スチュアート・ケリー 『ロストブックス』

 1922年、ヘミングウェイの妻ハドリーは、スイスにいるヘミングウェイに会いに行く途中、スーツケースを盗まれた。このエピソードが有名なのは、その中に、大量の未発表原稿とそのコピーが入っていたからだ。ヘミングウェイの習作は永遠に失われることになったのだ。

 一方、この出来事は、文学ファンの想像力を掻き立てた。スーツケースはどこに行ったのか? 中の原稿はどんな出来だったのか? 今それが発見されたらどうなるだろう? ジョー・ホールドマンマクドナルド・ハリスといった作家は、ヘミングウェイの失われた原稿をネタにして、それぞれ『ヘミングウェイごっこ』、『ヘミングウェイのスーツケース』という小説を書いた。

 スチュアート・ケリーの『ロストブックス』は、そんな「失われた本」または「未完で終わった本」をめぐるノンフィクションである。扱われているのは、上記ヘミングウェイに加え、ホメロスアイスキュロスといった古典から、シルヴィア・プラスといった現代作家まで(ただし、日本語版は抄訳で、一部の作家が削除されている)。

 非常にユニークな試みで、どれもだいたい面白く読んだが、やはり「失われた本」に関しては、古代の方がエピソード的に豊富である。何しろ昔は複写技術が未熟だったから、本一冊がとても貴重で、プトレマイオス三世は『アイスキュロス全作品』をアテネから借りだす際、莫大なお金を払ったという。そして、プトレマイオスはそれをアレクサンドリア図書館の所蔵にし、二度と返さず、コピーをとることも禁止した。アレクサンドリア図書館は5世紀にキリスト教徒によって襲撃され(『アレクサンドリア』という映画がこれを実写化している)、その際、アイスキュロスの作品も紛失した(ケアリーはアレクサンドリア図書館の破壊をアムル・イブン・アル=アースの手によるものだと書いているが、訳注の言う通り、キリスト教徒による破壊の方が先である)。

 この本の中で、もっとも傑作なのは、メナンドロスの場合だ。メナンドロスは紀元前4世紀~3世紀頃の人物で、古代ギリシアの喜劇作家である。非常に多作で、ユリウス・カエサルプルタルコスが彼のことを評価し、新約聖書にも引用されているのだが、その作品はほとんど失われていた。

 しかし、1905年に彼の戯曲の一部が見つかると、その50年後には、より完全な形のそれが発見された。そして、学者たちの手で復元・翻訳され、1959年、ついにBBCでメナンドロスの戯曲が放映された。当然、誰もがその出来に期待した。だが、結果は……惨敗。『ギリシア神話の本質』などで知られるG・S・カークは、「メナンドロスが凡才じゃないというなら、その理由を教えてくれ」と言ったとか。

 こうして、メナンドロスは実は大したことのない作家だったことが、2000年以上の時を経て判明したのだった(デュオニュソス祭では負けてばかりだったようなので、当時の人間の審美眼は正しかったことになる)。ケアリーはこのことについて「メナンドロスは、作品が行方不明だったあいだは天才だったのに、発見されたとたん、やっかい者になってしまった」と書いている。メナンドロスが多作できたのは、同じような筋を使い回したからで、それが作品をクオリティを下げる一因となった。彼の作品は、テレビのコントみたいなもので、その場で消費され、すぐに忘れられるようなものだったのだ。ベストセラー作家でも、同じような話を量産し、いつしか消えていく人間がいるが、メナンドロスはそれを歴史的な規模でやったのだった。

 

ロストブックス

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ヘミングウェイのスーツケース (新潮文庫)

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アレクサンドリア [DVD]

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ギリシア喜劇全集〈5〉メナンドロス〈1〉

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