ロックスターとロマン派詩人が重なる時

 高校時代、俺のアイドルはリバティーンズピート・ドハーティだった。彼の作る音楽はもとより、文学に対する造詣の深さとデカダンスな生き様、そしてスタイリッシュなファッションセンスを兼ね備えているところが、文学とロックは好きだったものの、はちゃめちゃにださかった当時の俺(今もだが……)に強烈な憧れを抱かせたのだった。ドハーティに影響を受けた俺は、部屋の壁にプリンターで印刷した彼の写真を貼り、彼が好んでいる本や映画、音楽をウィキペディアで調べ、挙句の果てには、大学入学後、彼が愛飲しているというラム・アンド・コークまで作って飲んでいた(アルコールに激弱なので、コンビニで買った度数の高いラム酒がなくなるまでに半年近くかかった)。

 ドハーティといえば、音楽活動以上に、タブロイド紙の売上に貢献するスキャンダル王としても知られていて、トップモデルのケイト・モスと付き合っていた頃なんか、毎日のように薬物関係の話題で取り上げられ、実際逮捕とリハビリを繰り返していた(調べたら、2019年もパリで逮捕されていた。もう40歳なんだが)。もし、俺がイギリス人でそういう情報を直接目にしていたら、好きになることもなかったかもしれない。結局、よくあることだが、自分とドハーティの性格の違いを明確に自覚したことで、自然と熱は冷めた(今でも音楽は聴くけど)。ジャンキー全開のドハーティを映したドキュメンタリー『フー・ザ・ヘル・イズ・ピート・ドハーティ?』を観ても、特にショックはなかった。

 それで、彼がシャルロット・ゲンズブールと一緒に映画に出た時も、特に見ようとは思っていなかったのだが、その映画がミュッセの『世紀児の告白』を原作にしたものだとわかり、少し興味をそそられた(邦題は『詩人、愛の告白』)。ミュッセといえば、ジョルジュ・サンドとの恋愛が有名で、自分はミュッセよりもサンドの方に関心があったのだが、『世紀児の告白』はそのサンドとの関係をもとにしたいわば私小説なので、とりあえず長塚隆二が書いたサンドの伝記、野内良三が書いたミュッセの伝記、それからサンドの『彼女と彼』(ミュッセの死後、二人の関係をサンドの側から描いた自伝的要素の濃い小説)を読んでから、今回『詩人、愛の告白』に挑んだ。ちなみに、「世紀児」というのは、「世紀病」という「一八世紀末から一九世紀前半にかけて青年たちを捉えた漠とした不安な空虚感で、ロマン主義文学の特徴の一つに挙げられる感情」に由来する(野内良三『ミュッセ』)。

 正直、この映画にほとんど期待していなかった。なぜなら、すごく評判が悪かったから(IMDBでは4.4点)。そして、実際のところ、全然駄目だった。

 ざっと、ストーリーを説明すると、こうなる。ある女と交際していたオクターヴピート・ドハーティ)という青年が、とある晩餐会でその女が自分の友人と浮気していることに気付き、決闘を申し込むも、自分の方が撃たれてしまう。(しかし、俺の映像理解力が低いせいで、このあたりがすごく分かりにくかった)。怪我は軽かったが、その後も彼女が浮気を続けていることを知り、女性不振となったオクターヴは、友人デジュネーの手引きで放蕩に身を任せるようなる。しかし、父親の死をきっかけに静かな生活を取り戻し、たまたま雪道でブリジット(シャルロット・ゲンズブール)と出会ったことから、二人の恋愛が始まる。オクターヴの病的な嫉妬や、すれ違いがあり、周囲からも色々噂されていることを苦に、ブリジットは毒を用意するが、オクターヴと和解し、パリに向かう。さらなる旅の準備をするためだ。しかし、パリではスミスというブリジットの友人がたびたびやってきて、不穏な三角関係が構築される。焦ったオクターヴは出発を急かすが、彼女が気乗りでないことを悟る。二人は口論となり、最終的にはオクターヴの方が「君をまともに愛せなかった」なぞと気障なことを言って、ブリジットのもとから去っていく。

 俺はこのあらすじを、野内良三が原作について書いたそれをめちゃくちゃ参考にして記したが、野内のものを見る限り、映画は原作を忠実に再現しているようだ。

 さて、この映画何がつまらないところはざっくり二点あって、一点目が、映画全体に漂うオクターヴナルシシズムが鬱陶しいということ。野内によれば、ミュッセがこの小説を書いた動機として、以下の三つがあるという。

 

(1)二人の恋を作品化することによって自分の心の傷を癒すこと(自己救済)

(2)恋人を賛美すること(オマージュ)

(3)この恋の破局の責めはもっぱら自分にあること(謝罪)

 

 (1)はいいとして、問題は(2)と(3)である。これだけ見るとやたら立派だが、実際に俺がこの作品から受け取ったのは、「自分の非を認めるだけでなく、相手の非まで許してしまう俺はすごいだろ?」という、似非ヒロイズムである。「告白≒懺悔」という形式は、野内が指摘するように、聖アウグスティヌスやルソーのそれを踏まえたものであり、またそれらの著作からは「昔は俺も悪いことをしてね……」という臭みが伝わってくるものだ(小谷野敦『「昔はワルだった」と自慢するバカ』)。

 この映画においては、ピート・ドハーティ演じるオクターヴのプライドを決定的に傷つけるようなことは何も起こらず、最後にはすべてを受け入れることで、その他の連中より高みに上ってしまう。そういった現実の恋愛とはかけ離れた綺麗事が、オクターヴという男のナルシシズム、またそれを描いたミュッセ本人のそれを、否応なしに想起させてしまう。

 しかし、面白いかつまらないかは別にして、製作者がピート・ドハーティをこの役に起用したのはある意味必然だった。二十世紀に入ると、詩の世界はT・S・エリオットを筆頭とするモダニズムが主流となり、ディラン・トマスを例外として、ロマン派的な生き方を実践する人間がいなくなった。それをある意味引き継いだのがロック・スターのような芸能人だが、詩人の風格をもった人間となると、やはりドハーティしかいないのである。余談だが、アレックス・ハンナフォールドが書いたドハーティの伝記のタイトルは『Pete Doherty: Last of the Rock Romantics』となっていて、ドハーティにロマン派的なものを見出すことは珍しくないということだ。

 話を映画に戻そう。もう一点、この映画(と原作)に不満があるとすれば、ヒロインにまったく魅力がないこと。映画に出てくるブリジットは、もちろんジョルジュ・サンドをモデルにしているわけだが、ピアノがちょっと上手い未亡人でしかなく(作曲の才能があるという描写が挟まれるが、なぜか自分が作曲したのではないと噓をつく韜晦趣味がある)、現実においてサンドが持っていた猛烈な活力が一切オミットされているのだ。恐らくこれは原作のせいで、そのためシャルロット・ゲンズブールという、やや病的な雰囲気を持つ女優が起用されてしまった。これではサンドと真逆である。だが、『世紀児の告白』は、「オクターヴ一人まかり通る」作品であって、女は結局飾りでしかなく、そんな活力に満ちた女を出してしまったら、オクターヴの暗いナルシシズムは成立しなくなってしまう、という事情があるのだ。

 前述したが、サンドにも、二人の関係をモデルにした『彼女と彼』という作品がある。ミュッセの書いたものよりも、はるかに真実に近いと思わせる小説だ。なぜなら、サンドにはこの恋愛を賛美しようという意図がないから。この恋愛が始まったとき、サンドは29歳、ミュッセは23歳だった。

『彼女と彼』のストーリーは以下の通り。テレーズ(モデルはサンド)とローラン(モデルはミュッセ)は画家同士で、同じ芸術家グループに所属していた。テレーズは世話焼きで、才能はあるが遊んでばかりいるローランに発破をかけたり仕事を回したりしていた。ローランの方では、謎めいた家庭環境を持つテレーズに興味を持つが、ある日、テレーズの友人で、アメリカ人富豪のパーマー(『詩人、愛の告白』のスミスにあたる人物。モデルは、イタリア人医師のピエトロ・パッジェロ)から、彼女の秘密を聞かされる。

 テレーズには夫がいたのだが、実はその夫に本妻がいて、二人の結婚は重婚だった。本妻の登場でそのこと知ったテレーズだが、夫との間に生まれた子供がスキャンダルに巻き込まれることを恐れ、法的な離婚はせずに、現状維持を選んだ。が、ある日、その子供は夫に奪い去られたうえ、アメリカで死んでしまう。絶望したテレーズだったが、自活する道を選び、今では画家としてそれなりの地位にいる。感動したローランの恋心は一気に燃え上がり、彼女に対し情熱的にアタックする。テレーズはローランに押し切られるような形で交際を始めるも、ローランの猜疑心や怠惰、気まぐれな行動に辟易する。しかし、生活力のないローランを見捨てられず、旅行先のイタリアで彼の面倒を見続ける。

 そんな折、彼女の夫である※※※伯爵が死亡する。自由の身になった彼女に、今度はパーマーが告白する。熱意を感じた彼女はそれを了承する。一方、精神的な病が昂じたローランは、自殺を仄めかす手紙をテレーズに送り付ける。二人は急いでフィレンツェにいる彼のもとに駆け付け、テレーズは連日看病し、回復したローランはテレーズに未練を残しながら療養のため一人でスイスへ行かされる。

 パリに戻り、結婚の予定まで立てたテレーズとパーマーだったが、偶然ローランが戻ってきてしまったことにより、軋轢が生じる。疑心暗鬼にかられたパーマーとの結婚を諦めたテレーズは、ローランとよりを戻してしまうが、再び彼の気まぐれに苦しめられる。だが、ある日、パーマーによって、実は彼女の子供が生きていたことを知る。パーマーの手引きで我が子に再会したテレーズは、ローランを捨て、子供と生活することを選ぶ。

 ジョルジュ・サンドというと、男装し、男の名前で小説を書き、様々な有名人と浮名を流す奔放な女という印象だったが、長塚隆二の伝記を読む限り、ショパンやミュッセといった才能はあるが生活力に乏しい気まぐれな男を世話するのが趣味で(ショパンの傑作が生まれたのは彼女に介護されていた時期ともいわれる)、子供が大きくなってからは、政治よりも子供の安全を心配する生活保守的なところがあった。

『彼女と彼』は、サンドのそうした世話焼きの様子が全面に出ている作品で、またそういうある種愚かしい自分を冷静に見ている事に面白さが表れている。例えばこんな文章(一部新字体)。

 

しかも彼女の最大の不幸は、彼女の生まれつきの、彼女の本来の宿命的なものともみられる、母性のひらめきを凡ゆる犠牲を拂つても満足させたい、或は優しく愛したい、惜しみなく愛したい、という點にあつた。自然、いつしか彼女は誰かのために苦しむ女になつてゐた。いや、苦しんで上げたいといふやうになつてゐた。そして、この不思議な欲求は、或る種の男性や女性に在つては、非常に特性がはつきりあらはれてゐるが、ローランに對する場合の方が、パーマーに對する場合より一層、彼女をいたいたしいものにしてしまつたのだ。それはパーマーが自分自身、彼女の獻心的なものを必要としない程、ひどくたくましい人間に見えたからだつた。(略)

 ローランは、パーマーに比べて見ると、遥かに純情で、彼女が宿命的に打ちこんだやうな、人間的な弱點をもつてゐて、それが特別な魅力をなしてゐた。彼はそれを隠さうとしなかつた。自分の天才のいたましい弱い所を得々として自分を僞らずに、又、はてしのない感情に溺れ乍らも公言してゐた。が、あはれ! 彼も亦誤つてゐたのだ。眞實にパーマーが強い男だつた譯でもないし、それと同様にローランが弱い男だつた譯でもなかつた。彼はよく氣が變る男で、いつも天國の子供のやうに喋つてゐた。そして自分の弱さを一旦征服すると、人から可愛がられる子供がすべてさうするように、人を苦しめる力を發揮し出すのだった。

 

 男に依存しなくても生きることのできる自立した女がこういう風になってしまうのが面白く、こうした恋愛の真実性が描かれているところが、『彼女と彼』を『世紀児の告白』以上の作品と見なす理由で、こういう女を再現できなかったところが『世紀児の告白』のダメなところだと思う。そもそもミュッセよりサンドの方が人間として魅力的なのだから。

 

 

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