パトリシア・ボズワース 『マーロン・ブランド』

 マーロン・ブランドは1924年、ネブラスカ州オハマで生まれた。家族構成としては、両親の他に二人の姉がいる。母親のドディはブランドが小さい頃──時には家族そっちのけで──演劇に熱中していた。彼女は芸術家肌だったが、セールスマンの夫はそれに対し無理解であった。そして、ブランドが6歳の頃、仕事の都合でイリノイ州へ引っ越すと同時に、彼女は所属していた劇団を離れざるを得ず、以後舞台からは遠ざかった。

 ブランドは母親っ子だった。ある日、ドディが夫の浮気を詰ったところ、暴力を振るわれた。12歳のブランドは現場に駆けつけ、父親に対し、「殺すぞ」とすごんだ。ブランドは父親と生涯にわたり対立し続けることになる。パトリシア・ボズワースは本書の中で「少年時代、ブランドを駆り立てていたのは父親への怒りと復讐の夢だった」と書いている。

 学校では体育と演劇だけが得意な教科だった。勉強には熱心ではなく、学内ではいたずらに熱中し、教師に反抗的な態度をとり、学校を二つほど辞めさせられた。教育をまともに受けなかったことは、終生彼のコンプレックスとなる。

 学校を辞めたブランドは親元を離れ、1943年の秋ごろ、ニューヨークへと向かう。姉が二人ともニューヨークに住んでいたことや、前年ニューヨークを訪れた際、すっかり都会を気に入ったことが移住のきっかけだった。移住前、両親には、「ニューヨークに出て、俳優になろうかな」(『マーロン・ブランド自伝』)と言ったものの、そこまで強い意志があったわけではなく、わりと漠然とした考えだったようだ。当時は、第二次大戦中だったが、ブランドはアメフトで膝を壊していたのと、近眼だったことから、兵役不適格者の烙印を押されており、徴兵はされなかった。彼自身も戦争に行く気はなかった。

 ニューヨークに到着して数か月後、演劇のワークショップに参加したことが、彼の人生の転機となる。そこで彼は演劇指導の責任者だったステラ・アドラーと会い、彼女からスタニスラフキーのメソッドを学び、実際の舞台にも出るようになる。そして、演出家のエリア・カザンに見込まれ、1947年、創設されたばかりのアクターズ・スタジオに参加し、『欲望という名の電車』の舞台にもメインで出演。『電車』は大ヒットし、ブランドは1949年までスタンリー・コワルスキーの役を演じ続けた。ちなみに、『電車』の上演中、劇作家のソーントン・ワイルダーが『電車』の原作者テネシー・ウィリアムズに「ステラのような家柄のよいレディは、スタンリーのような野蛮人と結婚などしない。いわんや、その性的暴力に屈したりしない」と主張したところ、ウィリアムズはワイルダーのいないところで「あの男はいいセックスをしたことがないに違いないぜ」と呟いたという。

 1951年には、『電車』が映画化され、そこでもブランドはコワルスキーを演じた。翌年には『革命児サパタ』に出演したが、カザンはラストのサパタ兄弟による対決シーンをもっともらしく撮るために、ブランドとアンソニー・クインを嘘の情報で仲違いさせた。おかげで15年近く、二人は不仲だったという。『サパタ』が公開された後、カザンが昔の仲間を共産主義者としてHUAAC委員会で告発したという記事が新聞に出た。時代は冷戦の真っただ中であり、映画界でも(元)共産主義者を追放しようという動きが活発だった。アクターズ・スタジオのメンバーの多くはカザンに反発し、直接的な処分は下さなかったが、彼は長い間戻ってこなかった。彼がいない間は、リー・ストラスバーグが主任教師の役割を務めた。ブランドもカザンに対し複雑な感情を抱いた。

 54年には、『乱暴者』『波止場』といった、後の代表作となる映画に出演*1。ブランドは映画という世界を超え、文化そのものになっていった。ただ、ブランドの精神は有名になるにつれ不安定になり、この頃は当時流行だった精神分析医にもかかるようになっていた。彼は不安神経症で、時折パニックに陥ることがあった。
 『波止場』が公開された年に、最愛の母ドディが死んだ。過去にひどいアルコール中毒だったことが彼女の死期を早めた。後に、ブランドはアルコールに依存することを恐れ、代わりに過食に走ることになる(冷蔵庫に鍵をかけなければいけないほどだった)。

 ブランドはコンスタントに映画に出続けた。そして、61年には主演兼監督で『片目のジャック』が公開された。この映画にはキューブリックも関わっていたが、彼は途中で降りた。『ジャック』制作中、57年に結婚したアンナ・カシュフィと離婚するという私生活上のトラブルも起きた。息子の親権を巡って、二人は何年も争うことになる。

 60年代に入ると、俳優としてのブランドのキャリアにも影が差し始めることになる。62年に公開された『戦艦バウンティ』は、巨額の制作費がかかり、その責任はブランドにあるとされた。元々ハリウッドでは、製作会社やマスコミに協力的でないブランドに反感を持っていたが、彼がオスカー俳優であり興行面でも成功を収めていたので黙っていた。しかし、彼の人気に陰りが見え始めると、彼を笑い者にするような記事が増えた。父に任せた会社が失敗したり、子供たちの養育費の問題があったりと、早急に金を稼ぐ必要があったので、ブランドは出演する映画を選べなくなり、そのことも彼の地位を低下させる原因となった。

 65年に、父親が死んだ。ブランドは父に仕事を与え面倒を見たが、彼が家族に対し行った数々の卑劣な言動には怒りを燃やし続けた。父親は決してブランドを認めようとはしなかった。父の死後も、ブランドの怒りは収まることがなかった。

 落ち目となっていたブランドに72年、転機が訪れる。『ゴッドファーザー』と『ラスト・タンゴ・イン・パリ』へ出演したのだ。マリオ・プーゾやコッポラ、ベルトルッチといった人々は、彼のことをまだ重要かつ偉大な俳優だと考えていた。ただし、ブランドのまったく台詞を覚えようとしない態度には、コッポラ、ベルトリッチ共に振り回されることになったが。

 本書では『スコア』に出演した頃までの、ブランドのキャリアが記述されている。映画以外にも、ブランドの私生活や社会運動への関わりについても触れられている。短い本なので、手っ取り早くブランドの人生について知りたければこれを読むといいだろう。

 

マーロン・ブランド (ペンギン評伝双書)

マーロン・ブランド (ペンギン評伝双書)

 

  

母が教えてくれた歌―マーロン・ブランド自伝

母が教えてくれた歌―マーロン・ブランド自伝

 

 

*1:告発をめぐり、カザンとブランドの間にわだかまりがあると考えられたため、最初テリー役はフランク・シナトラに打診された。シナトラとは『野郎どもと女たち』で共演するが、二人のそりは合わなかったようだ。『自伝』でブランドは『波止場』について「最終的に私は出演を決めたが、『波止場』がギャッジ(注:カザンの愛称)とシュールバーグの隠喩的な自己釈明であることには気づいていなかった。彼らは自分たちの密告を正当化するために、この映画を作ったのだ」(内藤誠・雨海弘美訳)と語っている。