俺は伝記を読むのが好きだ。特に文学者の伝記をよく読む。
伝記というのは、そんなにはずれを引くことのないジャンルだと思う。十分な知識を持っていないと書けない分野だし、抽象的な事柄をほとんど取り扱わないから、スラスラと読んでいける。
逆に、つまならい伝記になる条件をいくつかあげてみよう。
①調査不足
これは、もう話にならない。そういう伝記はだいたい作品のあらすじを長々と説明することで、ページを水増ししている。やっつけ仕事だったり、資料不足だったりすると、こういう本が出来上がるのだろう。
②長すぎる
著者が調べたことを全て書き込んでしまっているパターン。どうでもいい細々としたことまで書かれていて、読んでいてだれる。西洋人の書く伝記に多い。800ページとか1000ページぐらいある。研究者が読むぶんにはいいのかもしれないが、一般読者が通読するのはつらい。
③都合の良いことしか書かれていない
身内の手によるものだったり、対象に心酔してたり、周辺の人間に配慮したりした結果、生まれる伝記。芸術家といえど、聖人君子ではないのだから、どうしたって汚い部分は出てくる。そこを描かないのは伝記として片落ちだろう*1。しかし、小学生が読む「偉人伝」のようなものを伝記のあるべき形だと考えている読者もいるから困る。
さて、ダメな伝記の例をあげてみたが、これから紹介するのは、ダメを通り越して、「珍」となってしまった伝記である。最初に言っておくと、俺はこれらの伝記を最後まで読んでいない。というか読めなかった。その理由は引用する文章を読んでくれればわかるだろう。
3位 カトリーヌ・クレマン 『フロイト伝』
5年ほど前、藤野可織の『爪と目』が芥川賞をとった時、地の文で使われている人称が、一人称でも三人称でもなく、「二人称」だったことが話題になった。ある登場人物のことを「あなた」と呼びかけているのである。これはミシェル・ビュトールが『心変わり』という小説で使い有名になった手法で、その後倉橋由美子が『暗い旅』で同じことをしたら、江藤淳と論争になった、なんてこともあった(栗原裕一郎『盗作の文学史』参照)。
クレマンのフロイト伝は、この二人称で書かれた伝記なのだ。
あなたはウィーンの街で大衆の反ユダヤ主義が高まるのを見、大学の選択に頭を悩ませる。あなたは警戒していた! あなたは何もかも知っていた。あなたは思春期に、若い時のヒーローとして、カルタゴの将軍ハンニバルを選びはしなかっただろうか。彼が〈セム人〉であり、〈ユダヤ的な粘り強さ〉の象徴であるゆえに。どこに行ったのか、あなたの粘り強さは。(吉田加南子訳)
まるで機械翻訳のようだが、全編こんな調子である。内容がまったく頭に入らない。パラパラとめくってみた限りでは、どうやら著者はフロイトに批判的らしい。「伝記」となっているが、時系列順には書かれていないので、さらに読みにくくなっている。クレマンは、著者紹介を見ると、哲学者・小説家・伝記作家となっているが、他の本は一体どうなっているんだろう。いや、あまり調べたくないが……。
伝記を書くにあたって必要なのは、知識を除けば、「客観性」だろう。いくら自分の好きな作家について書くにしても、客観的に対象を見ることができなければ、いびつな伝記となってしまう。
楠本によるこのバイロン伝を読み始めた時、俺はすぐに、筆者の客観性を疑わなければならない文章にぶつかった。
三十六歳の短かった生涯を、幾何学的直線をひた走り、行動し、詩いつづけたそのエネルギーの燃焼の瞬発力に、ただ感動し瞠目するのみである。
この伝記が出版された時、著者は71歳である。「文学青年」というのは、71歳になっても治らない不治の病なのだろうか。とにかく、著者はこんな調子でバイロンを賛美し続けていく。「バイロンは気取り屋であるとの評価が一部になされたこともある。愚かしい盲人的対巨像観である」なんて文章もある。いったいどっちが盲人なのか。さらに極め付けなのが、ケンブリッジ時代のバイロンの放蕩について書いたこの文章。
しかし、ケンブリッジを暴走しはじめた大車輪は、もうその歯止めがきかなくなってしまっていた! 軌道修正はできない。その暴走の轍の虚しさも、走るべきそのスピードも、その描く直線も、すでに用意されていたものだった。バイロンは星の子、運命の子!
若者が暴走する! その暴走に不自然な物理的力が他から加えられるとき、その若者は呆気なく、いとも簡単に死をもって自らの生命を断つよりほか仕方がない。暴走か! 死か! 自由か! 発狂か!
暴走しているのはバイロンじゃなくあんたでしょ、と言いたくなる書きっぷりだ。この本、三省堂から出ているのだが、自費出版なのだろうか。ちなみに、著者は第一経済大学(現日本経済大学)の教授だそうです。アンドレ・モロワの『バイロン伝』を復刊するか、誰か別の人がきちんとしたバイロン伝を書いてほしい。
1位 工藤正廣 『永遠と軛 ボリス・パステルナーク評伝詩集』
評伝はわかる。しかし、その後ろについている「詩集」とはいったいどういうことなのか? ただの伝記ではないのか? われわれはその謎を解き明かすべく、図書館という名のジャングルに向かった。謎はすぐに解けた。詩で伝記を書いているのである。まず、著者の言葉を引用しよう。
いま 以下の『永遠と軛』でぼくは
詩人の人生のデータを引用パスティーシュし変成させ
彼のとくに困難をきわめた一九三二~四六年
四十二歳から五十六歳までの人生の声をあつめた
《ドクトル・ジヴァゴ》が生まれるまでの
ぼくはこの評伝詩集で 一人称の「僕」を採用し
詩人のように振る舞うことにした
つまり、著者がパステルナークになりきって、パステルナークとしてパステルナークの人生を詩で語るということらしい。工藤正廣という人は、パステルナークの翻訳を手掛けているのだが、まさかパステルナーク本人になってしまうとは驚きである。どうにかして墓の下に眠るパステルナーク本人に伝えたいところだ。
さあ一緒に谷間の三本松まで散歩でもしよう
僕は彼を誘った
詩人になりたいだって?
僕は彼をのぞきこみ大きな声で笑った
それはいい それはすてきだ
青春の夢はいつもすてきなのだから
これが評伝詩集の一部である。もちろんここでの「僕」はパステルナークだ。こんな感じで、パステルナークはパステルナークの人生を語っていく。なんだか幸福の科学の霊言みたいだ……。
それにしても、本当のパステルナークが書いている詩は、こんな感じなのだろうか。
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