ウディ・アレンの変身願望とマゾヒズム
1 序論──僕をメンバーにするようなクラブには入りたくない
一九七七年に公開された映画『アニー・ホール』の中で、ウディ・アレン演じるコメディアン、アルヴィ・シンガーが発した「僕をメンバーにするようなクラブには入りたくない」という自虐的ジョーク(元ネタはグルーチョ・マルクス)は、映画を飛び越え、アレン自身の性格を描写するものとして定着した。
もちろん、「クラブ」というのは比喩であり、ここには様々な言葉が代入可能だ。アレンの映画では、ダイアン・キートン演じるアニー・ホールとの「恋愛」を指し示すものとして使われている。つまり、まともな女であれば、自分のような人間を恋人にはしないという意味だ。彼の予想通り、この恋は失敗に終わる。
ここで注目したいのは、シンガーが、「クラブ」そのものを否定しているわけではないということである。彼が否定しているのは、クラブではなく、自分自身だ。だが、彼の否定はそこで終わらず、自分を受けいれてくれるものまで丸ごと否定してしまう。彼の思考は、極めて帰納的だ。シンガーにとって理想的な「クラブ」とは、自分のことを拒絶する「クラブ」である。彼は「クラブ」の一員になることを望みながら、絶対にそれは達成されない。シンガーの思考と行動は循環し続ける。
このジョークの背後にあるのは、謙虚さではなく、卑屈な態度だ。場合によっては相手を不快にさせることだってあるだろう。例えば、芥川龍之介は、「自分のようなものから手紙を貰ふのは御迷惑かも知らないが」という内容の手紙を夏目漱石に出し、漱石が久米正雄を通じて注意したことがある*1。
シンガー=アレンは、常に自分を卑下することで、壁を築き、他人からの攻撃や評価を避けようと努めている。リチャード・シッケルとのインタビューでアレン自身はこう述べている。
(……)ぼく自身は自分の映画に対して批判的だとだけ言っておきたい。ほとんど、毎回、作品が完成する度にすぐ自分では失敗作だったと思う。成功したと思える作品はとても少ないし、どの作品に対しても胸を張って語ったりはしない。(……)このインタビューを目にして、僕の作品を見たことがない人が「へえ、この映画は面白そうだし、深いテーマがありそうだ。見る価値があるんじゃないか」と思うかもしれない。そして映画を見て、「何のことだか、さっぱりわからない」と思うかもしれない。だから予防線を張っておきたいのさ。*2
これがアレン流の防衛術だ。自ら先回りし作品を否定することで、他人からの批判を無効化する。そうすることで、アレンは「言われなくても知っている」と開き直ることができる。彼がここで獲得したのは、「被害者」というポジションだ。彼のこうした気質は、作品の中でもよく表現されている。
アレンは、ヨーロッパ映画を観る前は、劇作家になりたかったと公言している*3。それだけに、これまで発表してきた戯曲の数も少なくない。だが、これまで彼の戯曲について詳細に検討した評論はあまり多くない。それだけに、彼の内面性を、映画だけでなく、戯曲の方向から見ていくのも重要な作業だ。次の章から、より具体的に、アレンの作品に隠されている、彼の特殊な性質を探求していく。
2 変身願望
アレンの作品を解釈する上で重要な概念となるのが、「変身願望」である。前章で引用した彼の言葉から、彼の低い自己評価を読み取ることができるが、そうした性格こそ、「変身願望」へと繋がっていく。自己評価が低いからこそ、他人になりたいと望むのだ。彼のインタビューを読むと、尊敬する芸術家の名前が頻出するが、それもまた「変身願望」の変形である。
この「変身願望」を最もよく表現した戯曲が、一九六九年にブロードウェイで上演された『ボギー! 俺も男だ』(以下『ボギー!』)である。アレン、ダイアン・キートン、トニー・ロバーツが出演したこの舞台は評判を呼び、一九七二年には同じ面子で映画化された(監督はハーバート・ロス)。
『ボギー!』のストーリーを確認しよう。主人公のアラン・フィリックスは、映画に造詣の深いオタク的なライターで、二週間前に妻と離婚し、今はアパートで独り暮らしをしている。アレンはこの男を「繊細で恥ずかしがり屋で、どこか不安定な男で、もう長い間、精神療法を受けていた」と描写している*4。アレンの映画によく出てくるようなタイプだ。また、アランには妄想癖があり、彼の敬愛する俳優ハンフリー・ボガートが、「幻想」として何度も出現する。妄想に出てくるボガートは、『カサブランカ』に出演した時のイメージで、舞台上では、アランに背後からアドバイスを送る役目を務める。また、彼の元妻ナンシーも、同じように幻想として出現し、彼を苦しめることになる。
アランにはディックとその妻リンダという友人がいる。ディックは「美男子で行動派タイプ」であり、アランとは真逆の存在だ。二人は、気落ちしているアランに、次なる相手を探すことを勧める。アランはあまり乗り気ではないが、二人に押し切られるように、恋人を探し始める。そして、その過程で、アランとリンダの仲が急速に深まっていく。リンダは仕事人間のディックに不満を持っていたのだ。
ある日、リンダがアランのアパートに遊びにやってくる。アランは葛藤し、幻想のボガートがアランをけしかける。リンダは「ひどく劣等感を持って」いて、ボガートはそこに付け込むよう巧みに指導する。アランはボガートに従い、「ぼくは、いろんな子と恋をしたけど、君は特別だ」とリンダに思いを告げる。そして、アランの罪悪感を象徴する、ナンシーが幻想として出現し、あわや失敗かと思いきや、最終的にリンダはアランを受け入れる。
翌日、二人はベッドで寝ている。アランは元妻ナンシーの幻想を打ち破る。だが、親友の妻を寝取ったことで、アランは罪の意識を覚える。また、ディックは妻をないがしろにしていたことを後悔し、よりを戻そうとする。アランはリンダとディックの間で、苦しむが、リンダがディックのもとへ戻ることを決意したため、この問題は簡単に解決する。全てが元鞘に収まったところで、この戯曲は終わる。
『ボギー!』は、ハードボイルド映画のパロディでありながら、主人公が「ハードボイルド」的生き方に憧れているという二重の構造を持っている。アランは映画評論家という立場なのだが、『マルタの鷹』を「二週間に十二回」観たと言われるほどに、偏った好みをしている。引用される映画も全てボガートが出演しているものだ。こうなると、批評家というよりかは、狂信者といった方が正しいかもしれない。アランはハンフリー・ボガートになりたいのだ。アランがなぜここまで自己評価が低いのかといえば、それは自己イメージが高すぎるからだ。彼にとっての理想の生き方とは、ハンフリー・ボガートが映画で見せる生き方そのものである。戯曲の中で、ボガートがアランに、女性の扱い方を指導する時、アランは必ず「君だからできるんだよ。だけどぼくは君じゃない。ボガートじゃないんだ」と反論する。そして、その度にボガートは「誰でもできるんだよ。確かだ。君ができないとは思わない」と発破をかける。アランはボガートに依存しきっており、ボガートの言葉がなければ何もできない(現実のウディ・アレンも、セラピー中毒だった)。しかし、ボガートの言葉通り動いたからといって、ボガートになれるわけではない。そこがこの戯曲における、隠されたテーマだ。
アレンの作る物語には一つのパターンがあって、それは幻想の中で生きている人間が、最後に「現実」とぶつかり、元の冴えない生活に引き戻されるという風になっている。『ボギー!』もまた、それと同じパターンだ。アレンが映画脚本を量産できるのも、一つは、このパターンに従って書いているからというのもあるだろう。なので、それを意識してアレンの作品を見ると、結末の付け方に安易なものを感じることがある。『ボギー!』においては、展開によっては泥沼に入り込みそうな不倫問題が、リンダの急な転向により、一瞬にして解決してしまう。アランもまた、彼女に対し執着するところは一つもない。執着心を見せるのはリンダの夫ディックと、アランの元妻ナンシーだけである。つまり、物語の中心から外れた人物だけが、こうした格好の悪い役割を担わされているわけだ。アランがリンダと別れるシーンは、『カサブランカ』のラストをイメージしたもので、「背景に、ピアノ音楽が流れる」という指定まである。最終的にこの戯曲は、パロディを主としていながら、非常にロマンティックな形で終わるのだ。そもそも「パロディ」という表現形式が、「ロマンティック」の裏返しであるとも言えるかもしれない。なぜ、そんな風に見えるのかといえば、「パロディ」対象への憧れが、随所に散りばめられているからだ。自分は「ボガート」になりたいが(変身願望)、彼のように生きることは決してできない、という諦念が、「パロディ」への原動力となっている。パロディと、諦念、羞恥心といった感情は、密接に関係している。
パロディをパロディたらしめるのは、カタルシスを回避するようなストーリー展開である。『ボギー!』では、「世界で一番美しいこと」と表現されるリンダとアランの不倫が、一瞬にして終わってしまう部分がそれに該当する。ここにカタルシス的要素を付け加えるとしたら、「駆け落ち」ということになるが、それだと『卒業』になってしまう。パロディ、ひいてはアレンの作品において重要なのは、目的が「成就しない」ということであり、それは彼のペシミスティックな性格に由来しているのだろう。パロディやユーモアの名手に、悲観的な性格の人間が多いということはよく言われていて、例えば夏目漱石やマーク=トウェインがそうだ。彼らは病的なほど、外部の刺激に対して反応してしまう。そして、それを隠すために、ユーモアを用いる。「僕をメンバーにするようなクラブには入りたくない」というジョークも、そうした過敏さから生まれたものだ。だからこそ、「鈍感さ」を持った人間に、アレンは反発もし、憧れもする。
3 マゾヒズム
変身願望とセットになるのは「マゾヒズム」である。実は、この二つ、切っても切れない関係性にある。変身願望とは、何かに「変身」することができない人間が抱く欲望だが、そうした願望を抱く人間の多くが、「自分は決して何物にもなれない」ということ意識している。それでも、変身願望を捨てることはできない。彼らは常に、英雄的な人物に憧れ、打ちのめされ続けるだけだ。
ここで言う「マゾヒズム」とは、マゾッホや谷崎潤一郎、村上龍が描くものとは異なっている。彼らのマゾヒズムはもっと即物的で、肉体的だ。だが、変身願望と対になるマゾヒズムは、非常に抽象的で、彼らが傷をつけるのは身体ではなく心である(最も、それが実際の病と結びつき、自傷行動に走ることもあるだろうが)。
精神的マゾヒズムは、状況によって様々な出現の仕方があるが、一つには「期待を裏切る」というのがある。例えば、相手から高い期待をかけられた時、それをぶち壊すような行動を起こし、「私はあなたが思っているほどの人間ではありません」ということを示す。精神的マゾヒストは、自己評価がかなり低いので、相手が自分のことを評価してくれることが、ストレスになるのだ。
一九八一年に発表された自伝的な戯曲『漂う電球』では、そうした精神的マゾヒズムが大いに発揮されている。ちなみに、ケラリーノ・サンドロヴィッチは、二〇〇六年にこの戯曲を演出した際、「アレン版ガラスの動物園」と評した*5。『漂う電球』と『ガラスの動物園』の共通性は、「内気な主人公が家族の期待に応えられない」というところにある。簡単に『漂う電球』の内容を確認しよう。
『漂う電球』の主人公ポールは十六歳ぐらいで、「痛々しいほど内気で、常にうちむき加減で、常にどもり、常に自分の部屋にとじこもってマジックの練習をして」いる*6。『ボギー!』のアランと非常に似通った設定だ。さらにもう一つ、『ボギー!』との共通点をあげれば、それは「女」から抑圧されているということだ。『ボギー!』では元妻のナンシーがそれにあたり、『漂う電球』ではポールの母親イーニッドである(『ガラスの動物園』も、母親が子供を抑圧しているという設定だった)。
ポールの家庭は非常に貧しく、両親は喧嘩ばかりしている。父親のマックスは仕事にあまり打ち込まず、ナンバー賭博にのめり込み、おまけに愛人まで作っている。そのため、イーニッドはかつてIQテストで好結果を残したポールに大きな期待をかけている。そして、ポールの手品の腕を活かすべく、彼女は芸能マネージャーのジェリーを家に招き、テストをしてもらおうとする。実は、イーニッド自身も元々芸能人志望だったのだが、それを諦めた過去を持っている。つまり、自分の叶わなかった夢を、息子に投影しているというわけだ。「自分の理想を押し付ける母親」といのも、『漂う電球』と『ガラス動物園』の共通点である。しかし、ポールはジェリーに会う前から完全に怯えてしまう。そんなポールを見て、イーニッドは叱りつける。
イーニッド いい、ポール、あなたが一番得意のマジックを四つか五つ選んで、名前は「グレート・ポール・ポーラック」にすれば、もうそれが演し物ってわけよ。
ポール いや、だ、駄目だ……で、できないよ。
イーニッド できないって、どういうこと?
ポール ぼ、ぼ、ぼ、僕は準備ができて……
イーニッド 準備は、ばっちりできてるわ。
ポール いや。
イーニッド できる。もう、いつも言いわけばかりでうんざりだわ。チャンスが巡ってきて、それを断るほどの理由なんて、うちにはないのよ。
(中略)
イーニッド マジシャンになるって話はいったい、何だったのよ?
ポール 先の話だ! いつか! じゅ、準備ができたらだ!
母と息子の会話はどこまでいってもかみ合わない。イーニッドはポールを置き去りにしてどこまでも突っ走り、ポールはポールで煮え切らない。『ボギー!』では、ボガートのアドバイスがある程度アランに成功をもたらしたが、ここではそういうことは一切起こらない。ジェニーがポーラック家を訪れた日、ポールは彼の前で手品を披露しようとするが、極度の緊張のため普段のように上手くいかない。そして、結局は大失敗する。自棄になったポールは母親の静止を振り切り、「ぼ、僕をほっといて! じ、地獄に落ちろ!」という激しい捨て台詞を吐いて、自室に閉じこもってしまう。この失敗を描くために、アレンはこの戯曲を書いたような感じすら受ける。そして、その裏には母親に対する恨みが垣間見える。「あんたの言う通りやったけれど、やっぱり失敗したじゃないか」という態度だ。
戯曲の鍵となる部分を「変身願望」と「マゾヒズム」理論で一度整理しよう。さて、ポールはマジシャンに「変身」したい欲望を持っている。しかし、彼の低すぎる自己評価はそれを許さない。一方、母親であるイーニッドは彼を既に(デビュー前の)マジシャンという風に捉えている。ポールからすればそれは許しがたい思い込みだ。だから、彼は「失敗」することで母親に対抗する。目の前で母親が恥をかく姿を見て、内心嬉しく思う。アレンは、「マゾヒスト」の攻撃性について、ここで描いているのだ。ただ、この戯曲が自伝的な要素を含んでいることから鑑みると、いくぶん露悪的ではあるが。ファローはアレンについて、「ウディの心の奥深くには、人生におけるよいもの、明るいものすべてを破壊しようとする何か」
4 アレンとユダヤ性
『漂う電球』が自伝的といわれるのは、家庭環境がアレンのそれと似通っているからだ。アレンは子供時代をブルックリンの貧しい地域で過ごしたが、戯曲もまたブルックリンの貧困地帯を舞台に設定している。アレンの父親も、『漂う電球』のマックスと同じように、定職につけず苦労した経験を持っている。イーニッドの性格は、アレンの母ネッティを誇張したような感じ。そして、ポールが手品にのめり込んでいるというのも、アレン本人のエピソードとぴったり重なっている。ポールの性格も、当然アレンのそれを、反映させたものだ。
また、ポーラックという苗字はポーランド系ユダヤ人の子孫であることを想起させるが、アレンの祖父らも、東欧やロシアからの移民で、迫害から逃れてきた人々だ。ちなみに、東欧から移民してきたユダヤ人たちが主に使用していた言語は、イディッシュ語(ヘブライ語にドイツ語、フランス語などを取り入れてできた言語)で、いわゆるユダヤ・ジョーク的なものはこの言語に多くを負っているが、アレンもまた創作にその要素を活用している。
自伝的ということに話を戻すと、『漂う電球』で問題となるのは両親の扱い方だろう。とりわけ、母親に対しては手厳しい。実際、アレンと母親の間には確執があったと言われている。アレンの音楽活動に焦点をあてたドキュメンタリー映画『ワイルドマン・ブルース』で、彼は両親と不仲であったことを隠そうとせず、それどころか、彼らを非難さえしている。長年のパートナーであったミア・ファローも、「ウディの自分の両親にたいする態度は信じられないほどひどいものだった」と自伝の中で証言している*7。アレン本人は、「子供の頃、毎日おふくろに殴られたんだ」と言う。ファローの自伝の中で、アレンの母は次のように述べている。
あの子はきかん坊だったのよ。そこらじゅうを駆けまわって、いつも服をどこかに脱いできてしまう。じっとしてたことなんか一秒もなかったわ。どうやって扱ったらいいのか見当もつかなかった。あんまりワンパクなんだもの、きちんとしつけなきゃと思ったの。でもあんなに厳しくしていなかったら、今頃もう少し違った人間になっていたかもしれない。もっと優しくて温かい人間に*8
こうした二人の関係は『漂う電球』だけでなく、三話構成のオムニバス映画『ニューヨーク・ストーリーズ』の中の一編、「オイディプス・レックス」においても表現されている。主人公は中年の弁護士だが(映画ではアレン本人が演じている)、今でも抑圧的な母親に苦しめられている。そして、ある手品師のショーに母親が参加したところ、彼女は行方不明になる。母親を探す主人公だが、彼女が消えたことで楽になっている自分に気付く。しかし、消えたはずの母親が、突然空に現れ、再び彼を苦しめ始める。タイトルからも示唆されている通り、これは極めてフロイト的な話だ。「精神分析」はアレンの作品の主要なモチーフであり、『アニー・ホール』や『私の中のもうひとりの私』にも使われている。
口うるさく、抑圧的なユダヤ人の母親、というのは、「ジューイッシュ・マザー」と呼ばれるぐらい、ステレオタイプなイメージである。一九六九年に発表されたフィリップ・ロスのベストセラー小説『ポートノイの不満』(以下『ポートノイ』)は、このイメージを使って創作されている。『ポートノイ』は次のような出だしで始まる。
母という女性は、ぼくの意識の中にとても深く根をおろしていた。それで学校へあがった最初の一年間というもの、学校の先生はどの先生も、ぼくの母が変装しているのだと思いこんでしまったらしい*9
この小説の主人公ポートノイも、母親という存在に苦悩し、彼女の呪縛から逃れられず、延々と悩み続ける。彼は精神科医に向かって、「両親健在のユダヤ人の男は、半分は何もできない赤ン坊なんです。ぼくを助けてください──いますぐに!」と訴えるが、どうにもならない。彼は「ユダヤ性」から逃走しようと、非ユダヤ教徒の女と付き合ってみるが上手くいかず、最後には救いを求めるかのようにイスラエルへと旅立つが、発狂してしまう。彼の行動は全て裏目に出るが、これはいわば、精神的な自傷だ。「ユダヤ性」からの逃走は、「変身願望」を意味し、「発狂」は「マゾヒズム」の最終形態である。そのため、小説は、犠牲者による告発の書、というイメージを帯びてくる。ちなみに、アレンは「ボヴァリー夫人の恋人」(『ぼくの副作用』所収)という、『ポートノイ』をパロディにした短編小説を書いたことがある。アレンもロスもユダヤ系移民三世で、「アメリカ人」にも「ユダヤ人」にもなれない自分を描いているという点で一致している。
ディアスポラによりイスラエル建設以前には祖国を持つことができなかったユダヤ人たちは、異国の地で生き延びるために「郷に入っては郷に従え」式の生活を営んできた。彼らにとって、「耐え忍ぶ」ということは美徳であり、ある種の強迫観念ともなった。一九六〇年に公開された映画『栄光への脱出』は、そうした「耐え忍ぶ」型のユダヤ人像を破壊し、ユダヤ人を英雄として描いたことから、話題になった。原作者のレオン・ユリスは、ロスのことを仄めかすような形で批判したことがあり、ロスもそれに対し「ユダヤ人の新しいステレオタイプ」(『素晴らしいアメリカ作家』に所収)というエッセイで反論している。
アレンの創作に出てくるユダヤ人に英雄は一人もいない。ある環境に対し、不適合を示すような人間ばかりである。彼らは、社会に馴染もうと努力するのだが、その試みはいつも破綻する。一九八三年に公開された映画『カメレオンマン』で、アレンはモキュメンタリーという形式を使い、「何にでもなれるが、何者でもない」という男を描いた。主人公のゼリグは、傍に黒人がいれば黒人、白人がいれば白人に、東洋人がいれば東洋人に変身する。こうしたユダヤ人と変身というテーマは、それなりに伝統がある。例えば、小説ではカフカの『変身』があり、映画ではトーキーの先駆けとなった『ジャズ・シンガー』がある。『ジャズ・シンガー』ではユダヤ系の青年が、黒人に扮装して歌うのだが、このような「民族的アイデンティティのかく乱」は、ユダヤ系アーティストがよく扱うジャンルとなった。ルー・リードが一九七八年に発表したアルバム『ストリート・ハッスル』には、「アイ・ワナ・ビー・ブラック」(黒人になりたい)という曲が収録されている。黒人とユダヤ人は、アメリカにおいて共にマイノリティであり、特に音楽業界において、彼らの文化は融合・発展している。ただ、アレンの作品には、ブラック・カルチャーの影響はほとんど見られない。
5 ウディ・アレンという男
映画や戯曲に出てくるアレンの分身は、果たしてアレンそのものなのだろうか? アレンの作品は自伝的と指摘されることがあるものの、どこか防衛的なところがある。恐らく、随所に差し込まれるユーモアや、露悪的な台詞などが、そうした感想を抱かせるのだろう。アレンの作品は全てが数珠つなぎになっており、それだけを鑑賞していては内部に入り込むことができない。現在に至るまで、ウディ・アレンはウディ・アレンを演じ続けている。最後に、ミア・ファローが、俳優としてのウディ・アレンと、現実のウディ・アレンについて述べた部分を並べてみよう。
俳優としてウディが、映画の中の自分のキャラクターを創りあげたのはかなり早い時期からだったらしい。偉大な哲学的命題から倫理的諸問題など、ああだこうだと案じながら、絶え間なくぶつくさこぼしている中年男。ときには知ったかぶりをしながらも、口を開けばキルケゴールだのカントだのの引用がポンポン出てくる。情にもろい正直者で、なんとも憎めない意気地なし。洞察力は鋭いけれど、相手を怖じ気づかせるようなところはまったくない、愛すべきインテリ*10
精神分析や心理療法は、ウディ・アレンの生活において、むしろ他の人々から彼を心理的に隔離し、いわば異なる現実、彼だけの現実に置いてしまったように思える。それは、ウディ自身が生身の人間として見聞きし感じる現実ではなく、セラピストに意見を求め、太鼓判を押されてはじめて存在しうる現実なのだ。ウディは、彼自身が創生主であり支配者である世界に浮遊して暮らしていた。セラピストという存在は、社会的文脈からまったく隔離された彼だけのその世界の正当性を保証する手段だった。他の人々は彼にとって、彼の世界の周辺を彩る添えものにすぎない。他人の価値は、彼らがウディにとってどれだけ役に立つかでのみ決まる。ゆえに彼は、他人の身になって感じることも出来ないし、誰にたいしても何にたいしても道徳的責任を感じることもない*11
我々はウディ・アレンの作品から何を読み取るべきなのか。ファローの文章はヒントを与えてくれている。アレンの映画や戯曲について、見直すべき時が来ているはずだ。
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*1:小谷野敦『久米正雄伝』一六二頁(中央公論新社 二〇一一)
*2:リチャード・シッケル(都築はじめ訳)『ウディ・アレン 映画の中の人生』一九六頁(原書二〇〇四 エスクァイア マガジン ジャパン 二〇〇七)
*3:同上、一一二頁
*4:文中の引用は、ウディ・アレン(岸田理生訳)『ボギー! 俺も男だ』(新書館 一九八二)より
*5:引用はe+ Theatrix!のホームページ(http://etheatrix01.eplus2.jp/article/42561896.html)より
*6:文中の引用は、ウディ・アレン(鈴木小百合訳)『ウディ・アレンの漂う電球』(白水社 二〇〇六)より
*7:ミア・ファロー(渡辺葉訳)『ミア・ファロー自伝 去りゆくものたち』二五三頁(集英社 一九九八)
*8:同上、二七〇頁
*9:フィリップ・ロス(宮本陽吉訳)『ポートノイの不満』七頁(集英社文庫 一九七八年)
*10:(7)二四九頁
*11:(7)三一九頁
ブルース・ポリング 『だからスキャンダルは面白い』
タイトルを見て気になり、図書館になかったのでAmazonで買ったのだが、正直、期待外れの一冊だった。
文庫本で460ページほどの厚い本で、目次を見ると、「バイロン卿の危険な情事」、「H・G・ウェルズの悪い癖」、「グレアム・グリーンの筆禍騒ぎ」など、魅力的な項目がずらずらと並んでいるのだが、肝心の中身が薄い。基本的に1ページ程度で事件の概要を説明し、次に事件に関わる文章を原典から引用するという形になっているのだが、それがウィキペディア・レベルの情報密度なのだ。「こういう事件があったのか」というカタログ程度には使えるだろうが、詳しい事を知りたい場合にはあまり使えないだろう。あと、西洋の政治家や皇族のスキャンダルが多く、そういった方面にはあまり興味がないので、評価を下げた。
デュウェイン・ホージー 『ワルが目醒めるとき』
君はホージーを覚えているだろうか? あの、97年から98年にかけてヤクルトにいた「面白助っ人外国人」のホージーである。キャンプ中から野村監督に酷評され、まったく期待されていなかったのが、シーズンが始まると予想外の大活躍。結果的に松井を破りホームラン王を獲得し、チームの日本一にも貢献した(同僚の新外国人、ルイス・オルティスは途中で解雇された)。
シーズン前から陽気な性格で知られていたが、シーズンに入ると、ファンから貰ったプリクラでヘルメットを埋め尽くしたり、「太郎」というあだ名を付けられたりして、瞬く間に人気者になった。そのため、98年の4月には彼の自伝が二冊も出版された。『ワルが目醒めるとき』(ザ・マサダ)と『ホージー太郎一代記―1997年ペナントレースの秘密』(雲の間にある虹出版)である。今回、私は前者の方を読んだ。
内容を簡単にまとめると、幼いころ両親が離婚し、ロサンゼルスのゲットーで育てられたホージーが、ブラッズというギャング団に加入し、その後アメフトのプロを目指すも、遊び半分でやっていた野球でスカウトに目をつけられ、ホワイトソックスのマイナーに入団(守備が下手だったのは、野球を真剣に始めた時期が遅かったからだろうか)。メジャーを目指し奮闘するも、メジャー昇格と同時にストライキに直面。ストライキ解除後は、即マイナー降格、成績低迷で、日本行きを決意。オファー自体は94年頃からあったらしく、阪神、ダイエー、広島が狙っていたとか。
自伝の中では、メジャーを狙える選手として、イチロー、佐々木、松井、石井一久、西口を挙げている。選手を見る目は確かだ。
明るい性格だから、日本人ともすぐに打ち解け、カラオケでSMAPの「ダイナマイト」を持ち歌にしていたぐらいだが、落合とだけはダメだったらしい。
本書のタイトルが『ワルが目醒めるとき』になっているのは、ホージーがギャングから更生し、敬虔なキリスト教徒になったからだろう。ギャング時代はギャングスタ・ラップをよく聞いていたらしいが、今はいわゆるクリスチャン・ミュージックばかり聞いているようだ。この本の最後も、キリスト教に関する挿話で締めている。気楽に読める本なので、マイナーリーグとか当時のヤクルトとかに興味がある人は読んでみて損はないだろう。
雲の間にある虹出版はキリスト教専門の出版社で、ホージー自身がキリスト教徒だから、企画・出版されたのだろう。
ホージーといえば、この珍プレー。
翻訳・新訳してほしい本
俺が読んでみたい本を選んだ。小説と作家の伝記が多い。
(間違えて、名前のあいうえお順にしてしまったが、気にしないで)
フィクション・エッセイ・詩
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ウィンダム・ルイス
Tarr (Oxford World's Classics)
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ウォーレ・ショインカ
Death and the King's Horseman: A Play
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S・J・ペレルマン
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エルマー・ライス
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The Yellow Wall-Paper, Herland, and Selected Writings (Penguin Classics)
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In the Beauty of the Lilies: A Novel
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ジョン・オリバー・キレンズ
The Cotillion: Or One Good Bull Is Half the Herd (Black Arts Movement Series)
- 作者: John Oliver Killens,Alexs D. Pate
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ジョン・ケネディ・トゥール
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シンクレア・ルイス
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チャールズ・キングズレー
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ジェームズ・パーク・スローン
シビル・ベッドフォード
ジミー・ブレスリン
I Want to Thank My Brain for Remembering Me
- 作者: Jimmy Breslin
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ジュリア・フィリップス
You'll Never Eat Lunch in This Town Again
- 作者: Julia Phillips
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ジョー・カルドゥッチ
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- 作者: Joe Carducci
- 出版社/メーカー: Redoubt Pr
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Rock and the Pop Narcotic: Testament for the Electric Church
- 作者: Joe Carducci
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ジョーゼフ・フリーマン
ジョイス・ジョンソン
Minor Characters: A Beat Memoir (English Edition)
- 作者:Joyce Johnson
- 出版社/メーカー: Penguin Books
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- 作者: John Doe,Tom DeSavia
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ジョシュ・フランク
Fool the World: The Oral History of a Band Called Pixies
- 作者: Josh Frank,Caryn Ganz
- 出版社/メーカー: St. Martin's Griffin
- 発売日: 2007/04/01
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- 作者: John Carey
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ジョン・B・トンプソン
Merchants of Culture: The Publishing Business in the Twenty-First Century
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スーザン・グッドマン
William Dean Howells: A Writer's Life
- 作者: Susan Goodman,Carl Dawson
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Republic of Words: The Atlantic Monthly and Its Writers, 1857-1925
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Bombshell: The Life & Death of Jean Harlow
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テリー・ティーチュアウト
トム・ダーディス
Firebrand:: The Life of Horace Liveright
- 作者: Thomas A. Dardis
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Masscult and Midcult: Essays Against the American Grain (New York Review Books Classics)
- 作者: Dwight Macdonald,John Summers,Louis Menand
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Erskine Caldwell: The Journey from Tobacco Road
- 作者: Dan B. Miller
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The Angry Young Men: A Literary Comedy of the 1950s
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ピーター・パーカー
ピーター・マンソ
ヒューゴ・ヴィッカーズ
フィリップ・イード
Evelyn Waugh: A Life Revisited
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マーキー・ラモーン/リチャード・ハーシュラッグ
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Edward Albee: A Singular Journey: A Biography (English Edition)
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ライオネル・トリリング
The Liberal Imagination (New York Review Books Classics)
- 作者: Lionel Trilling,Louis Menand
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The Moral Obligation to Be Intelligent: Selected Essays
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Robert Mitchum: "Baby I Don't Care"
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Sinclair Lewis: Rebel From Main Street
- 作者: Richard R. Lingeman
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Martin Amis: The Biography (English Edition)
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The Life of a Long-Distance Writer: The Biography of Alan Sillitoe
- 作者: Richard Bradford
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リチャード・ローズ
リリアン・ロス
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Edmund Wilson: A Life in Literature
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レオン・エデル
ローラ・クラリッジ
The Lady with the Borzoi: Blanche Knopf, Literary Tastemaker Extraordinaire
- 作者: Laura Claridge
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ローレンス・スーチン
Divine Invasions: A Life of Philip K. Dick
- 作者: Lawrence Sutin
- 出版社/メーカー: Da Capo Press
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I Hated, Hated, Hated This Movie
- 作者: Roger Ebert
- 出版社/メーカー: Andrews McMeel Publishing
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Life Itself: A Memoir (English Edition)
- 作者: Roger Ebert
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ロジャー・ルイス
ロナルド・ヒングリー
ロバート・ゴットリーブ
ロバート・M・ダウニング
Eugene O'Neill: A Life in Four Acts
- 作者: Robert M. Dowling
- 出版社/メーカー: Yale University Press
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遠藤周作とグレアム・グリーンの「二重性」
グレアム・グリーンが遠藤周作の小説を称賛したことはよく知られている。二人にはカトリックという共通点があり、彼らの小説を語る際には、よくそのことが言及される。
カトリックであるということ以外に、二人を結び付けている共通点がもう一つある。それは、「裏切り」についての関心だ。グリーンは子供の頃、自分の父親が校長を務めている学校に通っていて、そのため同級生から「校長のスパイ」扱いされ、虐められた。その後、グリーンは第二次大戦時、イギリスの諜報機関の下で働き、実際にスパイとして活動した。そして、『ヒューマン・ファクター』など、スパイ経験を活かした小説をいくつか発表した。
遠藤の方は、「白い人」や『沈黙』といった小説で、「裏切り」について書いた。特に、『沈黙』のキチジローの裏切りについては、多くの人が言及し、彼は遠藤作品の中で最も有名なキャラクターとなった。
グリーンは『おとなしいアメリカ人』といった作品から、一般的には左翼作家として見られているのだが、保守派でカトリックの、イーヴリン・ウォーと親しかった。佐伯彰一は、『わが愛する伝記作家たち』の中で、ウォーはグリーンが本質的には「保守」であることを見抜いていたのではと推測している。グリーンのこうした二重性は、まさに「スパイ」的だ。スパイは敵対する二つの陣営を行き来することが仕事であり、時には自分の意見を180度変えることが求められる。グリーンは「リベラル」でありながら、「保守」からも認められるというポジションを、恐らく「意識的」に獲得した。それは少年時代のトラウマから導き出した処世術かもしれない。グリーンは、同級生に好かれたかったが、かといって父親にも反抗できなかった。彼は相反する二つの意見を飲み込み、どちらに対しても「良い顔」ができるよう訓練をした。その代償として、彼は「裏切り」という行為について非常に敏感になった(と私は推測している)。
遠藤も、政治的には中立に近かった。左翼的すぎることも、右翼的すぎることもなかった(ちなみに、遠藤がカテゴライズされていた「第三の新人」には、保守派が多い)。エッセイではユーモアを強く意識し、狐狸庵先生というあだ名でテレビのCMに出る一方で、『サド伝』の著者でもあった。遠藤が「裏切り」についてこだわったのも、グリーンと同じように、「二重性」を抱えていたからだろう。そして、キチジローに共感する読者もまた、「二重性」を抱えている。二つの派閥の間で、道化師を演じながら生き延びている人ほど、キチジローに共感できるはずだ。多分、グリーンにしても遠藤にしても、本当に恐れていたのは、裏切る裏切らないという行動そのものより、「裏切者」として見られることだったのだろう。遠藤はよく作家にいたずら電話をかけていたというが、大人になってからのそうした道化師的振る舞いは、何だか非常に空虚な感じがある。まるで、「自分は害のない人間だ」とアピールしているかのようだ。
本来だったら、きちんと遠藤とグリーンの伝記を読んでから、この文章を書きたかったのだが、グリーンの伝記は翻訳が悪いという評判があって、あまり読む気になれない(新訳してもう一度出版して欲しい)。また、遠藤の伝記は、一応慶應義塾大学出版会から出ているのだが、どうも身贔屓がありそうで……。
ヒューマン・ファクター―グレアム・グリーン・セレクション (ハヤカワepi文庫)
- 作者: グレアムグリーン,Graham Greene,加賀山卓朗
- 出版社/メーカー: 早川書房
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野村克也と沙知代のコンプレックス
『球界のガン・野村家の人々』という本を読んだ。あの悪名高い鹿砦社から出版された物だ。中身は、南海時代のスパイ野球疑惑、ヤクルトにおける内紛、野村沙知代の横暴といったことが、書かれている。
ミッチー・サッチー騒動の時は、まだ小学生だったので、あまり野村沙知代について記憶がなかったのだが、本書で彼女の巻き起こした様々なトラブルについて読むと、「本当にヤバイ奴だったんだな」というのがひしひしと伝わってくる。
例えば、テレビで古田について「殺してやりたいほど憎い」と発言したり、カツノリが在籍していた堀越学園野球部の監督に「クビにするのは簡単」と恫喝したり、当時石井一久と交際していた神田うのを批判したりと、やりたい放題である。古田と沙知代の仲が悪化したのは、中井美穂と付き合っていた彼が沙知代の持ってきた縁談を断ったことが原因で、そこにカツノリとのポジション争いも加わって二人の関係性は完全に断裂した。そして、野村監督も、沙知代に肩入れし、古田のリードをねちっこく批判した。こういう経緯があるから、古田は恐らく今でも野村について良い感情を持っていないだろうが、我慢して黙っているのだろう。
野村沙知代の悪行については、ケニー野村(ダン野村の弟)が書いた『グッバイ・マミー』が詳しい。この本によれば、彼女は病的な虚言癖とヒステリーの持ち主で、男から男へと渡り歩いてのし上がってきたことがわかる。彼女と野村克也との出会いは、中華料理屋の女主人からの紹介で、結果的にはダブル不倫という関係になった。沙知代は最初、結婚していることも、子供がいることも隠していたらしい。騙されたことに気付いた野村は別れようとも考えたらしいが、結局は付き合い続け(周囲はもちろん大反対し、南海ホークスを追放される原因となった)、沙知代は41歳の時にカツノリを産む(ケニーはこの出産を、『女としての”賭け”だったんじゃないかな』と表現している)。野村は前妻との離婚がまだ成立していなかったので、沙知代との結婚はそれから5年近く経ってからとなった。ちなみに、野村の前妻はその後ノイローゼで若くして病死し、沙知代の元夫アルビン・ジョージ・エンゲルは自殺した。沙知代の周囲は死屍累々である。ケニーの本には、沙知代の信じがたい悪行が縷々として書き連ねられており、一読すると彼女が人殺しをしない角田美代子に思えてくる。
そんな沙知代と、野村監督の相性は意外と抜群だったのではないかと、僕は思っている。野村の発言、例えば、ホークスを一年でクビになりかけた時、「このままでは南海電車に飛び込んで自殺するしかない」と言ってフロントを説得した話や、「長嶋は向日葵、俺は月見草」と言っているところを見る限り、野村のコミュニケーション術とは、自分を常に被害者に見立て、同情を惹くというものだ。つまりは、「卑屈」なのである。恐らく、貧しい家庭で育ち、大学野球が華々しかった頃、高卒のテスト生として南海に入団した経緯が、彼の性格を歪めてしまったのだろう。結果、野村は大卒(特に六大学)の選手に対して異常な敵意を持つことになり、その代表が長嶋茂雄だった。こうした学歴コンプレックスは、沙知代とも共通している。野村が親しくするのは、江夏や山崎武司と言った、高卒の一匹狼タイプの選手だ。野村が「ことわざ辞典」を持ち歩き、それで暗記したことわざを、さも昔から知っていたかのようにメディアに披露するというのはそこそこ有名な話だが、それも大卒への対抗心から来ているのだろう。
野村の卑屈でペシミスティックな性格に対し、沙知代は真逆の自信家だ。野村が受け身な態度を見せるのに対し、沙知代はガンガン攻めていく。こういう卑屈(男)×自信家(女)のカップル・夫婦は意外と珍しくない。例を挙げれば、カート・コバーン×コートニー・ラブ、カニエ・ウェスト×キム・カーダシアン、ジョン・レノン×オノ・ヨーコ、開高健×牧羊子などがいる。だいたい、女の方は悪妻と呼ばれる(今風の言い方だと、「サークル・クラッシャー」か)。ある意味では、そうした女の影響が、創作の原動力となるのだが、そうやって生み出されたものは本音を隠した「仮面」的なものであることが多い。レノンの「イマジン」や、開高のベトナム物などは、現実からの逃避を象徴しているかのように、僕には感じられる。卑屈で自信のない男に共通しているのは、自我を強く抑圧しているところで、それを完全に克服した人間はあまりいない(少なくとも芸術家に関しては見たことがない)。
野村の話からちょっと脱線したが、この夫婦の関係は、精神分析的な意味で興味深い。野村沙知代の実弟が書いた『姉野村沙知代』もいずれ読んでみよう。
アル・パチーノ ローレンス・グローベル 『アル・パチーノ』
アル・パチーノは俳優として優れているというだけでなく、アメリカ文化においても重要な存在だ。『狼たちの午後』、『セルピコ』、『ゴッドファーザー』三部作、そして『スカーフェイス』といった作品を抜きにして、アメリカのポップ・カルチャーを語ることはできないだろう。
そういうわけで、以前から彼の伝記を読んでみたいと思っていて、ネットで調べるとキネマ旬報社から『アル・パチーノ』というタイトルの本が出ていることがわかった。早速、図書館で借りてみると、伝記ではなく、インタビュー集だった。インタビュアーのローレンス・グローベルはマーロン・ブランドのインタビューも担当していて、それを読んだパチーノが、彼を指名したらしい。グローベルは『カポーティとの対話』というインタビュー本も出していて、これはわりと面白かった(酒が入っていたせいか、大悪口大会という有様で、カポーティの女性嫌悪が露骨に表れている)。
しかし、この本に関しては、僕の期待していたようなものではなかった。話の多くが、抽象的な演技論や作品論に集中していて、ハリウッドにおけるパチーノの立ち位置や、彼の生い立ち、それから交友関係にまつわるゴシップにもほとんど触れられていないため、パチーノがどういう人間なのかいまいち掴めない。また、同じ話題を繰り返しているところも多い。アル・パチーノ。クローベルとカポーティの本が面白かったのは、カポーティの話術によるところが大きかったのだと、当たり前のように再認識させられた。
パチーノのキャリアを時系列順に描いた伝記の登場が待ち望まれる。
- 作者: アルパチーノ,ローレンスグローベル,Al Pacino,Lawrence Grobel,松浦伶
- 出版社/メーカー: キネマ旬報社
- 発売日: 2007/08/01
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Pacino: An Actor's Vision (Chinese Coffee / Looking for Richard / The Local Stigmatic)
- 出版社/メーカー: 20th Century Fox
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インタビューの後半では、演劇をテーマにしたこれらの作品に、焦点が当たっている。『リチャードを探して』は、シェイクスピアの『リチャード三世』をめぐるドキュメンタリー。『チャイニーズ・コーヒー』は俳優アイラ・ルイスが書いた戯曲の映画化でパチーノ自身が監督を務めている。『不名誉のローカル』はヒースコート・ウィリアムズの戯曲の映画化。『リチャードを探して』以外は、日本ではソフト化されていない。