遠藤周作とグレアム・グリーンの「二重性」

 グレアム・グリーン遠藤周作の小説を称賛したことはよく知られている。二人にはカトリックという共通点があり、彼らの小説を語る際には、よくそのことが言及される。

 カトリックであるということ以外に、二人を結び付けている共通点がもう一つある。それは、「裏切り」についての関心だ。グリーンは子供の頃、自分の父親が校長を務めている学校に通っていて、そのため同級生から「校長のスパイ」扱いされ、虐められた。その後、グリーンは第二次大戦時、イギリスの諜報機関の下で働き、実際にスパイとして活動した。そして、『ヒューマン・ファクター』など、スパイ経験を活かした小説をいくつか発表した。

 遠藤の方は、「白い人」や『沈黙』といった小説で、「裏切り」について書いた。特に、『沈黙』のキチジローの裏切りについては、多くの人が言及し、彼は遠藤作品の中で最も有名なキャラクターとなった。

 グリーンは『おとなしいアメリカ人』といった作品から、一般的には左翼作家として見られているのだが、保守派でカトリックの、イーヴリン・ウォーと親しかった。佐伯彰一は、『わが愛する伝記作家たち』の中で、ウォーはグリーンが本質的には「保守」であることを見抜いていたのではと推測している。グリーンのこうした二重性は、まさに「スパイ」的だ。スパイは敵対する二つの陣営を行き来することが仕事であり、時には自分の意見を180度変えることが求められる。グリーンは「リベラル」でありながら、「保守」からも認められるというポジションを、恐らく「意識的」に獲得した。それは少年時代のトラウマから導き出した処世術かもしれない。グリーンは、同級生に好かれたかったが、かといって父親にも反抗できなかった。彼は相反する二つの意見を飲み込み、どちらに対しても「良い顔」ができるよう訓練をした。その代償として、彼は「裏切り」という行為について非常に敏感になった(と私は推測している)。

 遠藤も、政治的には中立に近かった。左翼的すぎることも、右翼的すぎることもなかった(ちなみに、遠藤がカテゴライズされていた「第三の新人」には、保守派が多い)。エッセイではユーモアを強く意識し、狐狸庵先生というあだ名でテレビのCMに出る一方で、『サド伝』の著者でもあった。遠藤が「裏切り」についてこだわったのも、グリーンと同じように、「二重性」を抱えていたからだろう。そして、キチジローに共感する読者もまた、「二重性」を抱えている。二つの派閥の間で、道化師を演じながら生き延びている人ほど、キチジローに共感できるはずだ。多分、グリーンにしても遠藤にしても、本当に恐れていたのは、裏切る裏切らないという行動そのものより、「裏切者」として見られることだったのだろう。遠藤はよく作家にいたずら電話をかけていたというが、大人になってからのそうした道化師的振る舞いは、何だか非常に空虚な感じがある。まるで、「自分は害のない人間だ」とアピールしているかのようだ。

 本来だったら、きちんと遠藤とグリーンの伝記を読んでから、この文章を書きたかったのだが、グリーンの伝記は翻訳が悪いという評判があって、あまり読む気になれない(新訳してもう一度出版して欲しい)。また、遠藤の伝記は、一応慶應義塾大学出版会から出ているのだが、どうも身贔屓がありそうで……。

 

ヒューマン・ファクター―グレアム・グリーン・セレクション (ハヤカワepi文庫)

ヒューマン・ファクター―グレアム・グリーン・セレクション (ハヤカワepi文庫)

 

  

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

 

    

わが愛する伝記作家たち

わが愛する伝記作家たち

 

   

グレアム・グリーン伝〈上〉―内なる人間

グレアム・グリーン伝〈上〉―内なる人間

 

 

遠藤周作

遠藤周作

 

  

野村克也と沙知代のコンプレックス

『球界のガン・野村家の人々』という本を読んだ。あの悪名高い鹿砦社から出版された物だ。中身は、南海時代のスパイ野球疑惑、ヤクルトにおける内紛、野村沙知代の横暴といったことが、書かれている。

 ミッチー・サッチー騒動の時は、まだ小学生だったので、あまり野村沙知代について記憶がなかったのだが、本書で彼女の巻き起こした様々なトラブルについて読むと、「本当にヤバイ奴だったんだな」というのがひしひしと伝わってくる。

 例えば、テレビで古田について「殺してやりたいほど憎い」と発言したり、カツノリが在籍していた堀越学園野球部の監督に「クビにするのは簡単」と恫喝したり、当時石井一久と交際していた神田うのを批判したりと、やりたい放題である。古田と沙知代の仲が悪化したのは、中井美穂と付き合っていた彼が沙知代の持ってきた縁談を断ったことが原因で、そこにカツノリとのポジション争いも加わって二人の関係性は完全に断裂した。そして、野村監督も、沙知代に肩入れし、古田のリードをねちっこく批判した。こういう経緯があるから、古田は恐らく今でも野村について良い感情を持っていないだろうが、我慢して黙っているのだろう。

 野村沙知代の悪行については、ケニー野村ダン野村の弟)が書いた『グッバイ・マミー』が詳しい。この本によれば、彼女は病的な虚言癖とヒステリーの持ち主で、男から男へと渡り歩いてのし上がってきたことがわかる。彼女と野村克也との出会いは、中華料理屋の女主人からの紹介で、結果的にはダブル不倫という関係になった。沙知代は最初、結婚していることも、子供がいることも隠していたらしい。騙されたことに気付いた野村は別れようとも考えたらしいが、結局は付き合い続け(周囲はもちろん大反対し、南海ホークスを追放される原因となった)、沙知代は41歳の時にカツノリを産む(ケニーはこの出産を、『女としての”賭け”だったんじゃないかな』と表現している)。野村は前妻との離婚がまだ成立していなかったので、沙知代との結婚はそれから5年近く経ってからとなった。ちなみに、野村の前妻はその後ノイローゼで若くして病死し、沙知代の元夫アルビン・ジョージ・エンゲルは自殺した。沙知代の周囲は死屍累々である。ケニーの本には、沙知代の信じがたい悪行が縷々として書き連ねられており、一読すると彼女が人殺しをしない角田美代子に思えてくる。

 そんな沙知代と、野村監督の相性は意外と抜群だったのではないかと、僕は思っている。野村の発言、例えば、ホークスを一年でクビになりかけた時、「このままでは南海電車に飛び込んで自殺するしかない」と言ってフロントを説得した話や、「長嶋は向日葵、俺は月見草」と言っているところを見る限り、野村のコミュニケーション術とは、自分を常に被害者に見立て、同情を惹くというものだ。つまりは、「卑屈」なのである。恐らく、貧しい家庭で育ち、大学野球が華々しかった頃、高卒のテスト生として南海に入団した経緯が、彼の性格を歪めてしまったのだろう。結果、野村は大卒(特に六大学)の選手に対して異常な敵意を持つことになり、その代表が長嶋茂雄だった。こうした学歴コンプレックスは、沙知代とも共通している。野村が親しくするのは、江夏や山崎武司と言った、高卒の一匹狼タイプの選手だ。野村が「ことわざ辞典」を持ち歩き、それで暗記したことわざを、さも昔から知っていたかのようにメディアに披露するというのはそこそこ有名な話だが、それも大卒への対抗心から来ているのだろう。

 野村の卑屈でペシミスティックな性格に対し、沙知代は真逆の自信家だ。野村が受け身な態度を見せるのに対し、沙知代はガンガン攻めていく。こういう卑屈(男)×自信家(女)のカップル・夫婦は意外と珍しくない。例を挙げれば、カート・コバーン×コートニー・ラブカニエ・ウェスト×キム・カーダシアン、ジョン・レノン×オノ・ヨーコ開高健×牧羊子などがいる。だいたい、女の方は悪妻と呼ばれる(今風の言い方だと、「サークル・クラッシャー」か)。ある意味では、そうした女の影響が、創作の原動力となるのだが、そうやって生み出されたものは本音を隠した「仮面」的なものであることが多い。レノンの「イマジン」や、開高のベトナム物などは、現実からの逃避を象徴しているかのように、僕には感じられる。卑屈で自信のない男に共通しているのは、自我を強く抑圧しているところで、それを完全に克服した人間はあまりいない(少なくとも芸術家に関しては見たことがない)。

 野村の話からちょっと脱線したが、この夫婦の関係は、精神分析的な意味で興味深い。野村沙知代実弟が書いた『姉野村沙知代』もいずれ読んでみよう。

 

球界のガン・野村家の人々―ID野球という名のスパイ野球
 

  

グッバイ・マミー―母・野村沙知代の真実

グッバイ・マミー―母・野村沙知代の真実

 

  

姉野村沙知代

姉野村沙知代

 

 

アル・パチーノ ローレンス・グローベル 『アル・パチーノ』

 アル・パチーノは俳優として優れているというだけでなく、アメリカ文化においても重要な存在だ。『狼たちの午後』、『セルピコ』、『ゴッドファーザー』三部作、そして『スカーフェイス』といった作品を抜きにして、アメリカのポップ・カルチャーを語ることはできないだろう。

 そういうわけで、以前から彼の伝記を読んでみたいと思っていて、ネットで調べるとキネマ旬報社から『アル・パチーノ』というタイトルの本が出ていることがわかった。早速、図書館で借りてみると、伝記ではなく、インタビュー集だった。インタビュアーのローレンス・グローベルはマーロン・ブランドのインタビューも担当していて、それを読んだパチーノが、彼を指名したらしい。グローベルは『カポーティとの対話』というインタビュー本も出していて、これはわりと面白かった(酒が入っていたせいか、大悪口大会という有様で、カポーティ女性嫌悪が露骨に表れている)。

 しかし、この本に関しては、僕の期待していたようなものではなかった。話の多くが、抽象的な演技論や作品論に集中していて、ハリウッドにおけるパチーノの立ち位置や、彼の生い立ち、それから交友関係にまつわるゴシップにもほとんど触れられていないため、パチーノがどういう人間なのかいまいち掴めない。また、同じ話題を繰り返しているところも多い。アル・パチーノ。クローベルとカポーティの本が面白かったのは、カポーティの話術によるところが大きかったのだと、当たり前のように再認識させられた。

 パチーノのキャリアを時系列順に描いた伝記の登場が待ち望まれる。

 

アル・パチーノ

アル・パチーノ

 

  

カポーティとの対話

カポーティとの対話

 

  

 インタビューの後半では、演劇をテーマにしたこれらの作品に、焦点が当たっている。『リチャードを探して』は、シェイクスピアの『リチャード三世』をめぐるドキュメンタリー。『チャイニーズ・コーヒー』は俳優アイラ・ルイスが書いた戯曲の映画化でパチーノ自身が監督を務めている。『不名誉のローカル』はヒースコート・ウィリアムズの戯曲の映画化。『リチャードを探して』以外は、日本ではソフト化されていない。

フロイト/精神分析にハマる人の特徴

 橋本治が『蓮と刀』の中で、フロイトの「理論」というのは、実はフロイト自身の性格が色濃く反映されているのだ、というようなことを書いていて、そうした観点から『ドストエフスキー父親殺し』などを分析しているのだが、フロイト精神分析にハマる人もまた、フロイトのような性格をしているのではないかと最近思っている。

 そこで、フロイト精神分析にハマっている人の共通点を思いつくままに書き出してみた。サンプルが基本、芸術家たちの言動なので、掲げる例がそっち方面に偏った。あと、フロイトを読んだことがなさそうな人でも、フロイト的な人というのはいて、そういう人も、下に挙げた特徴に当てはまると思う。

 

フロイト精神分析にハマるor相性が良い人の共通点

・理論やコンセプトに拘って、作品を作る

・自分の事を語るときに、話を誇張する

・被害者意識が強い

・嫉妬を隠そうとする

・自意識が強く現れている作品に、嫌悪感を覚える

・『蒲団』のような私小説自然主義的な作品が苦手

・豪快な人間に憧れる(ヤクザ、マフィア、ギャルなど)

・感情を排した物に惹かれる(廃墟やテクノなど)

父親が立派な人だったり、怖い人だったりする

・隠れロマンティスト

・酒やドラッグ、異性に依存しがちである

・憧れている有名人と自分の共通点を探す(誕生日が一緒、星座が一緒など)

・「仮面」という言葉に反応しがちである

・悲観的なアフォリズムを好む(シオラン、『侏儒の言葉』、シモーヌ・ヴェイユ、『悪魔の辞典』など)

・褒められることが苦手

・猜疑心が強く、臆病

・破滅願望

・精神的な意味でマゾヒスト

・「本当の自分などない」とか言う

・露悪的だったり、ナルシシスティックだったりする文章を書く

・流行に乗るのが苦手(ただし、憧れてはいる)

・気分の上がり下がりが激しい

・自分が生まれる前の文化に、強く惹かれている

・文化の中心にいても、「遅れてきた人間」であるという意識がある

・職場やサークルなどで、「ここは自分の居場所ではない」とよく思う

 

 最近は、「精神的な意味でマゾヒスト」ということについてよく考えている。僕はよく芸術家の自伝や伝記を読むのだが、薬中やアル中になる人は、そういう傾向が強いのではないかと思っている。いつか、まとまった文章を書いてみたい。

 

蓮と刀―どうして男は“男”をこわがるのか? (河出文庫)

蓮と刀―どうして男は“男”をこわがるのか? (河出文庫)

 

   

 

川本三郎 『スタンド・アローン』

 たまたま昔の書籍に入っていた広告を見て気になり、読んでみたのだが、これが抜群に面白かった。「今世紀初頭(20世紀)から現在まで、映画、文学、スポーツ、音楽などの分野で独自の世界を築いた個性的な男たち23人のミニ・バイオグラフィー」というのが、裏表紙に記載されている本書の要約だ。取り上げられているのは、W・Cフィールズ、B・トレヴン、ハリー・クロスビー、ノエル・カワードフランク・キャプラマルカム・ラウリーミッキー・マントル、R・W・ファスビンダーなど。

 本国ではそれなりに有名だが、日本では未だ伝記が出版されていないような人物を多く取り上げているのが助かる。例えば、B・トレヴンは、ジョン・ヒューストン監督『黄金』の原作者だが、当時は覆面作家で、その正体と経歴が簡単にまとめられている。こういうのは貴重だ。どの人物も文庫で12ページ程度の紹介なのだが、最低限の情報が過不足なく詰め込まれていて、人となりがすぐに理解できる。まとめ方も、上手い。前述した人名にピンときた人は、手に取るべきだろう。

 

スタンド・アローン―20世紀・男たちの神話 (ちくま文庫)
 

  

黄金 (1954年) (Hayakawa pocket books)

黄金 (1954年) (Hayakawa pocket books)

 

  

ロン・ローゼンバウム 「ドナルド・トランプって結構いい人だ」

 かつて、東京書籍が「アメリカ・コラムニスト全集」というシリーズを企画し、トム・ウルフポーリン・ケイルの批評的エッセイ集を出版していた。

 この前、図書館でそのシリーズの中の一冊、ロン・ローゼンバウムの『ビジネス・ランチをご一緒に』というのを借りてみた。作者のローゼンバウムは、経済ジャーナリスト兼小説家で、原著は1987年に出版されている。ちゃんと読むつもりではなく、「取り敢えず中身を確認しておくか」ぐらいの気持ちだったのだが、目次を眺めていると「ドナルド・トランプって結構いい人だ」という刺激的なタイトルが目に飛び込んできた。

『ビジネス・ランチをご一緒に』は、成功した経営者やセレブの実態について、ローゼンバウムが彼ら本人にインタビューして書いたもの。トランプはその内の一人という扱いだ。80年代の話なので、内容は実業家としてのトランプについて迫るものとなっている。

 しかし、ローゼンバウム自身も驚いていることだが、トランプはまず最初に、経営の話よりも「核拡散」という政治問題について喋りたがった。一瞬、冗談だと思うローゼンバウムだが、トランプは本気なのである。本気で、フランスの核輸出や、カダフィのような独裁者が核兵器を持つことについて憂いているのである。ローゼンバウムは困惑気味にこう書いている。

 

(前略)だがそれ(核拡散)に関する彼の話を聞いているうちに、私は、トランプがそれに真剣に取り組んでいると確信するようになった。

 これは私にとっては、ちょっとした苦しい結論である。(中略)私は安っぽいジョークと皮肉をすべて捨てざるをえなくなった。もしそれが、野心満々の不動産屋が国家的舞台へ躍り出ようとする、何か奇異な自己中心的行動であれば、ジョークや皮肉も言えただろうに、すべてそうしたものは言えなくなってしまったのである。(p.65)

 

 トランプが核に興味を持ったのは、放射線治療の先駆者だった叔父(ジョン・トランプ)を通してだった。叔父から、核爆弾が年々容易に作ることができるようになっているということを聞いたトランプは、人類の破滅を防ぐべく、核の拡散を防止することを真剣に考えるようになったというのだ。彼はアメリカ側の政策担当者を批判し(ちなみに、時代はレーガン政権下である)、「核拡散」防止策について、ローゼンバウムに語る。例えば、こんな調子だ。

 

 経済面か何かで強い態度に出るべきだろうと、私は思う。解決するには経済的な要素が大きく絡んでくるからね。そうした国々(パキスタン等)の多くはぜい弱だ。それに対しわが国には、今まで一度も使ったことのない巨大な力がある。彼らは食糧や医薬品の面でわが国に依存している。私はこれ以外の問題に関して、こう提案したことは一度もない。だが、この問題は、何としても解決しなければならない問題だ。(p71-72)

 

 実際、トランプはレーガンに近い人々にアプローチし、核問題についての持論を何度も開陳していたようだ。ローゼンバウムは、トランプがホワイトハウスの「厄介者」になっているかもしれないと書いているが、この時の苛立ちが、のちの大統領選立候補にも繋がっているのかもしれない。つまり、政治を動かすには、政治家になる以外方法はないと考えたということだ。トランプは経営者の政治的影響力の限界を、核問題を通じて知ったのだった。

 トランプのパーソナリティについては、散々色々なことが言われているが、この核問題への熱心な取り組みを見る限り、彼には彼なりの「正義感」があるということがわかる。単に「野心」だけで大統領に立候補したわけではない。彼は自分の言葉を信じきっている。だからこそ、「強い」のだろう。

 

ビジネス・ランチをご一緒に ロン・ローゼンバウム集 (アメリカ・コラムニスト全集)

ビジネス・ランチをご一緒に ロン・ローゼンバウム集 (アメリカ・コラムニスト全集)

 

 

野球選手とメディア

 日本ハムファイターズが優勝した。

 ファイターズ・ファンの俺としては嬉しいことだ。

 そんな中で気になったのは、メディアの注目が大谷へと異常に集まっていることだ。ニュース記事はもとより、試合中も幾度となくベンチにいる大谷にカメラが向けられた。鼻くそをほじる暇もないくらい、大谷は監視されている。

 前にクロマティの自伝を読んだことがある。『さらばサムライ野球』という本だ。その中で面白かったのは、巨人の選手たちがいかにメディアの目を気にしているか、ということを書いた箇所だ。彼らは試合で活躍すると、次の日、ロッカールーム等で、スポーツ新聞の一面を必ず確認する。大きく扱われていれば嬉しいし、冷淡な扱いをされていれば当然憤慨する。クロマティ自身もしょっちゅう確認していた。

 だが、ここで問題が一つ起こる。メディアとしては、中途半端な選手の活躍よりも、例えば、原辰徳の三振の方を記事にする。スターというのは一挙手一投足全てに注目が集まる存在であり、注目されるからこそスターでもある。活躍したのに取り上げられない選手からすれば、何とも不公平な話だ。だから、当時の巨人では、原に対する嫉妬がチームメイトの間にわだかまっていた。

 大谷についても、ファイターズ内で同じことが起こっているのではないかと、俺は心配している。それを表に出す選手はいないだろうが、どんな試合でも大谷がトップに扱われ、活躍した自分が無視されるという状況に、プライドの高い野球選手がいつまでも耐えられるだろうか。チームメイトは仲間でもあるが、同時にライバルでもある。だが、大谷は最早日本の選手では追いつけないような場所にまで達してしまった。選手たちの大谷に対する反応といえば「あれは別格」というような、半ば賞賛・半ば呆れるといった感じだ。ダルビッシュのファイターズ在籍時代の末期もそんな空気が漂っていた。日本の野球に大谷は収まらなくなっている。来年は日本でプレーするとのことなので、再来年にはメジャーに挑戦してもいいのではないだろうか。俺個人としては、打者でいってほしい。空振りにさえロマンを感じさせる選手は、大谷しかいないからだ。

 

 

さらばサムライ野球

さらばサムライ野球