ノーマン・メイラー 『ぼく自身のための広告』

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 日本において、ノーマン・メイラーはすっかり忘れ去られてしまった。それはここ最近の出来事ではなく、30年ぐらい前から、そんなポジションに入っている。昔は、新潮社から全8巻の全集が出るほどだったのに、後期の大作(Ancient EveningsHarot's Ghost)は未訳のままだ。無論、翻訳された作品も全て絶版である。俺はメイラーのことを、作家としてだけではなく人間としても興味深いと思っている。ここまでエゴを剥き出しにした作家(ウディ・アレンの『スリーパー』という映画でもネタにされている)は、もう存在しないだろう。何せ、メイラーは真面目に自分とドストエフスキーを比較するぐらいだから。彼は「俺がアメリカだ!」ぐらいの気持ちで行動していたし、もしかしたら割と本気で、自分は世界を変えられる人間だと考えていたんじゃないか。本書の出だしに、こんなことが書いてある。「ぼくもまたこの十年間、心ひそかに大統領をねらって立候補しつづけてきた」と。今こんなこと言う奴がいたら、恐ろしいまでの嘲笑を浴びせられるだろう。いや、メイラーのエゴが一番肥大していた60年代でさえ、ここまでハチャメチャな奴はいなかった。だけど、メイラーは、『裸者と死者』という傑作を書いた実績があったから、素っ頓狂な発言もある程度許容されていた。ロバート・レッドフォード監督の『クイズ・ショウ』という映画では、「メイラーは天才なのか、馬鹿なのかわからん」という台詞が出てくるけど、まあそういうことなのだ。結局、世間の判断は、「馬鹿」の方に傾いていくわけだけど、「馬鹿」になるのも勇気がいる行為だと、俺は思う。勿論、本当に実力がなければ受け入れることはできないけど。

 とにかく、ここまで派手に転ぶことができるというのもある種の才能だ。敵対していたゴア・ヴィダルもその点は認めている。本書は、メイラーの自意識が大噴火を起こしていて、読めば読むほど味わい深い。特に、同時代の作家を評論している項は傑作で、例えば友人のジェイムズ・ジョーンズについては、「たとえ彼がジンで頭脳を鈍らせたことが、医学的に明白に思えても」なんてことを書いていて、まったく容赦がない。

 後は、何がヒップで何がスクウェアなのか、メイラー自ら分類した表も面白い。当時の文化が、どのような受容をされていたのか参考になると思う。一つ例を出すと、セロニアス・モンクはヒップで、デイヴ・ブルーベックスクウェアということになっている。これは結構わかりやすい。

 自分で自分を広告するというのは、画期的な試みだった。これは、自意識の塊だったメイラーならではの発想だろう。彼は、自作の『バーバリの岸辺』と『鹿の園』が不当な評価を受けていると考え、自らその価値を擁護した。いかに俺がアメリカという国に対し重要な提言を行っているのか、ということを叫び散らした。有言実行ということなのか、メイラーはニューヨーク市長選挙にも出馬したが、見事落選した。

 そうして様々な失敗を重ねていく内に、メイラーはどんどん自分自身から距離を置くようになった。年をとり、大人になったということなんだろう。『裸者と死者』は25歳の若者が書いたとは思えないような客観的な目線で書かれた小説だったが、その成功を受けて書かれた次作『バーバリの岸辺』は、ドストエフスキーに感銘を受けた大学生が書いたような小説で、精神的に明らかに退行していた。それが元の水準に戻ったのだとも言える。

『ぼく自身のための広告』は、評論以外にもインタビューや短編小説、戯曲、ヘミングウェイ*1にあてた超高圧的な手紙まで、実にバラエティに富んだ作品が収録されている。ただ、よほどのファンでない限り、本書を読み通すのは難しいだろう。目次を見て気になったところに目を通すのが良いと思う。

 

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 翻訳家の青山南は、大江健三郎のエッセイ集『厳粛な綱渡り』について、『ぼく自身のための広告』と「作り」が同じである、ということを「文学からみたアメリカン・ポップ・カルチャー」と題した講演の中で言っている*2。恐らく、自分自身の文章に「ノート」(大江)や「広告」(メイラー)という形で、自作解説を施しているところや、バラバラに発表されたエッセイをテーマ別に分類しているところなどに、共通性を見出しているのだろう。ただ、その講演の中で青山は「もちろん中身は違いますけど」とも言っている。実際、大江の場合、収録されているのがエッセイ・批評(と一篇の詩)に限られていて、メイラーほど幅広くはなく、読んだ時の感触は全然似ていない。ちなみに、60年代前半の大江はメイラーに傾倒していて、『厳粛な綱渡り』に収録された「私小説について」というエッセイでは「ぼくは自己告白すれば、ノーマン・メイラーのいうように自己探検の旅を自分の内部におこなうことと、小説を書くこととを統一したいとねがうものである」と書いている。

 雑多さという点で似ているのは、菊地成孔の『スペインの宇宙食』と『歌舞伎町のミッドナイト・フットボール』ではないか。二冊とも建前上エッセイ集に分類されているが、中にはエッセイだけでなく、編集者への手紙や短編小説、日記などが収められている。『歌舞伎町』の方には、文章の前に「解説」というページを設けられているのだが、この手法はメイラーが『ぼく自身のための広告』でやったことと似ている。実際に、菊地がメイラーを読んだことがあるのかはわからない。ただ、『歌舞伎町』には、「菊地成孔の選ぶ100冊の本」という文章が収録されていて、そこにメイラーの名前はないが、『キャッチ22』や『ティファニーで朝食を』等が取り上げられていることから、名前ぐらいは聞いたことがあるかもしれない。

 菊地は「饒舌」や「幼児性」という言葉で語られることがあり、自身もそれらのワードを使うことがあるが、メイラーもまたそうした性格を持ち合わせていて、二人にはいくつかの共通性がある、と俺は思っている。

 

ちみみに、三島由紀夫による『ぼく自身のための広告』評

 

(前略)『ぼく自身のための広告』ね、あれなんか読んでも、なかにはずいぶんおもしろい部分もあるし、小説家としてすばらしい才能もあると思うが、こんなに自分のことばかり話す男はおれはきらいだと思うのだよ。それは告白というものではなくて、告白よりもっと追いつめられたものだな。(「二十世紀の文学」『対談集 源泉の感情』河出文庫、所収)

 

  

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*1:A・E・ホッチナーの『パパ・ヘミングウェイ』の中で、ヘミングウェイはメイラーの『裸者と死者』についてこう言っている。「『裸者と死者』を書いたやつ──何ていったかな、メーラーか──あいつはマネージャーがぜったい必要だよ。作戦を練るとき同僚といっしょに地図を見ない将軍なんて、どこにいる? 文学的でっちあげの薄ばか大将だな。作品全体がタイプライター性下痢症状なんだ」(中田耕治訳)。ヘミングウェイが第二次大戦物で評価していたのはジョン・ホーン・バーンズの『画廊』だったようだ

*2:https://www.rikkyo.ac.jp/research/laboratory/IAS/ras/27/aoyama.pdf