増井修 『ロッキング・オン天国』

 1972年8月に創刊された『ロッキング・オン』は、もともと素人による投稿を中心とした音楽批評誌だった。それが創刊者渋谷陽一の才覚によって、売れ行きを伸ばしていき、76年には『ロッキング・オン』を正式に会社化、社員数2名ながら出版業界に本格的に乗り出していく(82年に、株式会社に改組)。長崎励朗によれば、「七〇年代の終りから八〇年代にかけて」、『ロッキング・オン』は、海外誌から記事を買い取るなどして、当初の「ミニコミ路線」からの脱却を図り、「『二万字インタビュー』を目玉とする現在の形へと少しずつ」近づいていった、という*1ミニコミ時代、読者に最も影響力を持っていたのは、『ロッキング・オン』の創刊に携わり、評論・訳詞などを寄稿していた岩谷宏だが、路線変更と共に彼もフェイド・アウトしていった。

 増井がロッキング・オンで働き始めたのは1980年。大学3年の冬に、ロッキング・オンの第一回社員公募に応募したことがきっかけだった。当時の社員は、彼を入れわずか4人。しかし、ここからロッキング・オンは「会社」として発展していく。

 ミニコミ路線から情報誌・音楽誌路線へと『ロッキング・オン』が向かう中で、力を発揮したのが増井だった。何せ社員公募に応募する際、「これからのロッキング・オンは、とにかく岩谷宏は書いてるような観念主義はもういいから、金儲けに走らないと面白くもなんともねえよ」と書いて送ったぐらいで、その理念はミニコミ・岩谷色を払拭しようとしていた当時の渋谷と合致していた。また、渋谷はその頃、ロックよりも黒人音楽に興味を持つようになっており、増井が入社した当初から「もう実務は全部任せるんで、1年後には編集長やってくれや」というような話も出ていたらしい。

 実際に、増井が集長に就任したのは入社してから10年後、1990年5月号から(表紙はザ・ザ)。増井は80年代の『ロッキング・オン』について「極端なこと言っちゃうとたしかに宗教誌だった」と言い、編集長になってからは、読者の投稿がメインだった同誌を、「期せずして『音楽誌』にしてい」った。「マニアでないことにかけてはおびただしい情熱がある」という増井の性格が、路線変更に大きな役割を果たしたのだ。増井自身は次のように述べている。

 

批評を頑張ってたくさん書くよりミュージシャンのインタビューをちゃんと自前で取りましょう、写真もしっかり撮影しましょう、いい取材をとれる環境を整えましょう、細かい読者ページもきちんと作りましょう、もっと読者サービスもやりましょう、それから広告は貴重な情報だし賑やかしだから必要ですって、そういう方向性を持ち、結果として『ロッキング・オン』は必然的に「音楽雑誌として」充実していくことになったわけだ。(『ロッキング・オン天国』 p.104)

 

 増井が入社した時、『ロッキング・オン』の固定読者は約3万人だったが、96年には印刷部数を10万部まで伸ばすことになる。増井の絶妙なビジネス感覚と洋ロックの隆盛がしっかりと結びついた結果だろう。ロッキング・オン社自体も、97年には40人近い従業員を雇うぐらいに成長していた(2015年には82人に)。

ロッキング・オン天国』には、入社からロッキング・オンでの最後の仕事となった97年6月号までのことが語られている。ちなみに、聞き書き方式で作られているので(相手はロッキング・オン時代の部下、鈴木喜之)、文章は読みやすく、コラムで見せていた増井の個性もいかんなく発揮されている。「ボンベイ・ロール」事件や、ストーン・ローゼズの「極東スポークスマン」になった経緯とローゼズの解散理由、マニック・ストリート・プリーチャーズから取材を拒否されるようになったことなど、当時の『ロッキング・オン』読者垂涎の裏話が、本書では惜しみなく披露されている。ガンズやマニックスといったバンドの本質に迫ったところなども面白い。80年代・90年代のロックに関心がある人は全員必読だろう。ロッキング・オンを辞めた後の話も読みたい。 

ロッキング・オン天国

ロッキング・オン天国

 

 

おまけ 『ロッキング・オン』1997年5月号に掲載された増井修による「編集長交代のお知らせ」の一部

 

 実を言うと、まずラジオ(『ロッキン・ホット・ファイル』)の方が終わり、ロッキング・オンを私の手から手放すことを決めた段階で、私は長期のリフレッシュ休暇をとるべきだと思ったのである。最初にも書いたが、もうロッキング・オンばかりやって17年も経ってしまったのである。確かにバリバリ働いてきたし、それなりの変化ももたらしたつもりだ。しかし、このままヌクヌクとロック畑でやっていったんでは編集者としては所詮、井の中の蛙である。さらにロッキング・オン・セクションだけではなく、会社全体の事を巨視的な観点から眺めることのできる能力も必要とされている。そのためのギア・チェンジとして3ヶ月間という長いリフレッシュ休暇をもらったわけである。

 自分の中で何がどう変わるか今はまだわからないが、一度全てを清算して再び私は一から出直すつもりだ。私個人だけではなく会社そのものもターニング・ポイントにかかっている。そう、もう一皮むけて帰ってきたい。あ、それから今度ばかりはお手紙に何らかの返事を出す余裕もありそうだから、はげましのおたより待っています。じゃ、また。(p.147)

 

おまけ2 『ロッキング・オン』1993年11月号に掲載された増井修の写真(右はレニー・クラヴィッツ

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*1:長崎励朗「『ロッキング・オン』 音楽に託した自分語りの盛衰」 佐藤卓己編 『青年と雑誌の音楽時代』岩波書店、2015年