独断と絶対的な自信を持って選ぶ珍伝記ベスト3

 俺は伝記を読むのが好きだ。特に文学者の伝記をよく読む。

 伝記というのは、そんなにはずれを引くことのないジャンルだと思う。十分な知識を持っていないと書けない分野だし、抽象的な事柄をほとんど取り扱わないから、スラスラと読んでいける。

 逆に、つまならい伝記になる条件をいくつかあげてみよう。

 

①調査不足

これは、もう話にならない。そういう伝記はだいたい作品のあらすじを長々と説明することで、ページを水増ししている。やっつけ仕事だったり、資料不足だったりすると、こういう本が出来上がるのだろう。

 

②長すぎる

著者が調べたことを全て書き込んでしまっているパターン。どうでもいい細々としたことまで書かれていて、読んでいてだれる。西洋人の書く伝記に多い。800ページとか1000ページぐらいある。研究者が読むぶんにはいいのかもしれないが、一般読者が通読するのはつらい。

 

③都合の良いことしか書かれていない

身内の手によるものだったり、対象に心酔してたり、周辺の人間に配慮したりした結果、生まれる伝記。芸術家といえど、聖人君子ではないのだから、どうしたって汚い部分は出てくる。そこを描かないのは伝記として片落ちだろう*1。しかし、小学生が読む「偉人伝」のようなものを伝記のあるべき形だと考えている読者もいるから困る。

 

 さて、ダメな伝記の例をあげてみたが、これから紹介するのは、ダメを通り越して、「珍」となってしまった伝記である。最初に言っておくと、俺はこれらの伝記を最後まで読んでいない。というか読めなかった。その理由は引用する文章を読んでくれればわかるだろう。

 

3位 カトリーヌ・クレマン 『フロイト伝』

 

 5年ほど前、藤野可織の『爪と目』が芥川賞をとった時、地の文で使われている人称が、一人称でも三人称でもなく、「二人称」だったことが話題になった。ある登場人物のことを「あなた」と呼びかけているのである。これはミシェル・ビュトールが『心変わり』という小説で使い有名になった手法で、その後倉橋由美子が『暗い旅』で同じことをしたら、江藤淳と論争になった、なんてこともあった(栗原裕一郎『盗作の文学史』参照)。

 クレマンのフロイト伝は、この二人称で書かれた伝記なのだ。

 

 あなたはウィーンの街で大衆の反ユダヤ主義が高まるのを見、大学の選択に頭を悩ませる。あなたは警戒していた! あなたは何もかも知っていた。あなたは思春期に、若い時のヒーローとして、カルタゴの将軍ハンニバルを選びはしなかっただろうか。彼が〈セム人〉であり、〈ユダヤ的な粘り強さ〉の象徴であるゆえに。どこに行ったのか、あなたの粘り強さは。(吉田加南子訳)

 

 まるで機械翻訳のようだが、全編こんな調子である。内容がまったく頭に入らない。パラパラとめくってみた限りでは、どうやら著者はフロイトに批判的らしい。「伝記」となっているが、時系列順には書かれていないので、さらに読みにくくなっている。クレマンは、著者紹介を見ると、哲学者・小説家・伝記作家となっているが、他の本は一体どうなっているんだろう。いや、あまり調べたくないが……。

 

2位 楠本哲夫 『永遠の巡礼詩人バイロン

 

 伝記を書くにあたって必要なのは、知識を除けば、「客観性」だろう。いくら自分の好きな作家について書くにしても、客観的に対象を見ることができなければ、いびつな伝記となってしまう。

 楠本によるこのバイロン伝を読み始めた時、俺はすぐに、筆者の客観性を疑わなければならない文章にぶつかった。

 

 三十六歳の短かった生涯を、幾何学的直線をひた走り、行動し、詩いつづけたそのエネルギーの燃焼の瞬発力に、ただ感動し瞠目するのみである。

 

 この伝記が出版された時、著者は71歳である。「文学青年」というのは、71歳になっても治らない不治の病なのだろうか。とにかく、著者はこんな調子でバイロンを賛美し続けていく。「バイロンは気取り屋であるとの評価が一部になされたこともある。愚かしい盲人的対巨像観である」なんて文章もある。いったいどっちが盲人なのか。さらに極め付けなのが、ケンブリッジ時代のバイロンの放蕩について書いたこの文章。

 

 しかし、ケンブリッジを暴走しはじめた大車輪は、もうその歯止めがきかなくなってしまっていた! 軌道修正はできない。その暴走の轍の虚しさも、走るべきそのスピードも、その描く直線も、すでに用意されていたものだった。バイロンは星の子、運命の子!

 若者が暴走する! その暴走に不自然な物理的力が他から加えられるとき、その若者は呆気なく、いとも簡単に死をもって自らの生命を断つよりほか仕方がない。暴走か! 死か! 自由か! 発狂か!

「ゴードン・バイロンよ! 暴走せよ!」バイロンは自らそう命じ、そう言い放った!

 

 暴走しているのはバイロンじゃなくあんたでしょ、と言いたくなる書きっぷりだ。この本、三省堂から出ているのだが、自費出版なのだろうか。ちなみに、著者は第一経済大学(現日本経済大学)の教授だそうです。アンドレ・モロワの『バイロン伝』を復刊するか、誰か別の人がきちんとしたバイロン伝を書いてほしい。

 

1位 工藤正廣 『永遠と軛 ボリス・パステルナーク評伝詩集』

 

 評伝はわかる。しかし、その後ろについている「詩集」とはいったいどういうことなのか? ただの伝記ではないのか? われわれはその謎を解き明かすべく、図書館という名のジャングルに向かった。謎はすぐに解けた。詩で伝記を書いているのである。まず、著者の言葉を引用しよう。

 

いま 以下の『永遠と軛』でぼくは

詩人の人生のデータを引用パスティーシュし変成させ

彼のとくに困難をきわめた一九三二~四六年

四十二歳から五十六歳までの人生の声をあつめた

ドクトル・ジヴァゴ》が生まれるまでの

ぼくはこの評伝詩集で 一人称の「僕」を採用し

詩人のように振る舞うことにした

 

 つまり、著者がパステルナークになりきって、パステルナークとしてパステルナークの人生を詩で語るということらしい。工藤正廣という人は、パステルナークの翻訳を手掛けているのだが、まさかパステルナーク本人になってしまうとは驚きである。どうにかして墓の下に眠るパステルナーク本人に伝えたいところだ。

 

さあ一緒に谷間の三本松まで散歩でもしよう

僕は彼を誘った

詩人になりたいだって?

僕は彼をのぞきこみ大きな声で笑った

それはいい それはすてきだ

青春の夢はいつもすてきなのだから

 

 これが評伝詩集の一部である。もちろんここでの「僕」はパステルナークだ。こんな感じで、パステルナークはパステルナークの人生を語っていく。なんだか幸福の科学の霊言みたいだ……。

 それにしても、本当のパステルナークが書いている詩は、こんな感じなのだろうか。

 

 

フロイト伝

フロイト伝

 

  

永遠の巡礼詩人バイロン

永遠の巡礼詩人バイロン

 

  

永遠と軛―ボリース・パステルナーク評伝詩集

永遠と軛―ボリース・パステルナーク評伝詩集

 

 

*1:余談だが、ドストエフスキーの伝記を書いたストラーホフはトルストイに「小生はあの伝記を書いていました間じゅう、胸にこみ上げて来る嫌悪の情と闘わなければなりませんでした」(大塚幸男訳)と手紙に書いた

肉体的体力と精神的体力

 一般的に「体力がある」といえば、肉体的な体力のことを指すだろう。しかし、僕は、「肉体的体力」の他に「精神的体力」というのもあると思う。

 例えば、大勢の人の前で1時間発表しなければならないとする。たった1時間のことで、運動のように肉体を酷使しているわけではないのに、終わった後は普通の仕事より疲労感を感じるだろう。これが「精神的体力」を消耗しているということになる。

ワーカホリック」という言葉がある。売れっ子の小説家が月に500枚以上原稿を書いたり、音楽プロデューサーが毎日のようにスタジオにつめたりする。そういう人たちは、一見「肉体的体力」において優れているように見えないことが多いが、なぜか仕事はこなせてしまう。それは「精神的体力」が十分にあるからだ。

 社会に出て仕事するうえで本当に重要なのは、「肉体的体力」ではなくて「精神的体力」だと思う。しかし、肉体は鍛えられるが、精神はなかなかそうもいかない。精神的体力が削られるのは、主に「緊張」しているからで、仕事に慣れたり人間関係が円滑に進んでいたりすれば、「緊張」は減っていくが、そう簡単にいくものでもない。常に疲れていると感じるのは、肉体的体力というよりかは、精神的体力が減っているからだろう。

「精神的体力」は万能ではない。ある仕事ではバリバリにやっていた人が、他の仕事では上手くいかず、「精神的体力」をすり減らし、うつ病になるということはあり得ることだ。結局、自分がストレスを感じない仕事につけるか、ということが生きていくうえで重要なのかもしれない。

ジョン・ネイスン 『ニッポン放浪記』

 ジョン・ネイスンは三島の『午後の曳航』や大江の『個人的な体験』の翻訳者であり、映画『サマー・ソルジャー』の脚本家であり、アーティスト小田まゆみの元夫でもある。

 しかし、僕にとってはやはり『三島由紀夫─ある評伝─』の作者だ。ネイスンの三島伝は、数ある三島の伝記の中で最も中立的であり、虚構や誇張に満ちた三島の生涯を知るうえで、必読である。

 そんなネイスンの書いた自伝が、岩波書店から『ニッポン放浪記』というタイトルで翻訳された。原著の存在を知ってから、翻訳されるのをずっと楽しみにしていたので、手に入れ次第さっそく読んでみた。

 ネイスンはニューヨークのローワー・イーストサイドで生まれ育ち、アリゾナ州の高校からハーバード大学に進学した。だが、ハーバードに蔓延する独特のスノッブ精神にうんざりしたネイスンは、その中心から外れるような道を歩き始める。彼が日本語に興味を持ったのは、日本人学生から「瘭疽」という漢字を教えてもらったことがきっかけだった。それから日本文学などの授業を取り、卒業後は来日して、津田塾大学などで英語を教えるようになった。それから、東大に入学し、『三島由紀夫─ある評伝─』の翻訳者である野口武彦と出会ったり、三島の小説を翻訳したりした。だが、三島との仲は、ネイスンが『絹と明察』の翻訳を断ったことから、断絶する。このことは『三島由紀夫─ある評伝─』にも書かれていたので、さほど新鮮味はなかった。

 三島以外の小説家では、大江健三郎と最も仲が深かった。元々ネイスンが『絹と明察』の翻訳を断ったのも、『個人的な体験』の方を評価し、翻訳しようと思ったからだ。『個人的な体験』はネイスン訳で当初クノッフ社から出る予定だったが、突然大江が翻意したことで、グローブ・プレスから出版された。アメリカでは、研究者以外で、日本文学に注意を払う評論家は皆無だったが、書評家たちを接待する席で、大江がアメリカ文学への深い造詣を披露したことにより、彼らの心を掴み、書評に取り上げてもらえた。大江の英米文学に関する知識量には、ネイスンも舌を巻いている。『個人的な体験』はその後ネイスン脚本、勅使河原宏監督で映画化する企画が持ち上がったが、スポンサーがつかなかったためにとん挫。二人はそのまま『サマー・ソルジャー』の企画へと移った。

 やがて、ネイスンと大江の交友に亀裂が入る出来事が起こる。小谷野敦の『江藤淳大江健三郎』によれば、77年にグローブ・プレスから出た『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』の序文の中で、ネイスンが嘘を書いたとして、絶縁したらしい。このことは『ニッポン放浪記』では触れられていないが、大江と十年近く疎遠になっていた時期もあったとし、再び交流するきっかけになったのは、大江がノーベル文学賞を取った時だと書いている。だが、2003年に『新しい人よ眼ざめよ』の英訳を出した後、再び大江から絶縁されたらしく、説明を求める手紙を書いても返事がなかったという。そこで「大江のことを昔から知っているある編集者」に相談すると、「よく起きることですよ。大江先生には絶交癖があるんです」と言われたとか。ちなみに、大江は安部公房とも絶交していて、それは安部が三島や石川淳川端康成らと「文化大革命」に対する抗議文を発表したことが原因だ、とネイスンは書いている。しかし、大江の本を出して居る岩波が、大江と絶交した人の本を出しているのは、可笑しい。

 ネイスンはキーンやサイデンステッカーのように文学研究・翻訳一筋の道をたどらなかった。裏方の人間でいることに飽き足らず、ドキュメンタリー監督として活動するようになり、あえて日本と距離を取るような時期もあった。しかし、興した会社は失敗し、最終的には日本文学の世界へと戻ってくることになる。波乱に富んだネイスンの人生は、「放浪」そのものだ。

 

ニッポン放浪記――ジョン・ネイスン回想録

ニッポン放浪記――ジョン・ネイスン回想録

 

  

三島由紀夫―ある評伝

三島由紀夫―ある評伝

 

  

ソニー―ドリーム・キッズの伝説 (文春文庫)

ソニー―ドリーム・キッズの伝説 (文春文庫)

 

 自伝には、ソニーの本を書いた時のトラブルも詳述されている。

 

  

勅使河原宏の世界 DVDコレクション

勅使河原宏の世界 DVDコレクション

 

  

A Personal Matter

A Personal Matter

 

  

ガイアの園―小田まゆみの世界

ガイアの園―小田まゆみの世界

 

 

映画『ジュリア』とリリアン・ヘルマンの嘘

 ジェーン・フォンダが主演し、ヴァネッサ・レッドグレイヴがアカデミー助演女優賞を受賞した映画『ジュリア』は、原作がリリアン・ヘルマンの「自伝」であるため、「実話」ということになっているが、これは正しくない。正確に言うならば、他人の身に起こった出来事を、ヘルマンが勝手に横取りし、あたかも自分と関りがあったかのようにでっち上げた、ということになる。まず、映画の簡単なあらすじから見てみよう。

 

女流劇作家リリアン・ヘルマンの回顧録の映画化で、二人の女性の生涯にわたる友情と、作家ダシール・ハメットとのプライベートな生活を描いたサスペンス・ドラマ。ジュリアとリリアンは幼なじみであったが、第二次大戦前夜、ジュリアは反ナチ運動に加わっていた。そんなある日、劇作家として成功したリリアンのもとへ、ジュリアが人を介して反ナチの運動資金を届けてくれと依頼してくる……。彼女がジュリアのため、反ナチ運動の資金を運ぶくだりが、まことにスリリング。*1

 

 確かに、「ジュリア」に相当する人物は存在する。彼女の名は、ミュリエル・ガーディナー。ミュリエルは第二次世界大戦前のウィーンで、反ナチの地下組織に加わり、「メアリ」という偽名を使って、手紙の運搬などをしていた。戦争が勃発した後は、アメリカに戻った。ヘルマンは知り合いからその話を聞くと、まずは『ラインの監視』という戯曲のネタにし、それから自伝『ペンティメント』(邦訳題『ジュリア』)を書いた。ミュリエルをジュリアにし、存在しなかったはずの自分を付け加えて。

 ヘルマンの自伝『ペンティメント』はベストセラーになった。その後に書いた『眠れない時代』も売れた。ヘルマンは反ナチの闘士、赤狩りの抵抗者として、文壇を飛び越え、社会的英雄にまで昇りつめた。パートナーがダシール・ハメットであることも、プラスに作用した。

『眠れない時代』を書いたあたりから、ヘルマンに対し、抗議の声が上がり始める。自伝の内容に間違いがある、とアルフレッド・ケイジンやアーヴィング・ハウといった有名批評家が、書評で批判したのだ。しかし、これらの批判は、読む人間が限られていたせいか、あまり注目されなかった。

 そんな中、作家のメアリー・マッカーシーが、人気トーク番組「ディック・キャヴェット・ショー」で、「彼女(リリアン・ヘルマン)の書いていることばはすべて、『そして』や『その』でさえも嘘だ」ということを言った。1980年1月24日のことだ。

 マッカーシーとヘルマンは1930年代からの知り合いだが、数十年にわたって、対立し続けていた。二人には、自伝/私小説を書くという共通点があるが、内容は真逆。ヘルマンが自分を英雄的に装飾するのに対し、マッカーシーは事実を徹底的にドライに書く。

 マッカーシーのテレビでの発言を聞いたヘルマンは、彼女を名誉棄損で訴えた。しかし、これは悪手だった。なぜなら、裁判沙汰になったことで、世間の関心が一気に集まり、マッカーシー以外にも、彼女の嘘を暴こうとする人間が多数現れたからだ。そして、ヘルマンが嘘をついていたという証拠が、あちこちで提示された。ジュリアのモデルである、ミュリエル・ガーディナーは、83年に『暗号名はメアリ』を出版し、ヘルマンと自分が関係ないことを示した。ヘルマンはジュリアが実在すると主張したが、証拠を出すことはできなかった。逆に、雑誌『コメンタリー』では、サミュエル・マクラッケンの手によって、『ペンティメント』が徹底検証され、自伝が作り話に満ちていることが証明された。マクラッケンの記事が出て一か月後、ヘルマンは死んだ。しかし、映画や自伝は依然として、真実だと信じられ、名作とあがめられている。ポール・ジョンソンが『インテレクチュアルズ』の中で言うように、「リリアン・ヘルマンの神話産業は素知らぬ顔で進みつづける」のだろう。

 

  

  

ジュリア (ハヤカワ文庫NF)

ジュリア (ハヤカワ文庫NF)

 

   

暗号名はメアリ―ナチス時代のウィーン

暗号名はメアリ―ナチス時代のウィーン

 

 

眠れない時代 (ちくま文庫)

眠れない時代 (ちくま文庫)

 

  

グループ (ハヤカワ文庫 NV 5)

グループ (ハヤカワ文庫 NV 5)

 

 

インテレクチュアルズ

インテレクチュアルズ

 

 

「舞姫」を批判する男はモテるのか?

 森鴎外の短編「舞姫」は、教科書に掲載され、鴎外の作品の中で最も人口に膾炙したものだろうが、エリートの男が留学先で女を身勝手に捨てるという不道徳な内容から、発表当初より批判があり、また鴎外本人の身に起きたことを小説化していたため、小説・作家の両方が結びついたまま、現在も倫理的な側面から批判されることが多い。少し前にもツイッターで話題になっていた。

 俺のようなモテない人間からすると、この小説は「モテ自慢」にしか感じられず、まったく好きになれない。元不良の「昔はヤンチャしてた」という告白の不快さに近いものがある。文芸には、モテる男がひどい理由で女を捨て、それを懺悔・告白する、というような物がいくつかあって、例えば、トルストイの『復活』とかキルケゴール『誘惑者の日記』などだが、「舞姫」もこの系列に入るだろう。

 それで、俺は「舞姫」のことが嫌いだったのだが、それを誰かに言ったりもしなかった。言う相手や機会がなかったからだ。しかし、二年ほど前、ある出版社に就職試験を受けにいった際、「舞姫」について語る機会が初めて生まれたのだった。

 それは面接の待機中のことで、同じテーブルにいた早稲田の女の子が、話好きなのか、不安なのか、司会者の如く周囲の人間に順々に会話を振っていき、ぎこちなくコミュニケーションが進んでいた時に、確か小説の話になって、普段小説はあまり読まないという彼女が、「『舞姫』なら教科書で読んだ」と言ったのだ。

「俺は『舞姫』嫌いだな。あの主人公が」

「え、男の人で『舞姫』嫌いな人っているんだ。びっくりした」

 俺はここで少し得意になったことを覚えている。なぜなら、彼女が軽蔑している「『舞姫』的価値観」を否定することで、彼女のリスペクトを得られたと思ったからだ。童貞の俺は初めて女から「男」として認められたと感じた。

 大学三年の時、俺はフェミニズム関係の本を読み漁ったり、フェミニズムについての授業をとったりした。大学入学以来まったくモテなかった俺は、「女にモテないのは、女を知らないからだ」と考えたのだ。それで、提出するレポートなんかも、フェミニズムを取り入れたものが多くなった。成績はかなり良かった。「ここをこう書けば褒められる」というのがわかったからだ。フェミニズムというのは「理論」なので、ソフトのようにインストールできるのである。最初はある程度本気で書いていたのだが、段々「これは阿っているだけだ」と気付いた。それに、そういうこと書いたからといってモテるということもなかった。

 男がフェミニストであり続けることの難しさはここにある。つまり、「理論」と「現実」は、必ずしも一致しないのだ。実際、「女」といっても多種多様で、高学歴な女もいれば低学歴の女もいるし、言動がマッチョな男が好きな女もいれば、たんに性格の悪い女もいる。現代のフェミニズムはそのすべてに対応しているわけではなく、「高学歴」や「エリート」が理論の中心となっていることは否めないだろう。しかし、「女」であれば、当事者なのだから、フェミニストであり続けることはできる。だが、男のフェミニストは、「フェミニズムを理解する男」というメタ的な立場にしかなれない。性差別の問題において、男は常に加害者となるが、これを「理論」として飲み込めても、「現実」においては納得できない場面が絶対に出てくるだろう。

 それでも、積極的に「フェミニスト」を名乗る「男」はいるわけだが、それは「理論」の世界の中に閉じこもっているから出来ることで、そんな彼らの言葉には人間味というもの感じない。そこにあるのは歪な正義感だけだ。

 なぜ彼らがそんな風になったのかといえば、俺が「舞姫」を批判した時のように、そういった言動である種の女からの承認を得ることができたからか、もしくは、太田豊太郎のように女に対してひどいことをしたことがあって、その罪悪感からフェミニズムに走ったかのどちらかだと思う。

 フェミニストだからといって必ずしもモテるわけではないが、「優秀な少数派」として認知されれば、モテる機会は増えるだろう。エリートでありながらフェミニストというのが、恋愛市場において価値を生むのだ。その恵まれた立場に行きつくまでに様々な現実を通過しなければいけないはずだが、その辺は無視される。もし、フェミニストを名乗る男が急増すれば、フェミニストであることは意味を失うだろう。「少数派」であることが、男のフェミニストにとっては重要なのだから。

 結局のところ、「舞姫」を批判するだけでは、女からモテることはない。太田豊太郎のような人間だけが、フェミニストから認められる「フェミニスト」に変身できるのだ。

 

阿部一族・舞姫 (新潮文庫)

阿部一族・舞姫 (新潮文庫)

 

 

ノーベル文学賞はポルノがお嫌い

 書店に行った際、小谷野敦の新刊『純文学とは何か』の冒頭だけを立ち読みしたのだが、そこに「村上春樹はなぜノーベル文学賞をとれないのか」とマスコミからよく聞かれると書いてあって、「通俗小説だから」というのが小谷野の答えで、モームグレアム・グリーンがとれなかったのも通俗小説と見做されたからだろうとしている。そこから純文学とは何かという方へ話が進むのだが、それはさておき、実際ノーベル文学賞を選考するスウェーデン・アカデミーが「通俗小説」に厳しいのは事実だろう(細かく言えば、通俗的な要素があっても「シリアス」であると認められれば、受賞の可能性は高まる。カズオ・イシグロスティーヴン・キングの差はそこにある)。

 文芸において「通俗的」とされる要素はいくつかあるが、スウェーデン・アカデミーが絶対に認めないのが「ポルノ」である。例えば、ヘンリー・ミラーウラジーミル・ナボコフノーマン・メイラーアルベルト・モラヴィアアラン・ロブ=グリエフィリップ・ロス辺りが受賞できなかったのは、彼らの作品が「ポルノ」的だと見做されたからだろう。ちなみに村上春樹も、『1Q84』が、『リテラリー・レヴュー』の「バッド・セックス・アワード」にノミネートされたことからもわかるように、「ポルノ」と見做す論調が強い。

 ノーベル文学賞はペンクラブの重要な役職についていると取りやすいとも言われていて、日本ペンクラブの会長を長く務めた川端康成とかは確かにそうだっただろうが、国際ペンの会長を務めたモラヴィアやペン・アメリカの会長だったメイラーは取っていない。千種堅の『モラヴィア』(中公新書)によれば、モラヴィアは、性を描く作家として有名で、特にペニスが主人公である『わたしとあいつ』という作品を書いてからは、「モラヴィア」=「ポルノ」という図式は揺るがなきものとなったようだ。メイラーは、「セックスは、おそらく十九世紀と二十世紀初期の小説家によってまだ掘りつくされないでいる、最後に残った開拓分野だ」(「六十九の問答」『ぼく自身のための広告』所収)と言っているぐらいなので、当然ポルノ的要素は強い。2007年には、『キャッスル・イン・ザ・フォレスト』で、「バッド・セックス・アワード」を受賞してしまった。川端がノーベル文学賞をとった時の対象作品は、『古都』、『雪国』、『千羽鶴』だが、『眠れる美女』が翻訳されていたら危なかったかもしれない。

 アニー・コーエン=ソランの『サルトル伝』からの孫引きになるが、アルフレッド・ノーベル自身は、「ヒューマニズム的「理想主義的傾向の」文学作品に受賞することを願っていた」という。

 

純文学とは何か (中公新書ラクレ)

純文学とは何か (中公新書ラクレ)

 

  

1Q84 BOOK1-3 文庫 全6巻 完結セット (新潮文庫)

1Q84 BOOK1-3 文庫 全6巻 完結セット (新潮文庫)

 

  

  

  

The Castle in the Forest: A Novel

The Castle in the Forest: A Novel

 

  

サルトル伝 (上) 〔1905-1980〕

サルトル伝 (上) 〔1905-1980〕

 

 

本当は怖い文学史

 文学史関係の本を読んでいると、気がつくことが一つある。それは、文学史というのが、作品の良し悪しというよりも、いわゆる「ゴシップ」の集積で出来ているということだ。文学史につきものの「論争」に関しても、そこに行きつくまでに、複雑な人間関係を経ていることが多い。「ゴシップ」を知ることで、作品の理解が深まることもある。ということで、僕がこれまで読んだ「文学」と「ゴシップ」にまつわる本で、強烈だったものを紹介しようと思う。

 

怖いゴシップ篇

 

アンヌ・ボケル エティエンヌ・ケルン『罵倒文学史 19世紀フランス作家の噂の真相

 怖い本である。19世紀フランスといえば、ユゴーバルザック、ゾラ、フローベールスタンダールジョルジュ・サンド、デュマ、ランボーといった錚々たる顔ぶれがそろった文学の黄金時代といっても過言ではないが、それだけに作家間の争いも半端ではなかった。「やられたらやり返す」。この時代、憎悪によって生まれた作品は数多い。

 例えば、バルザックの『谷間の百合』。1834年、批評家サント=ブーヴが、ユゴーの妻アデルとの恋愛を描いた『愛欲』という小説を出版した。日頃からサント=ブーヴを嫌っていたバルザックはこれを読んだ後、「あいつに仕返ししてやるぞ、『愛欲』を書き直してやるんだ!」とジュール・サンドーに向かって叫び、「奴をおれのペンで串刺しにしてくれようぞ!」と言った。そして、『愛欲』のプロットをそのまま借りて、『谷間の百合』を書いたのだった。

 このように、『罵倒文学史』には、19世紀フランス文壇の血で血を洗う争いが網羅されており、ゴシップ好きにはたまらない本となっている。 バルザック、デュマ、ユゴーについては、鹿島茂の『パリの王様たち』も面白かった。

罵倒文学史―19世紀フランス作家の噂の真相

罵倒文学史―19世紀フランス作家の噂の真相

 

 

佐伯彰一『自伝の世紀』

『罵倒文学史』のような激しさはないが、比較文学研究者らしく、西洋から日本まで話題が幅広い。佐伯は、1950年頃、ウィスコンシン大学でニュー・クリティシズムを学んだが、後に自伝や伝記を重視するようになり、文学史をゴシップ的に捉えたエッセイを数多く書くようになった。僕はそうした著作がかなり好きで、色々読んだが、『自伝の世紀』以外では、『批評家の自伝』、『わが愛する伝記作家たち』、『回想 私の出会った作家たち』、『作家伝の魅力と落とし穴』などもおすすめである。 

自伝の世紀 (講談社文芸文庫)

自伝の世紀 (講談社文芸文庫)

 

 

栗原裕一郎『盗作の文学史

 明治から現代に至るまでの、文学における「盗作」騒動を網羅した本。著者がまえがきで「盗作事件とは本質的にメディアの問題」と書いているように、「盗作」がいかにして「大事件」にまで発展していくのかを、詳細に分析している。ネットにありがちな、「盗作」を糾弾するような本ではない。

 文学とマスコミ、文学と著作権について知りたい人は、必読。

 ちなみに、僕が一番笑ったのは、作品だけでなく受賞の言葉まで盗作だったという、有城達二の事件。

〈盗作〉の文学史

〈盗作〉の文学史

 

 

神話解体篇

 

鹿島茂『ドーダの人、小林秀雄

 小林秀雄といえば、かつては「批評の神様」のような存在で、今でも信奉者は少なからずいる。80年代には、彼の文章が入試でよく使われ、丸谷才一が批判するということがあった。

 鹿島茂丸谷才一と立場が近い人で、そんな彼が、小林秀雄の「ハッタリ」を東海林さだおの「ドーダ」という概念を用いて、批判的に解説したのが本書である。

 本書から小林のハッタリの例を一つ抜き出してみる。例えば、『文藝春秋』で連載された文芸時評「アシルと亀の子」。この「アシル」とは一体何なのか。実はこれ、ギリシャ神話の「アキレウス」をフランス語風に綴ったAchilleのことで、「アシルと亀の子」は、「アキレウスと亀」ということになる。「アキレウス」でよいところをわざわざ「アシル」と書く。これが小林のハッタリなのだ。 

ドーダの人、小林秀雄 わからなさの理由を求めて
 

 

呉智英吉本隆明という「共同幻想」』

 批評家で大きな影響力を持ったと言えば、吉本隆明もそうだろう。小林と同じく、ハッタリが多かったという点でも両者は似ている。

 鹿島のところで小林の外国語を用いたハッタリを取り上げたが、吉本隆明にもまったく同じハッタリがある(「永遠の吉本主義者」を名乗る鹿島茂も、そのことには気づいていると思うのだが)。「マチウ書試論」である。ここで吉本は、「マタイ伝」を「マチウ書」、「イエス」を「ジュジュ」という風に、フランス語風に置き換えているのだ(ただし、それを徹底しているわけではない)。「フランス語版聖書をテキストにしたから」というのがその理由らしいが、わざわざ分かりにくい表記を選ぶ神経が理解できない。

 吉本には造語癖のようなものがあり、それが彼の文章を著しく難解にしているのだが、呉智英はそのことについて、文庫版の「補論」でこう書いている。

吉本隆明のこうした造語癖は、小林秀雄のような衒学的な難解趣味とは、似ていながら違っている。本文で私は、吉本は『天然』だと書いた。つまり巧んでいない。しかし、『天然』は『病気』のすぐ手前である。病気は仮病でない限り、巧んでいない。吉本は天然どころか病気の領域に入っている可能性がある。そこが天然よりなお一層、信者を惹きつける」

 吉本の特殊な言語感覚は「病気」から来ているのではないかと推論した「補論」は、文庫版にしか収録されていないので、今から読むとしたら文庫がおすすめである。 

 

夏目伸六『父・夏目漱石

 タイトルの通り、夏目漱石次男である伸六が書いた、父・漱石とその周辺にまつわるエッセイ集。

 漱石が精神的に不安定な人であったということは、英国留学で「発狂した」というエピソードや、『行人』のなかの不安神経症を描いた部分からある程度推測できるが、実際はどうだったのかというと、やはりヤバイ人なのである。

 漱石は病的な癇癪持ちだった。それが原因で家族に対し暴力を振るうこともあった。伸六がまだ小学校に上がらない頃、兄と漱石と三人で散歩にでかけた。三人は見世物小屋に入り、兄と伸六は射的をやりたいとねだった。しかし、二人は急に恥ずかしくなって、父親の二重外套の袖に隠れようとした。子供らしい行動だ。だが、次の瞬間、漱石は「馬鹿っ」と大喝すると、伸六を打っ倒し、「下駄ばきのままで踏む、蹴る、頭といわず足といわず、手に持ったステッキを滅茶苦茶に振り回して、私の全身へ打ちおろ」したのだった。

 こういった漱石の負の側面についてはなかなか語られないので、伸六のエッセイは貴重である。 

父・夏目漱石 (文春文庫)

父・夏目漱石 (文春文庫)

 

 

才能の浪費篇

 

宮崎かすみオスカー・ワイルド

 オスカー・ワイルドといえば、「私は人生にこそ精魂をつぎ込んだが、作品には才能しか注がなかった」と嘯いただけあって、破天荒な人生を送ったことで有名である。そもそもこの人、デビューする前からデビューしてたというか、奇抜な服装とウィットに富んだ会話で、作品を書く前から社交界の有名人となっていたのであった。それだけに、創作意欲は他の文豪たちと比べればはるかに少なく、残した作品もあまり多くない。長い作品となると『ドリアン・グレイの肖像』を除けば、ほぼ皆無である。文才はあったが、それを活かす気力がなかった。

 ワイルドがその人生において最も危機的状況に陥ったのは、例の同性愛裁判であるが、実はワイルドにはフランスに逃げるという手段が残されていた。しかし、彼はなぜか逃げなかった。そして、裁判が始まり、監獄入りということになるのだが、ワイルドはあえて破滅の道を選んだのではないかと、本書を読んで僕は思った。消極的な自殺だ。出獄後のワイルドはほとんど抜け殻のようになり、貧困のまま世を去るのだが、訴えられた時点で、自分の行く末を悟ってしまったのではないだろうか。ワイルドを殺したのはワイルド自身だ。「あらゆる男は愛する者を殺す」とワイルドは『レディング牢獄のバラッド』で書いたが、これはダグラスとの関係だけでなく、自分自身のことを指しているようにも見える。 宮崎は、ワイルドは監獄に入って初めて「大きな主題」を手に入れたと書いている。

 

小谷野敦久米正雄伝』

 久米正雄というともはや文学史の中の遺物という感じがする。名前だけは知っているが作品についてはまったく知らない。本書を読んで、久米の人生や作品を知ったわけだが、「もったない人だな」と思った。

 久米が忘れられたのは、戦争への協力と通俗小説の濫作にあるのだが、才能がなかったわけではない。一高時代から文才を発揮し、若い頃は、芥川や菊地と切磋琢磨していたのだ。それが徐々に堕落し始め、つまらない小説しか書けなくなっていく。

 本書の後半では、久米がいかに駄目になっていったかということが、綿々と綴られている。ワイルドと同じく、「才能を生かすにも才能が必要」ということを実感させられる。 「つまり、藝術家肌、天才肌、文士気質といったものを悉く欠落させて、ただ文章の才能だけがあると、こういうものが出来上がるという見本のような、自分で言う通り間違って作家になった人だったのである」というのが全てだろう。

久米正雄伝―微苦笑の人

久米正雄伝―微苦笑の人

 

 

ジョン・ネイスン『三島由紀夫 ある評伝』

 三島もまたその才能の使い方において、おかしな方向へ向かった人だ。戯曲や通俗小説で発揮した絢爛さは、純文学の世界では人工的すぎた。また、作家としての度胸にも欠けていたように思われる。三島は装飾を凝らした壺のようなもので、中身は空っぽだった。空っぽだからこそ、見える部分にこだわったのだ。

 三島が自決した時、母倭文重は、「公威がいつもしたかったことをしましたのは、これが初めてなんでございますよ。喜んであげて下さいませな」と弔問客に言ったという。

 また、三島の弟は、三島について「いつも存在しようとしながら存在できなかった」と言ったらしいが、本書を読むと、それらの意味がよくわかる。かなり物悲しい伝記である。 

三島由紀夫―ある評伝

三島由紀夫―ある評伝

 

 

壮絶篇

 

A・E・ホッチナー『パパ・ヘミングウェイ

 ホッチナーは『コスモポリタン』の記者を務めていたことがあり、その縁で、ヘミングェイと親しく付き合うようになった。そんな彼が、ヘミングェイとの出会いから自死、そして、その後に起きたトラブルまでを書いたのが本書である。

 何と言っても凄まじいのは、ヘミングェイの精神病が悪化していく様子だろう。とにかく猜疑心が強くなり、誰も信用しなくなっていく。盗聴や追跡されているという妄想がひどくなり、精神病院に入院し、電気ショックを受けるが、効果はない。最後の方は、自殺未遂のオンパレードで、ショットガンで頭を吹き飛ばそうとしたり、飛行機から飛び降りようとしたり、回っているプロペラに突っ込もうとしたり、と気が滅入ってくる描写が次々と出てくる。ただ、晩年のヘミングェイを知る上では貴重な資料だろう。ヘミングェイの息子が書いた『パパ―父ヘミングウエイの肖像』も必読。 

パパ・ヘミングウェイ〈上〉 (ハヤカワ文庫NF)

パパ・ヘミングウェイ〈上〉 (ハヤカワ文庫NF)

 

 

谷沢永一『回想 開高健

 開高の友人であった著者が、若き日の開高との思い出を綴った一冊。「彼の一生は、脱出をモチーフとする疾走だったと思われる」という文が示すように、後に若者の兄貴分として人気者になった彼の、鬱屈とした裏側を的確に描写している。

 同人誌時代、牧羊子との結婚、寿屋、芥川賞……。華やかに出世していく中でつきまとう暗い影。開高は「忖度してあつかわれることを欲した」人だった。自分からは何も言わず、限界がくるとどこかへ去ってしまう。あの旅行癖は、厭人癖に基づくものだった。谷沢も途中から開高とは疎遠になる。

 開高は1989年に死ぬのだが、その前後のことを描写する谷沢の筆致は異常である。文章が細切れで、必死に絞りだして書いたかのようだ。虚無感と悲哀が一緒くたに表現されている。そして、谷沢は最後にこう書いた。「その、開高健が、逝った。以後の、私は、余生、である」 

回想 開高健

回想 開高健

 

 

吉村昭『私の文学漂流』

 歴史小説家として知られる吉村昭の自伝。吉村は元々純文学志望で、芥川賞に4回もノミネートされたが、結局取ることができず、作品の売り上げも悪く、作家としては完全に伸び悩んでいた。妻の津村節子芥川賞を受賞した時は、ある人から「あなたは事業家の才能があるのだから、お兄さんの会社の重役でいいじゃないの。小説は、奥さんにまかしといてさ」とも言われた。「賞と縁がなかった人が、いつの間にか消えてしまった前例をいくつも知ってい」るだけに、絶望も深い。

 最も残酷だったのが、第46回芥川賞候補になった時で、日本文学振興会の人間から受賞を告げられ会場に向かったら、間違いだったことが判明した時だ。二作受賞で議論が進んでいたのが、最後の最後で宇能鴻一郎一人に決まってしまったのだった。

 執筆活動が停滞した時期もあったが、吉村は書き続け、40手前で、『戦艦大和』と太宰治賞に応募した『星への旅』で再浮上する。吉村は念願かなって、筆一本で食べられるようになった。新宿の鮨屋で吉村が「なんとか作家としてやってゆけるんでしょうかね」と編集者に訊ね、「なんとかなったかもしれないな」と編集者が答えるところで本書は終わっている。 

私の文学漂流 (ちくま文庫)

私の文学漂流 (ちくま文庫)

 

 

西舘好子『修羅の棲む家』

 井上ひさしといえば、日本を代表する劇作家で、知識人としての活動も旺盛に行った人だが、彼が強烈なDV人間だったことはあまり語られない。西舘は井上の最初の妻であり、初期の井上の活動を献身的に支え、マネージャーのような役割を担っていた。

 直木賞を受賞して流行作家になった井上のもとには執筆依頼が殺到した。しかし、井上は自ら「遅筆堂」を名乗るほど書くのが遅く、舞台が公演中止になったこともあった。

 そんな井上には、机に向かうための「儀式」があった。それは妻好子を殴ること。編集者たちはそれを知っていて、好子に向かい「奥さん、申し訳ありません。もうリミットぎりぎり、(原稿を)今夜までにいただかないとアウトなんですよ。お願いですから、二、三発殴られてもらえませんか」と頼むのだった。

 井上は幼いころ孤児院に預けられていたことがあり、そこでつらい思いをしたことが人格の形成に影響を与えたようだが、それにしても井上の根性の曲がり方はひどすぎる、というのが本書を読んだときの感想である。 

修羅の棲む家―作家は直木賞を受賞してからさらに酷く妻を殴りだした

修羅の棲む家―作家は直木賞を受賞してからさらに酷く妻を殴りだした