マッチングアプリの時代の愛②

 童貞は、大阪に旅行した際、梅田の女装・ニューハーフ風俗で捨てた。詳しいことは「童貞と男の娘」に書いたので繰り返さないが、今後のためにセックスに慣れておきたかったのと、初めての相手はやっぱり恋人がいい、という矛盾をアウフヘーベンさせた結果、女装した男と性交することを選んだ。元々、ボーイッシュな女が好みだったのもあり、あまり抵抗はなかった。
 八月十一日に風俗に行き、風俗が終わった後西川と合流して一緒に食事をした。翌日、西川の他に、親の都合で大阪に引っ越した岸部という高校時代の友人も呼んで、三人で大阪観光をした。前日に、風俗に行ったことはもちろん黙っていた。西川も岸部も、中学時代からの付き合いだから、知り合ってもう十五年ぐらい経つけれど、三人共まったくモテないので、セックスとか恋愛関係の話をしたことがこれまでほとんどなかった。話すとしても愚痴か、彼女のできた同級生への羨望か、そんなことばかりだった。
 行き先は、大阪に詳しくなっていた西川に全て任せた。彼の推薦する洋食店で昼食をとり、道頓堀にある、あのグリコの看板をバックに写真を撮ってもらった。それから通天閣に行き、そこでも写真を撮った。俺のしょぼいスマートフォンだとぼやけた写真になってしまうので、彼のiPhoneを借りた。出来上がった写真を見ると、これまでで一番マシに撮れていたので、ホッとした。
 夏真っ盛りの時期だったので、少し歩いただけでも、シャワーみたいに全身から汗が流れ出た。皮脂で束ねられた前髪の先端から、汗がぽたぽたと落ちた。テレビや新聞でも、連日熱中症について注意が促されていたぐらいで、三人共、これ以上猛暑の中を移動するのは危険だと判断し、観光は午後三時ぐらいに切り上げて、大阪駅まで戻り、俺の新幹線の時間が来るまで、喫茶店でぐだぐだと暇を潰すことになった。
 考えることは皆一緒なのか、ただの喫茶店でさえ、ちょっとした観光地並みに人が並んでいた。席についた瞬間、それまでの我慢が一気に崩壊し、身体がスライムのように溶けてしまった。西川は長身をくの字に曲げて、机に突っ伏し、岸部は口から魂を吐き出した。メニューを見るのさえおっくうだった。少し休んでから、ソーダを注文した。五分後、干上がった喉に冷え切ったソーダを一気に流し込むと、炭酸が全身に沁みわたり、活力がいくらか復活し、額に蛙の卵よろしくびっしりとついていた汗の玉も消えた。
「結婚してぇなぁ」
 西川は近くにいた若い女連中を見ながら濃い灰色のため息を吐いた。
「この年まで独身だと、男も女もヤバい人しか残ってないじゃん」
「まあ、結婚してるってだけで、本当は異常な奴でも、なんとなく常識人に見えるところがあるからな」
 と岸部。
「そうなんだよ。人間としての信用がさ、独身だとない感じがするじゃん。それに、いつまでもフラフラしてるってのも、不安で。俺いつまでこんな生活してんのみたいな」
「俺らどう見ても、結婚していないんじゃなくて、結婚できない人にしか見えないからな」

 となるべく冗談のような口調で言ったが、まるで冗談にはなっていなかった。
「でも、相手がいないどころか、デートすら難しいからなぁ」
「ああ」
 喉元までせり上がってきた陰鬱を強引に押し流すため、半分ほど残っていたソーダをさらにその半分まで飲んだ。そして、
「俺、今日写真撮ってもらうまでずっと自撮りでダブルスやってたけど、一か月でグッド0だったよ。死にたくなったね。というか、死んでたね。社会的に」
「それはまずいな」
「男って、どれぐらいグッドつくもんなの?」
「俺でも一番活動してた時で三十ぐらいかなぁ」
「すごいじゃん」
「デートはできるんだけどさぁ、その先がね。失敗するたんびに、自分がどこかおかしいんじゃないかって思えてくるよ」
「まあ、デートできるだけいいよ」
「婚活パーティーも行ってみたんだけど、女じゃなくて男と仲良くなって終わった」
「ああ」
「でも、遊んでみたいってのもあるよな。遊んだことないまま結婚するってのも、なんか味気ないよ」
「人生を無駄にしたような」
 と岸部。
「お前、ダブルスでコミュニティ何入ってんの?」
 俺が西川に質問すると、
星野源とか」
「お前が本当に好きなのは、サザンだっただろ!」
「いや、サザンだとおっさん臭いじゃん」
「そういう基準なんだ」
「うん」
 と不景気で湿気た生産性のないぐずぐずとした会話が延々と続いた。彼らとだらだら過ごしながら、いつまで自分はこういう生活を続けるんだろうと不安になった。しかも、年々それは強くなっていた。そういう感情は、他の二人も共有しているようだった。みんな焦っていた。この状況で誰かに恋人ができたら、抜け駆けのような感じになってしまうだろうと推測できた。しかし、自分はその抜け駆けを強く望んでいた。

 

 旅行から戻った次の日、突如高熱に襲われ、「性病かもしれない」とパニックになった顛末は『童貞と男の娘』に書いた。幸い熱はその翌日にだいぶ治まったので、西川から送ってもらった写真を二枚ほどダブルス投稿し、自撮りを削除。それ以外に、話題作りのためペットの犬と、お洒落な雰囲気を出すために近所の工場の夜景も、サブとして追加。メイン写真の下にある「一言コメント」という欄に、「大阪旅行に行ってきました」と記入。最後に、五九八〇円支払い、三ヶ月プランに加入。その瞬間、運営からグッド!が三十ほど配布され、やっと俺のマッチングアプリ・ライフが始まるぜ、と鼻息荒く意気込む。
 さて、最初のグッド!は誰に送ろうか、とお気に入りに入れていた女たちを、時間をかけて真剣に再調査する。一か月経っただけでも、何十人もの女がダブルスを退会している。退会したアカウントは、お気に入りから完全に削除されるわけではなくて、ニックネーム・身長・出身地・職種といった項目だけが残り、写真やプロフィールは見られなくなる。なので、「この人誰だっけ」ということが頻繁に起こり、お気に入りを何周かして、ようやく「あの人か」と気づく始末。そして、優先順位を高めに設定していた人がいつの間にかいなくなっていたり、最終ログインが一カ月前とかになっていたりと、ぼやぼやしていた自分を責めることに。
 それでもまだ百人以上の女がお気に入りに残っていたので、やる気そのものを喪失することはなかったが、真面目に考えれば考えるほど「これだ!」という決め手がなく、もどかしいばかりでなかなか進捗しない。
そこで、学歴が「大卒」、年収が「二百万以上~六百万未満」、居住地が「埼玉南部・東京北部」、社交性が「少人数が好き」、休日が「土日」、お酒が「ときどき飲む or 飲まない」、同居人が「一人暮らし」という風に色々条件をつけ、絞り込んでいくことにした。もちろん、これら全てを満たしている人などほぼ存在しないので、あくまで目安だ。なるべく自分のライフスタイルに近い人から選ぼうと思ったが、「一人暮らし」を条件に入れたのは、「女の部屋」というものにものすごい憧れがあったから。二十八歳になっても童貞だった俺にとって、女の家はラスコー洞窟と同じくらい入るのが難しい場所だった。だから、死ぬまでに何とかして女の生活をのぞいてみたかったのだ。
 逆に、これは外そうと思ったのが、年収が「六百万以上」、社交性が「大人数が好き」、結婚に対する意思が「今すぐ結婚したい」、お酒が「飲む」になっている人。年収に関しては、俺が低すぎるので、高い相手とは金銭感覚が合わないだろうと判断したから。酒についても、飲む人間と一切飲まない人間では、人種や性別以上の隔たりがあると考えたので。社交性や結婚観に関しても同様。
 条件をつけて相手を選ぶことは、多くの人間から反発されそうだが、俺としては恋愛に真剣に取り組んでいるからこそ、条件をつけるのだと反論したかった。もし、条件をつけずに相手を選んだのなら、「誰でもいい」ということになり、それこそ不誠実だと思った。それに、大勢の中からたった一人を選んでいる時点で、条件をつけていない人間など一人もいないという考えもあった。本当に無条件で相手を選び出すなら、くじ引きでもするしかない。
 お気に入りの中には、映画や音楽のコミュニティから探し出した人もいたが、グッドを送る相手は、文学好きであることを最低条件にしようと考えていた。なぜなら、話題に困った時、文学なら咄嗟に何か言えそうだったが、他のことになると面白い話ができそうになかったから。それに、数ある芸術の中で自分が一番入れ込んでいたのが「文学」だったというのもかなり大きい。
 そして、夏休み最後の日に、とうとうグッド!を送る相手を決めた。その人との共通点は、三島由紀夫のコミュニティだった。おまけに居住地が豊島区と近く、「実家暮らし」という点以外は、前述の条件をほとんど満たしている。年齢は彼女が二個下だ。容姿も、アンニュイな雰囲気をまとった黒髪美少女といった風でまったく申し分ない。それなのになぜここまで迷っていたかというと、趣味が耽美系に寄っていて、そこがリアリズム好きの俺と違うなと思ったから。それに、レベルが高すぎて、俺なんか相手にされないんじゃないか、という卑屈な空想も頭をよぎった。その時、彼女についていたグッドの数は八十ほどだった。
 まあ、ダメもとで送っとくか、と覚悟を決めてグッド!を送信。翌日、会社での昼休み中、スマホをいじっていたら、「マッチングが成立しました」という我が目を疑うような通知が飛び込んで来た。あまりにも上手くいきすぎてスマホを持つ手がアル中みたいにぶるぶると震えた。おいおい、マッチングアプリ楽勝か? 俺って実はモテるのか? マッチングアプリ万歳!
 その日はいつも以上に定時即帰宅を実行し、凄まじい勢いで自転車を漕ぎ、夕飯を五分で流し込み、パソコンでダブルスのサイトを開いた。確かにマッチングしている。夢じゃなかった。しかし、恋愛経験のない自分は、ここからどう動けばいいのかわからない。ウディ・アレンの『ボギー! 俺も男だ』という戯曲では、冴えない主人公のために、空想のハンフリー・ボガートが恋のアドバイスをしてくれるという設定なのだが、俺にもボガートがいてくれれば、と思わずにいられなかった。とにかく、小一時間ほどメッセージを考えに考え、誤字が無いようメモ帳に下書きし、送ったのが、
「Oさん、はじまして。マッチングありがとうございます。氷川といいます。文学好きなところに共通点があると思い、グッドしました。よろしくお願いします!」
 送信したものを見返したら、「はじめまして」が「はじまして」になっていた。せっかく下書きして推敲までしたのに、こんな凡ミスをするとは。プロフィールに、出版に関わっていたとか書いているのに恥ずかしい。あー、終わった、終わった。絶対馬鹿だと思われる。女はこういう小さいところから男を嫌いになるからな。あー、終りだよ、馬鹿野郎。
 そうやって深く落胆していたら、二日後になってメッセージが返ってきた。
「こんばんは。グッドありがとうございます。文学は私も好きです。ですが、そこまで詳しくはないです。それでも良かったら、よろしくお願いします」
 このメッセージを読んだ時、「そこまで詳しくはない」というところにまず視線がいった。いやいや、ダヌンツィオのコミュニティに入っていて詳しくないというのはないでしょうと心の中で突っ込んだ。その謙遜の仕方に若干引っ掛かりを覚えてしまった。もう少し自信を持てばいいのにと思った。もしかしたら、以前文学オタクに、「あれ読みましたか? これ読みましたか?」みたいな質問攻めにあって、それがトラウマになっているのかもしれないと想像した。
 とにかくマッチングしたのだから、この縁を何が何でも大切にしなければいけない。現時点ではOさんが一番自分の理想に近いのだし、今後他の誰かとマッチングできる保証はないのだから。
 しかし、ここからどうやってデートに誘えばいいんだ? つまらない誘い方をして断られたら一巻の終わりである。だが、デートに行きたくなるような文章や場所ってなんだ? 俺は彼女のプロフィールを暗記できるくらい読み込んでみた。若いけれどもはしゃいでいるところが一切なく、知的な人間を求めていることだけがわかった。知的な人間はどうやって女をデートに誘っているんだ? サルトルとかラッセルみたいなモテるインテリを参考にすればいいのか? 仕事中もずっとメッセージの文面を考えていたら、いつの間にか二週間以上経過していた。あまりにも時間が経ちすぎて、今更どんなメッセージを送ればいいのかさらにわからなくなった。
 もうこれ以上悩むより、一度リセットして、別の人を探した方がいいんじゃないか? そんな考えが幾度となく去来し、「これだけ簡単にマッチングしたんだから、次も上手くいくさ」という楽観的観測を、俺の中の恋愛評論家が呟くようになった。
 それで、Oさんと同じぐらい気になっていた二、三ほどのアカウントにグッドを送ってみた。並行するのが嫌なので、一度グッドを送ったら、最低三日は待った。きれいに一つも返ってこなかった。Oさんへのメッセージを考え続けた二週間、一度も女の方からグッドが来なかったのだから、当然と言えば当然の結果だった。Oさんとマッチングしたのは、完全にビギナーズラックだったのだ。今になって、恐ろしくもったいないことをしたと後悔した。
 一番情けなかったのが、ヘミングウェイの『河を渡って木立の中へ』を読んでいますとプロフィールに書いていた大学生に送って無視された時。大学とかバイト先なんかでいくらでも恋愛できる時期にわざわざマッチングアプリをやっているということは、よっぽど「大人の男」を求めているんだなというのはわかっていて、俺ほど「大人の男」とかけ離れた人間もいないのだが、それでも「もしかしたら」という誘惑に負け、グッドを送り、案の定スルーされた。何が情けないって、大人の女を避けて、知識や人生経験でマウンティングのとりやすそうな学生に走ってしまったこと。しかも、無視されているのだから、二重に情けない。今後大学生には絶対にグッドを送らないと、その時決意した(院生は別)。
 そして、アプリに課金してから一カ月経過したが、未だOさん以外誰ともマッチングしていないという状況になった。そのため、一カ月間、俺は「5グッド!未満」という極めてネガティブな表示を背負い続けるはめになった。その表示が余計に非モテを加速させているような気がしてならなかった。アマゾンや楽天で、評価の低い商品が買われにくいのと同じだ。
 他のユーザーがどんな気持ちでダブルスをやっているのか知りたくなり、5chのダブルス・スレッドをのぞいてみた。マウスのホイールでスクロールしながらざっと百件以上の書き込みを読んでみたが、あまりの男の怨念の強さに気分が悪くなった。書き込みのほとんどが、女に対する罵倒だった。しかも、それがPart100以上にわたって延々と続いているのだから恐ろしい。
 マッチングアプリは、実生活とリンクしていない分、気楽に始められるというメリットがあるが、その反面、ドタキャンなどの出来事も起こりやすかった。しかも、マッチングアプリは基本的に女優位の世界で、多くの男は自分からグッドを送り、「選ばれ待ち」という状況に置かれるから、そもそも自尊心が傷つきやすい状況が整っているのだ。マッチングアプリはよく就職活動に例えられたりするが、この場合、女が企業側で、男は就活生側。男はプロフィールという名のエントリーシートを女側に提出し、書類選考が無事通れば、マッチングということになる。そして、マッチングが成立しても、一次試験、二次試験と、恋人になるための審査は続く。そこで、明確な落ち度がない(と自分では思っている)のに、ドタキャンされたり、急に連絡がとれなくなったりすると、怨恨が醸成される。原因を知ろうにも、ラインがブロックされていたり、度胸がなくて聞けなかったりする。就活でも、原因不明のまま落とされると、かなりむかつくものだ。
 マックス・シェーラーは、『ルサンティマン 愛憎の現象学と文化病理学』(北望社)の中で、「ルサンティマンを引き起こす最も重要な源泉は〈復讐〉衝動である」と言っている。そして、復讐には、「二つの特徴的な要素」が「本質的に備わっていなければならない」と言い、次のように述べる。

 

「まず第一に、即座に生ずる反撃衝動が──したがってまた、それに伴う怒りや憤怒の感情が──少なくとも一時的にか、あるいは一定の時間、〈抑制され〉内奥に押し込められて、そのために、〈ちょっと待て、いまにみていろ〉といった具合に、この反撃作用が別の機会や適当なチャンスが到来されるまで延期されるということがなければならない。第二に、この抑制は、即座に反撃に出ればきっと敗けるであろうという反省や、この反省に付きものの〈無力感〉〈無気力感〉という顕著な感情によって引き起こされるということである。こうしてみると、復讐はそれ自体、無気力感に基づく体験であり、それは常に第一義的になんらかの点で〈弱者〉に関わる事柄である。かくして復讐の本質には、それがいつも〈仕返し〉の意識を含んでおり、したがってそれは単に感情的な反撃ではないということが属していうるのである」(引用するにあたって、傍点と併記されたドイツ語を省略した)

 

 5chの書き込みも、反撃が延期されたことによって発生した復讐心によるものだろう。だから、これらの感情は、相手に直接的な攻撃を加えていないという点で、ミソジニーよりもルサンティマンといった方が近いと思う。極端な例だが、その場で女をぶん殴るDV男は、女に対しルサンティマンを抱えていない。なぜ、DV男に恋人や配偶者がいて、ネットに悪口を書き込む男にいないのかと言えば、そういうことなのだ。罪の度合いで言えば、直接的な暴力の方が大きいが、陰湿さで言えば、ネットでの陰口の方が大きく、オスとしての魅力に劣る。そうした消極的・小心者的態度は、恐らく普段の生活態度からも滲み出ているのだろう。なので、余計悪循環に陥る。また、一度ルサンティマンに囚われると、女の行動全てが悪意そのものに見えてくる。だから、きっかけは一人の女の行動だったにもかかわらず、最終的には女そのものが憎悪の対象となる。日本には、そういう心境を描いた有名な小説がある。夏目漱石の『こころ』だ。
 掲示板でもSNSでも、ネットというのは似たような感情、感覚を持った人間が見つかりやすいので、集団化して、より過激になったりする。中には対立をあえて煽っていくような言動をする奴がいるから、尚更たちが悪い。だから、精神が弱っている時こそ、そういう場から離れるべきなのだ。
 俺はキャッチーな言葉によるアジテーションや、集団で同じ感情を増幅させていくようなことが嫌いだったから、5chのダブルス・スレに入り浸って、愚痴を書き込むようなことはないとほぼ確信できたが、万が一ダブルスで嫌な目にあっても、必要以上に深刻に捉えることだけは止めようと決めた。

 

マッチングアプリの時代の愛③