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止まれない男たち──「片思い」と「生きる意味」

日本文学 海外文学 評論

 往復書簡という形で作家のミシェル・ウエルベックとも共著を出したことがある哲学者ベルナール=アンリ・レヴィに『危険な純粋さ』(邦訳、紀伊國屋書店)という本がある。これ自体はユーゴスラビア紛争やイスラム過激派について扱った批評エッセイだが、タイトルを見た時、私にはそれが片思いをする男の心理状態を説明する言葉に思われた。片思いにはまり込んだ男というのは、周りを見る余裕がなくなり、思考が極端になりがちだからだ。中村真一郎は『色好みの構造』(岩波新書)の中で、平安町時代の貴族が複数の相手と関係を持っていたのは「情念の激発による人間の破滅からの回避」が理由ではないかと論じている。他にも「傾城傾国」という言葉があるぐらいに、女に熱中することは危険なことだと昔から見なされてきた。激烈な恋心にとりつかれた人は、周囲の意見に耳を貸さなくなるし、女の反応を自分に都合よく解釈してしまいがちである。それはある種の全能感であり、「危険な純粋さ」なのだ。

 例えば、そういう感情を描いた作品に小谷野敦私小説「悲望」(初出は『文学界』二〇〇六年八月号)がある。東京大学大学院の英文科に進学した藤井という男が、同じ学科の先輩・篁さんに片思いをするも数度拒絶され、その後彼女がカナダに留学した際には、自身も追いかけるように留学し、再び激しく拒絶される、というのが簡単なあらすじだ。だいたい一九八七年から一九九〇年ぐらいまでの出来事を扱っている。ちなみに、藤井は今風に言えば非モテの童貞、篁さんは「お嬢さま」かつ「天然のぶりっこ」という風に描かれている。藤井の父親がブルーカラーであり、家も裕福ではないということが、藤井に「お嬢様」への憧れを持たせた一因となっている。階級差から生まれる片思いを扱った作品としては、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』や、映画ではテレンス・スタンプの怪演が目立ったジョン・ファウルズの小説『コレクター』っがある。イギリスのロックバンド、パルプは「コモン・ピープル」という曲で、裕福な女が下層の生活に憧れる様を皮肉ったが、ファウルズといい、イギリス人のほうがこういったことには敏感なのかもしれない。新井潤美『不機嫌なメアリー・ポピンズ』(平凡社新書)に詳しい。

 では、藤井はどのようにして、片思いにはまりこんだのか。その心理を分析した箇所を、小説の中から引用してみよう。

 

 大学院へ入った時点で、既に世界の中心軸を失っていた私は、まるで鳥の子が孵ってすぐに見た動くものを母親だと思うように、「歌舞伎が好きなんですか」と声を掛けてきた篁さんを自分の唯一神にしてしまったのである。唯一神であるから、私は目を逸らしてはならない。そして唯一神は、ヤハウェがそうであるように、善良なヨブを苦しめ抜く者でなければならない。そのような、意のままにならない存在であるからこそ、唯一神としての役割が十全に果たせるのである。もしここに、私が恋した女性が、比較的たやすく私の相手をしてくれたなら、私はたちまち、再び存在の不安に捕らわれることになっただろう。篁さんが、私を拒否して拒否し抜く姿勢こそが、私に、生きる意味を与えてくれたのである。そして恐らく二十代の私は、いつでも、そのように自分を拒否する女性を、恋の相手として選んでいたに違いないのだ。(引用は幻冬舎文庫『悲望』より、八六頁)*1

  

 ここで重要なのは、片思いと「生きる意味」というのがイコールになっている点だ。藤井が「世界の中心軸を失っ」たと感じるきっかけになったのは、大学院浪人していた頃に指導教官であった教授が急死したことによる。藤井はそれまで若者なりに明るい未来といったものを思い描いていたが、教授の地味な人生と「侘しささえ感じさせる葬儀」に影響され、「死んでしまえば何も残らない」というような心境に陥る。どこかトルストイの「イワン・イリッチの死」を思わせるが、そうした状態下で藤井は篁さんへの執着を強めていったのだ。極端に言えば、彼がわざわざ「自分を拒否するような女性」に片思いを続けたのも、死の恐怖から目をそらすためだったのかもしれない。先の引用の中で、「二十代の私」という限定がされていたのは、大学院を卒業し生活に追われる身となったら「生きる意味」というような抽象的なことを考える暇がなくなっていった、ということを意味しているのだろう。二〇〇二年に出版された『退屈論』(弘文堂)の中で、小谷野は「死の恐怖にしても、人が退屈する時に強く意識される」と書いている。

「悲望」は二十代の男の話だったが、老人が若い女に恋をすることも珍しくない。二〇〇一年に出版されたフィリップ・ロスの『ダイング・アニマル』(邦訳、集英社)は、ケペシュという六十二歳の批評家と二十四歳の裕福なキューバ移民コンスエラとの恋愛を描いた作品である。『エレジー』(二〇〇八)という題名で映画化された際には、ケペシュをベン・キングズレー、コンスエラをペネロペ・クルスが演じた。
 小説はケペシュ自身が語り手だ。彼は一度結婚したが失敗し、「二度と結婚生活という牢獄には入らない」と決意している。そして、大学では有名批評家という立場によって、多くの女生徒の尊敬を集めてきた。それが甘い情事へと繋がったこともある。しかし、ケペシュは作中次のように述べる。

 

 若い学生が信じているように、年長の教授がその場を仕切っていると信じ続けるのは、事実と合致しない。なぜなら、セックスにおいて絶対的な均衡状態などあり得ないのだから。性的な平等などないし、そんなものはあり得ない。(上岡伸雄訳、二十頁)

  

 これは後にコンエスラが彼のもとを去っていくことの伏線となっている。なるほど、彼の肩書は文化に興味を持つ女を魅了する力を持っている。しかし、六十二歳という年齢は、若い女と恋愛するにあたり大きなハンデとなるだろう。コンスエラはケペシュの知性に惹かれていたのであって、肉体に惹かれたのではない。彼自身それをはっきり意識している。だから「彼女を他の男に取られるのではないかという恐怖」に苛まれることになる。ケペシュはコンスエラとの交際によって、否応なしに「老い」を意識させられる。「彼女の限りない未来と対比して、自分の限りある未来の痛々しさを感じることになる」というわけだ。ケペシュが二人の立場について述べた部分を見てみよう。

 

 私は世間をよく知る男だ。文化の権威だ。彼女の教師だ。ほとんどの人々は凄まじい年齢差に驚愕するが、それにこそコンスエラは惹かれたのだ。(略)コンスエラの場合、凄まじい年齢差によって、服従することが許される気分になったのだろう。(略)年上の男と親密になり、すっかり身を委ねてしまうことは、この種の女にとって、ある種の権威を得ることにもなる。それは若い男との性的関係では決して得られないものだ。彼女は服従の喜びと、優位に立つ喜びの、両方を得たのである。彼女の力に服従する若い男など、このように魅力的な女にとって、いくばくかの価値があるだろうか? しかし、このように世間をよく知る男が、彼女の若さと美の力ためだけに服従するとしたら?(三二―三三頁)

  

 ここでも「老い」は意識され、二人の関係がシーソーのように不安定なものであることが示される。そして男の弱さも同時に描かれている。ちなみに、この後ケペシュは「セックスという冒険に乗り出そうとしなければ、人生の問題の三文の二を回避することができるはずだ」とも述べる。これはよく世間でも言われているようなことだ。しかし、ケペシュがセックスから逃れることはできないだろう。たとえセックスが「老い」の意識を強めるものだとしても、人生からセックスや若い女との交際が切り離されれば、「死」というものをより直接的に感じるはめになるからだ。自転車操業のようなもので、「死の恐怖」と「退屈」は密接に繋がっているのだろう。

 ケペシュとコンスエラの関係は、ケペシュが嫉妬から彼女の修士号取得記念パーティをすっぽかしたことをきっかけに唐突に終わる。コンスエラはファックスでケペシュを罵倒し、捨てられたケペシュは「ほぼ、三年間私は断続的に気が沈むようになった。彼女と一緒のときもずっと苦しんでいたが、彼女を失うことはその百倍も苦しかった」と告白している。それだけ彼女との交際が「生きる意味」になっていたということか。ケペシュはこの憂鬱を友人(映画ではデニス・ホッパーが演じた)との交際によってなんとか乗り切るが、その親友は五十五歳の若さで病死してしまう。そして、コンスエラとの出会いから八年後、ケペシュのもとを彼女がたずねてくる。彼女は乳がんに冒され、化学療法により頭髪もほとんど残っていないような状態と化していた。小説は、彼女が乳房を全部切除するということになり、ケペシュが病院に向かおうとするところで終わる。最後の最後でケペシュと同じ悩みをコンスエラも抱えることになるのだ。

 ここまで大学が恋愛の舞台となっている小説を見てきたが、少し趣向を変えてみよう。西村賢太の「けがれなき酒のへど」(『煉瓦』二〇〇四年第三十号)はソープ嬢への強烈な片思いを扱った作品だ。西村といえば女との同棲生活を描いた「秋恵もの」があるが、この秋恵という名前は恐らく「別れたる妻に送る手紙」等の私小説で有名な近松秋江からとったものだろう。ちなみに、秋江には「黒髪」という、好きになった芸者を友人(正宗白鳥)にとられるという私小説があって、いわゆる玄人相手の叶わぬ恋を扱ったものとして「けがれなき酒のへど」との共通性が見られる。他にも、ファッション・ヘルス嬢との交際を描いた佐伯一麦の『一輪』(福武書店)という小説もあり、これは後に『F・ヘルス嬢日記』としてVシネマになった。

 さて、その「けがれなき酒のへど」だが、主人公は中卒であり、三十代前半ながら日雇い仕事によって糊口をしのいでいる。二十四歳の春までは異性と「人並みに交際する機会を得てきた」が、それ以降は恋愛と無縁になり、風俗でしか女と触れ合えないような状況に陥っている。性欲の解消だけなら風俗でも十分だろうが、精神的なことを考えると当然恋人が欲しくなる。接客態度の悪い風俗嬢と当たった時などさらにその思いが強くなる。幸せそうな恋人たちを見ると劣等感に苛まれる。そして、切羽詰まった主人公はソープ嬢との交際を目指すことになる。その心情を西村は次のように書いている。

 

はな肉欲と金銭欲と云う最も唯物的なものを露出し、交換し合ったあとで、もし互いに相手に対する好意が残るようなことがあったなら、これこそ私の求める、まるで装いのない、損得抜きな真の愛情との邂逅ではなかろうかとの、ふやけた砂糖菓子めいた考えもないではなかったのである。(引用は新潮文庫『暗渠の宿』より、二六―二七頁)

 

 主人公にとってこれは最後の手段のようなものだろう。最早、今の彼の立場では、金銭を介さなければ、女とまともに会話すらできないのである。風俗嬢に交際を求めるというのが「野暮」であり禁じ手であることは、彼自身重々承知しているわけだが、余裕のなさがこうした突飛な行動に走らせてしまうのだ。「真の愛情」という言葉には、彼の恋愛にこだわる心情がよく表れている。

 そして、主人公は「とある郊外のソープランド」で恵里という女を指名する。容姿が好みだったこともあり、主人公は彼女の眉唾な身の上話も「虚心坦懐」に聞いてしまう。また、彼の方でも年齢や学歴を偽って報告する。「彼氏がいない」という話をとりあえず信じた主人公は、彼女の態度などに違和感を覚えつつも指名を続け、やがて九十万円ほど貢いでしまうのだが、彼女はどこかへ消えてしまう。後から騙されたことに気付く主人公だが、相手が相手だけに泣き寝入りするしかない。薄々おかしいとわかっていながらも、女にのめり込んでいってしまうのは、それが「生きる意味」になってしまったからだろうか。実際、尊敬する作家藤澤清造の全集を出版するために貯めていた金まで、彼女のために引きだしてしまうのだから。ただ、そんな痛い目に遭いながらも、最後には次のように独白する。

 

 私は、窓外に続く北陸の田園風景に虚ろな目を向けながら、頭ではしきりと女体の熱い感触を思い続けていた。
(もう一切、ああした所でつまらぬ期待をかけることはやめよう。どうでいいことなんて、何も起こりはしないんだから)と、肝に銘じるそばから、
(とは云え、犬も歩けば、式で今度こそ、もしかしたらこのおれを愛してくれる、うれしい女と出会えたりしてな)なぞとも思いながら。──(一〇一頁)

 

 主人公は藤澤清造の墓参りからの帰りにそのような心持になるのだが、こういうめげないというか懲りないところは気持ちがいい。ブニュエルの映画『欲望のあいまいな対象』の原作である、ピエール・ルイス「女と人形」(邦訳、晶文社)では、ドン・マテオという男が、コンチャという女に散々振り回された様を友人のアンドレに語っておきながら、そのコンチャに復縁を望む手紙を送ってしまうというオチがつく。『帰ってきたもてない男』(ちくま新書)で小谷野はこの作品を紹介した後、次のように書いた。

 

 どんなにひどい目に遭わされても、魅力的な女から「許して」と言われれば許してしまい、時には自分から許しを乞う。それが同じ女でも別の女でも同じことだ。「もう女なんか御免だ」と思いつつまた引きずられてしまう。それでよいではないかと私は思う。(一九七頁)

 

 片思いばかりが続く男、女から手ひどい扱いを受けたことのある男は、この文章を肝に銘じた方がいいだろう。特定の個人から受けた傷が、いつのまにかある属性全体への憎悪へと変わることはよくあることだから。

 

 

悲望 (幻冬舎文庫)

悲望 (幻冬舎文庫)

 

  

ダイング・アニマル

ダイング・アニマル

 

  

暗渠の宿 (新潮文庫)

暗渠の宿 (新潮文庫)

 

 

帰ってきたもてない男 ──女性嫌悪を超えて (ちくま新書)
 

  

*1:ただし、二〇一六年に出版された『宗教に関心がなければいけないのか』(ちくま新書)の中で、小谷野は「神であるためには、他の人とその信仰を共有してグループを作っていかなければならないのだ」として、この時使った「唯一神」という表現を訂正している。