芥川賞をとれなくて発狂した人

 って私のことではないです。私はまだ発狂していません。発狂寸前、入院秒読み、精神崖っぷち、人生9回裏2アウト、といったところです。世界に忘れられたアラサーとして今日も一所懸命に生きております。私は正常です。信じてください!

 しかし、世の中には作家を目指している途中で本当に狂ってしまう人もいるんだよな。

 橋爪健の『文壇残酷物語』は、菊池寛岡本かの子有島武郎といった有名作家の裏側を、本人が直接見知ったことや、本、伝聞などをもとにして、いくぶん小説風に書き上げたもの。大正・昭和初期の作家を扱っているのだが、この辺は様々な人の手によって掘りつくされているので、ある程度文学史に詳しい人には、橋爪の本に新鮮味を感じることはないだろう。

 また、「文壇残酷物語」というタイトルだが、取り扱われている作家が大物かつ作品も評価されている人ばかりで、読んでいて文壇の残酷さを感じるということがさほどなかった。その点、高見順の『昭和文学盛衰史』や、窪田精の『文学運動のなかで』なんかは消えた作家の名前が大量に出てくるので、文壇で長く生き延びることの大変さを感じさせられる。

 が、『文壇残酷物語』で、マジに「残酷や……」と絶句してしまうのが、「芥川賞」の章で紹介されている来井麟児(くるいりんじ)のケースである。

 来井は作家志望の男で、友人がいないため同人誌には参加せず、個人雑誌を作って作品を発表していたが、岩手の家を売る羽目になり、東京に出るも病気となりホームレス生活を始めた。持ち物は風呂敷包みに入った原稿と雑誌だけ。その頃、太宰治が第一回芥川賞に落選し、川端の選評に怒り狂っていたが、来井も太宰同様芥川賞を喉から手が出るほど欲しがっており、真夜中になると「芥川賞! 畜生、芥川賞!」と大声で寝言を言い、周りに迷惑がられていたという(ちなみに、芥川賞は第三回までは、一般からの原稿募集もしていた)。そのため彼は「芥川賞亡者」と呼ばれていた。橋爪は、雑誌の依頼で「ノアの方舟」という救世軍によって運営されていた浮浪者収容施設(文字通り船の中で寝泊まりする)を訪れた際、たまたま来井と知り合ったのだ。ちなみに、ペンネームの「麟児」は、二十七歳で狂死した作家、富ノ沢麟太郎にあやかったという。

 橋爪が、「君も芥川賞をねらって……?」と質問すると、

まあ、わっしが、世に出られる道は、それしかないんです。しかし、わっしみたいな友人も何もない孤独な人間は、同人雑誌にも入っていないし、発表機関も、ないからね。苦労して個人雑誌を出したのも、そのためさ。まあ、今に見ていて下さい。体さえ、よくなったら……

 泣けるなあ。自分も文学をやっている友人が一人もいないし、誘われたこともないので、同人活動というのを一度もしたことがない。文フリに客として行ったこともない。今はネットがあるから来井みたいに「発表機関がない」ということはないと思う人もいるかもしれないが、結局読まれない限り存在していないのと同じである。なので、自分もわざわざブログに書いたことを数万かけて何十冊か製本し、「どうですか!」と方々にアプローチをかけているのだが、結果については聞かないでください。

 余談だが、芥川賞には、石原慎太郎以前まったく注目されていなかったというような逆神話があり、それは石原より前に受賞した作家たちどころか創設者である菊池寛本人も「新聞がとりあげてくれない」と書いたぐらいなのだけれど、実際は賞の制定を発表した時から大新聞が取り上げ、来井のような文学志望者たちの目標となるぐらいには権威・知名度があった。

 戦後、来井は「精神分裂病」の疑いで松沢病院に入院し、他の患者と殴り合いの喧嘩をしている最中心臓マヒで死んだ。元々、そういう気があったようで、以前橋爪に見せた小説も、「全体として支離メツレツで、まるで狂人のうわ言みたいな作だった」らしく、また、戦時中は親戚の手で監禁されていたようだ。

 だが、その狂気の最終的な引き金となったのが、安部公房芥川賞受賞作『壁』である。敗戦後、靴磨きをしながら生計を立てていた来井は、同じ職業の文学好きと結婚し、子供まで作った。芥川賞に対しては軽蔑的なスタンスをとり、注目こそしていたが、かつてのような「芥川賞亡者」ではなくなっていた。そこに現れたのが『壁』である。橋爪は来井の妻から次のような手紙を受け取った。

──主人は安部さんの『壁』を読んでから、急に様子がおかしくなり、また芥川賞のことばかりいうようになりました。主人はあの作品がとても好きになって、ああいう作品が芥川賞に通るなら、おれも一つやってやるぞと、毎晩徹夜で原稿をかきだしたのです。それが少しもモノにならず、ときどき変なことを口走ったり、とつぜん狂暴になったりして様子がへんなので、医師に診察してもらいましたら、精神分裂病が相当すすんでいるというので、数日前、松沢病院に入院させてもらいました。(後略)

  安部はこのエピソードを知っていたのだろうか。『文壇残酷物語』は講談社から出ているぐらいなので、知っていてもおかしくない。もし知っていたのなら、かなり喜んだんじゃないか。それだけ自分の小説が他人の精神に影響を及ぼしたわけで、ある意味一番の愛読者だ。

  いまではすっかりセブンイレブンのテーマソングとなってしまったタイマーズの「デイ・ドリーム・ビリーバー」だが、あれの「ずっと夢を見て安心してた」という個所を聴くと、その通りだなあと強く頷いてしまう。「夢」を見ている時が一番可能性に溢れている。だから、気持ちが良い。しかし、それを実行に移そうとするとたちまちのうちに、実力、運、コネ、その他もろもろの現実にぶつかり、来井みたいに発狂したりする。けれども、動きさなければ何も起こらないわけで、いつまでも安心してるわけにはいかないのだけれど、物事はそう簡単にいきませんわな(by 現在進行形で拒絶されている男)。

 

文壇残酷物語 (1964年)

文壇残酷物語 (1964年)

 

  

あめんちあ

あめんちあ

 

  

壁 (新潮文庫)

壁 (新潮文庫)

 

  

ザ・タイマーズ

ザ・タイマーズ

 

 

第二芸術としてのアフォリズム

 俺は文芸の様式の中でも、アフォリズムや逆説といったものが嫌いだ。具体例を挙げると、アンブローズ・ビアス悪魔の辞典』、芥川龍之介侏儒の言葉』、三島由紀夫『不道徳教育講座』、シオランなど。昔、桑原武夫が俳句について「小説や近代劇と同じやうにこれにも『藝術』といふ言葉を用ひるのは言葉の亂用ではなからうか」と書き、「しいて藝術の名を要求するならば、私は俳句を『第二藝術』と呼んで、他と區別するがよいと思ふ」として、大きな議論を巻き起こしたが、俺の上記の作品に対する感想もそれと同じである。だから、筒井康隆が70近くにもなって『筒井版 悪魔の辞典』を出した時は、「あなたそういうレベルの作家じゃないでしょ」と逆に文句を言いたくなった。高校の時『悪魔の辞典』を面白がっている同級生がいたが、結局のところその程度のものでしかないというか、大人が真面目に読むものではないと思う。

 三島由紀夫はラディゲやオスカー・ワイルドの影響から、文章にアフォリズムや逆説を意識的に組み込んだ作家だ。三島の本を何冊か読んでその仕組みに気づくと、「常識をさかさまにしてるだけじゃないか」と苛立つことも多い。それが一番上手くいったのが『近代能楽集』で、ある意味「上手すぎる」と感じるほど。逆に、一番露骨でくだらないと思われるのが『不道徳教育講座』。あえてショックを与えようとする見出しからして、昨今ネット上で跋扈するバズ狙いの挑発的記事に似て、不快ですらある。

悪魔の辞典』や『不道徳教育講座』などは、冗談の一種として受け止められるような作りではあるが、問題はシオランである。シオランに関しては本気で評価する人間が少なくない。そういう人たちはシオランの本を読んで「元気が出る」という。島田雅彦浅田彰ニーチェについて対談した時、その冒頭で「いわゆる肉体の疲れとしての疲労ではなく、精神的疲労というか、自分の思考が余りうまく回転しなくて何となく疲れているような状態の時があり、その時にニーチェがスーッと入ってくるんです。一種励まされるという感じがあるんですよ」と語っていたが、それと同じようなことだろう。つまり、シオランニーチェというのは、やや知的でネガティブな人間のための自己啓発らしいのだ。

 俺はシオランに対する嫌悪をもう少し掘り下げるべく、パトリス・ボロンの『異端者シオラン』という本を読んでみた。ボロンはジャーナリストで、晩年のシオランと知り合いでもあった。

『異端者シオラン』の序論では、世間では人間嫌いと思われているシオランが、実はそれなりの社交性を有していたと好意的に語られていて(そういうところは、わが国の中島義道を思い出したりもした*1)、また、無礼な真似をされても怒ったりしなかったらしい。シオランの人生全体を見渡しても、22歳にして処女作を出版し文壇から認められ、31歳の時には生涯の伴侶を見つけ、フランス語で書いた著作はプルーストの原稿を蹴り飛ばしたガリマール書店から出て、定職に就いたのは1年だけなのになぜか生活には困った様子はなく(若い頃は奨学金を貰っていたが、その後はベストセラーを出したわけでもないのにどうしていたのだろうか)、84歳まで生き抜くといった感じで、結構恵まれた生活を送ったように思えるのだが、著作からそういう雰囲気を感じとることはできない。シオランのペシミズムとは、生活からではなく、机の上から生み出されたものなのだろうか。

『異端者シオラン』を読み進めていく中で、シオランひいてはアフォリズムそのものに対する違和感を最も分かりやすくしてくれたのが、次のような文章だった。

 

彼は賛否を同時に提示し、自分の内奥の選択を、そしてそれ以上に、読者がこの文章から導きだすかも知れぬ解釈を未決定のままにしておく。(略)なるほどシオランは真理を提示する。だが、真理に含みをもたせ、曇らせ、個人的な、相対的な真理として提示するのである。

 この態度を過不足なく表現するのがアフォリズムである。けだし、アフォリズム以外のどんな形式によって、あの矛盾した運動を──真理を立証しながらも、その真理をつねに破壊し抹殺し、にもかかわらずそれを消しさらず、その存在と効力とを保ちつづける運動を説明することができようか。断定的であると同時に不確かで、普遍的であると同時に主観的なものとして、こうしてアフォリズムは、絶えずみずからの限界を探求し、思考の行為と区別がつかず、その過程と等しく、その固有の運動の報告にほかならない思想、シオランのそれのような思想にとっては、理想の表現形式、唯一可能な表現形式であるように思われる。(太字は原文ママ) 

 

 なるほど、俺がアフォリズム嫌いなのは、そこに無責任さを感じるからだ(実際、ボロンはアフォリズムについて「断定しながら、その断定への責任を負おうとはしない思考」と書いている)。ボロンはシオランの著作には矛盾が多いことを指摘していて、人間だから一つや二つ矛盾はあるかもしれないが、シオランの場合、自身の矛盾に対し開き直っているようで、不誠実だと思う。しかも、思考の過程や根拠を示さないのだから、ほとんど何も言っていないのと変わりがない。最初から自分の発言に責任をとるつもりがないから、そういうことができるのだろう。もし、世の中がシオランのような人間ばかりだったら、物事は何も決まらないはずだ。逆に言えば、そういう態度で生きてこれたシオランというのは、非常に特権的な立場にあったわけで、日々何かしらの決定を迫られる会社員としては羨ましい限りである。

 アフォリズムを得意とした作家の顔ぶれを見ると、三島にしても芥川にしてもオスカー・ワイルドにしても、社交的な人間が多い。芥川は死後、「芥川君にはズバズバ物を云う勇気がなかったと思う」と評されたぐらいだが(小島政二郎芥川龍之介』)、そういう人間でも躊躇なく発表できるのがアフォリズムということで、つまり真剣勝負には決してならないという確信が書く側にも読む側にもあって、だからこそ一見きついことを言っていても社交が成り立つのである。

 シオランの公開されている写真は気難しい顔をしたものが多く、ボランはそれについて狙ってやったものではないと強調しているが、社会的に有名になる作家というのは芸能人に似て、自分がどう見られているかということについても敏感だから、シオランのしかめ面もポーズだと考えている。ボランが言うように社交的な人間だったのなら、なおさらそういうことができるだろう。シオランについて知れば知るほど「無害な獣」といった印象を持つ。

 ある種の読者がシオランを読んで励まされることに関して特に言うことはないが、シオラン的なものを他の芸術と同格にすることはできない、ということは主張したい。

 

 

戦後文学論争〈上巻〉 (1972年)

戦後文学論争〈上巻〉 (1972年)

 

 

新編 悪魔の辞典 (岩波文庫)

新編 悪魔の辞典 (岩波文庫)

 

  

筒井版  悪魔の辞典

筒井版 悪魔の辞典

 

  

侏儒の言葉 (文春文庫)

侏儒の言葉 (文春文庫)

 

  

不道徳教育講座 (角川文庫)

不道徳教育講座 (角川文庫)

 

  

告白と呪詛

告白と呪詛

 

  

天使が通る (新潮文庫)

天使が通る (新潮文庫)

 

 

異端者シオラン (叢書・ウニベルシタス)

異端者シオラン (叢書・ウニベルシタス)

 

  

長篇小説 芥川龍之介 (講談社文芸文庫)

長篇小説 芥川龍之介 (講談社文芸文庫)

 

 

*1:「その後、私は大手出版社の文学賞の授賞式に行き(文藝春秋ではない)、そこで初めて中島に会ったのだが、印象はまるで違っていた。孤独で偏屈で、騒音に対して「うるさい! やめろ!」と叫んで突進していく、生き方下手の人、どころか、瀟洒な白色系の背広にきっちり身をかため、髪も髯も適度に整えられて隙がなく、いかにもパーティー向けのかすかな微笑を湛えていて、これがあの「変人」の中島義道か! と思ったほどである」小谷野敦『「昔はワルだった」と自慢するバカ』

自分に価値がないということ

 ハイサイまいど!

 半年ぶりぐらいにペアーズを再開した。真面目にプロフィールを書いたところでほぼ誰ともマッチングしないのだから、いっそのこと自分の地を出して、自虐にまみれた文章を紹介文として投稿してみた。前にペアーズで会った女から、「変なユーモアのセンスしてるよね」と苦笑されたことがあるので、あらかじめ「俺はこういう人間だ」と開き直ってみたのだ。その方が、駄目でもすっきりする。

 以前は、同時並行になることを恐れて、一人ずつにいいね!を送り、明らかに脈なしとわかるまで待ったりしたのだが、時間の無駄だと思って、3、4人ぐらいまとめていいね!した。それだけ送ったとしても、誰からもいいね!が返って来ない蓋然性の方が高かった。実際、全員から無視された。

 その時点で自分が本当に良いと思っていた女は払底し、言い方は悪いが、第二、第三の候補に移った。『マッチングアプリの時代の愛』にも書いたけど、俺はある時点から大学生にいいね!を送らないようにしていたのだが、ある程度コアな文学好きの同世代には全員いいね!を送ってしまい、選べる範囲が大分狭くなっていたため、大学生も解禁した。

 そうしたら、奇跡的に一人の女子大生とマッチングした。外山恒一都知事になったようなもんだ。俺は浮かれた。口語短歌好きとプロフィールに書いてあったので、彼女の好みにあいそうな歌人を探してみたりした。

 日曜の夜中の10時ぐらいから、挨拶程度のメッセージのやり取りをしていたのだが、「学部はどこなの?」と俺が訊くと、「プロフィールにあります」と返されて、慌てて確認しにいったのだがどこにも書いてなくて、彼女が80程度入っているコミュニティの中の一つに「経済学部」とあった。マッチングする前にも、彼女の入っているコミュニティはざっと見ていたのだが、まだ挨拶の段階だったし、共通点ぐらいにしか注目していなかった。

 それで、「見落としてました」とメッセージを送ったら、数分後にはもうブロックされていた。あまりの見切りの速さに俺は愕然とした。そして、また振り出しに戻ったことに対し、惨めさが募った。

 そうやって簡単に関係を切れるのは、男のストックがいっぱいあるからなんだろうな、といいね!5未満の俺としては思うわけだ。女子大生なら100近くはいいね!を貰えるから。俺みたいなモテない男からすると、マッチングしてくれただけでも「ありがとうございます!」と手を擦り合わせながら喜び、会えるとなったら赤飯まで炊いてしまうが、向こうはそんなの珍しいことでもなんでもないから、すぐに俺のことなど忘れてしまうだろう。俺は名乗ったけど、向こうは絶対に名乗らなかったし。

 女についている膨大な数のいいね!を見たり、自分の送ったいいね!がスルーされたりするたびに、「俺って本当に価値のない人間だな」と思わずにはいられない。そして、「求められるって羨ましいね」と呟く。ペアーズをやっているとそういう僻み根性ばかりが発達していやだな。

マッチングアプリの時代の愛』を書いたのは、世の中にあるマッチングアプリ体験記の大半が、「こんな人に会いました、あんな人に会いました」というようなカタログ的なもので、出会った人数の多さを売りにしているように感じられたから、それに対する反発という意味合いもあった。なにせ俺のマッチングアプリ私小説は、たった一人の女と半年間にわたり会い続け、しかもセックスには至らないというものだから(今回みたいに速攻で切られてたならもちろん小説にはならない)。つまり、そういう「常識」とは真逆のこともある、ということを描いてみたのだが、世の中そんな地味なものを欲してはいないのか、全然バズらなかった(TwitterでRTやいいね、紹介してくれた人には感謝してます)。

 自分としては渾身の出来だったので、どうにかして目立たせようとTwitterのアイコンを自分の女装写真にまでして、道化をやっているわけだが、根本的にやり方を間違っているのか、フォロワーはまったく増えていない。あそこまで色々猛烈に晒しておいて、ことごとくスルーされるというのも、逆に何かの才能か。

 もっと協調性を持って、ネット上の知り合いをたくさん作り、文フリなんかに出店したりするのが今どきのやり方なのかもしれないが、「仕事のできない高倉健」を自称する自分としては、どうしても器用な真似や立ち回りができない。

 本一冊分の原稿は揃ったから製本して、「見知らぬ方の善意にすがって」(『欲望という名の電車』)、ひっそりと売り込んだりもしてるのだが、まあ、なしのつぶてである。向こうとしては、「また作家志望のキ●ガイか」(あながち間違いではないが)としか思っていないだろうなあ。やっかいなトラブルに発展しかねないから、落手即廃棄ということはしないだろうが、誰も手をつけないそれ専用の段ボール箱に詰め込んで、一年ぐらいしてほとぼりが冷めたら、一行も読まないまま焼却処分という流れ。

 なので、今の自分は、異性と出版という、最も憧れ続けているものから、完璧なシカトをくらっていて、大変悲しいのではありますが、かといって諦めきることもできず、生きることそれ自体が自傷行為という毎日を送っています。

 

 

ベッドサイド (新潮文庫)

ベッドサイド (新潮文庫)

 

 

マッチングアプリの時代の愛 参考文献

文献   

浅草フランス座の時間

浅草フランス座の時間

 

 

大江健三郎 作家自身を語る (新潮文庫)

大江健三郎 作家自身を語る (新潮文庫)

 

 

『裏昭和史探検』風俗、未確認生物、UFO・・・

『裏昭和史探検』風俗、未確認生物、UFO・・・

 

  

対訳 コウルリッジ詩集―イギリス詩人選〈7〉 (岩波文庫)

対訳 コウルリッジ詩集―イギリス詩人選〈7〉 (岩波文庫)

 

 

もてない男―恋愛論を超えて (ちくま新書)

もてない男―恋愛論を超えて (ちくま新書)

 

  

帰ってきたもてない男 女性嫌悪を超えて (ちくま新書 (546))

帰ってきたもてない男 女性嫌悪を超えて (ちくま新書 (546))

 

 

聖母のいない国―The North American Novel (河出文庫)

聖母のいない国―The North American Novel (河出文庫)

 

   

 

お嬢様放浪記 小谷野敦作品集

お嬢様放浪記 小谷野敦作品集

 

     

ルサンティマン―愛憎の現象学と文化病理学 (1972年)

ルサンティマン―愛憎の現象学と文化病理学 (1972年)

 

 

田中小実昌『あぁ人生ストリップ』サンケイ新聞社出版局 1970年

 

踊り子風流話 (1958年)

踊り子風流話 (1958年)

 

    

ステージ・ショウの時代 (近代日本演劇の記憶と文化)

ステージ・ショウの時代 (近代日本演劇の記憶と文化)

 

 

色好みの構造――王朝文化の深層 (岩波新書)

色好みの構造――王朝文化の深層 (岩波新書)

 

 

ヌードさん―ストリップ黄金時代

ヌードさん―ストリップ黄金時代

 

   

芸人 (1953年)

芸人 (1953年)

 

 

劇場二十年 (1955年)

劇場二十年 (1955年)

 

 

エロティシズム (ちくま学芸文庫)

エロティシズム (ちくま学芸文庫)

 

  

日光鱒釣紳士物語

日光鱒釣紳士物語

 

  

日光避暑地物話

日光避暑地物話

 

    

フローベール全集 8 書簡 1

フローベール全集 8 書簡 1

 

 

サミュエル・ベケット―ある伝記

サミュエル・ベケット―ある伝記

 

 

フライパンの歌 (1966年) (角川文庫)
 

 

性の政治学

性の政治学

 

   

行動する異端―秦豊吉と丸木砂土

行動する異端―秦豊吉と丸木砂土

 

 

私の東京物語 (文春文庫)
 

  

対談浮世草子 (1980年) (集英社文庫)

対談浮世草子 (1980年) (集英社文庫)

 

 

新聞・雑誌

「ワク生活のサンプル」『サン写真新聞』1947年2月19日

「芸能史を歩く」『朝日新聞』1986年2月8日夕刊

井上琢智「大阪鉄工所とハンター家」『大阪春秋』1988年53号

 

ウェブ

モグラ通信

夢の残り香~日劇ミュージックホールの文学誌

 

マッチングアプリの時代の愛⑥

 抑圧が炸裂したのは、四月の最終日だった。
 四月の始めに一度桜を観に行ったのだが、そこでも進展はなかった。また、会話の端々で彼女がうわの空になっているのが気になった。これは今に始まったことではないが、喋っていると彼女がまったくの無反応になることがある。ひどいときはうつらうつらとしている。そういう状態になると、等身大の人形と対峙しているような気分になり、虚空に向かって言葉を発しているような感覚に陥る。「この人は俺といて楽しいのだろうか?」という不安。
 告白してから四ヶ月近く経っても、曖昧な関係を続けている俺を見て母親が、
「あんたも、別の子探したら」

 と提案してきた。
 同時並行が珍しくないマッチングアプリでは、アリサみたいに時間をかけて相手を見極めようとする人ほど、取り残されることになるだろう。並行していたら、基本、先に受け入れてくれた方と付き合うだろうし、そもそもお互いに恋人を探してアプリをしているのだから、「とりあえず付き合ってみるか」と軽く考える男女の方が多いはずで、出会ってから交際に至るまで、だいたい二、三ヶ月で決着していると思われる。彼女と最初に会ったのが十一月だから(マッチングした日まで遡ると九月になる)、かれこれ五ヶ月にわたりデートを繰り返していることになるが、マッチングアプリでここまで長期戦を行っているペアは少ないのではないか。石橋を叩いて渡る女ともてない男が組み合わさったことで、こんな状況になってしまったわけだ。
 そして、持久戦になればなるほど、「ここまで時間をかける価値が果たしてあるのだろうか?」と思うことも増えてきた。ここまで関係を継続してきて、「やっぱりダメでした」となったら、悲劇だ。「それなら最初から別の人にグッドを送るべきだった」と大きく後悔することだろう。プライドを護るために、「実は最初からそんなに好きじゃなかった」と思い込もうとしたこともあった。
 問題はいつ彼女からの答えをもらえるかで、答えが出ない限り、俺の倫理的に動くことができない。動くことのできないじれったさから、心理的な抑圧が生まれ、怒りが少しずつ堆積し始める。むしろ、並行していた方が、相手への期待が分散し、こんな無益な怒りも生まれなかったかもしれない。中村真一郎の『色好みの構造』には、平安朝の貴族が、複数の相手と関係を結ぶ「色好み」という性的慣習によって、「情念の激発による人間の破滅からの回避」をしていたという仮説が、文学作品などを典拠にして説明されている。しかし、性的関係はともかくとして、同時に様々な女とやり取りするバイタリティーが俺にあるとは思えなかった。
 ゴールデンウィーク間近になって、どこか遊びに行こうという話になった。どういう風の吹き回しなのか、彼女の方から「ウチくる?」とラインしてきたので、気色の悪い笑みを浮かべながら「行きたい!」と全力で返事したのだがそれはいつしかうやむやになって、四月三十日の朝に「今日、新宿に買い物に行くから一緒に来ないか」という誘いのラインが来た。またいつものように買い物して食事してじゃあサヨウナラというパターンか、とは思ったものの断る理由もないのでOKし、家族には「今日、アリサちゃんと会ってくるから夕飯いらない」と言うと、「今日、餃子だったんだけどね」と告げられ、かなり心が揺らいだが、断腸の思いで出かける準備を進めていると、
「ごめん、なんかお昼食べたら気持ち悪くなってきた。行けると思ったけど、やっぱ体力的に厳しそうだから行くの明日にする。振り回すの申し訳ないから、買い物は一人で行ってきます」

 というラインが来た。
「お前これで(ドタキャン)三度目やぞ!」と巨人の清原が阪神の藪から三度目の死球を食らった時のように、怒り狂った。あまりの急転直下に、強いめまいがした。しかも、二日前、彼女がダブルスのプロフィールを大幅に更新していたのを知っていたから、さらに怒りが爆発した。そこには、「車を持っている人が好ましい」とか「頼れる人が良い」とかそういった文言が新たに追加され、コミュニティも「地元好き」というものに新しく加入していた。「絶対他の男を狙っているだろ!」と厳しく問い詰めたかったが、そこまでの勇気は持てず、堪え難きを堪え忍び難きを忍ぶ道を選んだ。
 とにかく、この突如白紙と化した予定をどうするか。家族に「中止になった」と言えば、アリサを非難する言葉が猛連射されるのは目に見えていて、それはそれで不快だし、彼女に振り回されている自分を見せたくもなかったので、とりあえず何も告げずに出かけることにした。しかし、用事もないのに行く先などあるはずがない。パソコンの前で腕を組み、じっとしていると、心臓がざわつき始め、殺意が湧きそうになった。これを上手く鎮めるにはどうすればよいのかと、瞑想しながら熟慮した時に、「そうだ 風俗、行こう」と天啓の如くひらめいた。実は以前から気になっていた風俗が新宿にあって、それは男が風俗嬢にメイクをしてもらい女装プレイができる、というものだった(女装プレイ専門ではなく、メインはM性感)。前に、AVを観る時は女優側に感情移入していると書いたが、「女」になって女とセックスしたいという願望を俺は持っていた。なぜなら、男が喘いだりするのは見た目的に気持ち悪いと常々思っていたからで、それは自分自身にも適用されていた。だから、「女」になれば、もっと性の世界に没入できるのでは、という期待を抱いていた。
 俺は風俗貯金というのをしていて、それが二万円ほどたまっていた。料金を調べると、ちょうど一時間分のお金だ。なので、急な思いつきにも関わらず金の心配をすることはなかった。
 十八時から一時間のプレイに入る予定を立て、ちょうどよい頃合いを見て家を出ようとしたところ、急にお腹の調子が悪くなり、慌ててトイレに戻ると、腸が空洞になるほどの軟便が出た。これだけ出ればもう大丈夫だろうと思い、安心して家を出、最寄り駅の近くまで着くと、スマートフォンで、例の風俗に電話した。
「お電話ありがとうございます。オーランドーです」

 女の声だった。安心した。こちらとしては、風俗店に勤める男に対し、ヤクザとか半グレ的なものを想像しているので、女が電話に出るとリラックスできる。
「あ、すいません、十八時から女装プレイで一時間入りたいんですが」
「ご予約ありがとうございます。当店のホームページはご覧になりましたか」
「拝見しました」
「では、衣装がいくつかあったと思うのですが、ご希望ございますか?」
 ホームページには白のワンピースや、女子高の制服、ゴスロリ、OLとか、そういうものが載っていたのだがどれもピンとこなかったので、
「特に希望はないです。適当に持ってきてください」
「わかりました。ちなみにサイズはMで大丈夫ですか?」
「いや、Lの方がいいかもしれません」
「わかりました。ご希望の女の子はいらっしゃいますか?」
「女装プレイが上手い人がいれば……」
「当店に勤める女の子はみなプロですので大丈夫です」
「じゃあ、空いている人で」
「了解いたしました。ちなみに、ホテルは決まっていますか?」
「いや、あまり新宿のホテルを知らなくて」
「では、うちでおすすめしているところがあるので、新宿に到着したら一度お電話もらえますか?」
「わかりました」
「それでは、失礼します」
 実は、一つだけ懸念材料があった。それは前日オナニーしてしまっていたこと。通常風俗に行く際は、一週間前に予約を入れ、当日のためにしっかり溜め込んでおくのだが、今回は発作的な行動だったので、同じ投手を二回投げさせるような形となった。オナニーでも二日連続というのはほとんどない。風俗だけでなくアリサと会う前も万が一を考えて数日前からオナ禁することはよくあったのだが、段々その期待も薄れ、どうせ今回も無理だろうと自暴自棄になり、不覚にも二十九日にオナニーを実行してしまったがために、こんなことになったのだが、それならもう一日我慢すればよかったと今更ながら後悔した。ちなみに、クリスマスの時に買ったあのコンドームは、集英社の世界文学全集の後ろに隠したまま、一度も使わず今日に至っている。
 電車に乗っている間、特に気持ちが盛り上がることもなく、坦々と時間だけが過ぎていった。途中、彼女から、「いたたたた」というふざけたラインが来たが、無視した。職場が新宿にあるからほとんど無意識のうちに乗り換えも済ませ、気付くと新宿三丁目に着いていた。すると、再び腹痛が怒涛の如く押し寄せてきて、幸い予定時刻まではまだ余裕があったから、ホテルに向かう前にトイレを借りようと、脂汗を垂らしながら伊勢丹にがに股で突入した。伊勢丹の男子トイレは個室が一つしかなかったが、運が良いことにちょうど空いていて、「神は我を見捨てなかった」と呟きながら、大量の軟便を心置きなく大放出。心なしか、身体が軽くなった。それでも一応、「さすがにもう出ないよな」と腸には確認をとり、「大丈夫です」という言質を得た。
 ただ、困ったことに、拭いても拭いても糞がとれず、二度目の軟便ということもあって、だいぶ肛門が擦れてしまい、退店する時もがに股という仕儀にあいなった。
 ようやく新宿三丁目から歌舞伎町に向かって北進する。そして、新宿区役所の前で一度店に電話し、通話しながら指示されたホテルに向かった。それは歌舞伎町の有名なホテル街の一角にあり、中でも値段が安いということ。電話を切り、ホテルに入り、タッチパネルで部屋を選択すると、フロントに呼ばれ鍵を受け取った。そして、部屋の中へ入り、中を一通り確認したところで、三度オーランドーへ電話をかけ、女の子が派遣されるのを待った。

***

 ソファーに座りながら、画面が脂まみれのスマートフォンツイッターを見ていると、ベッド脇に置いてある色の禿げた電話がけたたましく鳴った。
「女の方がみえているのですが、お通ししてよろしいでしょうか」
「どうぞ」
 フロントからだった。スマホをテーブルに置き、幽霊でも探しているかのように玄関の扉を凝視した。ノックの音が聞こえ、ドアを開けると、長髪をセンターで分けた、冷たい目つきの細身の女が立っていた。グレーの薄手のニットに、白のミニスカートとレギンスを履いている。身長は百六十五ぐらいか。細い眉毛と薄い唇、ブルーのアイシャドーが、高圧的な感じを醸し出している。見た目は悪くない。流行りの言葉を使えば、クールビューティー。というか、普段なら怖くてあまり話しかけられないタイプの女だ。ダブルスでもそういう感じの人は会った時に委縮してしまいそうなので、グッドを見送るようにしていた。
「こんばんは」
「あ、こんばんは」
 彼女はずいずいと部屋の奥へと入っていき、ソファーの前のガラステーブルにディオールのバッグを置き、テーブルの上に足を組んで腰かけた。俺は急いで彼女の対面のソファーに座った。その刹那、勃起した。前日にオナニーしていても意外に性欲が残っていて、自分でもびっくりした。また、先ほどまでの重い憂鬱も、女を目の前にするとだいぶ晴れていった。
「……です」
「どうも、範多です」
 彼女の名前が聞き取れず、焦った。
「プレイを始める前に、少しだけアンケートいいですか? 事前にどういうプレイにするのかだけ、簡単に」
「はい」
「今日は女装でいいの?」
「大丈夫です」
「女装は初めて?」
「初めてです」
「あ、そう。かわいくしてあげるね」
「はい」
「アナルはどう? 初めて?」
「アナルですか。初めてです」
 初めてではなかったが、咄嗟にそう答えていた。しかし、肛門の状態が不安だった。
「じゃあ、チャレンジしてみる?」
「ちょっとだけ」
「OK。じゃあ、準備してるから、お風呂入ってきてもらえる?」
「わかりました。あの、すいません、もう一度名前教えてもらってもいいですか?」
 彼女はコンドームなどを入れたメッシュのビニールポーチの横についているアーチ状の布を指さして、
「エリね」
 彼女が指さした場所には、細マジックで「Eri」と書かれていた。
 風呂へ。とりあえず肛門だけはいつもより念入りに洗い、プレイの時に糞が発見されないよう気をつけた。
 風呂を出ると、彼女は俺が着る洋服をベッドの上に並べているところだった。
「こういうの持ってきたんだけど、どう?」
 ベッドの上には、ピンクのアンゴラっぽいセーターと灰色が基調となったタータン・チェックのスカートが置かれていて、他にピンク色のブラジャーと下着、黒と金髪二種類のウィッグが用意してあった。
「かわいいですね」
「でしょ? じゃあ、着替えよっか。その後でお化粧ね」
「はい」
「あ、そういえば、なんて呼ばれたい? 女の子になるんだから名前も変えないと」
「じゃあ、アリサでお願いします」
 ほとんど躊躇なくそう答えていた。
「アリサちゃんね。OK。でも、まだアリサ『くん』だけどね」
 俺はバスタオルを捨て、ベッドの上にそっと腰かけ、パンティーに手をかけた。「こぼれるだろ、これは……」と思いながら、パンティーを履くと、案の定勃起したペニスが横からはみ出た。背徳感より羞恥心の方がここでは勝った。
「ブラジャーつけてあげるね」
 エリは俺の後ろに回り、ブラジャーをつけてくれた。不思議な装着感だ。空白を覆っているような気がする。あまりこの姿を鏡では見たくない。俺はさっさとスカートとセーターを身に着けた。
「ウィッグは、黒髪と金髪、どっちにする?」
「黒髪で」
 エリは洋ナシを包む時に使うようなネットを取り出すと、それを俺の頭に被せ、髪をまとめ、それから、黒髪のウィッグを被せた。長髪のウィッグなので、少し顔がくすぐったい。
「それじゃあ、化粧していくね。まずは、ファンデーション。これで、髭とか隠れるから」
 と言い、パフで、頬や額、鼻筋、顎などを軽く叩いていった。
「次に、チーク入れるね」
ブラシに桃色のチークを付け、頬に優しく塗っていく。自分の顔がキャンパスになったようだ。その後で、ブラウンのアイシャドーを入れると、
「次は、つけまつげ」
と黒い鳩避けのようなものを取り出し、俺のまぶたの近くに持ってきたので、眼を半分閉じた。そして、彼女はそれを俺のまつげの根本にゆっくりと押し当てた。
「これ、ノリついてて、とれないようになってるから」
「そうなんだ」
 最後に淡いピンクの口紅を塗って、女装が完成した。
「鏡で見てみる?」
 と言われたので、ベッドから降り、期待半分不安半分、テレビの横の洗面台に設置された鏡を覗き込んだが、裸眼のため輪郭しかわからなかった。それで、眼鏡をかけようとしたら、ウィッグのネットが邪魔でつるが全然耳にはまらない。見かねた彼女が、
「つけなくても、レンズで見るだけでいいんじゃない」
 とアドバイスしてくれたので、望遠鏡みたいにして眼鏡を持ち自分の顔を確認した。
「結構かわいくなったよね! ちょっとびっくり。自分でもそう思わない?」
「うん」
 確かに、本物のアリサよりわたしの方がきれいだな。
「じゃあ、写真撮る? エロいやつ」
「お願い」
 わたしはテーブルの上に置きっぱなしにしておいたスマートフォンを彼女に渡し、使い方を簡単にレクチャーした。そして、ベッドに寝転がり、身体を左に少し傾け、股間の辺りで手を組んだ。どんなポーズをとればよいのかわからなかったので、そんなつまらない姿となった。エリは、ベッドの脇に立つと、わたしの前髪を整えた。そして、わたしを見下ろす形で、写真を撮った。が、写真を撮られる瞬間、すね毛がひどいことに思い至り、「ワイルド・サイドを歩け」の"Shaved her legs and then he was a she"という歌詞を思い出したりもして、画竜点睛を欠くだな、と落胆した。
「はい。こんな感じだけど、どう?」
 写真は二枚。緊張で顔が強張っている。まじまじと観察すると、顎の辺りの骨格がマイケル・ジャクソンみたいで、多少現実に引き戻された。あと、手もゴツゴツとしている。それでも普段の自分より大分美化されていたので、馬子にも化粧かと苦笑した。肝心のすね毛だが、彼女がスカートの下の部分は写らないようにしてくれていたので、嫌な物を見ずに済んだ。
「いいね。ありがとう」
「じゃあ、エッチなこともしようか」
 わたしはベッドの上で胡坐をかき、彼女が乗っかれるようスペースを作ると、
「ダメでしょ。もう女の子なんだから、そんな格好しちゃあ」
 と叱られたので、足を横に崩した。
 二人とも洋服を着たまま、セックスに入った。わたしが受け身となり、彼女が責めていくというスタイル。女の子になったわたしはいつもよりやや大きく甲高い声で喘いでみた。彼女は上から下まで一通り責め終わると、わたしの両足を持ち上げ、肛門をむき出しにした。そして、ローションを穴に注ぎ込み、そっと指を入れた。
「あ、痛っ!」
 肛門の状態が悪かったわたしは思わず叫んだ。ついでに、右足の指先も軽く釣った。二つの異なる痛みを、わたしは必死に我慢した。彼女に悟られないよう、こっそり指先を何度か曲げ、釣っている状態をどうにか元に戻した。
「まだ、ちょっと早かったかな」
 と彼女はやや残念そうに言い、アナルに関してはそれで終わりとなった。
 わたしの性欲は、そこから急激に冷え込んでいき、ペニスもしぼみがちとなった。もっとキスがしたくて、何度か彼女にせがんだのだが、なぜか彼女の方はそれに答えてくれなかった。女の身体で一番好きな腋を舐めることができなかったのも、フラストレーションが溜まる要因となった。エリはわたしのペニスにローションを塗りたくり、ガシガシと擦り始めた。勃たなかった。コンドームを装着してのフェラも一切効果がなかった。セーターを着ているせいか、上半身だけがサウナにいるが如く蒸し暑く、汗が皮膚の底から滲み出て、気が散った。性の世界に没入しようと、さらに喘いでみたが、空しくなる一方。射精を諦めたわたしは、天井の黒い染みを呆然と眺めた。
「ちょっと、乳首噛んでいい?」
 停滞する状況を打開すべく、エリがそう提案した。
「いいよ」
 エリはゆっくりと乳首に顔を近づけると、獲物を見つけた鷹のような素早さで右のそれをガリっと噛んだ。
「ぬあぁっ!」
 乳首が取れた。絶対取れた。乳首の数が奇数になった。激烈な痛みに耐えきれず、わたしは身体をのけぞらせ、一基のアーチ状の橋となった。
 エリが顔をあげた。目を丸くしていた。もしや、わたしの乳首を飲み込んでしまったのか? それとも、口から転がり出てくるのか? 取れた乳首は外科手術でどうにかなるのだろうか?
「大丈夫?」
「だいじょうぶ……と思う……」
 と涙目で返事した。わたしは急いで乳首の有無を確認した。乳首はきちんとそこにあった。乳首は無事でも流血ぐらいはしているだろうと思い、指で確認したところ、それも大丈夫だった。
 だが、もうセックスとかそういう気分ではさらさらなかった。彼女のやる事全てが裏目に出ていた。早く終わりたいと願っていると、タイミングよくタイマーが鳴った。数十分化粧に費やしたせいか、セックスの時間はそんなに多くなかった。
「あ、終わっちゃった。ごめんね、いかせられなくて」
「いや、いいよ」
 彼女はベッドから飛び降りた。
「いつもいくの遅いの?」
「うーん、緊張してたからかな」
 経験が少ないのとオナニーに慣れてしまっていたことから、わたしはセックスで射精するのが苦手だった。最初は調子が良いのだが、三十分もすると勃ちが悪くなり、集中力も欠けてくる。出そうで出ないということもあった。挿入したことはまだ一度もないが、多分それも苦手だろう。
 彼女が片付けを始めた。わたしも床に足を下ろし、酔っ払いのようにふらふらと立ち上がった。そして、一歩足を踏み出した瞬間、お尻から何か冷たい液体がツーッと垂れた。
「やばい! ウンコ漏れた!」
 慌ててお尻に手を当て、首を後方に傾け、床を確認した。視力が悪いせいでどこに垂れたかよくわからないうえ、ブラウンのフローリングが余計に目を惑わせた。けれども、彼女がいる前で、床に這いつくばるわけにもいかない。お尻に当てた手を恐る恐る見ると、どうやら糞ではなくローションだということがわかった。ホッと胸をなでおろし、ウィッグを外し、洋服を脱いでいると、再びベッドに近づいたエリが、
「うわっ! ローション踏んじゃった」
 もちろん、それが俺の尻から生み出されたものであることは黙っていた。
「まだ時間あるし、私を見ながらオナニーしててもいいよ」
「うん」
 ローションでべちょべちょになった俺のペニスは、すでに休眠状態だった。一応、礼儀として擦ってみたが、立ち上がる機運はない。完全に気力を失い抜け殻と化した俺は、彼女が動き回る姿をただ眺めていた。
 エリはそれから五分もかからず片づけを終えた。
「このあと、AVで抜いていくの? ホテルの時間まだあるもんね」
「うん? まあ、そうかなあ」
 ホテルのテレビで流れているAVに、俺好みのものは一本もなかったし、これ以上性的なことも考えたくなかった。
「これ、メイク落とし。結構しっかり落とさないと、化粧残ったまま街の中歩くことになるから気をつけて。あと、まつげ取るのも忘れずにね」
「わかった」
「それじゃあね」
 扉が閉まると、俺は一人、全裸のまま取り残された。孤独が虱のようにたかり始める。。今、自分が立っている場所が、がらがらと崩壊しそうな予感に襲われる。洗面台の前で、つけまつげを剥がすと、涙がこぼれた。ローションで汚れた手を洗い、顔を拭うと、化粧が少しはがれた。涙は止まらなかった。

 眼鏡をかけ、どうにか日常に戻ろうとした瞬間、鏡の中の自分が目に入った。鳥の巣の如くぐちゃぐちゃな頭をした、陰鬱な男がそこに映っていた。化粧をしているから余計に薄気味悪い。映画とかに出てくる狂った老女のようだ。鏡から逃げると、スマートフォンが震えた。通知を見るとアリサからのラインだった。
「今日はごめんね。今何してるの?」
 俺は無言で女装写真を送りつけ、反応を確かめることなく、そのまま風呂に入った。エリから貰ったメイク落としは、カップ焼きそばの液体ソースが入っている袋と似ていた。こぼさないよう丁寧に端を切り、袋を傾け、掌に透明な柔らかい液体を乗せる。そして、それを顔に擦りつけ、力強く何度も何度も何度も洗顔した。化粧が顔に貼りついているような気がした。少しして、水滴と赤錆がこびりついた鏡を見ると、そこに俺がいた。(了)

 

マッチングアプリの時代の愛 参考文献 

 

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マッチングアプリの時代の愛⑤

 告白してから二度ほどデートに行った。初詣と遊園地(観覧車のみ)と映画。それらの場所で過ごしたのだが、特に恋愛が進展することもなく、告白以前の関係性を維持したままだった。初詣に行った時は、前日になって彼女が風邪をひいたというので、一週間予定をずらしたということもあった。これで二度目のドタキャンだった。俺はこれまでの人生でドタキャンをしたことがなかったので、相手の行動に若干腑に落ちないものを感じてしまった。彼女が未だにマッチングアプリのプロフィールやコミュニティを微修正していることも、疑惑を深める原因となっていた(ちなみに、マッチングして、何度かメッセージのやり取りをすると相手のログイン時間はわからなくなる)。俺は彼女がそういう疑惑を抱かないよう、彼女と会ってからは一度も、コミュニティやプロフィールをいじっていなかった。一言コメント欄もずっと「大阪旅行に行ってきました」のままにしておいた。彼女がそうした配慮に気づいているかどうかは不明だった。一度、当てつけ的に一言コメント欄を「銀杏boyzのライブにいってきました」と更新したことがある。「他にも狙っている女がいるんだぞ」という屈折した意思表示。それに刺激されたのかは不明だが、少しして彼女の方も一言コメント欄を更新し、互いにプライドをかけた軍拡競争をしているかのようになって、パソコンを見ながら「何やってんだ、俺らは」と呟いた。無論、恋愛によって引き起こされる苛立ちがそれで治まったわけではないが。
ボヘミアン・ラプソディー』を観に行った時も、相手の仕事の都合で最初に決めたスケジュールを修正することになり、いざ当日となったら、「体調悪いから、あんまり喋らないかも」というラインが待ち合わせの三十分前に来て、それを観た瞬間、「いったい何なんだ」という怒りに近い感情が湧いたが、「大丈夫? 無理はしないでね」と感情を押し殺して返信した。それで少しイライラしながら映画館の前で待っていたら、彼女がマスクをして現れたので、一気に相手を心配する気持ちが噴き出し、「通路側の席とっておいたから、気分悪くなったら出ようね」と言った。こういったことから実感したのが、ドタキャンなどのネガティブな出来事が起きても、実際に会うことができれば、相手への悪感情が大部分消失するということで、相手の顔を見た瞬間機嫌が直った時などは、自分でも単純だなと自虐的な苦笑が漏れた。逆に、会わないで、宙吊りの状態にされたままだと、考える時間が増えるから、どんどん疑心暗鬼になってしまう。だけど、デートできるのも多くて月一回だから、不安になっている時の方が多い。俺と彼女の場合、俺がテストされている側なので、何が起きてもどうすることもできないという無力感が、苛立ちを強める要因となっているようで、恋愛の進展も牛歩以下という有様だったから、短気な自分は「いつになったら結果がわかるんじゃあ」と内心思っていた。
ボヘミアン・ラプソディー』の時は、ちょうどバレンタインの時期で、モロゾフの花の形をしたチョコレートを貰った(これも中身を食べた後、箱を自室に保管している)。うれしかったが、それを素直に本命チョコと受け止めるほどの関係性はまだ出来上がっていなかった。映画を観た後は、サンシャインの中にあるレストラン街で食事をし、クイーンのベスト盤を貸した。そして、帰ろうとしたら人身事故で電車が止まるという事態が発生した。仕方ないので、駅の中にあるスターバックスで時間を潰した。このまま終電がなくなってしまえばいいのにと思ったが、もちろんそんなことにはなりそうもなかった。
ボヘミアン・ラプソディー』の感想を喋っている時に、「俺も(風俗で女装した)男のペニスくわえたことがあるからフレディの気持ちがわかるなー」 という冗談を言いかけたが、フレディの死因を考えると相手に余計な不安を与えそうなので止めた。
「映画は良かったけど、最後にフレディ・マーキュリーが、タンクトップで歌ったじゃん。あれが嫌だったね」
「どうして?」
「男の腋が嫌いなんだよな。女の腋は好きだけど」
「……」
「だから俺、バスケとか陸上とか体操とか絶対に見ない。ユニフォームがノースリーブだからね。俺が独裁者だったら、男のノースリーブは禁止してるよ」

 

ボヘミアン・ラプソディー』の影響なのか、また女装した男とセックスしたくなり、池袋にあるカプリコンという女装・ニューハーフ風俗を予約した。最後にセックスしたのが、「ラブホテルのスーパーヒロイン」の時なので、およそ一カ月間が空いていた。
 予約したのは、「Sプレイが得意」とプロフィールに書いていた、サリナという男の娘。冷たい感じの目つきと、若干男っぽさを残した女装、それから十八センチというペニスの長さに興味をひかれて指名した。俺はAVを鑑賞する時はいつも女側に感情移入しているのだが、今回、自分でもイラマチオを経験し、苦痛による歓楽を味わってみたかったのだ。
 平日十七時までだと二千円引きになるということで、六十分コースを選択し、当日は会社を休んだ。ついでなので、店に行く前に、西武でホワイトデー用の買い物もした。事前にラインでそれとなく好きなお菓子のメーカーを聞き出していたので、見当外れのものを買わずに済んだ(椎名林檎のライブDVDを買った時もそうだったが、相手の喜びそうなものを考えたり選んだりするというのは非常に楽しい)。そして、ヨックモックのクッキーをリュックサックに入れ、繁華街とは少し離れた位置にある、カプリコンへ向かった。
 驚いたのが風俗店なのにスーパーやコンビニが立ち並ぶ通りに混ざっていたことで、店自体は地下にあるのだが、その階段を下りるのに、周りの目が気になって、店の前を何度か卓球のラリーの如く往復してしまった。しかし、下りなければどうにもならないので、人通りが少なくなった瞬間を見計らい、あたかも転落したかのような勢いでレンガ調の階段に向かって突っ込んだ。穴の底に到着すると、薄暗く無味乾燥な空間が出現した。何の装飾もない鋼鉄製のドアがあり、暗証番号を入れる機械がドアノブの真上に設置されていて、物々しい雰囲気が強く滲みでていた。俺は興奮と不安の間で葦の如く揺れながら、ドアの横のインターホンを優しく押した。もちろん、インターホンにはカメラが装着されている。
「はい」
「十六時で予約した範多ですが」
「今、開けます」
 しばらくすると、ガコッという耳障りな金属音の後に、扉が重々しく開いた。中からツーブロックで、鰐のように目つきの悪い男が出てきた。たくましい上半身には、ワイシャツと灰色のベストを着用している。
「じゃあ、こっちに。靴はそこで脱いでください」
 案内された個室は、五畳ぐらいの広さで、黒いシーツのかかったベッドが部屋の三分の一ぐらいを占めている。俺の股間は少しずつ勃起の準備を始めていた。
「事前に金だけお願いします。一万七千円です」
 あれ、平日十七時までだと二千円引きじゃなかったのか、と思ったが相手の禍々しい迫力に圧倒され、何も言わず二万出した。
「釣りもってくるんで、ここでお待ちください」
 サービスで渡された缶のお茶を飲みながら、部屋を見回した。ベッドの真上の天井には巨大な鏡がはめられていて、性的興奮をもたらす仕掛けなのかもしれなかったが、俺にはピンとこなかった。奥の扉を開けると、横に長い廊下が出現し、すぐ左にはトイレがむき出しのまま設置されていた。右に進むと小さなシャワー室に続く扉があり、廊下は他の部屋にも繋がっているようだった。なので、便器にまたがっている時に他の客と鉢合わせる可能性もあるのではないかと想像したのだが、そこは上手く調整しているのだろうか。
「カシャッ、カシャッ」というシャッター音が、廊下の一番奥から漏れ聞こえてきた。シャッター音が響くと、フラッシュをたいているのか、白い光が扉か壁の隙間から廊下にはみ出してくる。誰かがホームページに載せる宣材写真を撮っているようだ。
 部屋に戻って少し経つと、先ほどの店員が入って来て、「すみません、平日割りを忘れてました」と言い、五千円のお釣りを出したので、ホッとした。
「女の子の準備がまだかかってるので、もう少し待ってください」
 と言い残し、男は部屋から出て行った。天井の隅に取り付けられた小さなスピーカーから有線が流れていたので、聞いてみると、エド・シーランの「シェイプ・オブ・ユー」だった。俺は流行にめちゃくちゃ疎いのだが、この歌は食前にデザートを頼んだ野本がカラオケで熱唱していたから覚えていた。野本は研修先の合宿所で聞いて好きになったと言っていた。
 予定の時刻から十五分ほど過ぎてもまだサリナはやってこなかった。そろそろ店員を呼ぼうかと悩み始めたところで、不意打ちの如くドアが開いた。
「こんにちはー」
「あ、こんにちは」
 彼女の顔を見た刹那、「ちょっと男っぽすぎるな……」と思った。ホームページに掲載されていた宣材写真と比べて、実物は男の成分が表に出すぎている。どうやら、頬骨から下の骨格が女のようになめらかではないのが原因らしく、ホームページの写真は無表情だったからあまり気にならなかったのだが、喋ったりして口元が動くと、男のゴツゴツとした感じが露になってしまうのだ。また、もう少し化粧を頑張っても良いのでは、と思うぐらいに彼女のそれは不十分で、元の顔が容易に想像できてしまうぐらい。そのことが俺を萎えさせた。「男」を抱きにきたわけではないので。
「ごめん、ごめん。ちょっと色々あって十分で用意してきたんだ」
 だから、高校の女装コンテスト・レベルの化粧なのか。あー、うーん、これもしかしたら勃たないかもしれないな。俺は不安と落胆が顔に出ないように努めた。
「普段、こういうところくるの?」
「前に大阪で一回あるよ」
「お兄さん、ゲイなの?」
 唐突に直球の質問をされ泡を食った。
「あー、いや、ゲイではないかな。女装した男が好きなんだよね。女装限定で」
「はー、そういうタイプか。えーと、名前は?」
「範多敦也」
「それって本名?」
「まあ、そうだね」
 俺は咄嗟に嘘をついた。いや、こういう場所で本名を名乗る人間はどれくらいいるのだろうか? 何度か指名して信頼関係が出来ているならまだしも、初対面で身分を明かすのにはある種の勇気がいる。
「えー、変わった名前じゃん」
「先祖が外国人だったから」
「外国って、フィリピン?」
「ん、いや、アイルランド。もう俺ぐらいになると見た目じゃ全然わからないけど」
 口調が完全に男のそれだったので、さらに不安が増大した。以前に指名した男の娘が、容姿から喋り方まで女と見紛うほどだったので、それが基準になっていたのだが、今日指名した彼女はまったく違うタイプだった。
「で、範多さんは、MなのSなの?」
「どちらかと言えば、Mかなあ。サリナちゃんは、Sプレイが得意だっていうから指名したんだよね」
「あんまりMっぽくは見えないけどね。なんかインテリって感じ」
「それ、眼鏡かけてるからじゃないの?」
「あ、そうかも」
 軽い自己紹介も済んだところで、
「じゃあ、そろそろシャワー行く?」
「そうだね」
 彼女が濃紺のワンピースを脱ぎ、襞のついたピンク色の女物の下着に手をかける様を俺は蛇のような眼でじっくりと観察していた。もちろん、その下に収められている巨大なペニスが目的だった。
「ちょっと! すげー見てんじゃん」
と彼女が笑いながら言った。
「あ、ごめん」
「いやあ、みんな見るんだよねー」
「だって、十八センチもあれば見るよ」
 彼女が全裸になる頃には、俺のペニスも完全に勃起し、臨戦態勢に入っていた。最初の不安は完全に杞憂だった。いつの間にか、性のスイッチがオンになっていた。眼鏡を外した俺は、豪雨の中に佇んでいるようなぼんやりとした視力で、彼女のペニスを注視した。確かにモスラのようなものが股間からぶら下がっている。彼女の身長が百六十半ばとやや低いこともあって、余計にペニスのデカさが際立っていた。
 部屋を出て、シャワー室へ。彼女からイソジンの入ったプラスチックのコップを渡され、二人でうがい。狭いので、イソジンを吐き出す時、彼女にかからないよう気をつける。次に、彼女は窓ふき職人のように俺の身体をゆっくり上から下に向かって洗浄していった。そして、しゃがみこんだ際、彼女の顔の前で、俺の屹立したペニスが武者震いをしたので、
「ねえ、このちんちんで俺のこと攻撃しないでよ」
「いやいや、しないよ」
 相手の冗談を上手く捌くことができず、真面目な口調で返答してしまい、慌てて「ウハハハハ」と三島由紀夫のようなわざとらしい病的な哄笑でごまかした。
「じゃあ、先に体拭いて待っててくれる。自分の体洗うから」
「OK」
 俺はバスタオルを体にまいて部屋に戻り、ベッドに腰かけながら彼女を待った。一刻も早く彼女のペニスを咥えたくてうずうずしていた。
「お待たせ」
「ああ」
「範多っちは、どういう女の子がタイプなの?」
「えーと、んー、まあ清楚系かなあ」
 好きな女のタイプ、というのは非常にやっかいな質問だ。もちろん、こだわりはいくつかあるのだが、それを口で説明するのがおっくうで、また、相手もそんな真剣に聞いているわけではないのだから、無難に好きな芸能人の名前でもあげられればいいのだが、俺の好きな芸能人というのが、北山真央というあまり有名でないタレントで、これまでその名前を出して知っている人に遭遇したことがないために、手っ取り早く「清楚系」と答えた。
 北山真央は、俺と同い年で、同じ大学に通っていた。俺は池袋キャンパスだったが、彼女は埼玉キャンパスだった。初めて彼女を知ったのは、深夜にやっていたコント番組にゲスト出演していた時で、それまで芸能人に興味を持ったことはほとんどなかったのだが、彼女に関しては番組が終わった後すぐに手元にあった携帯でネット検索するほど、そのややボーイッシュな容姿と、がっちりした体格、落ち着いた低い声が琴線に触れた。調べてみると、年が同じ上に同じ大学に通っていることがわかり一気に親近感が増し、ファンになった(しかし、同じ大学の人間ばかりに恋してるな、俺は。まあ、大学が好きすぎて五年も通ったからな)。一年後、彼女が写真集を出版した際に、販促のための握手会が神保町で開催され、それに参加したのだが、自分が一番年下なのではと思うぐらい中年のファンが多く、若者特有の優越感にどっぷり浸りながら、「まともなのは俺ぐらいだな」と彼女に同情したが、握手会に参加している時点で向こうからすれば大同小異、得体の知れない人間であることに変わりはないので滑稽だったし、そもそも俺は若々しさとは無縁の男だった。中には認知してもらうために、タイガーマスクのような覆面をつけている男もいた。恐らく、この場にいた全員が「俺が一番彼女のことをわかっている」と自惚れていたことだろう。もちろん自分も、彼女が書いたものは、ブログから雑誌まで丹念に目を通し、某無頼派作家の文庫本に解説を寄せていたことから、「君は本当は『清楚系』という立場に満足していないんだね」と相手の深層心理を推し量っては、庇護者のような気分を密かに味わっていた。彼女の内気で未完成な感じが、俺のような気弱な変態を引き寄せる要因となっていた。
 数十分待ち、自分の番が回ってきた時、恐る恐る右手を差し出すと、彼女はすかさずそれを両手で包み込んだので、「なるほど。こうすれば相手にぎゅっと掴まれることもないのか」と感心した。
「こんにちは」
「こんにちは」
「あの、僕同じ大学に通ってるんです。あ、文学部なんでキャンパスは違いますけどね」

 とストーカーの心配はないことを強調しつつ、共通点をアピール。すると、
「同じ大学に通ってるんだって」
 なぜか彼女の後ろにいたマネージャーらしきスーツを着た女が俺の言葉に反応した。彼女の緊張を和らげようしているのだろうか? 船場吉兆の女将を思い出した。
「あ、そうなんですか。池袋キャンパスですよね?」
 と数秒遅れて北山真央が返事をする。
 俺は段々手を握ってもらっているのが恥ずかしくなり、今すぐにでもそれを振りほどいて逃げ出したくなった。沈黙を伴った曖昧な時間が続き、「それじゃあ」と自分から言って……
「清楚系って……。童貞じゃないよね?」
「ど、ど、ど、ど、童貞ちゃうわ」
 男一匹命をかけて否定したが、否定の態度がいかにも童貞臭かった。
「へえ。ま、そろそろやろっか」
「うん」
「電気暗くする?」
「そうして」
 彼女はドアの近くにあった黄色いツマミを回し、光量を調節した。姿が認識できる程度に暗くなったところで、一緒にベッドに入った。そして、俺が性欲に導かれるままに強く抱きしめキスをしようとすると、
「ねえ、これじゃあ風俗みたいじゃん。がっつきすぎ。もっと、恋人っぽい感じで」
 と叱られた。
 それから、彼女主導でキスをした。最初は唇を重ねるだけで、相手と目で会話しつつ、徐々に舌を絡ませるような激しいものへと移行。それが済むと、俺はフェラチオをするために、エレベーターよろしく彼女の上半身から下半身へと下がっていった。途中乳首で止まり、それを舐めたり吸ったりした。すると、彼女は手を伸ばし、俺の尻を強く叩いた。俺の尻に張りがないせいか、あまり景気の良い音は出なかった。そして、念願のペニスへ。勃起していないのにも関わらず、フランスパンのようなサイズ感があり、持ち重りする。俺は歯を当てないよう慎重にそれを咥えた。すると、彼女が俺の頭をグッと押さえ、もっと奥へと押し込んだ。柔らかく冷たい重量のあるペニスの先端が俺の喉の粘膜を直撃する。苦しかった。まったく息ができなかった。必死に鼻で呼吸を試みるも、焼け石に水(というか、花粉症で鼻があまりきかなかった)。意識を失うのではという恐怖。窒息死という不吉な言葉が頭をかすめた。久保田万太郎は寿司が喉に詰まって死んだはずだが、こんな感じの苦しみを味わったのだろうか。もし、この状態で死んだら、これは自殺になるのか他殺になるのか。こんなところで死んだら洒落にならんぞ。ヤフーニュースに載ってしまう。葬式で絶対に死因を言えない。しかし、十秒にも満たないうちにペニスを離したら、変態として負けたような気がする。それで、俺は「二十秒」頭の中で──気持ち早めに──カウントした。二十秒経過したところで、相手の腿を叩き、頭を振って、ギブアップを宣言。ペニスを口から吐き出し、涎を垂らしながら空気を吸い込もうとすると、また頭を押さえつけられ、フェラチオさせられた。バタイユは『エロティシズム』の中で、「性の快楽は、死の不安のなかにあると、いっそう深くなる」(酒井健訳)と書いていたが、それは嘘だとわかった。少なくとも俺には当てはまらなかった。ただ苦しいだけで、性的なことなど一切考えられなかった。そんなことを二、三回繰り返し、やっとペニスから離脱することができた。
 その後、彼女にフェラチオをしてもらっている時、ふと上を見上げたら、天井に設置された鏡に、二つの肌色の肉塊が写っていた。視力が悪く視界が著しく抽象的になっているせいか、ミケランジェロの『最後の晩餐』の一部みたいに見えた。
 結局は、乳首を舐めてもらいながらの手コキで射精した。腹にこぼれた精液は非常に熱くバターのように溶けていった。時間はまだ余っていた。
「まだ時間あるけど、寝る?」
「ああ」
 そうして、時間までベッドで添い寝することになったのだが、彼女は俺の反対側に顔を向けてしまい、俺は彼女の固く尖った背中に手をそっと置くだけで満足しなければならなかった。彼女のそっけない態度に少し傷ついた。そのうちに彼女の寝息が聞こえてきた。
 タイマーが鳴り、再びシャワー室へ。
「あー、おなか減った」
「でも、結構痩せてるよね」
「まあね。でも、スカウトされた時、筋肉つけるなって言われたから、運動とかはあんまできないんだよなー」
「へー、そうなんだ。普段は、男の格好してんの?」
「うん。女装するのはここだけ」
 どういう場所にいたら、女装風俗にスカウトされるのか、ということが気になったが、詳しくは聞かないまま店を出た。外の空気が──排気ガスまみれにも関わらず──いつもより新鮮に感じられた。俺はセックスよりもAVによるオナニーの方が刺激を得られるんだなあと夕陽に染まった池袋を歩きながらしみじみ思った。何せ誕生日が七月二十一日だからな。三島由紀夫も、腹に刀を刺した瞬間、「想像していたのと違う」と思ったんじゃないか。俺はもっと爽快な気分に浸ろうと考え、サンシャイン60の近くにあるバッティングセンターに向かったが、知らない間に潰れていた。

 

 次に彼女と会ったのは三月だった。また映画を観に行こうという話をしていたのだが、肝心の映画選びに難航し、最終的には俺の提案でイーストウッドの『運び屋』を観に行くことになった。彼女の好みではないと思ったが、タイミング的に他に良い映画がやっていなかったので、イーストウッドの実績にかけたのだった。あと、今回は池袋ではなく、彼女の最寄り駅から二駅ほど離れた場所にある映画館に足を運んだ。彼女のオススメだというバーと洋食屋がその近くにあって、映画を観た後に寄ろうということになっていた。
 映画が始まる前に彼女が飲み物を買いに行くというので、館内のソファーに座って待っていたのだが、上映時間が迫ってきているのにも関わらずなかなか戻ってこないのでやきもきしていたら、二人分の飲み物とドーナツを持って帰ってきたので自然と笑顔になった。それで、予告が流れている間、ドーナツを食べたのだが、俺の食べ方が下手なのか、ドーナツが土砂崩れを起こし、ぼろぼろと床にこぼれて恥ずかしかった。
『運び屋』は展開的にイーストウッドが最後に死ぬんだろうなと思って観ていたら、死ななかったので驚いた。刑務所に入ったイーストウッドが庭いじりをしているところで、隣に座っていた彼女が突然ゴソゴソと体を動かし始め、顔の辺りに手をやっていたから、「寝てたのかな」と思い、エンドクレジットが流れ終わった後、シアタールームを出て、明るい場所で彼女の顔を見たら泣いていたのでびっくりした。
「え? 泣いてたんだ」
「うん」
「どこで泣いたの? 殺されたチンピラがトランクに詰め込まれてたところ?」
「違うよ! なんか主人公がかわいそうで、泣いちゃったんだよね」
「ああ」
「ああいう時にはさ、隣でさっとハンカチとか渡してくれるもんだよ」
「ごめん、ごめん。気づかなかったからさ。というか、ハンカチ持ってないわ、俺。まず、そこからかもしんない」
 予約していた洋食屋で早めの夕食を済ませ、そこから五分ぐらい歩いた場所にある、小さなバーに入った。酒を飲まない俺は、本格的なバーに入るのは初めてだった。本格的といっても、銀座とかにあるような敷居の高いものではなく、誰でも入れるような極めて庶民的なバーだったが、初めての場所が苦手な俺は、カウンターとバーテンダーを見ただけで神経が委縮してしまった。
 店には既に常連らしき年配の客が五人ほどいて、全員カウンター席に座って談笑していた。奥にはテーブル席があったが、誰もいないので、電気が消してあった。カウンターの中には、ちょび髭を生やした細身のマスターとその妻らしき女、あとバイトの若い女の子がいた。引っ込み思案の俺は、カウンター席よりも出入口近くの丸テーブルの席に座ろうとしたのだが、「せっかくだから」と彼女に促され、カウンター席に陣取ることとなった。
 俺は片頭痛持ちで、映画館で映画を観ると、三回に一回ぐらいの割合でそれが出るのだが、今回見事当りを引いてしまい、バーに入店した時も、後頭部の血管が波打っているような激しい痛みが依然として続いていた。近所の脳神経外科マクサルトという薬は貰っているのだが、これは「頭痛の予感」がした時に飲まないと効かず、本格的な頭痛が始まってから飲んでも効果がない。しかし、今まで食事だけで解散していたのが、今回はバーという特殊なイベントが挟まっているわけで、そんな時に具合の悪い顔などできるはずがない。
「何飲む?」
 頭痛が渦巻いている中で飲酒したら、悪化するのか良くなるのか、医学的な知識のない俺は気になった。しかし、『時計じかけのオレンジ』みたいにバーでミルクを注文するわけにもいかないので、アルコールが血管に良い影響を及ぼすことを願い、
「うーん、できれば甘いやつがいいかなあ」
「マスター、甘いお酒で何か作ってもらえる?」
「OK」
「私はサングリアで」
「はいよ」
 注文を受けたマスターがシェイカーを振り始めた。彼の横ではバイトの子が食器を磨いている。
「ここ、自家製のアイスが結構おいしいんだよ」
「へえ。後で食べてみようかな」
「どうぞ。メロン・ボールです。メロンリキュールとウオツカ、それからオレンジジュースを混ぜているんで、甘くて飲みやすいですよ」
「ありがとうございます」
 二人の手許に酒が届いたので、乾杯した。メロン・ボールという酒は、確かに甘いことは甘く飲めないことはなかったが、酒であることに変わりはないので、アルコールに弱い俺は、鍛造するために高温で加熱された鉄の如く真っ赤に染まった。
「俺の顔、赤くない?」

 心配される前に、自分から申告。

「うん、赤い。大丈夫?」
「すぐ真っ赤になるから心配されるんだけど、気分的にはそんなに変わらないんだよね。というか、酔っ払ったことがないな。酔っ払うほど飲めないし」
 頭痛は特に良くも悪くもならなかった。プラセボ効果を狙って、メロン・ボールを薬だと思い込みながら飲んだ。普段なら睡魔に襲われるところだが、頭痛が眠気を掻き消した。
「私、仕事辞めようかなと思ってるんだよね」
「ん?」
「向いてないような気がして。周りは定年まで勤める人が多くて、それが当たり前みたいな感じなんだけど、自分の居場所じゃないような気がするんだよねー。なんか定年まで働いてるヴィジョンが見えなくて」
 俺の中の小市民が、「もったいない、もったいない」とささやいていたので、
「まあ、つらいならしょうがないよね。アリサちゃんなら辞めてもどうにかなると思うよ。生きていくだけならどうにでもなるしね。まあ、でも、そんなに思いつめなくていいんじゃないかな。また時間が経てば考え方も変わるかもしれないし」
 と相手の言い分を認めつつ、なだめるような言い方になった。そもそも、本気で辞めようというよりかは愚痴に近い印象を彼女の口調から受けたし、辞めた後どうするのかという具体的な話がなかったので、容易に肯定するわけにもいかなかったのだ。
「俺が支えられたらいいんだけど……。早く本を出したいね」
「そういえば、小説とか書いてるの?」
「あー、小説は書いてないな。ブログはやってるけど」
「へー。どんなこと書いてるの?」
 まさか風俗について書いているとは言えず、
「文学のこととか。正直見てる人は少ないけど、T・S・エリオットの研究者とかがフォローしてくれてるんだよ」
 素人のブログを研究者が読んでいるということだけでも嬉しいのに、エリオットみたいな難解な作風で知られている詩人のそれであることが、余計に俺の卑小な自尊心をくすぐっていた。普段あまりにも記事に対し反応がないので、そういうことにでもすがりつかないと、自我が保てないのだ。しかし、俺の話は、虎の威を借りる狐みたいなことばかりで、自分でも段々情けなくなってきた。俺自身には何の実績もないから。
「ブログ一度見てみたいね」
「いや、恥ずかしいからいいよ。アリサちゃんは最近どうなの?」
「この前初めて相席屋ってところに行った。友達が行ってみたいって言うから」
「マジで? どうなの、あそこ」
「全然良くないよ。ご飯はおいしくないし、一緒になったのが変な二人組で。最初は医者とか言ってたのに、話聞いてみるとメチャクチャで、結局ウソだったんだけど。しかも逆ギレされたし」
「アリサちゃんは、仕事で付き合いがあるからね。まあ、そんな奴ばっかりなんだろうなあ、ああいうとこってさあ。俺の友達は相席した女に話しかけたけど、女の方はひたすら飯食ってるだけで、一言も返って来なかったって。すごいよね。ダブルスはどうなの?」
「あー、結構グッド送られてくるね。一度だけ会った人からもこの前ラインが来たし」
「モテモテやな。俺はアリサちゃんとマッチングしてから誰にもグッド送ってないよ」
「純粋だね」
「まあね。モテないだけかもしれないけど」
「陸人くんのプロフィール読んでも、グッド送りたくならないからなあ」
「え、そうなの?」
「うん」
 アリサと出会ってから誰にもグッドを送っていないということについてだが、正確に言えば、これはウソだった。一月に一度ドタキャンされ、その一週間後に会った時もまるでこんにゃくを触っているかのように手ごたえがなかったので(何しろ十六時で解散したのだから)、「これはもう駄目だ」とやけくそになり、だいぶ前にダブルスのお気に入りに入れていた女の一人にグッドを送っていた。同世代や年下だと男の俺が率先してリードしなければならないし、ミスをしたり格好悪いところを見せたりしたら振られるという緊張感に疲労していたので、今度は年上の寛大さに甘えたいと思い、「海外文学好き」のコミュニティに入っていた六歳上の人を選んだ。地味な人だったが、顔の骨格が北山真央にちょっと似ていたり、影の差し込んだ表情などが魅力的だったりした。それが、グッドを送った翌日、見透かしたかのようにアリサからラインが来て驚いた(内容自体は他愛のないものだったが)。「しまった!」と罪悪感にかられていたら、同じ日にアプリの女からもグッドが返ってきて、あにはからんやマッチングしてしまうとは……。普段は女からグッドが来ることもないのに、こういう時に限って……。もちろん、アリサ一筋を誓った俺はそれを平然と無視しようとしたのだが、無意識のうちに、
「マユミさん。はじめまして。氷川と言います。文学関係のコミュニティで見てグッドしました! よろしくお願いします」

 と送っていた。多分、悪霊に憑りつかれていたんだと思う。結果的にマユミから返事はなく、誤送信によるマッチングだったようで、以前なら、「ふざけんな!」と激昂しているところだが、今度ばかりは、「助かった」と胸をなでおろす俺がいた。それ以降は、本当に誰にもグッドを送っていなかった。
「これバレンタインのお返し」
 とリュックサックに入れておいたヨックモックのクッキーを取り出した。
「ありがとう!」
 そして、彼女から勧められたアイスを食べた後、店を出た。春の渇いた風が路地を通り抜けていった。駅から少し離れているので、バーの周辺は人が少なく、寂しさが漂っている。飲み屋はちらほらあるが、酔っ払いはいない。街灯に群がる蛾の方が人間より多い。
「ねえ、手繋ごう」
 と彼女が唐突に提案した。驚いて彼女の顔を三度見した。酔いが消え、顔面が蒼白となった。
「え、いいの?」
「うん」
 彼女が差し出した手を握った。暖かかった。勃起した。ジャンパーで股間が隠れていなかったら、大変なことになっていたかもしれない。今が春で助かった。しかし、女の手を握るのは、北山真央の握手会以来だから、八年振りか? 風俗では、そういうことをしないから。
 最初は普通に手を繋いでいたのだが、身長や腕の長さの違いから上手くフィットしなかったので、俺の腕に彼女が自分のそれを絡ませるという形に落ち着いた。普段こんな大胆なことをしない彼女がそうするのだから、アルコールのパワーを強く実感した。そりゃあみんな女を酔わせたがるわけだ。ここまで来たら、その勢いでセックスにまで突入したかったが、近くにラブホテルがないので、やるとしたら彼女の家に行くしかない。しかし、どうやってそのことを切り出せばいいのか。ひなびた場所を抜け出し、パチンコ屋やカラオケ屋が立ち並ぶ通りに出る。明かりは増えたが、やはり人はほとんどいない。駅はすぐそこだ。二人ともずっと押し黙っていた。今口を開いたら、「ああ、セックス!」と絶叫しそうだった。
 ついに、駅のホームにまで到達してしまった。すると、知り合いに見られることを警戒したのか、すっと彼女が腕を抜いた。そして、何事もなかったかのように、俺と距離をとった。愛が煙のように消えた。一連の動きがあまりにもスムーズだったので、夢か幻の中にいたような気がし始める。先ほどまで俺と手を繋いでいた彼女と、今横に立っている彼女は、別人なのか? こうして、また何もしないまま電車に乗って自分の家に帰るのか。期待してしまっただけに、圧倒的な虚無観が内蔵の中で発酵した。
 俺にとって彼女は巨大な壁だった。壁の向こうから時折餌が投げ込まれてくるが、肝心の壁は絶対に崩れない。俺は向こう側に行く術を持たないし、彼女は壁を壊そうとはしない。冷たい現状維持が延々と続く。手を繋ぐという、本当だったら親密さが増すはずの行為も、二人の間にある壁を自覚させるだけのものでしかなく、絶望的な気分で俺は吊革につかまった。

 

マッチングアプリの時代の愛⑥

マッチングアプリの時代の愛④

 高校生の頃は、大学に入れば誰でも恋愛できるものだと思っていた。文学・映画・漫画、どれを見ても、大学というのはそういう場所になっている。期待するな、という方が無理だ。その頃は、ネットの掲示板とかを見る習慣もなかったから、陽の当たる場所にしか目が向かなかった。
 俺は六年間男子校にいたから、その時まではモテない理由を環境のせいにできたし、周りもオタクばかりだったから焦燥感を覚えることもなかったが、いざ共学の大学に入ってみると、自分が社会不適合者であり、恋愛弱者であることに気づかざるを得なかった。
 不思議だったのは、自分が預かり知らぬうちに、同級生がカップルになっていたり、他の場所で恋人を見つけたりしていること。俺が家と大学をひたすら往復し、オナニーで性欲を解消している間に、彼らはメルアドを交換し、デートに行き、どうやらセックスまでしているのだ。異性と事務的会話以外交わしたことのない俺は、一体どうやって、会話だけでセックスにまで発展するのか見当もつかなかった。まず、女と話していても親密になることなど絶対にないのだから。
 恋人を作るという「当たり前」のことができていないという鉛色の自己嫌悪に苛まれながらも、怠惰と臆病に満ちた体は何も行動せず、ひたすら現実への不満足感を育てていたら、一年はあっという間にすぎた。
 豊島大学には、校舎全体に蔦がびっしりと絡まった一号館という名物的な建物があって、宣伝用のパンフレットなんかではよくこの建築物の写真が使われているのだが、学生の間では、「入学してから蔦が枯れるまでに恋人ができないと、卒業するまで恋人ができない」というジンクスがあって、ジンクス通りなら自分はもう卒業まで彼女ができないはずで、実際、二年になってもまるでモテなかったのだから、危機感は募る一方だった。もし、サークルに入っていれば、先輩特権のようなものが使えたのかもしれないが、俺は一年の時に入った軽音サークルを、楽器が全然上手くならなかったことと、他の部員にまったく馴染めなかったことを理由に辞めていたので、それを期待することもできなかった。
 三年に進級すると、このままじゃさすがにまずいと思い、しかし生身の女とは話すことができないから、読書によって女を知ろう、ということで、フェミニズム関連の本を図書館から大量に借り出したり、当時話題になっていた『アラサーちゃん』とか『女子をこじらせて』を池袋のジュンク堂で買ったりしていた。それと当時に、日本文学だけでなく海外文学にも興味を持ち、特にアメリカ文学を読むようになった。といっても、当時の自分が好きだったのは、フェミニストに蛇蝎の如く嫌われている、ノーマン・メイラーとかフィリップ・ロスヘンリー・ミラーだったが。なぜ、その三人が好きだったのかといえば、男の苦しみが描かれていたからだ。余談だが、アメリカの純文学は、恋愛を忌避する男たちによって作られたと言われている。
 そういうわけで、四年の時には、英米文学科のフェミニズム系のゼミを選択した。男は俺一人だった。未邦訳の古典をテキストにしていたので、授業中はいつも重苦しい雰囲気に包まれていたが、一度だけ恋愛の話になったことがある。ある時、ゼミ生の一人が、最近D・H・ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』を読んだと言い、担当教員の乾先生が「どうだった?」と聞くと、
「面白かったです。特に、コンスタンスと森番のメラーズの関係が。わたし、メラーズみたいな男に憧れるところがあるかもしれないです」
 と言った。
 ロレンスというのは、男根崇拝や女に対するサディスティックな態度・描写によって、フェミニズム的には不人気な作家で、その評価も二十世紀後半には大分下落した。『チャタレイ夫人の恋人』は、ロレンスの男根崇拝をメラーズというキャラクターに託した作品だが、当初は「性の解放」、「階級社会からの逸脱」という側面から評価されるも、フェミニズム批評が導入されてからは、「男の身勝手な妄想」と批判されるようにもなった。なにしろ「性の解放」といっても、形而上学的な要素を抜き取れば、野蛮な男が上流階級の女をセックスで目覚めさせるという話なのだから、ポルノと言われても仕方がない。俺はこの小説を読んだ時、六百ページにわたって続くロレンスのペシミズムと性的妄想と形而上学にうんざりさせられたので、『性の政治学』でケイト・ミレットによる批判を読んだ際は、テストに正解したかのような気分だった(だが、他の箇所では落第)。
 しかし、問題は、フェミニズムに興味を持ってこのゼミに参加しているはずの「女」が、この作品を擁護していることだ。「おいおい、これはフェミニズム的にはダメな作品なんだぜ」と心の中で突っ込んだ。それで、乾先生がどうするのか待っていると、
「自分もメラーズみたいなマッチョな男と付き合ったことがあるのよね」

 と衝撃の告白をした。

「若い頃の話だけどね。マッチョな男がすごく気になって。トラックの運転手だったんだけどさ。まあ、やっぱり合わなくて別れちゃった。でも、若い時に一度そういう人と付き合ってみるのもいい経験だと思うよ」
 普段、あまりそういう軽い話が出なかったので、ゼミはにわかに盛り上がった。しかし、経験のない自分は誰とも目を合わせずひっそりと下を向いていることしかできなかった。
 この時自分が悟ったのは、恋愛とフェミニズムは必ずしも重なるわけではないということ。つまり、恋愛というきわめて不定形な現場では、フェミニズムがマニュアルとして使える可能性はかなり低い。俺の通っていた大学は、良く言えばのんびりとした、悪く言えば志の低い人間がたくさん集まっていたので、余計そう感じた。あと、フェミニズムの本を読んでいると、俺自身が責められているような感覚に陥ることがままあり、精神衛生的にまずいと思ったので、手に取らなくなった。これは当事者かそうではないかの違いによって生まれるものだろう。何しろ男は常に加害者のポジションにあるのだから。男のフェミニストでやたら攻撃的な人間がいるが、あれはヴィクトリア朝におけるヒステリーのように、自我を抑圧した結果なんだろうなと思っている。
 結局、自分のことは自分でどうにかするしかないと気づいたわけだが、当時の自分が導きだした答えが、「作家になってモテよう」というはなはだ非常識なもので、それは自分が性格的に会社員に向いていないと思い込み、またそういう生活を軽蔑していたことと、モラトリアムをいつまでも引き延ばしていたいという甘い考えから創出されたのだが、家族には「大学院に行く」と言い、体よく就活を放棄し、しかし実際は大学院なんかに行く気はなく、大江や石原の如く在学中にデビューを目指し怪文書のような小説を書いては行き詰るという毎日を送っていたら次第に将来への不安からノイローゼになり、いきなり英文が読めなくなって例のゼミを無断欠席したため留年が決定し、母親から八時間にわたる「生まなければよかった」式の罵倒を受けるもなんとか大学は続けられることになったが、授業を受けるだけで誰とも会話をしない虚無的な一年を過ごし卒業式も出なかった。そのため、「卒業証明書」を持っているにもかかわらず今でも本当に卒業できているのか不安になる時がある。
 とにかく卒業したのはよいものの、遅すぎる就職活動は全滅で、最終的にある中小出版社にアルバイトとして入社。もちろんコネ作りを狙っていたわけだが、そんな上手い話があるわけもなく、仕事ができ愛嬌もあれば可愛がられもしたかもしれないが、実際は事務のおばさんに怒られる毎日で、契約自体も一年限りだったため、再び行き詰るも、俺が退社する二カ月前に入社した編集者から「暇なら少し手伝わないか」と言われ、貯金を切り崩しつつ仕事をし、同時に小説も書いていたが一次予選すら通過しない惨状で、当時の年収は十万程度(月収ではない)、これを二年ぐらい続けたが、さすがに将来的にまずいということで就職活動を始めたものの、当然上手くいくわけもなく、かなり時間をかけて、なんとか今の会社に潜り込むことができた。就活をしていた頃、ディアドリィ・ベァの『サミュエル・ベケット ある伝記』(書肆半日閑)を読んでいたら、無職、実家住まいで、作家としても無名だった頃のベケットが、母親から早く働けと怒られる場面が何度も出てきて、勝手に親しみをおぼえていたのだが、よくよく考えるとこれはベケットが後にノーベル文学賞を取るほどの作家になったからこそ輝くエピソードなのであって、俺みたいに結果を出していない奴がだらしなく共感することほどアホなことはない。そういえば、俺がかつて働いていた出版社にいた年の近い人たちは、独立して人気ライターになったり、本を出して注目されたりしているが、俺はマッチングアプリのプロフィール欄に「本を出すのが目標です」としか書けない体たらく。あまりにも自分が不甲斐なく、同世代が本を出版したり雑誌にコラムを書いたりしている現実に耐えられなくなり、一時期、本屋に入るのがひどく苦痛だったこともある。そんな俺は嫉妬の塊だった。

 

 彼女と出会った二日後の月曜日、今度は食事に誘った。鉄は熱いうちに打て、というからなるべくすぐ行動に移した。今度は昼ではなく夜だ。すると、十六日と二十三日が空いているというので、十一月二十三日に会うことにした。金曜日だが、勤労感謝の日で祝日だった。場所は池袋にあるかまくら居酒屋(全席個室で、部屋がかまくらの形をしているらしい)。「池袋 デート」で検索したらオススメの店として出てきたので、食べログなどで評判を調べてから、そこに決めた。
 そして、二十三日の朝、
「おはようございます。氷川さん、今日は予定通りで大丈夫ですか?」
「今日は予定通りで大丈夫です!」
 店の予約が十九時で、待ち合わせがその十五分前だった。俺は十八時二十分ぐらいに池袋に着き、暇だったので西武の中にある三省堂に立ち寄った。すると、サブカルチャーのコーナーで、『出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと』という本が平積みにされていた。ダブルスに課金してから三ヶ月で一人という戦果の俺からすると、宇宙人が書いた本に見えた。しばらく三省堂内をうろついていたら、彼女から到着したというラインが来たので、急いで待ち合わせ場所に指定していたいけふくろうの前まで戻った。
「このふくろうの石像の頭の上に猫が座ってたの知ってますか?」
「いや、知らないです」
「大学生の頃、たまたまここを通りかかったら、猫がいてびっくりしましたね。野良猫にしては、結構きれいな猫でしたけど。ああ、こんな感じで」

 とスマホで「いけふくろう 猫」で検索し、出てきた画像を彼女に見せた。
 クリスマス一カ月前だからか、駅前がイルミネーションで飾られていて、サンシャイン方面へ渡る横断歩道の中央分離帯には、巨大なクリスマスツリーが設置されていた。心なしか、街の雰囲気自体も浮かれ始めているような気がする。いや、単に人が多いからそう感じるのか。こういう時期に一人で歩いていると心が荒む。
 通り過ぎる人間の口から真っ白な息が立ち上る。気温はコートが必要なぐらい下がっていて、俺はポケットに手をいれながら歩いた。彼女は緑色の手袋を嵌め、グレーの分厚いコートを着用し、黄土色のマフラーを首に巻いていた。
 店の場所は事前にグーグルマップで予習をし、目印になる場所を全て覚え、地図アプリを開かなくても行けるようにしていた。道に迷う男は間違いなく嫌われるから。
 店は雑居ビルの六階にあり、写真では広く見えた店内だが、実際はそうでもなかった。三角屋根のついた小部屋に入ると、隣との壁の薄さが気になった。押したら、倒れそうだ。周囲も結構、騒がしい。メニューを彼女に渡すと、野菜の牛乳鍋が食べたいというのでそれを注文することにし、
「何か飲みますか?」
「うーん、そうですね……。氷川さんは?」
「えー、お酒とか飲もうかな……。莵原さんはどうですか?」
 自分は普段一切酒を飲まないのだが、こういう場では飲んだ方が盛り上がるのかと思って、そう言った。
「わたしは、ウーロン茶でいいかな」
「じゃあ、僕もウーロン茶で」
「氷川さんって、クラフトビールが好きなんですよね?」
「え、ん、いや、それは俺じゃないと思いますよ」
「あ、そうでしたっけ?」
「僕は普段飲まないんで」
 注文した牛乳鍋が席に運ばれ、煮えるのを待った。ガスコンロの青白い炎が鍋の底を叩いている。静まり返っていた鍋もそのうちにぐつぐつと騒ぎ始める。
「莵原さん、ダブルスで他にも会った人いるんですか?」
「何人かいますよ。有名な商社で働いてる人とか。年収が一千万近くあって、『最近家買ったんだ』とか言ってました」
 おいおい、俺が勝てる要素が一つもないぞ。
「でも、海外旅行の写真とかを突然送ってきて、困ってるんですよ。『すごいですね』とだけ返しましたけど、もう会う気はないですね。なんか性格的にあわないんで」
 よし! ざまあみろ、馬鹿野郎、死ね! 俺の勝ちだ! 男は中身なんだよ!
「ダブルスって、異性のプロフィールしか見られないじゃないですか? どんな男がいるんですかね?」
「ちょっと見てみますか?」
 彼女はおもむろにスマホをこちらへ向け、赤いマニキュアを塗った小さな指でスクロールしていった。彼女にグッドを送った男たちがスタッフロールの如く流れていく。年収六百~八百万、医師、会社経営者……。猿のように歯をむき出しにした笑顔が、勝者の余裕を感じさせてむかつく。俺は「ふーん」とだけ呟いて「大したことないね」という表情を取り繕ったが、内心はライバルの多さとレベルの高さに卒倒しかけていた。まるで、ジェーン・オースティンの小説の世界だ。
 鍋が煮えてきたので、火を弱め、取り分けようとすると、彼女の方から、「私がやりますよ」と言ってきたので、「あ、はい」とそのまま任せてしまったが、ここは強引にでも俺がよそうべきだったかもしれない、と思いつつ一緒に注文していた蓮根チップスをバリバリと食べた。
「あれじゃないですか、結構、グッドとか来るんじゃないんですか?」
 と白菜を噛みちぎりながら言った。食べ方が下手くそなせいで、テーブルに汁がこぼれた。
「来ますね。わりとモテるんですよ」
 そう言って、彼女は少しはにかんだ。
「はあ、なるほど。僕なんか、三ヶ月近くやって、グッド五未満ですよ。羨ましい」
「氷川さんは、婚活パーティーとか行かないんですか?」
「婚活パーティーですか? 友達は行ったことがあるみたいですけど、僕はないですね。趣味があわないとなかなか話もしづらいんで。え、ありますか?」
「ありますよ。職場の人に誘われて。色々な人に会えますね。一度行ってみたらいいんじゃないんですか?」
 さっきから、俺に好意がないことを示すような台詞がいくつも登場して、段々気分が闇の中へ沈み始めていた。まず、酒の話なんかしたことないのに、クラフトビール好きの誰かと間違えていること。それから、婚活パーティーを勧めるのも、「別をあたれ」というサインなのでは?
「そういえば、大学のこととか色々思い出したんですけど、菊谷先生って覚えてますか?」
「ああ、覚えてます。独特な雰囲気があって、学生から人気ありましたよね」
「そうですね、中性的な感じで。三島由紀夫の戯曲を研究してるんですけど、演歌マニアでもあって、そっちの方でも本出してるんですよ。むしろ、文学よりもそっちが本職なんじゃないかって言われるぐらい、詳しくて」
「へー、そうなんですか」
「あと、レポートのコピペを見つけるのが上手いって。それで、前にその人の授業を受けてる時にすごく印象的だった言葉があって、『純粋な恋愛ができるのは大学までですよ』って、不意に何かの拍子に言ったんですよね。女子学生からは、すごいブーイングが起きたんですけど」
「あー、でも、そうかもしれないですね。大人になると、色々ありますからね」
「そうですよね。収入とか、学歴とか……」
「あの……」
「はい」
「同級生だよね?」
「はい」
「じゃあ、敬語じゃなくて普通に喋らない?」
「そうですね。あ、じゃなくて、そうだね」
「同い年なのに、変だったから」
「うん」
「よかった」
 食事が終わった後は、店の近くにあったルノアールに入った。これまで利用したことがなかったから知らなかったが、メニューを見て、値段の高さに驚愕した。これなら、少し離れた場所にある、別のチェーン店に行けばよかったと、財布の中身を思い出しながら後悔した。とにかく、自分はメニューの中でも一番安いブレンドコーヒーを注文し、ありがたみを感じることもなく、むしろドトールが出す二百円ぐらいのコーヒーと何が違うんだと心の中で毒づきながらちまちまとそれを啜った。
「休みの日とかどうしてるの?」
「資格の勉強とか、美術館に行ったりとか。あ、最近、ボランティアにも何度か参加してみたんだけど、この前、急に具合悪くなっちゃって、当日に休んじゃったんだよね。そしたら、リーダーのおじさんにすごい怒られて行き辛くなっちゃった」
明るく話しながらも、瞳の奥にはほのかな悲しみがゆらいでいた。
「なんて、言ってきたの?」
「『ボランティアをなめるなよ』みたいな」
「いや、それはしょうがないじゃん。具合が悪くなっちゃったんだからね。嫌ならもう行かなくてもいいんじゃないの。ボランティアだけが人生じゃないんだし」
 とゼミをばっくれて留年した人間の視点からアドバイスした。そういえば、大学の頃、ジョン・アップダイクの『走れウサギ』という小説を読んでやたら共感したのだが、あれも人生から逃げる話だった。
「ありがとう。なんか、楽になったわ」
「そう? なら良かった」
 明日予定があるというので、九時にルノアールを出た。コーヒーの代金は、「さっき奢ってもらったから」と彼女が払ってくれたのだが、彼女の後ろで財布も出さずに会計を待っているのは男として何となく気まずかった。
 駅前のクリスマスツリーの前を通りかかった時、
「そういえば、豊島でもそろそろクリスマスツリーのライトアップが始まるらしいよ」
「へー、そうなんだ」
 豊島大学の正門と一号館の間には、二本の巨大なヒマラヤ杉が対になるように植えられていて、毎年クリスマスの時期が近づくと、これに大量の電飾を巻き、クリスマスツリーにするのが、伝統行事となっていた。その時期になると、大学関係者ではない、カップルとか家族連れまでもが豊島を訪れ、写真を撮っていったりするのだが、恋人のいない人間からするとその華やかさが不快の種となった。大学三年の時だかに、『対訳 コウルリッジ詩集』(岩波文庫)というのを読んだのだが、そこに収められていた「宿なし」という詩がやたら心に沁み、今でもクリスマスの時期になるとその詩が記憶の底からナメクジの如くのっそりと這いあがってくる。

「おお、クリスマス、楽しい日!
まさに天国のお味見だ、
楽しい家庭をもち、愛には愛を
返してもらえる人には」

おお、クリスマス、憂鬱な日、
記憶の投げ矢の針先だ、
心に寂寥を抱えて
人生をひとり歩く身には。

 

「今度さ、一緒に見に行かない? クリスマスツリー」
 なけなしの勇気を振り絞り誘ってみると、
「あ、いいね。見に行こうか。大学行くの久しぶりだし。いつ、点灯するんだろう?」
「確か、十一月の終りぐらいだった気がするけど」
「そっか」
 随分あっさりとOKを貰ったのでいささか拍子抜けしたが、自分がそういうおしゃれなデートができることに何よりも驚いた。これまでの人生において一度もなかったことだ。
 家に帰ると母からまたもや「どうだったの?」
 と聞かれたので、
「次のデートも決まった。豊島のイルミネーション見に行く」
「へえ、随分頑張ったね」
「まあ」
 適当に話を切り上げて、パソコン部屋でデートに使える店を探していると、
「今日はありがとう。楽しかったよ〜。お鍋美味しかったね。おやすみ」
 というラインが彼女から届いた。
「こちらこそありがとう! 今度は豊島のイルミネーション見に行こう! おやすみ」
 次のデートの承諾は一応もらえたわけだが、向こうは俺のことを恋愛対象として見ていないのではという疑惑がむくむくと膨らんだ。イルミネーションにしても、友達と一緒に行くような軽い感覚なのでは? 何しろ、返事があっさりすぎる。また、彼女のダブルスのアカウントを見ていると、時折コミュニティが更新されており、俺以外の誰かとも会っているか、もしくは会おうとしているかのように見えた。マッチングアプリではそれが普通なんだろうが、やっぱり良い気持ちはしない。付き合っているわけじゃないから止める権利も資格もないが……。

 

「お疲れ様です。豊島のイルミネーションの点灯式二十七日みたいですね」
「わざわざ調べてくれてありがとう! 莵原さんは、いつ頃なら都合良いかな?」
「お疲れ様〜。今日歩いてたら、窓から猫が見てました…」
 という言葉と一緒に、家の窓からこちらをのぞく猫の写真が送信されていた。
「ちょっと間が空いてしまうんですが、十二月の三週目はどうでしょうか?」
「お疲れ。猫かわいい! 良い写真だね~。あと、質問なんだけど、三週目って、土曜が十五日の週、それとも二十二日の週?」
「おはよう! 二十二日の週でお願いします!」
「じゃあ、二十二日の十八時頃に豊島の前で待ち合わせして、その後に食事でもいきますか」
「OK。そうしよう!」
「今日、店の予約したんだけど、店の都合で十八時三十分からの予約しかとれなかったから、待ち合わせの時間十五分ぐらい早めて、十七時四十五分でもいいかな?」
「待ち合わせ時間了解です!」

 

 日にちが決まった時点で俺は彼女に告白することを決めていた。どの恋愛指南サイトでも、告白は三回目のデートでするのが一般的と書いてあるし、なにせクリスマスという絶好の条件が揃っているのだから、しない方がおかしい。それに、そろそろ決着をつけてしまいたかった。いつまでも曖昧な関係性を持続させるのはもどかしすぎるから。
 そして、俺は万が一のために、会社帰り、新宿にあるアダルトショップで生まれて初めてコンドームを買った。サイズを見ている時に、「Mサイズじゃ俺には小さいかもな」と思ったが、そこは一応謙虚にMを選んだ。しかし、根が吝嗇なので、もし自分が本当にLサイズの持ち主だったらお金がもったいないな、とレジで千円札を出している間もまだうだうだと悩んでいた。
 帰宅して、鉄板のエロ動画を十分ほど視聴。脳内のエロ・スイッチを入れ、十分に一物を勃起させてから、コンドームの入った袋を箱から取り出す。袋には、裏表間違えないよう、予め「男性側」という文字が印字されていた。慎重に袋の端を破き、いざコンドームを手に取ってはめようとすると、
「うわ! なんじゃ、こりゃ」
 左手にべったりとローションのようなものがついた。慌てて箱の裏側の説明を読むと、「滑らかな挿入感を出すゼリー付き」と書いてある。しょうがないので、パソコンを汚さないように気をつけながら装着しようとするも、うまくはまらない。どうしても亀頭までしか、コンドームが伸びてくれないのだ。まるで亀頭に帽子を被せているような間抜けな状態。
「やっぱり、俺のちんちんがでかすぎたんだなあ。こんなもん無理やりつけたら俺のチンポが壊死するわ」

 とその日はうぬぼれながらオナニーした。
 しかし、翌日、念のためもう一度丁寧に装着し直してみると、今度は普通にはまった。単純に俺の付け方が下手くそなだけだったようだ。俺のペニスは平均レベルでしかなかった。俺はMサイズの男。ミスター・M。

 

 二十二日まで、関係性の炎を絶やさないよう、他愛のないラインを送り続けた。アリサとラインのやり取りをするようになるまで俺はスタンプというものを一度も使ったことがなかったのだが、母親から「女の子とラインするならスタンプがあった方が便利だよ」とアドバイスされ、ドラえもんのスタンプを買って使うようになった。確かに、文字だけだと雰囲気が固くなるが、そこにスタンプを入れると、なんとなく親密になったような気もしてくるし、返事に困った時もスタンプで誤魔化せたりする。
 そして、当日。
「今日十七時四十五分に豊島前で待ち合わせで大丈夫だよね?」
「おはよー! 十七時四十五分豊島で大丈夫だよ。正門のところにいるね」
 電車に乗って池袋に向かう間、性欲は各駅停車することなく亢進し続けた。リュックサックの中には、スマホ、財布の他に、コンドームが箱ごと入っていた。好きな相手とセックスをするのだと考えると、嬉しくもあり怖くもあった。いや、それよりも先に告白しなければいけないのだが、告白する場所については完全にノー・プランだった。とりあえず良い雰囲気が生じたら勢いに任せてしよう、みたいな漠然とした計画しか立てていなかった。
 この日までに、俺は予約した店の周辺にあるラブホテルを全て洗い出し、優先順位をつけ、地図も頭にしっかりと叩き込んでいた。しかし、大学周辺がホテル街だったということは、調べていて初めて知った。ということは、みんな授業終りに大学からホテルに直行していたのだろうか。俺の知らないうちに。
 俺は今でも「セックスをしている大学生」に強烈な不快感を持っている。ツイッターとかで、そういう話が流れてくると、苛立たしくなる。高校は男子校だったし周りもオタクばかりだったから童貞であることに引け目を感じなかったが、大学という恋愛とセックスが日常的になっている場所で、それらを一度も経験できなかった悔しさ・悲しさ・劣等感が、卒業してから五年経った今でも怨念のように身体に憑りついてしまっているのだ。
 また、他人の性に対する嫌悪感が頂点に達していたのも大学時代だった。教室ではすまし顔で座っている男女が、別の場所では獣のようにセックスをしているのだと想像すると、ひどく偽善的なものを感じた。潔癖さが高じるあまり、セックスをしているならそういう顔をしろ、と理不尽なことを考えていた。だから、同級生がセックスの話をしているのを聞くのも嫌だった。特に、酒を飲ませてホテルに連れ込んだみたいな猥談が一番嫌いだった。理性が失われた状態でそういうことをするのは不誠実なような気がしていた。だから、自分は告白もセックスも素面でやろうと固く誓ったのだが、そういう機会もなく今に至っている。
 約束の時間よりやや早く豊島大学に着いた。正門前には、今年も家族連れやカップル、大学生が集合し、スマホのカメラでライトアップされたクリスマスツリーを撮影したりしていた。俺はその輪の中で一人たたずんでいた。冷気が顔を叩いた。卒業証明書を会社に提出するため、卒業してからも大学を訪れたことはあるが、夜の大学は五年ぶりだ。しかし、ノスタルジーに浸れるほどの思い出が俺にはなかった。
 ジャケットのポケットに手を突っ込んだまま所在なげに立っていると、「氷川くん?」と声をかけられた。声の方向に顔を向けると、赤い唇が目を刺した。彼女は手に紙袋を下げていた。
「あ、莵原さん」
「きれいだね、クリスマスツリー」彼女が喋ると、水晶のような息がもれた。
「そうだね」
「中に入る?」
「ああ。それ持とうか?」
 俺は紙袋を指さした。
「いや、大丈夫」
 クリスマスツリーを見上げると、ツリーのてっぺんに煌々と輝く星の飾りがついていることに気がついた。大学に在学した五年間、なるべく視界に入れないようにしていたので、そんな飾りがついていることすら知らなかった。彼女は俺の横でツリーの写真を撮っていた。ツリーに蛇の如く巻き付いた電飾から放たれる赤色と黄色の光が、青白い空の中に溶け込んでいる。多くの校舎は、人がいないのか、電気が消えていた。
「まだ予約まで時間あるし、少し校内歩いてみようか」
と提案した。
「うん」
 クリスマスツリーの間の歩道を歩いていると、教会の方から薄っすらとハンドベルの演奏が聴こえてきた。バッハの「主よ、人の望みの喜びよ」だった。そういえば、入学式の時もハンドベル・サークルが演奏を披露してたな。そんなことが記憶の沼から『地獄の黙示録』のウィラード大尉の如く浮き上がってきた。卒業式は出ていないので、何があったかは知らない。
 一号館を抜けると、人はほとんどいなくなった。二人だけでゆっくり大学の敷地を歩いた。奥に行けば行くほど暗闇は深くなり、静寂が増した。完全に二人だけの世界だった。俺は猛烈に手を繋ぎたかったが、その勇気が出なかった。ここで告白して失敗したら、その後の食事が気まずくなると思い、躊躇せざるをえなかった。ポケットに突っ込んだ手は葛藤という名の汗で湿り始めていた。俺は欲望を鎮めようと、爪が食い込むほど自分の手を強く握りしめた。
 プラタナスが生い茂る薄暗い並木道を歩いていると、左手に四号館が現れたので、
「あそこのトイレで前に酷い目にあったんだよね。個室に入ったらさ、隣にも誰かが入って、ウォッシュレットを使い始めたんだけど、俺の方もなんか変な音がし始めて、ズボンを上げながらなんだろうと思ってたら、急にこっちのウォッシュレットも作動してさ。ちょうど俺の顔にウォッシュレットの水が噴射されて。それで、慌てて横に避けたら、しばらく壁に向かってウォッシュレットの水がかかっちゃって」
「え、それで、どうしたの?」
「いや、その日はもう帰ったね。豊島のトイレってさ、古い校舎だと変なのが多くて、荷物を引っかけるフックがなかったりとか、個室がせますぎて荷物を膝に置かなきゃいけないとか、そんなひどいトイレが結構あるんだよな。俺らが卒業する頃になってようやく改修されたけど。そしたら、男の個室にも音姫がついていて、『これが噂の音姫か』と思ってちょっと感動して。だけど、男で使う奴はまったくいないね。使ったら逆に目立つよね。俺は他に誰もいない時に試しに使ってみたけど、誰もいない時に使っても意味ないよな」
 と馬鹿みたいな話をわめきながら歩き続けた。本当は大学生の時に、こうやって女の子と二人で夜の大学を歩きたかった。悲しいことに、昼の時でさえ、女と二人きりで歩いた記憶がない。俺は叶わなかった青春の穴埋めをしているのだろうか。
 端までたどり着いたので、来た道を引き返した。途中で第一食堂が視界に入った。レンガ造りのこの建物も大学の名物らしいが、昼休み前からどこかのサークルやゼミの人間が占拠しているので、自分は一度も入ったことがなかった。そもそも食事自体ほとんど一人でとっていた。さすがに便所では食わなかったが、顔見知りに会わないよう、わざわざ西口から東口まで移動したりしていた。授業と授業の間に暇な時間が出来ると行くところがないので、図書館か喫茶店で本を読んでいた。
「ちょっと、トイレ寄っていい?」
 と彼女が言った。
「あ、いいよ」
 東門の近くにある七号館に入った。電気はついているが、中には誰もいない。あまりにも人気がないので、中のベンチに座って彼女を待っている間、少し怖くなった。心なしか、天井から「ブゥゥウン」という不穏な音が下りてきている気がするし、壁もくすんで見える。これで電灯が点滅し始めたらある意味完璧だ。確か、この校舎で英文学史の授業を受けたはず。そこで、オスカー・ワイルドの『レディング牢獄の唄』に少し触れたのだが、後にファスビンダーの『ケレル』というゲイ映画を観たら、「男は誰でも愛するものを殺す」という『レディング牢獄の唄』の一節が歌になっていた。
「お待たせ」
「おお」
 予約時間ぴったりに店に着いた。西口繁華街の周縁にあたる場所で、人通りは少なく、道は暗い。どこかのグルメ・サイトに「おしゃれで美味しい隠れ家的イタリアン・レストラン」と載っていたから選んだのだが、周囲の空気からはそういったことが微塵も感じられず、ゴミが置かれる前のゴミ捨て場のような、淀んだ雰囲気ばかりが充満していた。
 狭い階段を下り、レジの前で名前を告げると、女の店員に誘導されたのだが、さらに二階分も階段を下りたので、ゴボウのように細長い店なんだと思った。地震が起きたらすぐに埋まってしまうんじゃないかという不吉な予感が頭をかすめた。目的の階に着くと、靴を脱ぐように指示された。
 そして、案内された個室というのが、びっくりするくらい狭かった。いや、俺自身が「カップルシート」というのを予約していたからなのだが、特に何も考えずに選んだので、ここまでの狭さだとは想像していなかった。そもそも、個室ではなく本当に「シート」で、壁を三角柱の形にくり抜いて、三角形の真っ白いテーブルをそこにはめ込み、その下に足を入れるようになっていたのだが、幅が狭すぎて必然的に相手との距離が近くなる仕組みになっていた。確かに物理的な距離は近いが、俺と彼女の間にある心理的な距離はそんなものでは埋められなかった。数センチ腕を隣に伸ばせば、彼女の小さな身体に触れられたが、そんな大胆なことをする勇気もなく、出来る限り端によって距離をとった。動くたびにテーブルや壁にぶつかり、ゴツゴツ、ゴソゴソという非ロマン的な音が出た。
「これ、クリスマス・プレゼント」
 彼女は紙袋の中から、小さな箱を取り出した。
「ありがとう。これ何?」
「ケーキ。今日の昼、友達と一緒に表参道に買い物に行って、買ってきたんだ」
「おー、ありがとう。甘い物好きだからうれしいよ。何のケーキ?」
「フェデリコマテのフルーツケーキ。自分でも食べたけど、結構おいしいよ。身体にもいいらしいし」
「いいね。あ、俺もプレゼント持ってきたよ」
 とテーブルの下に突っ込んだリュックサックを引っ張り上げようとしたら、「ゴン!」とテーブルに頭をぶつけた。
「大丈夫?」
「大丈夫」
 俺は頭をさすりながら、真紅の包装紙に包まれた品物を取り出した。
「はい」
「ありがとう。これ、何?」
椎名林檎が好きだっていうから、ライブのDVD」
「へー、ありがとう。見させてもらうわ」
 店員を呼び、マルゲリータとバーニャカウダ、飲み物にはオレンジジュースとウーロン茶を注文した。テーブルに注文したそれらが置かれると、すぐにスペースがなくなり、テトリスの如く配置に気を使うはめになった。なので、ピザを切り分ける時も、他の皿に手がぶつからないよう、自身の内側に向かって収縮しなければならなかった。
 告白への呪縛、緊張から、何を食べても味がしなかったし、手が小刻みに震えてピザについていたケチャップをテーブルの上にこぼすという失態も犯した。心の中は「告白」の二文字で完全に占拠されているのだが、それを切り出すタイミングがわからなかった。また、「告白」したら、今の状況が全て変わってしまうという怯えから、自らそれを引き延ばしているところもあった。それで、
「前に、野本って友達と二人でファミレスに行ったらさ、『デザートは食後でよろしいですか』って聞かれて、誰だって食後に頼むから、儀礼的な質問だと思ってたんだけど、野本って奴は、『食前で』って答えて、飯の前にデザート頼む人間が本当にいるんだなって思ったね。だから、あの質問は意味があるんだって。それで、俺がハンバーグ食ってる間、あいつはアイスを食べてたんだけど」
 とおよそクリスマスには似つかわしくないエピソードを自分から話し、その場の空気を恋愛的なものから引き離そうと試みもした。そうして、俺が無理に笑いを引き起こそうとしている間、彼女の方は段々と瞼が下がってきていた。
「眠い?」
「あ、大丈夫。ちょっと、朝早かったから」
 徐々に話題も尽きていき、二人とも黙り勝ちになった。ますます、告白しなければというプレッシャーが重くのしかかった。愛ではなく殺人を告白しそうなぐらい、深刻な感じが身体から滲み出ていた。自覚できるぐらい、思いつめたような苦しい表情をしていた。そんな俺の隣で彼女は少し船を漕いでいた。
「そろそろ出る?」
「うん」
 レジで会計を済ますと、一組のカップルが入店してきた。
「空いてますか?」
「もう、予約で一杯なんですよ」
「あー、そうなんですか」
 予約ぐらいしとけや馬鹿野郎と思ったが、向こうはなんだかんだでこの後ホテルにでもしけこんで上手くやっていくんだろうなという嫉妬混じりの黒い妄想が湧き、勝手に憂鬱になった。階段を上がり店を出ると、
「この後、どうする?」
 と彼女がやや上ずった声で言った。
「二人きりになれるような場所に……」
 繁華街の喧騒に消し飛ばされそうなほどの小声で呟いた。もちろんこれはラブホテルに行こうという打診であった。面倒な告白をすっ飛ばして、次の段階へ強引に突破しようとしていた。
「ねえ、コーヒー飲みに行こうよ、コーヒー」
 俺の不気味な態度と異常な眼光に気づいたのか、唐突に明るい声を出した。
「じゃあ、ちょっと調べるよ」
 俺はグーグルマップで近くの喫茶店を調べた。
「向こうの方にあるね」
 そうして、中年のマスターとバイト、二人きりしかいない純喫茶に入った。店の真ん中には、理科の実験で使うような、巨大なコーヒーサイフォンが飾られていた。また、レコードでジャズがかけられていたが、その手の音楽に明るくない俺は、それが何の曲なのかはわからなかった。コーヒーが運ばれる頃には、ホテル行きを諦めていたので、やや気分が落ち着き始めていた。カフェインも神経を昂らせることはなかった。
椎名林檎のライブとか行ったことあるの?」
「まだないんだよね。なんか好きすぎて、実物を見るのがもったいないような……」
「そうなんだ。どこらへんが好きなの?」
「もう四十歳なのに、未だにエロティックな衣装着たりしてすごいなって。女を楽しんでる感じがかっこいいよね」
 しかし、これまで見てきた彼女の言動や服装は、椎名林檎的なものとだいぶかけ離れているように思えた。恐らく、自分にないものを椎名林檎に見出し、憧れているのだろう。その気持ちはよくわかる。俺も性的に奔放な作家の生き方に羨望の念を持っていたから。また、憧れていながら、それを実践していないところも二人は似ていた。
「『群青日和』のミュージックビデオはエロいよね」
「それって、濡れてるからでしょ」
「まあ、そうだけど。ハハ。なんか、椎名林檎聞いてると、女装したくなるね」
「え、そうなの?」
「うん、そんな気持ちになる時があるよ。したことはないけど。なんか過剰な女らしさを浴びるとそんな感じになるのかもね」
 他愛のない話を暫くしてから店を出た。繁華街の人混みは酒とにんにくの臭いがした。空は薄く濁っていた。俺たち二人だけがシラフだった。時計を見ると、「終電で帰るってば 池袋」どころかまだ九時だ。高校生レベルの夜遊び。繁華街を抜け、西口駅前に着くと、池袋のシンボルであるふくろうの形に刈り込まれた大きな植え込みが目に入った。そこにも電飾が血管のように張り巡らされ、クリスマス仕様となっていた。彼女は駅に直行せず、「きれいだね」と言って、その植え込みに近づいた。俺は彼女の横に立ちながら、「これは告白しろということなのか?」と考え込んだ。そうじゃなきゃ、こんな寄り道はしない。近くを通り過ぎる人もあまりおらず、目立つこともない。俺は求愛の言葉をひねり出そうとしたが、唇が動くだけで、何も起こらなかった。告白したいという強い意志はあるのに、いざそれを形にしようとすると、喉元で言葉が泡のように消滅してしまうのだ。一分経ち、二分経ち、心の底に残留していた勇気を強引に押し出して、
「あのさ、俺たち付き合わない?」

 と言えた。しかし、彼女の方を見ることはできなかった。
「……」
「あ、いきなり変なこと言ってごめん。でも、俺たち、結構気が合うような気がするから……」
「いや、私あんまりそういう経験ないから、どう反応していいのかわからなくて……」
 と暗い表情を浮かべながら言った。
 経験なら俺の方がないぞと叫びたかった。俺にとってここから先全てが未知数だった。出口のない迷路に入ってしまったような気分だ。
 答えが出ないまま、駅に向かい、電車に乗った。当然、会話は少なく、「さよなら」とだけ言って別れた。最寄り駅に着き、コンビニで買った缶コーヒーを自転車置き場の近くで飲みながら、「これはダメだろうな」と確信に近い予感を抱いた。そして、十一時頃、彼女からラインが届いた。
「リクト君、今日は勇気を出して告白してくれてありがとう。私が恋愛対象であるという意思表示をしてくれたのは、嬉しかったです(私も今後それを前提に行動します)。私としては、もう少し時間をかけてお互いを知っていきたいな〜と思います。今度は食事だけではなくて、一緒にどこかへ遊びに行きませんか? あと、椎名林檎のDVDありがとう。豊島のクリスマスツリーもきれいでした。おやすみなさい」
「今日は付き合ってくれてありがとう! 告白に関しては、少し早かったかなと、反省しています。もし、行きたいところとかあったら言ってください! 付き合います! あと、ケーキさっき食べたけどおいしかったです。犬がものすごく欲しそうな目をしていました。これからもよろしく。おやすみなさい」
 彼女から貰ったケーキの箱は捨てずに自分の部屋にとっておいた。生まれて初めて女からプレゼントを貰った記念として。

 

マッチングアプリの時代の愛⑤