A・E・ホッチナー 『パパ・ヘミングウェイ』

 本書は、作家のA・E・ホッチナーが、『コスモポリタン』の編集スタッフとしてヘミングウェイに会いに行った1948年から彼が自殺する1961年までの交流を描いたメモワールで、ヘミングウェイの晩年の生活を知るうえで大変貴重な資料だ。

 1948年の春、ホッチナーは『コスモポリタン』に「文学の将来」というエッセイを書いてもらうため、ハバナにいるヘミングウェイに会いに行く。そこにいたヘミングウェイはまさしく世間の人がイメージしている「ヘミングウェイ」だった。どっしりとした体格で、食や酒にこだわりを持ち、闘鶏への情熱を語り、船で海に出るヘミングウェイ。ホッチナーは彼に誘われ、一緒に海釣りに行き、そこで仲間として認めてもらう。以後、彼は友人として、ヘミングウェイ夫妻のヨーロッパ旅行に同行したり*1キューバケチャムにある彼の自宅をたびたび訪問したりするようになる。そうしてホッチナーは、ヘミングウェイという人間について深く知るようになっていく。気に入った人間に対しては非常に面倒見が良いが、一旦気に食わなくなると即座に追い払うヘミングウェイ。昔話をする際、ハッタリをかまさずにはいられないヘミングウェイ*2イーヴリン・ウォー*3ガートルード・スタイン*4、ジェームズ・ジョーンズ*5、ウィリアム・フォークナー、ノーマン・メイラーといった作家連中に辛辣な評価を下すヘミングウェイ。また、税金や原稿料を気に掛ける実務家的な面もあった。

 ホッチナーはヘミングウェイとの会話をノートやテープレコーダーに記録していたので、二人のやりとりは本書の中で生き生きと再現されている。二人の会話で最も感動的なのは、当時(1949年)編集者で小説家志望だったホッチナーが、自分もかつてのヘミングウェイのようにパリで執筆生活を送るべきかと質問し、それに対してヘミングウェイが返答するところだろう。ヘミングウェイはまず作家を目指すということについて、「自分に何があるか、ひき出してみるまでは誰にもわからない。何もなかったとか、ほんのわずかしかなかったということになったら、そのショックは一人の人間を殺すに足りるだろう」と言い、作家修行の厳しさについて語ると同時に、「友だちに、ルーレットをした方がいいとか、するなとか、いえないのと同様に、こいつも助言はできないんだ」とも言って、アドバイスすることの難しさについて説明した後、パリについては次のように話す。

 

「これは案内として考えてくれ。これだけはほんとうにおれの知っていることだからね。もしきみが幸運にも青年時代にパリに住んだとすれば、あとの人生をどこで過ごそうと、パリはきみについてまわる。パリは移動祝祭日だからね」(中田耕治訳)

 

 そう、これは『移動祝祭日』のエピグラフにもなった言葉だ。エピグラフで「ある友人」とされているのはホッチナーのことである。ヘミングウェイ没後、メアリー・ヘミングウェイは『移動祝祭日』を構成することになる原稿の編集をしていたが、タイトルを決めるにあたってメアリーはホッチナーに相談した。そして、ホッチナーが上記の話を伝えたところから、『移動祝祭日』というタイトルが決まったのだった。この言葉はホッチナーも仕事で関わっていたヘミングウェイの小説『河を渡って木立の中へ』(1950年)にも使われていて、当時ヘミングウェイのお気に入りだったようだ(ちなみに、『河を渡って木立の中へ』は彼の小説の中でも特に酷評されたことで有名で、『パパ・ヘミングウェイの中でもそれについて触れられている)。

 ヘミングウェイの人生にとって大きな転機となったのは、1954年の二度に渡る飛行機事故とノーベル賞受賞だろうか。負傷した身体は完治せず、周囲の熱狂的な騒ぎにも巻き込まれ、まったく落ち着くことができない。また、健康のため酒をほとんど禁じられ、目も悪くなったことで、ライフスタイルの変更も余儀なくされる。そして、極めつけは、ハバナにあった家〈フィンカ〉から退去せざるをえなくなったことだ。カストロらによる革命によって反米の空気がキューバに充満し、「ほかのアメリカ人がたたきだされて国が中傷されているのに、ここに残るなんてできないよ」ということで──キューバ人自体はヘミングウェイに好意的だったが──彼は家を捨てる選択をした。この家は現在博物館として一般に公開されている。

 ヘミングウェイが晩年、うつ病や妄想に苦しめられたことは知られているが、本書はその様子を細大漏らさず描いている。1954年以降不安定だった体調は、自殺に至る一年ほど前からはっきりとおかしくなった。『ライフ』のために書いていた闘牛についてのノンフィクション(『危険な夏』として1985年に出版)や『移動祝祭日』の原稿に苦戦したり、FBIに付け狙われていると考えたりと、執筆能力の衰退と妄想(後には希死念慮も)が著しくなる。60年から61年までのホッチナーの記述を読むと、死後『移動祝祭日』がまとまった形で出たのは奇跡のように思えてくる。それくらいひどい鬱と妄想に苦しめられていたのだ。60年の11月には、とうとうロチェスターにある内科と精神科を備えたメイヨ・クリニックに一旦入院するが(人の目を避けるため、田舎のクリニックが選ばれた)病気は完治せず、退院から3ケ月後、再入院のため病院に向かう途中皆の前で何度も自殺を遂行しそうになる。この辺りの描写はかなり衝撃的だ。そして、再入院先のメイヨ・クリニックから半ば放り出されるように退院させられると、その数日後にヘミングウェイは猟銃で自殺してしまう。死体を発見したメアリーはすぐさまレナード・ライアンズに頼み、これを事故死であると発表する記者会見をセッティングした。

 下巻には原著がペーパーバックにになった時に追加された「追記」と題された章があり、1966年に出版されたハードカバー版ではあえて触れなかった出来事や、66年以後に起きたトラブルなどについて詳述している。そこでは、ヘミングウェイ死後、妻のメアリーが彼の神格化を目論んだことや(『パパ・ヘミングウェイ』を書いたことでホッチナーはメアリーから名誉棄損で訴えられた)、ヘミングウェイが自殺する数年前から彼らの夫婦仲はかなり悪化しており、激しい喧嘩が絶えなかったこと、評論家のフィリップ・ヤングがヘミングウェイについて書いたその著書の中で、マルカム・カウリーの文章を剽窃をしたこと、などについて書かれている。特にメアリーについての次のような文章は興味深かった。

 

 アーネストの死後、メアリは憎悪を隠さないが、私としては長年親しくしてきた彼女を気の毒に思っている。アーネストが自殺した当時、彼が必死に完成しようとしていた作品は、実質的には最初の夫人、ハドリイにたいする愛の記念だったことを思い出してもらいたい。つまりは、遥か昔の妻への愛の形見をたしかめながら、現在の妻の前で自殺した──これほど痛烈な拒絶があろうか。見かたによっては、一種の恥辱ではなかったか。アーネスト亡きあと、彼の代わりになることを世間に認めさせようとしたのも、残りの生涯をメアリ・ヘミングウェイではなく、アーネスト・ヘミングウェイ夫人として過ごしていることも、その恥辱を乗りこえたい一心からではなかったか。(中略)

 アーネストの死が近づいていた時期、夫婦間のかなり頻繁ないさかいが、ますます深刻化していたことも、あらためてメアリの罪悪感をなしていたと思う。(中略)あるとき、いつにないはげしいやりとりのあと、アーネストが私にコボしたのだった。「あいつと別れられたら、どんなにサバサバするか。しかし、おれも年を食いすぎて、いまさら四度目の離婚となると金が続かない。だいいちメアリのやつ、おれにしがみついてくるだろう」(中田耕治訳)

 

 メアリーが『移動祝祭日』を編集した際、ヘミングウェイの文章をいくつか削除したことは、新潮文庫版『移動祝祭日』の高見浩の解説で触れられている。メアリーが、『移動祝祭日』の原稿の中から、ヘミングウェイの二度目の結婚相手、ポーリーンに関する文章をいくつか削ったのも、ヘミングウェイ神格化の一環に思える。

 とにかく、『パパ・ヘミングウェイ』が、ヘミングウェイを知るうえで非常に大事なメモワールであることは間違いないだろう。ヘミングウェイはホッチナーに小説のモデルとなった出来事についても語っており、その部分も面白かった。また、ヘミングウェイの友人、ゲイリー・クーパーが死の間際に、ヘミングウェイ宛てたメッセージを口頭でホッチナーに託すところではちょっと泣きそうになった。

 本書を読んでヘミングウェイ神話を解体しよう。

 

 ちなみに、ホッチナーが版元であるランダム・ハウスに、この本の企画を出したところ、当初ベネット・サーフは二の足を踏んだのだが、ヘミングウェイ自身が小説やエッセイの中で、ガートルド・スタイン、フィッツジェラルド、シンクレア・ルイスを批判的に描いているということを持ち出して、サーフを納得させたのだった。

 

パパ・ヘミングウェイ〈上〉 (ハヤカワ文庫NF)

パパ・ヘミングウェイ〈上〉 (ハヤカワ文庫NF)

 

  

パパ・ヘミングウェイ〈下〉 (ハヤカワ文庫NF)

パパ・ヘミングウェイ〈下〉 (ハヤカワ文庫NF)

 

  

移動祝祭日 (新潮文庫)

移動祝祭日 (新潮文庫)

 

  

*1:ヘミングウェイがしばしば国外旅行をするのも、一つには外国で所得した収入に対する課税がゼロに近いことと、旅行が必要経費として算定されるためであった」と訳者の中田は書いている。下巻p.190

*2:生前、ヘミングウェイマタ・ハリと性交渉をもったと『アーネスト・ヘミングウェイ、自作を読む』というレコードの中で語ったが、これは今では虚偽だとわかっている。上巻p.150

*3:「つい最近雑誌に出たイヴリン・ウォーのくずみたいな短編よりはずっとましだ」上巻p.48

*4:『アリス・B・トクラス自伝』は嘘が多く、それが出版された時、「ピカソとおれはがっくりきた」とヘミングウェイはホッチナーに語っている。上巻pp.97-98

*5:「おれは、ジョーンズ"大佐"はそう長くもたないと思う」上巻P.131