる事全てが裏目に出ていた。早く終わりたいと願っていると、タイミングよくタイマーが鳴った。数十分化粧に費やしたせいか、セックスの時間はそんなに多くなかった。
「あ、終わっちゃった。ごめんね、いかせられなくて」
「いや、いいよ」
 彼女はベッドから飛び降りた。
「いつもいくの遅いの?」
「うーん、緊張してたからかな」
 経験が少ないのとオナニーに慣れてしまっていたことから、わたしはセックスで射精するのが苦手だった。最初は調子が良いのだが、三十分もすると勃ちが悪くなり、集中力も欠けてくる。出そうで出ないということもあった。挿入したことはまだ一度もないが、多分それも苦手だろう。
 彼女が片付けを始めた。わたしも床に足を下ろし、酔っ払いのようにふらふらと立ち上がった。そして、一歩足を踏み出した瞬間、お尻から何か冷たい液体がツーッと垂れた。
「やばい! ウンコ漏れた!」
 慌ててお尻に手を当て、首を後方に傾け、床を確認した。視力が悪いせいでどこに垂れたかよくわからないうえ、ブラウンのフローリングが余計に目を惑わせた。けれども、彼女がいる前で、床に這いつくばるわけにもいかない。お尻に当てた手を恐る恐る見ると、どうやら糞ではなくローションだということがわかった。ホッと胸をなでおろし、ウィッグを外し、洋服を脱いでいると、再びベッドに近づいたエリが、
「うわっ! ローション踏んじゃった」
 もちろん、それが俺の尻から生み出されたものであることは黙っていた。
「まだ時間あるし、私を見ながらオナニーしててもいいよ」
「うん」
 ローションでべちょべちょになった俺のペニスは、すでに休眠状態だった。一応、礼儀として擦ってみたが、立ち上がる機運はない。完全に気力を失い抜け殻と化した俺は、彼女が動き回る姿をただ眺めていた。
 エリはそれから五分もかからず片づけを終えた。
「このあと、AVで抜いていくの? ホテルの時間まだあるもんね」
「うん? まあ、そうかなあ」
 ホテルのテレビで流れているAVに、俺好みのものは一本もなかったし、これ以上性的なことも考えたくなかった。
「これ、メイク落とし。結構しっかり落とさないと、化粧残ったまま街の中歩くことになるから気をつけて。あと、まつげ取るのも忘れずにね」
「わかった」
「それじゃあね」
 扉が閉まると、俺は一人、全裸のまま取り残された。孤独が虱のようにたかり始める。。今、自分が立っている場所が、がらがらと崩壊しそうな予感に襲われる。洗面台の前で、つけまつげを剥がすと、涙がこぼれた。ローションで汚れた手を洗い、顔を拭うと、化粧が少しはがれた。涙は止まらなかった。

 眼鏡をかけ、どうにか日常に戻ろうとした瞬間、鏡の中の自分が目に入った。鳥の巣の如くぐちゃぐちゃな頭をした、陰鬱な男がそこに映っていた。化粧をしているから余計に薄気味悪い。映画とかに出てくる狂った老女のようだ。鏡から逃げると、スマートフォンが震えた。通知を見るとアリサからのラインだった。
「今日はごめんね。今何してるの?」
 俺は無言で女装写真を送りつけ、反応を確かめることなく、そのまま風呂に入った。エリから貰ったメイク落としは、カップ焼きそばの液体ソースが入っている袋と似ていた。こぼさないよう丁寧に端を切り、袋を傾け、掌に透明な柔らかい液体を乗せる。そして、それを顔に擦りつけ、力強く何度も何度も何度も洗顔した。化粧が顔に貼りついているような気がした。少しして、水滴と赤錆がこびりついた鏡を見ると、そこに俺がいた。(了)

 

マッチングアプリの時代の愛 参考文献 

 

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