80年代アメリカのインディーズ・シーンについて──SSTとブラック・フラッグを中心に──

 80年代初頭、ロサンゼルスを中心に、一つのシーンが生まれた。それがアメリカン・ハードコアまたは、ハードコア・パンク等と称されるシーンである。インディーレーベルSSTとそこに所属するブラック・フラッグというバンドを筆頭に、ロサンゼルスから生まれたシーンは、アメリカ各地に──あくまでアングラなカルチャーとしてだが──波及していった。その影響力は、90年代の、グランジ勃興へと繋がっていく。
 勿論、このようなシーンが自然発生的に生まれたわけではない。ハードコア・パンクという名の通り、80年代以前の既存のパンクロックに、音楽性や主張の点で、その流れの多くを汲んでいる。アメリカからは、MC5、ニューヨーク・ドールズラモーンズ。イギリスからは、セックス・ピストルズにシャム69。80年代ハードコア・パンクも、パンクのパブリック・イメージとしての、反社会、反宗教、反権力をしっかりと受け継いるのだ。
 では、どのようにして、アメリカの若者の間で、ハードコア・パンクと言ったムーブメントが生まれるに至ったのか? それは当時の社会情勢と音楽シーンに起因する。
81年、強いアメリカを求め、大統領がジミー・カーターから、ロナルド・レーガンへと変わった。アメリカ国内では、フェミニズムや黒人の権利拡張運動が強まる中、その反動として、保守派のレーガンが、人権を重視したカーターに代わり選ばれたのだ。レーガンが行った規制緩和を中心とした経済政策は、郊外に住む若者に利益を及ぼすことはなく、フラストレーションが彼らの間で徐々に高まっていった。
 また、70年代後半から80年代初頭に、メジャーシーンを占めていたのは、ディスコであり、ジャーニーやイーグルスといったスタジアム・ロック・バンドだった。煌びやかで、マーケティングされ、大型化した音楽は、郊外の不満を抱えた若者に共感をもたらすことはなく、代わりにDisco Sucksと言った標語が生まれ、彼らの仮想敵とさえなった。
 当時、ロサンゼルス郊外に住んでいた、ブラック・フラッグのギタリスト、グレッグ・ギンは、郊外の倦怠と退屈の渦の中に身を埋めながら、新しい音楽を創造しようとしていた。オリジナル・パンクの面々──ストゥージーズやピストルズは、彼の世代の音楽として捉えるには、少しばかり上だった。そのため、ギンは自分たちの世代の音楽を作ろうと試み、ブラック・フラッグを結成し、レコード会社SST(余談だが、ニルヴァーナのフロントマン、カート・コバーンはここからCDを出すことが夢だった)を作ったのだ。これは、DIY(Do It Yourself)という概念として、インディーズシーンに爆発的な影響を及ぼし、彼を真似て、次々とインディーズのレコード会社がアメリカに生まれた。その多くが、今でも存続していて、アメリカのインディーズシーンを引っ張っている。
 元々、SSTはギンがラジオ等の電化製品を販売するために興した会社だったが、すぐに電化事業は廃止され、ブラック・フラッグの曲を製造・販売する、レコード会社へと変貌した。毒気が抜け、均一化しつつあるロックに嫌気がさしたギンは、既存のレコード会社に頼ることなく、自らの理想とする音楽を、自らの手で配給することにしたのだ。
 ブラック・フラッグはギタリストのグレッグ・ギンを中心に76年に結成され、81年までは、リード・ヴォーカルを固定できなかったため、シングルしか作ることができず、アルバムに着手できずにいた。81年までに、ヴォーカルは3回変わり、多くの場合人間関係のトラブルが原因だった。そして、最後にヴォーカルに内定した、ヘンリー・ロリンズこそハードコア・パンクのイメージを体現していくこととなる。
 ハードコア・パンクを乱暴に解釈すれば、パンクに元々付随していたイメージを、より加速させたものとして捉えられる。例えば、その暴力性だ。ロックのカタルシスとして、その大部分を担うのが、破壊的な衝動である。ザ・フーのようにギターを壊したり、イギー・ポップのように、体を傷つけたりと。また、過激な歌詞によるアジテーションも、ロックの一部だ。こうした諸々を、ハードコアは一手に引き受けるのだが、唯一、これまでの現象と異なるのが、観客の反応である。UKパンクの中で、ポゴダンスと呼ばれる、激しい動きが観客に共有されたが、そこに更なる暴力性を加えたのが、ハードコア・パンクであった。観客は、音楽から得る破壊衝動を、そのまま同じフロアにいる人間にぶつける。ステージ上からのダイブ、大人数でのモッシュ、人の上に塔のように重なっていくパイル、こうしたアクションはハードコア・パンクのライブでは日常茶飯事となり、流血沙汰が絶えなかったが、観客こそがフラストレーションの捌け口としてこうしたライブを求めたのだった。ファッションも、このような動きに合わせて変化し、破れたTシャツ(バンドの名前を入れた自作品)に、ドクター・マーチンのブーツが、シーンでは定番のアイテムとなった。それは、ライブにおいて、臨戦態勢であることを示す意味合いもあった。
 ブラック・フラッグ、特にヴォーカルのヘンリー・ロリンズが、こうしたハードコア・パンク内の暴力性を培った張本人であることは否めないだろう。彼のマッチョな肉体とスキンヘッドはシーンにおける男らしさの象徴となり、フォロワーが続出した。ステージ上では、ロリンズに対して暴行を働こうとする人間が現れ、まともなライブが行われることはあまり多くなかった。良くも悪くも、ブラック・フラッグはシーンにおける先導者であり、ブラック・フラッグの動向を知ることが、シーンの先端を行くことを意味した。
 音楽性において、ブラック・フラッグ、ひいてはハードコア・パンクは、速さをもっとも重要視した。ほとんどの、曲は3分以下であり、1分足らずで終わるものも少なくなかった。単純なパワーコードで構成される曲は、ギターソロが極力排除され、2ビートで疾走し、サビもないに等しい。ギターは、アンプに直で接続され、極端に歪んだ音にセッティングされた。上記のようなハードコア・パンクメソッドは、レコーディングよりも、ライブを重視した結果でもある。ライブは曲を練り上げる場所でもあり、レコーディングでは一発録音が推奨された。機材やレコーディングに関しては、バンドに金が無かったのも大きかったが、こうした方法論は、ある意味、ロックに対する先祖帰りとも言えるだろう。とにかく、ハードコア・パンクは、人間の原初的な感情を、表現するのにはうってつけのツールだったのだ。
 ブラック・フラッグが、シーンのトップを射止めるに至ったのは、精力的なツアー活動の賜物だった。彼らは、DIYのモットーの下、自分たちで、会場をブッキングし、機材を搬入し、バンを運転し、レコードを手売りした。今となっては、当然とも思える行動だが、彼らは、あの広大なアメリカ本土を、たった4人で駆け巡ったのだ。ネットもなかった80年代、彼らは口コミだけで、その評判を広め、パンクの根付いてないような田舎まで、絨毯爆撃的に踏破した。それまで、LA限定だったパンクコミュニティは、アメリカ中に拡散し、至る所で、バンドを結成する若者が増えた。ブラック・フラッグは、1年で200回ほど演奏をこなしたが、収入はよくて1日100ドルほどであった。これは、ガソリン代程度にしかならず、泊まる部屋もない彼らは、ファンの家の廊下で休んだ。ツアーは、彼らにとって肉体的にも精神的にも大きな負担であったが、労働こそ、SSTというレーベルの美徳だった。彼らは、ブルーカラー的価値観、質素・倹約・労働なるものを、行動の指針においていた。それは、SSTに所属していた他のバンドにも適応され、中でもミニットメンというバンドはそれに准じて、労働者階級の心情を歌うことが多かった。実際、当時のパンクシーンには、労働階級出身の人間が多かったのだ(グレッグ・ギンはUCLA卒だったが)。
 ブラック・フラッグが、音楽性や価値観も含めて作り上げていったハードコア・パンクシーンだが、問題がなかったわけではない。上にも少し述べたが、その過激な暴力ゆえの排他性が、シーン全体を衰退させる一因となった。ロック全般に言えることかもしれないが、女性の入る隙間がなかったということである。男たちは、暴力によって、ホモソーシャルを築き、ホモフォビアミソジニーがそこでは共有されることとなった。女性はシーンの一員というよりかは、欲望の対象でしかなかったのだ。同性愛者も攻撃の的となり、そこでも暴力的な手段が幅を利かせた。ハードコア・パンクは、人種的マイノリティに関しては比較的オープンではあったが(ホワイトパワーを謳うバンドもあった)、性差に関しては恐ろしく閉鎖的だったのだ。
 ハードコア・パンクシーンに巣食う排他性は、徐々にシーンそのものを疲弊させていった。束縛から逃れるために生まれたハードコア・パンクだったが、今や規則に縛られ、多様な価値観が失われつつあった。そうした、状況にもっとも早くNOを突きつけたのも、ブラック・フラッグだった。彼らは、ファースト・アルバム以後不在となっていたベーシストの後釜に、女性を加入させたのだ。それ以前にも、ブラック・フラッグは変化の兆しを見せていた。セカンド・アルバムでは、レコードのB面に、ブラック・サバスに影響を受けたと思われるような、スローでメタル風の楽曲を組み込んでいたのだ。勿論、ブラック・フラッグのこうした行動に、それまでのファンは大いに戸惑うこととなった。しかし、ブラック・フラッグは、硬直したシーンに見切りをつけ、前進することを選び取ったのだった。
 ギンが経営するSSTは、音楽的に、ブラック・フラッグのみならず、バラエティ豊かなレーベルだったと言える。前述したミニットメンは、イギリスのワイヤーの影響を強く受けた上で、そこにファンク的アプローチを上乗せしていた。パンクとは対極的なカッティング奏法は、技術的にも他のロックバンドと遜色なく、ベースとドラムのリズム隊も良い味を出していた。ミート・パペッツというバンドは、ハードロックとカントリーとペヨーテによる幻覚を融合させたようなサイケデリック音楽を作り出し、ハスカー・デューは、硬質なギターサウンドを聞かせた。だが、これらのバンドが、80年代に一般に売れることはなく、またハードコア・パンクシーンにおいても、難解であるとされ、ブラック・フラッグ以外のバンドは異端視されるような状況だった。
 80年代も後半に入ると、シーンは溶解した。バンドの質は下がり、形骸化したルールだけが残った。止めを刺したのは、ブラック・フラッグの解散だった。86年、マリファナを大量に常習していたギンは、被害妄想と自我を膨れさせた結果、ブラック・フラッグという形態が、ギタリストとしての自分の表現方法に合わなくなっていると判断した。この頃になると、ブラック・フラッグのライブでは、ギンのギターソロが延々と響くようになっており、初期のブラック・フラッグとはまったく別のバンドと化していた。
ギンは、レーベル経営にも興味をなくし、所属していた優良バンドが次々と、SSTを離れた。ミート・パペッツ、ダイナソー・ジュニア、ソニック・ユース。特にハスカー・デューがワーナーと契約したことは、シーンにおける大事件だった。彼らを非難する声があがり、シーンの統率は失われていった。
 こうして、ハードコア・パンクシーンは、下火になってはいったものの、ソニック・ユースダイナソー・ジュニアが、ここから生まれたように、90年代のグランジ誕生に、大きな貢献をしたことも事実である。中でもニルヴァーナは、ブラック・フラッグに影響を受けたことを公言してはばからなかった。SSTはインディーズシーンに、1つの光を照らしだし、素人でもレコードが作れ、ライブが行えることを証明したのだった。

 

参考文献 

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