ネルソン・オルグレンと寺山修司の出会い

 ジル・クレメンツが作家たちを撮ってまとめた、『ライターズ・イメージ』という写真集を見ていたら(ちなみに、クレメンツの夫はカート・ヴォネガットで、この写真集の序文もヴォネガットが書いている)、ネルソン・オルグレンのところで、気になるものがあった。

 

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 後ろの壁に、日本で行われたボクシングの試合のポスターが飾ってあるのだ。俺は直感的に、「寺山修司に案内してもらったのかな」と思った。寺山は日本で最もオルグレンに傾倒していた作家で、最近映画化された『あゝ荒野』は、オルグレンのボクシング小説『朝はもう来ない』に強く影響されているし、多分「荒野」という言葉も、オルグレンの短編集『ネオンの荒野』から取っているのだろう(ただ、ユージン・オニールの戯曲で、ずばり『あゝ荒野』というタイトルのものがあるが)。余談だが、オルグレンの小説『荒野を歩け』は映画化されていて、日本では長く未ソフト化状態だったが、今月、復刻シネマライブラリーからDVDが発売される予定である。

 それで、寺山がオルグレンについて書いたものはないかなと探したら、『寺山修司青春作品集 3 ひとりぼっちのあなたに』の中に、「ネルソン・オルグレン・ノート」というのが収録されていたので読んでみた(この「ノート」の使い方はノーマン・メイラーの真似だろう)。

 オルグレンが来日したのは、1968年の冬。知っている日本人が、文通をしていた寺山だけだったことから、彼を頼ったようだ。二人は、山谷や吉原、新宿の元赤線地帯に行ったり、ニコリノ・ローチェ対藤猛の世界タイトルマッチを観戦したりした。寺山によると、ボクシング観戦後、「ジムを出る時のネルソンは上機嫌で、壁に貼ってあったポスターを二枚も三枚も引きはがしてふところにしまいこんだ」というから、例のポスターはその時のものだろう。

 オルグレンの来日から二年後、今度は寺山がシカゴに住むオルグレンを訪問した。この面会から11年後に、オルグレンは死ぬのだが、当時60歳だったオルグレンは既に「死」に囚われ始めていたようで、寺山に向かって、自分が死ぬ夢をよく見ると語っている。寺山はオルグレンの暮らしぶりについて、「老作家が、朝からマティーニに酔い、家族もなく、たった一人でアパート暮らしているのを見るのは、私にとってはなぜか心の痛む光景である」と告白している。

 アパートの壁には、あのポスターだけでなく、写真や新聞の切り抜き、旅行先での思い出の品などがべたべたと貼られているらしく、中には愛人だったボーボワールと一緒に撮った写真もあった。寺山はそれを見て、こう記している。

 

写真の中の二人は、今の私よりもずっと若く見える。私は、「時」こそ悪であると、思わないわけにはいかない。すべてのロマンスは主人公の死とともに終り、風景だけが取り残されるのである。たぶん、ネルソンともう一度会えるかどうか、私にはわからない。

 

 クレメンツの写真は、寺山が来訪してから一年後に撮られたもののようだが、寺山のエッセイを読んでから見ると、ひどく寂しいものに感じられる。

 

オルグレンと寺山が観戦した試合。二階席にいたので、姿を確認することはできない。

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The Writer's Image: Literary Portraits

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朝はもう来ない

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荒野を歩け [DVD]

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東京電力の社員を名乗る泥棒

 家に泥棒が入った。泥棒を入れたのは家族だった。
 水曜日の午前11時頃、俺が会社に行っている間、家に「東京電力の検査員」を名乗る小太りの中年男がアポなしでやってきたらしい。男は作業着姿で、社員証らしきものを首から下げ、腕に腕章を巻いていた。
 

 家には祖母と母がいて、男の対応には祖母があたった。祖母は数十分前に、男が同じ階の別の部屋を訪れていたのを目撃していた。母は吠える犬(他人を噛む癖がある)を抱いて自分の部屋にいた。男はアンケートみたいなものを持っていて、「事前にこのアンケートを入れてたんですが」と言った。祖母はそれに心当たりがあったような気がしたので、男を家に入れ、言われるがままに家中のコンセントを点検させた。何度か、「ブレーカーの方を見てきてほしい」と頼まれ、男を一人にした。男は話しが上手く、快活に色々調子よく喋って、警戒を解いたらしい。
 

 夜、俺が家に帰ってくると、祖母から「あんたの部屋、ホコリがたまってて危ないらしいよ。ブラシを外した掃除機でコンセントの中のホコリ吸い取れって。火事になるから」とその男からの忠告を俺に伝えた。
「でも、一番危ないのはあたしの部屋なんだって。全然使ってないコンセントが一つあって、そこにすごいホコリたまってたから気をつけろって」と祖母は言った。
 

 次の日、祖母の部屋の机から金が抜き取られていたことが発覚した。男は我が家に来る数日前に、他の部屋に入り、「明日部品を持ってきます」と言い残し退散したが、いくら待っても訪れず、怪しんだ住人が管理人に確認して、男が偽の検査員だということが判明した。その注意書きが、俺の家に泥棒が入った次の日に、一階の掲示板に貼られ、それを見てようやくそいつが泥棒だったことに気が付いたわけだ。
 

 金曜日に警察に来てもらい現場検証をしたが、このタイプの泥棒は関西には多いらしいが、埼玉では始めてだという。部屋から指紋をとったが、泥棒は当然しっかりと黒い手袋を嵌めていたし(「検査するのに危ないからはめてなきゃいけないんですよ」とまで言っていたとか)、マンションの監視カメラの場所もきちんと把握してから来ただろうし、祖母は男の顔をほとんど覚えていなかったから、手がかりはほとんどなく、捕まえるのは難しそうだった。

 

 そもそもアポなしで来た男を何の確認もせず家に入れた時点で、相当な間抜けである。このまま、埼玉で誰も被害に合わなければ、うちは埼玉で一番間抜けな家族となってしまう。なので、誰か被害にあってほしい、というのは冗談だが、こういう泥棒もいるということを書いておく。

 

 

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ジュリアン・テンプル 『ザ・グレイト・ロックンロール・スウィンドル』

 ジョン・ライドンが、アメリカ・ツアー中だったセックス・ピストルズのサンフランシスコ公演で、「騙された気分はどうだい?」と観客に吐き捨て、ツアー日程が残っていたにもかかわらず、そのまま脱退したのは有名な話だ。ピストルズのライブでは、興奮した客とバンドが唾の掛け合いをするという状況が度々あったが、「唾をかけてほしい」というファンが現れた時、ライドンはピストルズの終りを感じ取ったらしい。つまり、ピストルズは、パンク・バンドからカルト宗教になりつつあったわけで、ライドンは教祖の立場になることを拒否したのだった。ライドンのその後の活動を見ても、その姿勢は一貫している。

 ピストルズ解散から2年後に公開された映画『ザ・グレイト・ロックンロール・スウィンドル』は、そんな「唾をかけてほしい」ファンのためにある映画なのかもしれない。タイトルに「スウィンドル」(詐欺)とついている本作は、ピストルズがでっち上げられたバンドであることを、ピストルズのマネージャーであるマルコム・マクラーレン自ら、露悪的に暴露しているのだから(監督・脚本はジュリアン・テンプルだが、制作の中心となっているのはマクラーレンだ)。

 映画の中で、マルコム・マクラーレンは「カオスが金を生む」と嘯き、ピストルズにまつわる全てをコントロールしているかのように振舞う。マクラーレンの主義・主張というのは、「人を怒らせたい」、「騒ぎを起こしたい」ということ以外何もなく、アナーキズムや反王室もその道具でしかなかった。それらをまともに受け止めた人たちが、ピストルズに怒り狂ったわけだが、マクラーレンからしたら、「してやったり」だった。

 しかし、この映画が公開された頃には、最早ピストルズを本気にする人はほとんどいなかっただろう。強盗犯ロナルド・ビッグズを出して、世間を怒らせようとしたみたいだが、茶番の領域を出ておらず、結局は、最後まで残った、「唾をかけてほしい」というファンのための、パンク風アイドル映画となってしまった(90年代サブカル風に言えば、「悪趣味」か)。マクラーレンも、ピストルズの影響力が既に薄れていて、ファンにしかその神通力が通じないとわかっていて、「詐欺」という言葉を先回り的にタイトルに入れたのかもしれない。

 映画の後半では、あのサンフランシスコ公演の映像、「ノー・ファン」を歌い終え、虚ろな目をしたジョン・ライドンが、「騙された気分はどうだい?」と言う場面が出てくるのだけれど、映画を見終わった後は、ライドンと同じ目になるだろう。まあ、「これは詐欺だ」と主張している物をわざわざ見ている時点で、普通は、倒錯的・虚無的な感想しか出てくるはずもなく、また、それを覆すパワーもこの映画にはない。

 そもそも、マクラーレンは、事務能力・継続力に難があるから、きちんとした骨格を持ったものを作れず、はったりに頼る傾向にあるのだが、特に本人が前に出れば出るほど、それは著しくなる。マクラーレンの才能は、ライドンやトレヴァー・ホーンといった人たちと組むことでしか、発揮されないのだ。ジュリアン・テンプルでは、力不足だ。

 ライドンは、この映画に対しかなり怒っていたようだが、それは、ピストルズマクラーレンの力だけで動いていたかのように描かれているからだろう。特に、冒頭の「誰でもセックス・ピストルズになれる」というシーンでは、バンドの演奏に合わせ、素人が交代交代で歌うという演出が施されていて、ライドンの存在を否定したような形になっているのだ。2000年には、マクラーレン史観を否定するためか、同じジュリアン・テンプルによって、『NO FUTURE A SEX PISTOLS FILM』が作られた。

 

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ウンコをもらしかけた

 先週の金曜日、ウンコをもらしかけた。

 家を出る直前、腹に少し違和感があって、「あ、トイレ行っとけばよかったかな」と思ったのだが、まあ大丈夫だろうと家を出、電車に乗った。最寄りが始発駅だから、乗換駅に着くまでいつも寝ているのだが、腹の中で渦潮が巻き起こっているような強烈な感覚に襲われ、3駅ぐらい手前で目が覚めた。この時点ではまだ我慢しようと思えばできるぐらいのレベルだったのだが、乗換駅に到着した頃には、頭の中で警報がガンガン鳴り響いていた。

 数秒単位で、便意が上昇していく。少しでも刺激が加わると大事故に繋がる。まるでニトログリセリンを運搬しているかのようだ。

 7月入社で、水曜から新しい会社に出社していた俺は、この日が三回目の出勤だった。だから、乗換駅の構造にまだ慣れておらず、おまけに脳がウンコのことしか考えられなくなっていたから、間違えて反対の電車に乗ってしまった。すぐに間違えに気付き、次の駅で降りたが、この頃には便意が完全に危険水域に達し、常に全力で肛門の筋肉を締めていないと即決壊するという状況だった。あまりにも内側に向かって力をこめているものだから、肉体が反転しそうだった。

 会社の最寄り駅に到着するまでの10分間、俺は車内で選択を迫られていた。一つは、会社まで我慢して、会社のトイレでウンコをするか、もう一つは、最寄り駅のトイレに行くか、という選択。会社のトイレに行く場合、駅の中を10分近く歩いてほぼ直結しているオフィスビルに入り、さらに自分の部署の入っている30階まで我慢しなければならない(セキュリティ上、自分の会社の入っている階にしか入れないのだ)。もう一つの選択肢である駅のトイレは、朝の通勤時間帯だと、満員長蛇の列という可能性がある。会社のトイレなら待つ必要はないが、そこに行きつくまでに力尽きるかもしれない。会社か駅か、それが問題だ。

 円谷幸吉の遺書が脳内をよぎった頃、電車が最寄り駅に着いた。エスカレーターに乗っている間、「これはもう無理だ」と直感した。これ以上歩いたら、尻から茶色いジェットを噴射するだろう。それで、一か八か、俺は駅のトイレを選択した。そうしたら、奇跡的に個室が空いていたのだ。俺は慎重にズボンを下ろし、着席するまで、肛門を締め続けた。ここでミスったら、最悪である。しかし、無事、便を排出することに成功。漏らさずに済んだのである。

 もし、会社まで我慢していたら、ダムが崩壊していた蓋然性は高い。しかも、漏らした場所が社内だったら、俺は入社一週目で、退職しなければならなかった。この日は、研修だったのだが、ウンコを漏らした際の対処方法も研修で教えてほしいと思った。

 あと、これは特に秘すべきことなのだが、会社で二回目のウンコをしたら、あまりに水っぽすぎて、ケツを上げた瞬間、汚水が床にこぼれた。勿論、ふき取ったが、暫くあのトイレは使わないことにする。

 

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糞尿譚・河童曼陀羅(抄) (講談社文芸文庫)

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遠藤周作 vs 三島由紀夫──サドを巡って──

 縄張り争いというのは、あらゆる生物に共通する、最もポピュラーな戦いの一つだ。また、縄張りは、物理的な物に限らず、例えば同じ分野の研究者同士が途轍もなく仲が悪かったりする。作家にしても、関心領域が近いと、争いに発展しやすい。
 ただし、作家同士の争いというのは、直接的な批判よりも、「俺の方がもっと上手く書ける」というような、同じテーマを扱った作品のぶつかり合いという、やや間接的な形で表面化するケースが多い(三島由紀夫太宰治に酒席で直接文句を言ったという「伝説」的な争いもあるが)。
 例えば、江戸川乱歩は、谷崎を尊敬していたが、「金色の死」と同じモチーフを使った作品『パノラマ島奇談』を書き、谷崎から距離を置かれた(小谷野敦谷崎潤一郎伝』)。また、サント=ブーヴと敵対していたバルザックは、サント=ブーヴの小説『愛欲』を書き直すつもりで、『谷間の百合』を執筆した(アンヌ・ボケル、エティエンヌ・ケルン『罵倒文学史』)。これらはわかりやすいケースだが、発表時期のズレや、黙殺、関係の意外性などから、見過ごされている場合も少なからずある。
 
 俺が驚いたのは、三島由紀夫遠藤周作のライバル関係(遠藤の方が二歳上)。それを指摘したのが、佐伯彰一だ。佐伯は、二人の作風が「ドラマチック」であるという点で似通っていると言い、さらなる共通項として、二人とも「サド侯爵」に興味を持っていたことをあげている(『回想 私の出会った作家たち』)。
 遠藤がサドに触れたのは、フランス留学の頃(五〇年)で、帰国後、サドへの関心を綴った日記を、五三年から『近代文学』に連載している。そして、五十四年には、『現代評論』でサドの伝記を書き始めた。『現代評論』の終刊で伝記の連載は中断したが、芥川賞受賞から四年後の五十九年に、『群像』(九月号~十月号)上で、再び『サド伝』を連載した(山根道公「評論家遠藤周作」)。
 日本におけるサドの権威、澁澤龍彦が初めてサドの翻訳を出したのは、五十五年(短編集『恋の駆引』)で、翌年には、彰考書院から澁澤訳による『マルキ・ド・サド選集』が出版された。この選集の序文を三島由紀夫にもらったことから、二人の交友が始まっていく。五十九年六月には、『悪徳の栄え』の翻訳を出すが、この出版に影響されて、遠藤が再度『サド伝』に着手したのではないかと山根は書いている。遠藤は、自身の『サド伝』に澁澤のサド論「暴力と表現 あるいは自由の塔」を加えた共著の出版を、三島由紀夫経由で持ちかけたようだが、そのサド論を収録した単行本が九月に出る予定だったので、計画は頓挫したようだ。その後、遠藤の『サド伝』は全集に収録されるまで、封印された。ちなみに、遠藤は、「サド裁判」の時に、特別弁護人を務めてもいる。
 三島は四九年に出版した『仮面の告白』の中で、「ド・サァドの作品については未だ知らなかった私」と書いていることから、この時点では名前を知っていたことになる。ただ、サドへの関心を強めたのは、恐らく澁澤龍彦の翻訳が出てからで、澁澤の手による伝記(六四年)をもとにして、その翌年には『サド侯爵夫人』を発表した。
 三島は、遠藤の『サド伝』を間違いなく知っていたが、あえて無視した。推測だが、ライバルとなる作家から影響を受けること(または、受けたと思われること)を忌避したのだろう。ちなみに、遠藤、澁澤、両氏ともジルベール・レリーの研究に多くを寄って伝記を書いている。ただ、澁澤は、「サド夫人の夫に対する献身と共犯とを、少なくともレリーより強調して書いた」と主張しており、三島もそこに反応したのだろうと「『サド侯爵夫人』の思い出」の中で書いている。
 遠藤には澁澤にサドを独占されるという予感があり、それで慌てて共著の出版を持ちかけたのだろう。それが失敗した後、出来に不満だった『サド伝』の資料を集めるべく、妻を連れて再度渡仏。しかし、体調を崩し、帰国直後に結核が再発し、入院することになった。そうやって、『サド伝』の加筆が停滞しているうちに、澁澤の手による伝記が出て、しかも、その翌年には『サド侯爵夫人』の発表。日本におけるサド産業は、完全に澁澤と三島の独占状態となり、遠藤が『サド伝』を書いていたことなど忘れられてしまった(しかし、三島は『奔馬』で澁澤をパロディ化したキャラクターを描いており、澁澤に対し思うところはあったようだ)。佐伯は遠藤と三島の関係について次のように書いている。

 


 今からふり返ってみると、三島による『サド侯爵夫人』のいち早い仕上げ、また上演は、遠藤にとって相当なショック、いわゆるトラウマにも近いものではなかったろうか。その上、サドに関しては、自分こそ明らかに「先駆者」の筈なのに、広い評判をよんだのは、まず澁澤龍彦の翻訳また伝記であり、友人仲間の三島まで、澁澤伝記への依拠を認めながら、遠藤については名前さえあげていなかった。「先駆者」として面白かろう筈はなく、今からふり返ってみれば、当時彼の味わわされた「苦さ」は、相当のものだったに違いないと、改めて気づかされるのだ。(後略)


 その分野において先駆的な役割を果たしたと自任している人間が、後から来た人間にそれを乗っ取られた挙句、先行研究を無視までされたのであれば、かなり腹も立つだろう(しかし、こういうトラブルは結構よくある)。三島に意図的に無視されたと感じた遠藤は、そのことを直接告げたわけではないようだが、鬱屈した感情を持ち続けたようで、同人誌『批評』の仲間が三島追悼のために集まった時、泥酔状態で乱入し、同人仲間に罵言を浴びせまくったなんてこともあったらしい。その日は、遠藤の戯曲『黄金の国』の千秋楽で、批評家、村松剛の解釈によれば、そんな大事な日に「同人仲間が誰一人やって来ないばかりか、三島のためにわざわざ集まりまでやっていた」ことに、「作家としての『やっかみ』、嫉妬心」が爆発したとのことだ。ちなみに、遠藤は、ジャン・ルイ・バロォ劇団によるフランス語版『サド侯爵夫人』を見た際、佐伯に対し、「佐伯くん、三島さんのこの芝居、フランス語の方が、えぇのと違うか」と「軽く言い捨てて、さっと姿を消してしまった」という。ただ、第二回谷崎潤一郎賞では、遠藤の『沈黙』と三島の『サド侯爵夫人』が候補となり、遠藤が受賞している。しかし、三島は谷崎潤一郎賞の選考委員だったため、自ら辞退したので、あまり勝った気分にはならなかったかもしれない。
 遠藤は一般的に、ユーモアな人柄の人物として知られていたが、それは強烈な嫉妬心(有馬稲子を巡り、大江に嫉妬したように)を隠すための仮面だったように思える。五九年に書いた『サド伝』が、七五年に出版された新潮社の『遠藤周作文学全集』に入るまで、単行本未収録だったのは、間違いなく一つの挫折だった。

 

回想(メモワール)―私の出会った作家たち

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堀辰雄覚書 サド伝 (講談社文芸文庫)
 

  

サド侯爵夫人・わが友ヒットラー (新潮文庫)

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サド侯爵の生涯 (中公文庫)

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中上健次と「文壇」

「文壇」というものを体現していたのは中上健次が最後だ、ということはよく言われる。それは、中上が俗に文壇バーと呼ばれる場所で大いに暴れ、そして、その行為自体が一つの「批評」として受け止められていたからだ。角川書店時代に中上と付き合いのあった編集者、見城徹は『編集者という病』の中で次のように記している。 

 

(前略)例えば、「茉莉花」という新宿のクラブでも、中上は度々暴れました。そこは野間宏水上勉から高橋三千綱村上龍まで当時の錚々たる作家や詩人たちと各社の文芸編集者の集う場でもあり、銀座ほど高くはないけれどホステスもいて、彼女たちも文学の話で客をもてなしてくれました。キャンティとは違った角度で、そこもまた特別な理想郷で、認められた者だけが常連になれる雰囲気があったんです。ある日、芥川賞をとったばかりの三田誠広がたまたま居合わせた中上に挨拶に来ると「〝僕って何〟だ? ふざけんじゃねーよ」と怒鳴りながら、ミネラルウォーターの瓶で殴り、その上パンチを繰り出して三田の肋骨にヒビを入れてしまった。その理由が〝三田を文学として認めない。だから殴るんだ〟というメチャクチャなもので……。ただ黙って殴られている三田にも文学を感じましたね。

  

 瀬戸内寂聴も『奇縁まんだら 続』の中で、中上が『文藝』の編集者、寺田博を叩き割ったビール瓶で殴ったエピソードを書いており、酔った中上の暴力というのは日常茶飯だったようだ。

 中上はその作風や言動から「マッチョ」や「ホモソーシャル」とも評されるが、「マッチョ」に関しては前述したエピソードが該当するだろう。「ホモソーシャル」については、金井美恵子の「ある微笑」という、中上が死んだ時に書かれた追悼文に少し描き出されている。

 一九八六年、ある文壇バーの閉店パーティーが行われ、そこに金井は参加していた。中上は遅れてバーに到着すると、ポール・アンドラの家で開かれたパーティーに参加していたのだけれど、さみしくなってここに来たと言う。そして、「どういう加減でそうなったのか、気がついてみると中上健次は、編集者と批評家と若い小説家に、いつの間にか店内にガンガン響いていたモータウンサウンドにあわせて、まるで叱咤するかのように、さあ踊れよ、と声をかけ、さらには強引にシャツを脱がせて上半身を裸にしてしまうものだから、あまりのことに、こういうのって、醜悪じゃないの、と上半身裸の決して美しいとは言えない肉体群をアゴでしゃくって、声をかけると、確かに醜悪だよな、と、脱げ脱げと叱咤し気合をかけるだけで大事そうにカシミアのコートを着たままの当人は周囲を見渡しごく冷静に言い捨て」た。

 その後、二人は金井の家で金井の姉と一緒に飲み直し、中上は泊っていった。次の日、中上は前日の出来事を振り返り、「本当に日本の文壇はホモ集団だから、あんたなんか仲間外れで、まともに批評もされない」と金井に言い、金井が「あんたのことはみんな愛してるんじゃない? あの人たち」と返すと、「みんな一列に並ばせてケツを出させて、順番に掘ってやろうかな」と「嬉しそう」に言ったらしい(実際にその光景を想像したら、「気持ち悪いよなあ」と吹き出して笑ったそうだが)。

 金井は中上のそれらの言動を、「愛に応えずにはいなかった中上健次」と表現し、出来の悪い連中とあえて付き合う彼の行動原理を分析している。また、中上はマッチョで無教養な物言いをすることがあったけれども、他の奴らよりかははるかに知性的であったという風にこの追悼文では書いているのだが、中上にあまり感心したことのない私としては、おぞましさばかりが印象に残った。

 中上健次が「文壇」の中心となれたのは、小説の良し悪しだけではなく、酒場で出来の悪い「男」にも惜しみなく「愛」を振りまいていたからだろう(中上本人は他人事のように「ホモ集団」と言っているが)。そして、中上から愛を振りまかれた人々は、金井が言うように、自分だけが愛されているのだと勘違いした。その「愛」が、普通では考えられないほど過剰なものだったから。

 だが、中上の本質は博愛主義なのだ。それはまるでキリスト教のようだが、寵愛・教えを受けた「男」たちが、教祖について積極的に語り継ぐという構図はかなり似ている。中上の暴力が「批評」として好意的に受け止められたのも、それが「愛」の裏返しであり、文学に真剣なるあまり殴っているのだと、みんな解釈したからだった。金井は追悼文の中で「過剰」という表現を使っていたが、「文壇」の不在について語る人々は、今は過剰な人間がいないのだということを言っているのだろう。

 

編集者という病い (集英社文庫)

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奇縁まんだら 続

奇縁まんだら 続

 

 

 

小林秀雄の暴力性

 昭和の文壇で作家に最も恐れられた批評家といえば、小林秀雄だろう。とは言っても、彼について書かれた様々なエピソードを読む限り、その恐ろしさは、あの論理の飛躍した文体の持つカリスマ性だけでなく、もっと直接的な「暴力」によっても支えられていたのではないかと思える。
 例えば、言葉による「暴力」。石原慎太郎の『わが人生の時の人々』には、文士劇の後の打ち上げで、作家の水上勉が、小林から延々と「しごかれた」というエピソードが書かれている。水上は小林から評価された作家であったのだが、その関係性が、小林の「しごき」を誘発したのだろう。次に引用するのが、その「しごき」の様子である。

 

 いつの文士劇の後だったか、築地の料亭「新喜楽」の大広間で恒例の打ち上げがあり、会も大方終わってみんなが三々五々引き揚げだした頃、私の隣にいた水上勉氏を離れた席から小林さんが呼びつけ、水上さんもすぐに飛んでいった。
 なにしろ小林さんは水上さんのいわば発見者、というか水上文学への御墨付きを与えた人で、水上の作品には「花」があるといった小林さんの一言を他の作家たちは随分うらやんだものだ。
 ところが前に正座してかしこまっている水上さんに小林さんは、まあ楽にしろともいわず、
「お前この頃書いているものは、ありゃなんだい」
 何やら作品の名を挙げて、
「うちの女房もひでえといってたぞ」
 ということで延々こき下ろし。
(略)
 最後はとうとう向こうの六人と私だけになってしまって、文春の社員も気をきかして立ち去り次の間で息を殺して聞き耳をたてている体たらくだ。見れば小林さんを中心にした鎌倉文士の間で一人正座したままの水上さんが、飛んでくる言葉の激しさに、ついに涙を流して何やら詫びている。 (石原慎太郎『わが人生の時の人々』文春文庫)

 
 この後、見かねた石原が二人の間に介入することになるのだが、酒席での小林は度を越して乱暴になるようだ。被害者は他にもいて、小林の従弟にあたる英文学者の西村考次は(小林より五歳年下)、酒で乱れた小林から激しく殴られている。西村の『わが従兄・小林秀雄』によると、小林には酔うと人を殴る癖があって、志賀直哉に師事していた作家・橋本基も殴られたことがあるらしい。林房雄邸でも暴れて、翌日川端康成と一緒に謝りにいったとか。
 西村が殴られたのは、漫画家・清水崑の新居開きの席でのこと。西村が両隣にいた誰かと会話している時、段々と興奮してきたのを、斜め右前にいた小林が聞きとがめ、「やい、なにを生意気な!」と言って、いきなり徳利で彼の唇のあたりをぶん殴ったのだ。西村は、上唇六針、下唇四針を縫う怪我をした。
 とにかく、こんな調子で、小林秀雄には酒乱エピソードが数々ある。しかも、その中には被害者がトラウマになるようなレベルで酷い物も少なくない。小林が文壇で恐れられていたのは、酒席で度々引き起こされた暴力沙汰(罵倒も含む)によるものがかなり影響しているのではないか。 

 

わが人生の時の人々 (文春文庫)

わが人生の時の人々 (文春文庫)

 

  

わが従兄・小林秀雄

わが従兄・小林秀雄